上 下
15 / 56
1.望まれぬ婚姻

15

しおりを挟む
 レオナルドの言葉には納得させられる部分もある。男もわかっているのだ。どれ程レイノアールを憎んだところで、何一つ戻ってくるものはない。
 しかし、感情は理屈ではない。
 今、胸を占める怒りはどうすればいいのか。これを表に出すことの、何がいけないというのか。
「お前に俺の気持ちがわかるのか! 子供のくせに、偉そうな口ききやがって!」
 納得する気持ちと、堪えきれない怒り。二つが混ざり、男はとうとう拳を振り上げた。
 周囲を取り囲む人々から、短い悲鳴が上がる。
 その拳で男の気が済むのなら、殴られても構わない。レオナルドはそう思い、固く目を瞑った。
「止めなさい! これ以上は衛兵を呼びます」
 しかし、男の拳はアリアの声で振り下ろされることなくぴたりと止まった。
 レオナルドが振り返った先では、先ほどまでの柔和な笑みを殺したアリアが男に鋭い視線を向けていた。
 男はアリアに、アカネース国の人間に静止の声を掛けられたことで、やり場のない怒りの矛先を彼女に変えた。
「なんでお前が俺を止める! こいつはレイノアールの人間だぞ! 俺たちを殺した、レイノアールの……!」
「私が貴方を止めるのは、この露店市の理念を理解していないからです。いま、この場所にアカネースもレイノアールもありません」
 臆することなくレオナルドと男の間に立つと、彼女はゆっくりと首を振る。
 レオナルドですら、大の男の怒りの前に立つだけで体が震えたのだ。女性ならなおのこと、恐ろしく感じるだろう。
「この露店市はこの国の第一王女が全ての人々が平等に物の売買を行えるようにと開いたものです。元々王都の店は貴族を相手にするばかりで、市民たちなんて初めから相手にしていなかった。だから、誰でも出店できて、買い物が出来るような場所が必要だと開いた場所です」
「だからなんだって言うんだ」
「ここでは、誰もが平等に客で店主です。貴族も平民も、男も女も……アカネースもレイノアールも、平等に」
「レイノアールも平等だと……?」
 今だ振り下ろされない男の拳。アカネースとレイノアールを等しいと口にしたアリアに向ける瞳は、先ほどレオナルドに向けられていたものよりも険しくつり上がっている。
 同じ国に住んでいるのだから、レイノアールに対する憎悪も同じだと思っていた。だからこそ、男はレオナルド以上に彼女の言葉が気に入らなかった。
「本気でそんなこと言っているのか! 本気でレイノアールの人間と俺たちが平等だと思っているのか!」
「そう思わなければ、私は貴方の前に立ったりはしない!」
 男の怒声に負けない彼女の気迫溢れる声に、辺りはしんと静まり返った。
 よく通る声に、大の男がたじろいだ。そこに躊躇いは微塵も感じられない。
「これからこの国は平和へと向かっていきます。そこにはアカネースもレイノアールもありません」
「そんな綺麗事を……! 大体、それが王女様の理念だとしても、王族なんて安全なお城に籠って、戦争の痛みなんか知らない場所で平和だなんだと口にするだけだろ!」
 男の言葉にアリアは息を呑み、唇を噛んだ。
 彼の言い分もまた間違いではなく、城にいて実際に戦場を目にしたことのない人間がなにを言っても所詮は綺麗事だ。
 しかし、世の中にはその綺麗事に希望を見る者もいるのだ。
「……お兄さん、その辺にしておきなよ」
 男に声を掛けたのは、隣で色鮮やかな花屋を開いていた中年の女性だった。
「あんたの言うことは正しいさ。あたしの旦那も戦場に行って、帰ってこなかった」
 女性は一瞬視線をレオナルドへと向け、再び男を見上げる。
「レイノアールの人間を憎む気持ちもある。だけど、さっき彼女も言っただろう? ここでは人々は平等だって。あたしらは、平民でもオズマン様のお店に負けずに商売ができる機会をくれた王女様に感謝しているし、共感もしている。だから、ここにいる誰もがあの子を見てもなにも言わなかったんだ」
 女性の言葉で、人々の視線がレオナルドに集まった。
 レイノアールの特徴である色素の薄い髪と瞳を持つ少年が、目立たなかったはずがない。それでも騒ぎにならなかったのは、隣にアカネースの娘がいたことも理由ではあるが、それ以上にこの露店市という場が他者を非難することを望まないからだった。
 自分に向けられる視線の中に、敵意の籠った視線が混ざっていることにレオナルドは気付く。しかし、それらの持ち主は胸の中の恨みを、表に出すことは決してなかった。
「昔っからこの国じゃ……特に大きな街じゃあオズマン様の店の力が強すぎて、まともに商売なんてできなかったんだ。その上、オズマン様の店はあたしらみたいな庶民が易々と買い物できるような店じゃない。もっとあたしらみたいな平民でも自由に商売が出来る場が欲しかったんだ。それを、あの姫様はやってくれたんだ。それをここにいるみんなが感謝しているんだよ」
「アンナさんの言う通りだ! 確かにレイノアールに恨みはあるが、これから和平が結ばれて、平和な暮らしが出来るならここで一人の子供を責めたとしても意味なんてない」
「それに、レイノアールに嫁ぐのはリーゼロッテ様だって話だ。あの人は俺たちみたいな平民のことも考えてくださる方なんだから、俺たちだってあの人のために少しでも歩み寄る気持ちを持ってやりたい」
 人々の言葉に、男は言葉を詰まらせた。
 自分と同じようにレイノアールの人間を憎む気持ちを持ちながらも、それを堪えて希望を胸に生きようとする人々が眩しく、同時に酷く妬ましかった。 男は憎しみに囚われ前も見えずに生きているというのに、ここの人間は希望を胸に抱き始めている。
 なぜ、同じ苦しみを胸に共感してくれる者がいないのだろうか。男の胸を占める孤独は、レイノアールへの憎しみに等しいまでに大きくなっていく。
「そんな……そんな綺麗事、聞きたくねぇんだよ!」
 男は、目の前に立つアリアへと頭上で固く握りしめていた拳を振り下ろした。
 一度掲げた拳だ。男も簡単に下げることなどできない。怒りは、言葉一つで消えたりはしない。
「危ない!」
「アリアさん!」
 彼女を心配する声が上がる中、男は強く唇を噛み締めた。
 掌に爪が食い込み、燃えるようにじんと痛んだ。自分を見上げる娘の瞳の中に映る自身の姿は、不安定な足場に立つ道化師のように滑稽で憐れな者に見える。
 男は、泣き出しそうな顔をしていた。
 拳を振り上げながらも、心の中では避けられることを強く望んでいた。一度振り上げた想いは、最早自力で殺すことなどできなくなっていた。
 しかし、アリアの足は動かない。地面に縫い付けられたかのように、両足が大地を踏みしめている。
 周囲からは恐怖に足がすくんでいるように見えただろう。
「くそっ……!」
 男の唇の端から、辛うじて声が漏れた。
 周りからはわからなくとも、目の前に立つ男には見える。
 自分を見上げる空色の瞳が、欠片も怯んでいないことを。怯えなどなく、男の拳を受ける覚悟でそこに踏み留まっていたことを。
 あろうことか、彼女は微笑みを浮かべていた。悲しげな微笑は、紛れもなく男へと捧げられたもの。
 退いてくれ。殴らせろ。男の心は悲鳴を上げた。自分自身でも何が望みかわからなくなっていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。 因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。 そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。 彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。 晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。 それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。 幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。 二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。 カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。 こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。

