可愛い声で鳴かせてくれよ

河合青

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1.片翼の小鳥

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 幼心に胸が震えたその瞬間を、音斗は今でも鮮明に覚えている。
 まだ小学校に上がったばかりの頃、母に連れていかれた興味のない舞台。だからといって騒ぐほど子供ではなく、けれど面白くなく理解もできない目の前の演目を一生懸命に起きていられるほど大人ではない音斗は、座り心地の良い椅子に抱き締められ半分ほど夢の世界に引きずり込まれていた。
 舞台が終わったら、美味しいご飯を食べて帰ろうと母が言ったから。寝て起きて、ご飯を食べて帰ろうと音斗は意識を手放そうとした。
 その時だった。目を逸らすことを許しはしない歌声が、空から降ってきたのは。
 何処までも透き通っているというのに、力強さを秘めたソプラノに吸い寄せられるようにして、音斗は瞼を持ち上げていた。
 舞台の真ん中に、一人の少年。役柄は天使に見初められた少女だったが、自分とそう変わらぬ歳の少年だということは開演前に母に聞かされて知っていた。
 凄い男の子がいるんだよ。母がそう言って笑った時には興味なんてなかったのに。
 音斗は丸い目を更に大きくして、一人で全てのスポットライトを独占し歌う少年を見上げた。
「……!」
 舞台から客席を見渡した少年が、一瞬だけ音斗の姿を目に止めたような気がした。思い返せばそれは、大人が多い客席の中に自分と歳の変わらぬ子供を見つけたから、たまたま目に入っただけのことだろう。いや、そもそも目にも止まっていないかもしれない。
 しかし音斗にとってその一瞬は、天使に心を奪われるのに十分過ぎる時間だった。
 もっとその声が聞きたい。叶うなら自分も、彼のように自由に声を響かせてみたい。
 舞台が終わってからの音斗は、母親が驚くほどに少女役の少年の話ばかりしていたから、彼がテレビに出るたびに録画して音斗に見せてくれるようになった。
 のの君という愛称で話題となった少年は、天使の歌声と話題になり、ドラマやバラエティに引っ張りだことなった。音斗の母親もチェックし切れないことが一度や二度じゃなく、探す必要などなくとも音斗の世界にはのの君の歌声が溢れかえっていた。
 けれど、少しずつのの君はテレビから姿を消していった。そして、音斗が小学校高学年になる頃にはあれだけ天使だと持て囃していた大人たちはその名前を口にすることすらなくなっていった。
 のの君も中学生になって忙しくなったのかもしれないね。
 きっと声変わりもして、昔のような役は難しくなってきたのかも。
 慰めのつもりだった母親の言葉は、音斗に新たな希望を灯してしまった。
 声変わりをしたのの君は、どんな声で歌うんだろう。その声を聞いてみたい。また歌ってほしい。
 その思いは音斗が高校に入学してからも変わることなく、いつのまにかSNSでのの君が何かに出演していないかを探すことが日課になっていた。
 ドラマのエキストラや、一冊の雑誌の中にある数枚の写真。いつかもう一度彼の歌を聞ける日を夢見る日々だった。
「……夢みたいだよなぁ」
 それが今や、のどかとユニットを組んでデビューを目指しレッスンをしている。人生何が起こるかわからないとはこのことだ。
「ねぇ、風呂空いたけど」
「へっ、あ、はい!」
 ソファの上で膝を抱えて座っていた音斗は、背中に掛けられたのどかの声で跳ね上がる。ラフなTシャツ姿ののどかは、呆れたように溜め息を吐いて空いているソファに座るとテレビのチャンネルをニュース番組に変えてしまった。
 予め渡されていたバスタオルと、自宅から持ってきていた着替えを抱えて脱衣所に向かう音斗。
 一人暮らしにしては広めのワンルームは、鷺坂の所有するマンションの一室。あまり大きな建物ではなく、社員寮のようなものだと鷺坂は笑っていたけれど、音斗にはただの謙遜にしか聞こえない。
『これから一緒に活動するわけだし、藍ちゃんがこっち来てる時はのの君の部屋に泊めてあげてくれる?』
 レッスン終わりに鷺坂から二人に告げられた言葉。嫌そうな顔をしたのどかだったが断りきれないのは、住まいが鷺坂の持ち物だったからなのだろう。
 音斗は申し訳なく思いながら、バスルームの戸を開けた。
「うちより広い……」
 大の男が二人で入っても余裕のありそうなバスタブを目の前にして、音斗は住んでいる世界の違いに目が回る思いだった。
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