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1.望まれぬ婚姻
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「そんな……! どういうことですか!」
厩の中にまで響くアリアの悲鳴じみた声に、大人しく眠っていた馬たちが飛び起きる。
鬱陶しそうに片耳を塞いだ男は、追い払うように片手を振った。
「どうもこうも、俺らはただ命じられて馬車を出すだけだよ。誰が乗るとか、そんなのはどうでもいい」
「だから、この一番大きな馬車はリーゼロッテ様のレイノアール行きのためにと一週間前からお願いしていたではありませんか!」
「だーかーら、これはミレイニア様がお使いになるってことで話は決まってるんだって」
「それがおかしいと言っているんです!」
「どれだけ言われたって、上が決めたことに俺らは口出し出来ないんだよ。いいじゃないか、馬車は他にもあるんだから」
「小さな馬車では足りないことくらいわかっているでしょう!?」
取り付く島もない男の態度に、徐々にアリアの語気は荒くなっていく。
アリアを見下ろす男の目は冷たく細められ、リーゼロッテの事情を知った上でミレイニアの話を受けたことが明らかであった。しかし、証拠がなければ強く責めることは出来ない。
歯痒さに唇を噛み締めるアリアの肩に、後ろに控えていたリーゼロッテがそっと手を置いた。
「もういいのです、アリア」
「申し訳ありませんねぇ、リーゼロッテ様」
悪びれる様子もない男に対してもリーゼロッテは笑みを絶やさずに頭を下げてその場を立ち去った。
歩き出してしまったリーゼロッテを追って、アリアは駆け足にリーゼロッテの半歩後ろに付いて並んだ。
「リーゼロッテ様、すみません……」
「アリアが気にすることではありませんよ。ある程度こうなることは予想できていました」
目的地が明確に決まっているようで、リーゼロッテの足取りには迷いがない。リーゼロッテの後に続きながら、近付いてくる城を見上げた。
このまま進めば、辿り着くのは正妃やミレイニアの居住区だ。
「ミレイニア様の元に向かうのですか?」
「えぇ。直接あの馬車を譲ってもらうようお願いします」
「お願いだなんて……ミレイニア様が横取りしたようなものなのに……」
アリアは納得がいかなかった。一週間前に馬車の使用を申請したときにはミレイニアの名は挙がっていなかった。正式な手続きの上で使用許可を取ったというのに、何一つ知らせもないまま当然のように奪われてしまった。
ミレイニアにはそれだけのことを簡単に出来る権力を持っている。それがリーゼロッテとミレイニアの後ろ盾の差だ。
そして彼女は、ただリーゼロッテに嫌がらせをするためだけにその権力を振りかざすことが出来るのだ。
くだらないことだとアリアは思う。侮蔑の言葉をぶつけ、服を切り刻み、足を奪い、何が満たされるというのだろうか。
そして、わからないのはリーゼロッテもであった。
こちらに全く非がないというのに、リーゼロッテは責めること無く向けられる悪意を受け入れている。まるで、その扱いが当たり前であるかのように振る舞う彼女は、アリアの目にはミレイニアに劣らず歪んで見えた。
「ミレイニアは、寂しいだけなんです」
アリアの独り言への回答のように、リーゼロッテは振り返りそっと口を開いた。
リーゼロッテの微笑みを乗せた唇は、化粧気のない薄桃色で優しく空気を震わせた。
「あの子は昔から……私のことをどうしていいのかがわからないんですよね」
「わからない……? だから嫌がらせをするということですか?」
「……認めてほしいから、ですよ」
リーゼロッテは人差し指を立てて唇に当てると、秘密を共有するように声を潜めた。
「あの子、昔は負けず嫌いでなにかと私に張り合っていたんです」
負けず嫌いという言葉とミレイニアが結び付かず、アリアは僅かに首を傾げた。
神様に愛された美貌を持つミレイニアは、ただ一片の苦労も舐めたことのない唇に悠然とした笑みを乗せて人々を見下ろしている姿がよく似合う。他者を見上げ、羨望の眼差しを向けるだなんて想像が出来なかった。
アリアの困惑は予想通りだったのだろう。リーゼロッテはくすくすと笑い、昔を思い出すように顔を上げた。
「信じられないでしょう? でも本当なんですよ。勉学も、踊りも、裁縫も、全て私に張り合って……」
