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1.望まれぬ婚姻

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 自室に戻ったリーゼロッテを迎えたのは、真っ青な顔をしたアリアだった。
 彼女はリーゼロッテに気付くと掃除をしていた手を止めて、リーゼロッテのもとへと駆け寄った。
「おかえりなさいませ、リーゼロッテ様。あの、先ほど小耳に挟んだのですが」
 言いにくそうにアリアはリーゼロッテの背後に控えるマリンハルトに視線を投げたが、城内に噂が出回ってしまった以上彼を気遣うだけ苦しめることとなるだろうと思いきって口にする。
「本当に、マリンハルトさんを侍従から外すのですか」
「はい。お父様にも承諾いただけたので安心しました」
 なぜ、と問い掛けた言葉は、リーゼロッテの笑顔一つで掻き消されてしまう。
 穏やかであるのに、底の見えないほの暗さをたたえた微笑。まるで夜の海のように近寄りがたく、手が届かない。
「そういえば、アリアは王都とは遠い町の出身でしたよね? 遠くで暮らすにあたって準備しておくと良いものはなにかありますか?」
 普段と変わらぬリーゼロッテの姿に、アリアは返答に詰まった。
 どうして敵国であった隣国に嫁ぐことが決まったのに、欠片も動揺を浮かべずに、模範的な姫の姿を貫いていられるのか。
 行きたくないと言っても良い。嫌だと泣いても良い。
 アリアの前ではそのような姿を見せないとしても、せめてマリンハルトくらいには己の感情をさらけ出しても許されるのではないか。
 過ごした時間は家族と同然なマリンハルトですら、躊躇わずに手を離せるリーゼロッテの心がアリアには理解できない。
「……私のことが、気味悪く見えますか?」
「そ、そのような……」
 心中を的確に見抜かれ、アリアは慌てて首を振った。しかし、リーゼロッテの海を思わせる微笑みの前では、自分の嘘はあまりにもちっぽけで惨めに思えた。
「……申し訳ございません。少し、ミレイニア様の仰っていたことの意味がわかる気がしました」
「そうでしょうね。ミレイニアの人を見る目は間違っていないと思いますよ」
 ため息を溢すようにそう口にすると、リーゼロッテは困った様子で肩を竦めた。
「アリアは私の誕生花を知っていますね?」
 誕生花。
 それはアカネース王国の伝統的な習慣であり、生まれた子が5歳となった誕生日に両親が子供に贈る花のことである。
 無事に成長してくれたことへの感謝と祝福、そしてこれからの子供の人生に親が願う希望を花に籠める愛の贈り物だ。
 あくまでも内々の祝い事のため、本来ならば他人が自分の誕生花を知ることはない。しかし、王族にもなれば誕生花の贈呈は国をあげての祭事となり、その人の象徴としても使われることが多いため知らないものはいないだろう。
「リーゼロッテ様の誕生花は……」
 アリアの視線は、リーゼロッテの琥珀色した髪を彩る白薔薇の髪飾りに向けられる。
 純粋無垢な白と、愛を連想させる薔薇。純潔と尊敬を花言葉に持つ白の薔薇は、そこにあることが当たり前の顔でリーゼロッテを彩っていた。
「そうです、この白い薔薇がお父様が望まれた私の……この国の第一王女の姿です」
 胸に手を当て、リーゼロッテは伏せ目がちに微笑んだ。涙を堪えているようにも見えるのは、アリアがそうであってほしいと願っているからかもしれない。
「白薔薇を持つ私は、清廉潔白で、純粋無垢な心をもち、将来の旦那様となる方に愛と尊敬をもって尽くすことを望まれています。それだけのことです」
 リーゼロッテの後ろで、マリンハルトが顔を俯ける。正面に立つアリアには、マリンハルトの肩の震えは隠しきれない。
 弱々しい微笑を浮かべるリーゼロッテと、俯き溢れそうな感情を堪えるマリンハルト。二人の姿を目にしたアリアは、言葉に表せない悲しさに胸を掴まれた。
 アリアよりもずっと長い間、マリンハルトはリーゼロッテの側で彼女の生き方に触れてきたはずだ。白薔薇に自分の生き方をなぞらえたリーゼロッテの言葉は、アリアよりも強く胸に響いたに違いない。
 その証拠に、マリンハルトの肩の震えは次第と収まり、短い前髪の間から覗いていた瞳には光が戻り始めた。
「……リーゼロッテ様」
 喉が震え、声が掠れる。それでも、マリンハルトは主の名を呼び、その足元に跪いた。
 ただ一人の主が正しく王女であろうとするのならば、その王女の唯一の従者がすべきことは一つしかないはずだ。
「至急レイノアール王国に関する情報を集め、必要になりそうなものを準備致します。まずは防寒具でしょうね。リーゼロッテ様の好みは承知していますから、私一人で事足りるでしょう」
 マリンハルトは心を決める。彼女が白薔薇であろうとするのなら、マリンハルトが害虫になるわけにはいかない。
「……今から行くのですか?」
「ええ。何せ時間がないものですから」
 リーゼロッテは黙って一度だけ頷いた。僅かに持ち上げられた口角には、安堵と懺悔が同じ分量で乗せられていた。
「それでは、失礼致します」
 立ち上がり、マリンハルトは再度頭を下げる。
