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1.望まれぬ婚姻
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ミレイニアの居住区は城内でもリーゼロッテとは反対側にあり、なおかつリーゼロッテよりも広く豪奢な造りとされている。
壁を彩る装飾の星空に似た煌めきも、足元を包み込む羽毛のような絨毯の柔らかさも、仄かに広がる花の香りも、窓から差し込む恵みの日差しも、全てリーゼロッテには与えられなかったものだ。
高価な絨毯を踏みしめるマリンハルトが向かうのは、居住区の主であるミレイニアの元ではない。
「……失礼いたします」
一つの扉の前で足を止め、慎重な手つきで扉を叩く。控えめなマリンハルトの声に反して、部屋の主は嘲笑を含む声音で彼の入室を許可した。
「どうぞ、お入りなさい」
「……グレイン様」
扉を開けた先で、悠然と椅子に腰掛け地図を眺めるグレインへとマリンハルトは頭を下げた。グレインは欠片の興味も抱かぬような顔をして一瞥もくれることなくテーブルに置かれたティーカップに口を付ける。
「どうしたんだ、マリンハルト。お前が俺に会いに来るとは珍しいな」
以前、マリンハルトが廊下で顔を合わせたときよりも気安い口調でグレインは笑みを浮かべる。ミレイニアもリーゼロッテもいないこの場で、自分を取り繕う必要はない。
マリンハルトは真っ直ぐにグレインを見つめている。その目に浮かぶ怒りは長年に渡って積み上げられてきたものであり、リーゼロッテの敵へと向ける眼差しであった。
しかし、マリンハルトはグレインへ頼み事があって彼の私室を訪ねたのだ。怒りを露にすることなどあってはならない。
「……グレイン様に、お話があります」
そこでようやく、グレインは切れ長な瞳にマリンハルトを映した。唇は緩く弧を描いて、形だけの微笑を浮かべている。
マリンハルトの申し出に大方察しは付いているのだろう。
グレインは急かすことなく、マリンハルトの次の言葉を待った。
「本題の前に、一つお聞きしたいことがあるのですが構いませんか?」
「どうぞ?」
感謝の意味を籠めてマリンハルトは頭を下げる。それすらも愉快そうに目を細め、グレインは残りの紅茶を一気に飲み干した。
どうせ、形だけの誠意でしかない。そのようなことはグレインも承知しているが、形に納めることに意味がある。
「……今後、リーゼロッテ様がレイノアール王国に嫁ぎ……あの国で害意に晒されるようなことがあったとしたら」
「当然、それはレイノアール王国から我がアカネース王国に対する敵対行為と見なしていいだろう。陛下がどのようにご判断するかは俺にはわかりかねるが……そうだな、騎士団長として意見を言わせてもらうのならば、王女を奪還しレイノアール王国に宣戦布告をしても良いと考えている」
続くマリンハルトの言葉を遮り、クレインはそう宣言した。
騎士団長の言葉は、目の前に垂れた釣り針と同じ。口元に緩く弧を描くグレインは、その思惑を隠すことすらしない。
これが誘いであることを理解した上で、マリンハルトはその針を待っていたのだ。
「騎士団長様にお願いがございます」
いまだ腰掛けたままのグレインの足元に、マリンハルトは膝をついた。垂れる頭の向かう先が誰であるのかは今さら問いかけるまでもない。
「リーゼロッテ様がこの城を去った後に、私を騎士団に……グレイン様の直下の騎士として入団させてはいただけないでしょうか」
リーゼロッテが聞いていたら、珍しくその表情に驚きを乗せたことだろう。しかし、グレインは予想通りだったようで、悠然とした所作で足を組むとその爪先でマリンハルトの顎を軽く持ち上げた。
屈辱的な体勢を強いているというのに、マリンハルトの瞳の色は陰らない。そこに男の決意が見えたような気がして、グレインは頬を緩めた。
「お前は俺を心底嫌っているんだろう? そんな相手に頭を下げて……それほどまでにあの姫が大切なのか?」
問いかけはしたものの、グレインはマリンハルトの答えなど求めてはいなかった。
この部屋に来たこと。それが何よりの答えなのだから。