ふいに、リーゼロッテの空色の瞳が陰った。先程まで輝いていた太陽は、すでに雨雲を纏い始めている。
「……全てにおいて、ミレイニアが勝っていました」
それはアリアも知っていた。
何事においてもミレイニアはリーゼロッテの上を行く優秀な第二王女であることは周知の事実である。それが余計にリーゼロッテの立場を弱め、首を絞めていた。
少しでもリーゼロッテに優位な面があったのならば、周囲のやっかみをはね除ける術もあったかもしれない。しかし、リーゼロッテには何一つそれがなかった。
しかし、本当に何一つ敵わなかったのだろうか。アリアは違和感に襲われ、リーゼロッテの横顔へと視線を向けた。
ミレイニアは確かに何事でも人並み以上の才を発揮している。しかし、誰にでも得手不得手はある。リーゼロッテにも、人並み以上に得意なことがあるのではないか。
少なくとも、リーゼロッテの裁縫の腕は自分以上だとアリアは思っている。
以前この城下町に訪れたというレイノアール王国の第三王子。彼が残していったハンカチを丁寧に手洗いで洗濯し、僅かに残ってしまった赤い染みを隠すようにバラの刺繍を施した姿をアリアは目にしている。
自分がやるとアリアも申し出てはいたものの、頑なにリーゼロッテは首を縦には振らなかった。
リーゼロッテにとっては、未来の旦那となる相手だ。その人のために何かをしたいと思うリーゼロッテの気持ちを無下には出来なかった。
完成した刺繍を目にしたときには、その別の意味でアリアは余計な世話をしなくてよかったと心から思った。
「……私はリーゼロッテ様の刺繍を見たときに、今まで見たことがない美しい刺繍だと思いました。ミレイニア様のものも目にしたことはありますが、私にはリーゼロッテ様が劣っていたようには思えません」
「あら? 私はそうは思っていません。ミレイニアの刺繍は彼女らしい繊細で丁寧なものですよ」
刺繍の出来に明確な勝ち負けを決めることは難しい。リーゼロッテが劣るとされているのも、ヴィオレッタの婚姻が決まった際に刺繍を施したパーティードレスを二人が送ったことで明確な優劣が判断されたからだ。その時のドレスには、同様にヴィオレッタの誕生花である紫陽花が彩られていたため余計に比較がされやすかったのだ。
厩の中にまで響くアリアの悲鳴じみた声に、大人しく眠っていた馬たちが飛び起きる。
鬱陶しそうに片耳を塞いだ男は、追い払うように片手を振った。
「どうもこうも、俺らはただ命じられて馬車を出すだけだよ。誰が乗るとか、そんなのはどうでもいい」
「だから、この一番大きな馬車はリーゼロッテ様のレイノアール行きのためにと一週間前からお願いしていたではありませんか!」
「だーかーら、これはミレイニア様がお使いになるってことで話は決まってるんだって」
「それがおかしいと言っているんです!」
「どれだけ言われたって、上が決めたことに俺らは口出し出来ないんだよ。いいじゃないか、馬車は他にもあるんだから」
「小さな馬車では足りないことくらいわかっているでしょう!?」
取り付く島もない男の態度に、徐々にアリアの語気は荒くなっていく。
アリアを見下ろす男の目は冷たく細められ、リーゼロッテの事情を知った上でミレイニアの話を受けたことが明らかであった。しかし、証拠がなければ強く責めることは出来ない。
歯痒さに唇を噛み締めるアリアの肩に、後ろに控えていたリーゼロッテがそっと手を置いた。
「もういいのです、アリア」
「申し訳ありませんねぇ、リーゼロッテ様」
悪びれる様子もない男に対してもリーゼロッテは笑みを絶やさずに頭を下げてその場を立ち去った。
歩き出してしまったリーゼロッテを追って、アリアは駆け足にリーゼロッテの半歩後ろに付いて並んだ。
「リーゼロッテ様、すみません……」
「アリアが気にすることではありませんよ。ある程度こうなることは予想できていました」
目的地が明確に決まっているようで、リーゼロッテの足取りには迷いがない。リーゼロッテの後に続きながら、近付いてくる城を見上げた。
このまま進めば、辿り着くのは正妃やミレイニアの居住区だ。
「ミレイニア様の元に向かうのですか?」
「えぇ。直接あの馬車を譲ってもらうようお願いします」
「お願いだなんて……ミレイニア様が横取りしたようなものなのに……」