 本当は今すぐにでもリーゼロッテの手を引いて、城から連れ出してしまいたい。それをリーゼロッテが望まないとわかっていても、一生恨まれたとしても構わないから無理矢理にでも拐ってしまいたい。
 しかし、マリンハルトの理性がそれを許さない。彼が敬愛する主の姿は、今目の前で気丈に振る舞う彼女なのだ。白薔薇を背負い、自分の心を殺して生きるリーゼロッテを、生涯掛けて守ると誓ったのだ。 
 顔を上げるのが怖かった。目の前で、リーゼロッテがどんな目を自分に向けているのかを確認したくない。
 どんな顔をされていたとしても、彼女の顔を見れば先程までの決心が鈍ってしまうだろう。
 マリンハルトは、リーゼロッテほど強くはない。彼女の意思に従うと心に決めたが、本心ではないその気持ちは油断すればすぐにでも反転する。
「……早く行きなさい、マリンハルト」
 頭を下げたままのマリンハルトの視界で、リーゼロッテの爪先が反対を向いた。恐る恐るマリンハルトは顔を上げて、リーゼロッテの背中を新緑の瞳に焼き付ける。
 背を向けたのは、リーゼロッテの優しさだろう。情けなさに胸を痛め、マリンハルトはリーゼロッテへと背を向けた。
 慌てて駆け寄ったアリアと共に廊下へと逃げるように移動すると、静かに扉を閉めて大きく息を吐いた。
「マリンハルトさん! 貴方……」
 アリアに腕を掴まれたが、マリンハルトは人差し指を口元に当てると左右に首を振る。はっとした表情でアリアはリーゼロッテの自室の扉へ目をやると、苦虫を噛み潰したような顔でマリンハルトから手を離さずに廊下の奥へと足を進める。
 人気のない廊下の片隅まで辿り着くと、アリアはその手を離しマリンハルトを振り返る。その肩は小刻みに震え、顔は怒りに燃えている。しかし、大きな瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだった。
「どうしてマリンハルトさんは…いえ、貴方たち二人はこうも聞き分けがいいんですか……! これじゃあ、リーゼロッテ様は救われない……」
「なぁ、アリア。俺の誕生花は、ラベンダーなんだ」
「へ?」
 アリアの手から力が抜ける。突然何を言い出すのかと目を丸くすれば、マリンハルトは歪つにだがしっかりと笑顔を作ってみせた。
「薔薇とラベンダーを一緒に育てると、薔薇の害虫避けになるんだとさ。陛下は早い段階からリーゼロッテ様に白薔薇を贈ることを決めていたそうだから、それを知った母さんは迷わずにラベンダーを俺の花に選んだんだ」
 マリンハルトは左手の白い手袋を外すと、小指を飾る三連のアメジストを窪みに嵌め込んだシルバーリングを右手でそっと撫でた。
 ラベンダーの花を模したアメジストが、控えめながらも気品ある装飾となっていた。女性のアリアから見ても心が踊る造りであったが、男性が付けていても違和感のないシンプルなデザインが、制作者のセンスの高さを窺わせる。
「どうして聞き分けがいいかと聞かれたら、これが俺の答えだ。本当は、あの人と離れるなんて嫌だよ。でも、俺は自分が白薔薇にとっての害虫になるほうがもっと耐えられない」
 幼い日、リーゼロッテを危機に晒し、自分の母の命を奪ったあの過ちを今も覚えている。二度とあのような真似を繰り返さない。
「でも、そんなの……だって、リーゼロッテ様は味方なんて誰もいない状態で、レイノアールに行かないといけないんですよ……」
「俺が一緒に行っても、きっと駄目なんだ。リーゼロッテ様の言う通り、変な勘繰りをする者はいるだろうし、旦那としても自分よりもリーゼロッテ様をよく知る男が常に側にいるのは気持ちいいものではないだろう」
 時間が経ち、冷静になればなるほどリーゼロッテの判断の正しさが身に染みる。だからといって、気持ちが割りきれるわけではないが、納得できるということは欲望を抑えるために重要だとマリンハルトは思った。
「レイノアールに嫁ぐ姫にとって、俺という存在は邪魔にしかならない。だったら、離れた方がいいんだよ」
 マリンハルトは、悔しそうに唇を噛み締め必死で溢れ出しそうな涙を堪えるアリアを見下ろし苦笑を溢した。
「なんでアリアがそんな顔するんだ」
「っ……リーゼロッテ様の代わりです」
 益々笑みを深めて、マリンハルトはアリアの頬を指輪の嵌められた左手で軽くつねった。
「リーゼロッテ様は、こんなことで泣きはしない」
 マリンハルトがため息を吐けば、アリアは恨めしげな視線をマリンハルトに送る。
「それなら、これはマリンハルトさんの分です……!」
 自分から告げた別れで涙を流すことは、自分勝手以外の何物でもないと思うような人だから。その思いは胸に秘め、マリンハルトはアリアに聞こえぬ声で「ありがとう」と呟いた。
「有り得ないけど、リーゼロッテ様が少しでも泣いてくれたなら救われる。……それくらいの我が儘は許されるよな」
 頬をつねられたまま、アリアは一度だけ頷いた。その際に零れた一筋の涙はリーゼロッテの代わりだと、そう信じてマリンハルトはアリアの頭を自分の胸に招き入れた。
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