「断言しよう。お前はいつか今日の選択を悔やむことになる」
マリンハルトの顎から足を外し、グレインは跪く犬を見下ろすために立ち上がる。
いまだ失せぬ暗い決意で瞳を燃やし、マリンハルトは挑むように顎を引いた。
「騎士団に所属するのはお前と違って由緒正しき貴族の子息たちだ。平民風情のお前が一時の感情で足を踏み入れれば、全ての人間の羨望と悪心は全てお前に集まるだろうな」
「承知の上です」
「わかっていて、なおも騎士団入りを望むのか。リーゼロッテ様はレイノアール国に幸せを見つけ、二度とアカネースの土など踏みたくはないと望まれる可能性もあるというのに、それでもいいというのか?」
グレインとしては、どちらであっても構わない。リーゼロッテがレイノアール国に冷遇を受けるというのならばそれは宣戦布告のきっかけとなり、もしもレイノアールという国に馴染むというのなら自分はミレイニアという妻を足掛かりに国王への道を駆け上がるだけのこと。
王座を手にすることが叶えば、前王の結んだ和平条約など反故にしてしまえばいい。
レイノアール王国には未開の鉱山が多く眠り、森林資源にも恵まれている。グレインたちのようなアカネース国民から見れば、レイノアールは喉から手が出るほどに魅力的な資源の山であり、長年争いを繰り返した宿敵である。これからの発展と、これまでの遺恨のためにも、今更諦めることなど出来るわけがない。
どう転ぶにしても、マリンハルトという手駒は使い勝手が良い。
跪くマリンハルトの表情に一辺の迷いも感じられないことが、グレインにとっては好都合だった。
「少しでも可能性があるのなら手を打っておくだけのことです。今までとなんら変わりはありません」
リーゼロッテに向けられる妄信的な敬愛に曇った瞳では、グレインの心までは見透かせないだろう。グレインは今までとは態度を一変させる柔らかな微笑を浮かべると、マリンハルトへと頷いてみせた。
「いいだろう。俺もお前くらいの実力者なら大歓迎だ。陛下には俺から話をしておこう」
どうせ、この後も哀れな第一王女のために無駄足で駆け回るのだろう。
言葉にはせずに胸の中で呟いて、グレインは再び椅子に腰を下ろした。
壁を彩る装飾の星空に似た煌めきも、足元を包み込む羽毛のような絨毯の柔らかさも、仄かに広がる花の香りも、窓から差し込む恵みの日差しも、全てリーゼロッテには与えられなかったものだ。
高価な絨毯を踏みしめるマリンハルトが向かうのは、居住区の主であるミレイニアの元ではない。
「……失礼いたします」
一つの扉の前で足を止め、慎重な手つきで扉を叩く。控えめなマリンハルトの声に反して、部屋の主は嘲笑を含む声音で彼の入室を許可した。
「どうぞ、お入りなさい」
「……グレイン様」
扉を開けた先で、悠然と椅子に腰掛け地図を眺めるグレインへとマリンハルトは頭を下げた。グレインは欠片の興味も抱かぬような顔をして一瞥もくれることなくテーブルに置かれたティーカップに口を付ける。
「どうしたんだ、マリンハルト。お前が俺に会いに来るとは珍しいな」
以前、マリンハルトが廊下で顔を合わせたときよりも気安い口調でグレインは笑みを浮かべる。ミレイニアもリーゼロッテもいないこの場で、自分を取り繕う必要はない。
マリンハルトは真っ直ぐにグレインを見つめている。その目に浮かぶ怒りは長年に渡って積み上げられてきたものであり、リーゼロッテの敵へと向ける眼差しであった。
しかし、マリンハルトはグレインへ頼み事があって彼の私室を訪ねたのだ。怒りを露にすることなどあってはならない。
「……グレイン様に、お話があります」
そこでようやく、グレインは切れ長な瞳にマリンハルトを映した。唇は緩く弧を描いて、形だけの微笑を浮かべている。
マリンハルトの申し出に大方察しは付いているのだろう。
グレインは急かすことなく、マリンハルトの次の言葉を待った。
「本題の前に、一つお聞きしたいことがあるのですが構いませんか?」
「どうぞ?」
感謝の意味を籠めてマリンハルトは頭を下げる。それすらも愉快そうに目を細め、グレインは残りの紅茶を一気に飲み干した。