夫を愛することはやめました。

杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

王太子妃は離婚したい

凛江
恋愛
アルゴン国の第二王女フレイアは、婚約者であり、幼い頃より想いを寄せていた隣国テルルの王太子セレンに嫁ぐ。 だが、期待を胸に臨んだ婚姻の日、待っていたのは夫セレンの冷たい瞳だった。 ※この作品は、読んでいただいた皆さまのおかげで書籍化することができました。 綺麗なイラストまでつけていただき感無量です。 これまで応援いただき、本当にありがとうございました。 レジーナのサイトで番外編が読めますので、そちらものぞいていただけると嬉しいです。 https://www.regina-books.com/extra/login

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

元侯爵令嬢は冷遇を満喫する

cyaru
恋愛
第三王子の不貞による婚約解消で王様に拝み倒され、渋々嫁いだ侯爵令嬢のエレイン。 しかし教会で結婚式を挙げた後、夫の口から開口一番に出た言葉は 「王命だから君を娶っただけだ。愛してもらえるとは思わないでくれ」 夫となったパトリックの側には長年の恋人であるリリシア。 自分もだけど、向こうだってわたくしの事は見たくも無いはず!っと早々の別居宣言。 お互いで交わす契約書にほっとするパトリックとエレイン。ほくそ笑む愛人リリシア。 本宅からは屋根すら見えない別邸に引きこもりお1人様生活を満喫する予定が・・。 ※専門用語は出来るだけ注釈をつけますが、作者が専門用語だと思ってない専門用語がある場合があります ※作者都合のご都合主義です。 ※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。 ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。 ※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

処理中です...