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抱き締めることなど出来なかった

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 あの日から、早くも三ヶ月が過ぎた。その間も変わらず俺と彼女との勉強会は開かれている。
 マリーは正妃の件についてはそれ以上問うことなく、まるで忘れたかのような顔で振る舞っていた。
 昨日は周辺諸国の歴史、今日は国内の文学史と経済の基礎だ。文学史など学ばなくても、と彼女の表情は語っていたが、社交の場で上手く会話を回すためには必要になる知識だから馬鹿にはできない。
 気の利いた会話で周囲を回すためには、積み重ねた知識が重要になる。
 そう、彼女は早く社交の場に出て、周囲に顔を売らねばならないのだから。
「……マリー、今夜殿下と共に過ごしてもらいたい。殿下にはすでに話を通した」
「……殿下、と。はい、わかりました」
 目を伏せたマリーからは感情が読み取れなかった。
 マリーは殿下のことをよく知らず、殿下もまた彼女のことをよく知らない。
 きっと、お互いに時間を共有していけば二人の間に育まれていくものもあるだろう。
「今日はあと二ページ進めたら勉強会は終わりにしよう」
「え? ですが、まだ始めたばかりでは……」
「殿下にお会いするのだから、そのままの格好というわけにはいかないだろう」
 殿下のことだから、初めて夜を共にしたとしてもすぐに手を出すとは思えない。
 しかし、だからといって何も準備をしないというのも問題だろう。俺の手で、マリーを殿下の心が揺れるような可愛らしい女性に仕上げてみせる。
「まずは服だな。俺の方で用意をしておいたからそれに着替えてもらうとして、あとは髪か」
「……やはり、私の格好はみっともないですか?」
「あぁ、いや、そういう意味ではない。確かにマリーのドレスは少々古いデザインだが、大切に着ているのだろう? しわや汚れはほとんど無い。身だしなみがきちんとしているからみっともないとは思わないさ。ただ、殿下にお会いするのだから普段よりも良い格好をするのは当然だ」
 マリーはほっとした様子で息を吐いた。先程の言い方では確かに勘違いされても仕方がなかったかもしれない。
 しかし、マリーもドレスのことを気にしていたとは意外だった。流行の服装よりも正しい身だしなみであれば問題はないと考えているものだと思っていた。
 だから、気にしていないものとばかり思っていたが、やはり年頃の少女。気にしていないわけがなかったか。
「……用意していたドレスは夜用というわけではない。普段使いもできるだろう」
「え?」
「……君に贈る、と言っているんだ」
「私に……? え?」
 呆然とするマリーをその場に残し、俺は自分のクローゼットを開ける。
 開け放つ瞬間に、内側からわずかに広がるのは薔薇の香り。薔薇の花びらを何枚かクローゼットの中に忍ばせているため、その香りが服に移るのだ。
 香水を身に付ける令嬢も学園内にはいるが、あれでは匂いが強すぎてしまうためこのくらいが丁度良い。
 マリーのために用意していたドレスを慎重な手つきでクローゼットから取り出して、彼女の目の前に広げてみせた。
 落ち着いた髪色の彼女に合うように、鮮やかな緋色であまり露出は多くないドレスは外から差し込む太陽の明かりを受けて煌めいている。
 当然、今の流行の幾何学模様も裾に忍ばせてある。流行は廃れるものだから俺はあまり流行に乗ったドレスは好みでないが、一着くらいはあってもいいだろう。
 俺の髪色にも近いドレスの色であれば、彼女が俺に可愛がられていることを主張することにもなり、今後殿下と親しくなっても他の令嬢は下手にマリーに手出し出来なくなるだろう。
 急に殿下と親しくなったことで他の娘たちから僻みを受けることが心配だが、何かあれば俺が助けるつもりだ。
「これを……私に? でも、そんな……」
「いいから、受け取れ。俺が君のために選んだんだ。似合わないわけがないだろう?」
 ドレスをマリーの手に押し付けるようにして渡すと、テーブルの上には用意していた小振りなルビーの首飾りを置く。
 まだ呆然としたままのマリーは、ドレスに視線を落としたまま固まっている。元々表情の変化が少ない彼女だ。固まってしまっただけでも十分喜んでいるのが伝わってくる。
 マリーのことだから、喜びよりも遠慮の方が大きいかもしれないが。
「……ティアナ様と同じ匂い」
「当然だろう? 俺のクローゼットに入っていたのだから」
 独り言のつもりだったのか、俺の返事を受けたマリーは顔を赤くして俯いてしまった。
 細い両腕が、震えながら緋色のドレスを抱き締める。
「ありがとうございます……。こんな、素敵なドレス……嬉しいです」
 俺は頷くことしかできなかった。
 今から彼女は俺の選んだドレスとアクセサリーに身を包み、殿下のもとへと向かう。
 俺は、俺の手で最高に可愛らしい姿になった彼女の背中を見送るだけしかできない。そうなることを、望んでいたのは俺自身。
 贈ったドレスごと、マリーを抱き締めたい。
 その想いには気づかない振りをして、俺はきつく拳を握りしめていた。
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