どうせ、形だけの誠意でしかない。そのようなことはグレインも承知しているが、形に納めることに意味がある。
「……今後、リーゼロッテ様がレイノアール王国に嫁ぎ……あの国で害意に晒されるようなことがあったとしたら」
「当然、それはレイノアール王国から我がアカネース王国に対する敵対行為と見なしていいだろう。陛下がどのようにご判断するかは俺にはわかりかねるが……そうだな、騎士団長として意見を言わせてもらうのならば、王女を奪還しレイノアール王国に宣戦布告をしても良いと考えている」
続くマリンハルトの言葉を遮り、クレインはそう宣言した。
騎士団長の言葉は、目の前に垂れた釣り針と同じ。口元に緩く弧を描くグレインは、その思惑を隠すことすらしない。
これが誘いであることを理解した上で、マリンハルトはその針を待っていたのだ。
「騎士団長様にお願いがございます」
いまだ腰掛けたままのグレインの足元に、マリンハルトは膝をついた。垂れる頭の向かう先が誰であるのかは今さら問いかけるまでもない。
「リーゼロッテ様がこの城を去った後に、私を騎士団に……グレイン様の直下の騎士として入団させてはいただけないでしょうか」
リーゼロッテが聞いていたら、珍しくその表情に驚きを乗せたことだろう。しかし、グレインは予想通りだったようで、悠然とした所作で足を組むとその爪先でマリンハルトの顎を軽く持ち上げた。
屈辱的な体勢を強いているというのに、マリンハルトの瞳の色は陰らない。そこに男の決意が見えたような気がして、グレインは頬を緩めた。
「お前は俺を心底嫌っているんだろう? そんな相手に頭を下げて……それほどまでにあの姫が大切なのか?」
問いかけはしたものの、グレインはマリンハルトの答えなど求めてはいなかった。
この部屋に来たこと。それが何よりの答えなのだから。
「断言しよう。お前はいつか今日の選択を悔やむことになる」
マリンハルトの顎から足を外し、グレインは跪く犬を見下ろすために立ち上がる。
いまだ失せぬ暗い決意で瞳を燃やし、マリンハルトは挑むように顎を引いた。
「騎士団に所属するのはお前と違って由緒正しき貴族の子息たちだ。平民風情のお前が一時の感情で足を踏み入れれば、全ての人間の羨望と悪心は全てお前に集まるだろうな」
「承知の上です」
「わかっていて、なおも騎士団入りを望むのか。リーゼロッテ様はレイノアール国に幸せを見つけ、二度とアカネースの土など踏みたくはないと望まれる可能性もあるというのに、それでもいいというのか?」
グレインとしては、どちらであっても構わない。リーゼロッテがレイノアール国に冷遇を受けるというのならばそれは宣戦布告のきっかけとなり、もしもレイノアールという国に馴染むというのなら自分はミレイニアという妻を足掛かりに国王への道を駆け上がるだけのこと。
王座を手にすることが叶えば、前王の結んだ和平条約など反故にしてしまえばいい。
レイノアール王国には未開の鉱山が多く眠り、森林資源にも恵まれている。グレインたちのようなアカネース国民から見れば、レイノアールは喉から手が出るほどに魅力的な資源の山であり、長年争いを繰り返した宿敵である。これからの発展と、これまでの遺恨のためにも、今更諦めることなど出来るわけがない。
どう転ぶにしても、マリンハルトという手駒は使い勝手が良い。
跪くマリンハルトの表情に一辺の迷いも感じられないことが、グレインにとっては好都合だった。
「少しでも可能性があるのなら手を打っておくだけのことです。今までとなんら変わりはありません」
リーゼロッテに向けられる妄信的な敬愛に曇った瞳では、グレインの心までは見透かせないだろう。グレインは今までとは態度を一変させる柔らかな微笑を浮かべると、マリンハルトへと頷いてみせた。
「いいだろう。俺もお前くらいの実力者なら大歓迎だ。陛下には俺から話をしておこう」
どうせ、この後も哀れな第一王女のために無駄足で駆け回るのだろう。
言葉にはせずに胸の中で呟いて、グレインは再び椅子に腰を下ろした。
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