アリアは納得がいかなかった。一週間前に馬車の使用を申請したときにはミレイニアの名は挙がっていなかった。正式な手続きの上で使用許可を取ったというのに、何一つ知らせもないまま当然のように奪われてしまった。
ミレイニアにはそれだけのことを簡単に出来る権力を持っている。それがリーゼロッテとミレイニアの後ろ盾の差だ。
そして彼女は、ただリーゼロッテに嫌がらせをするためだけにその権力を振りかざすことが出来るのだ。
くだらないことだとアリアは思う。侮蔑の言葉をぶつけ、服を切り刻み、足を奪い、何が満たされるというのだろうか。
そして、わからないのはリーゼロッテもであった。
こちらに全く非がないというのに、リーゼロッテは責めること無く向けられる悪意を受け入れている。まるで、その扱いが当たり前であるかのように振る舞う彼女は、アリアの目にはミレイニアに劣らず歪んで見えた。
「ミレイニアは、寂しいだけなんです」
アリアの独り言への回答のように、リーゼロッテは振り返りそっと口を開いた。
リーゼロッテの微笑みを乗せた唇は、化粧気のない薄桃色で優しく空気を震わせた。
「あの子は昔から……私のことをどうしていいのかがわからないんですよね」
「わからない……? だから嫌がらせをするということですか?」
「……認めてほしいから、ですよ」
リーゼロッテは人差し指を立てて唇に当てると、秘密を共有するように声を潜めた。
「あの子、昔は負けず嫌いでなにかと私に張り合っていたんです」
負けず嫌いという言葉とミレイニアが結び付かず、アリアは僅かに首を傾げた。
神様に愛された美貌を持つミレイニアは、ただ一片の苦労も舐めたことのない唇に悠然とした笑みを乗せて人々を見下ろしている姿がよく似合う。他者を見上げ、羨望の眼差しを向けるだなんて想像が出来なかった。
アリアの困惑は予想通りだったのだろう。リーゼロッテはくすくすと笑い、昔を思い出すように顔を上げた。
「信じられないでしょう? でも本当なんですよ。勉学も、踊りも、裁縫も、全て私に張り合って……」
ふいに、リーゼロッテの空色の瞳が陰った。先程まで輝いていた太陽は、すでに雨雲を纏い始めている。
「……全てにおいて、ミレイニアが勝っていました」
それはアリアも知っていた。
何事においてもミレイニアはリーゼロッテの上を行く優秀な第二王女であることは周知の事実である。それが余計にリーゼロッテの立場を弱め、首を絞めていた。
少しでもリーゼロッテに優位な面があったのならば、周囲のやっかみをはね除ける術もあったかもしれない。しかし、リーゼロッテには何一つそれがなかった。
しかし、本当に何一つ敵わなかったのだろうか。アリアは違和感に襲われ、リーゼロッテの横顔へと視線を向けた。
ミレイニアは確かに何事でも人並み以上の才を発揮している。しかし、誰にでも得手不得手はある。リーゼロッテにも、人並み以上に得意なことがあるのではないか。
少なくとも、リーゼロッテの裁縫の腕は自分以上だとアリアは思っている。
以前この城下町に訪れたというレイノアール王国の第三王子。彼が残していったハンカチを丁寧に手洗いで洗濯し、僅かに残ってしまった赤い染みを隠すようにバラの刺繍を施した姿をアリアは目にしている。
自分がやるとアリアも申し出てはいたものの、頑なにリーゼロッテは首を縦には振らなかった。
リーゼロッテにとっては、未来の旦那となる相手だ。その人のために何かをしたいと思うリーゼロッテの気持ちを無下には出来なかった。
完成した刺繍を目にしたときには、その別の意味でアリアは余計な世話をしなくてよかったと心から思った。
「……私はリーゼロッテ様の刺繍を見たときに、今まで見たことがない美しい刺繍だと思いました。ミレイニア様のものも目にしたことはありますが、私にはリーゼロッテ様が劣っていたようには思えません」
「あら? 私はそうは思っていません。ミレイニアの刺繍は彼女らしい繊細で丁寧なものですよ」
刺繍の出来に明確な勝ち負けを決めることは難しい。リーゼロッテが劣るとされているのも、ヴィオレッタの婚姻が決まった際に刺繍を施したパーティードレスを二人が送ったことで明確な優劣が判断されたからだ。その時のドレスには、同様にヴィオレッタの誕生花である紫陽花が彩られていたため余計に比較がされやすかったのだ。
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