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第一章

第一節 第四楽章 バックグラウンド譜

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***

 さて、と。ミキにクッキー作りも依頼されたことだし、あたしの涙で濡らしちゃったミキのベッドをさっさと片付けよう。
 そもそもあたしたちには時間がないし、ミキが帰ってきたときに「まだ出来てませんでした。」じゃ、ちょっと格好もつかない。
 「ちゃっちゃとドライヤーで乾かしますかね。」
 独り言を口にしながら洗面所へ足を運ぶ。
 階段を挟んで向かい側にユニットバスルームの部屋があるため、あたしはそこに向かった。
 その部屋にある洗面台からドライヤーを入手し、ミキの部屋に戻り、ドライヤーを片手に持ち、もう片方の手で布団の皺を伸ばしつつ乾かしていく。
 五分ほどドライヤーをかけていれば、あっという間に布団の染みくらいは乾くものだ。
 「よーし、クッキー作るかぁーっ。」
 玄関から見て一番奥、ミキの部屋を出て右手側に廊下を進むとダイニングキッチンに繋がる扉がある。
 扉を開くとやはりここは馴染み深いもので溢れている。
 右手には四人掛けの大きめのソファーとその先にある大きな液晶テレビ。左手には四人用の食卓テーブルと、椅子が四脚。さらに左側を見ればおかーさんがよく立っていたキッチンがある。キッチンにいるおかーさんが、主にソファーでゆっくりしているおとーさんとあたしたちを、そこから呼べるようになっている。
 ダイニングキッチンから廊下に通じる扉は二つあり、一つはいまあたしが通ってきた廊下に繋がっていて、もう一つはミキの部屋から見て階段の反対側の廊下に通じている扉。その廊下沿いにはユニットバスルームや洗濯機、そしておとーさんとおかーさんの寝室がある。
 あたしの部屋だけ二階だったから、幼い頃は少しだけ疎外感そがいかんがあったけど、無断で車に乗り込んで来ていたあたしなんかも家族に迎え入れてくれたんだ。このくらい安いものだ。
 さて、もう二度と四人の笑い声が響くことがない我が家のことを、ざっくり振り返りながら、おとーさんたちの部屋の前まで来ちゃったけど、こんなマイナスな気持ちじゃ美味しく作れるものも美味しくならないってね。
 「クッキークッキー……、あ、そういえば確か、ミキってチョコレート好きだったなぁ。」
 今年のバレンタインも男子からチョコ貰ってきては、幸せそうにあれの甘味に浸ってたし。もうあれは毎年の恒例行事みたいなものだったけど。
 おとーさんが買い貯めしてた抹茶の粉末も使えば、うん、昔一度作ったことのあるクッキーをそのまま再現できる。今日ミキが帰ってきたら、次はあたしもミキと一緒にあそこに行かなきゃいけないし、あたしが最終検査さいしゅうメンテナンスをしている間、ミキにはロビーで待っておいてもらわないといけない。
 それに、これがあたしたちが食べられる最後の懐かしの味ってことになるわけか。
 となると、少し多めに作っといてもいいよね。
 「おとーさん、ごめんなさい。」
 そう告げてから、おとーさんの遺影に向かって目を瞑り手を合わせる。そして遺影の傍に置かれている抹茶の入った筒上の入れ物を手に、キッチンへ最短距離で引き返す。
 「それじゃあ、始めようかね。」
 いまはまだ三月の下旬だし、冷凍庫には多分……、やっぱりあった。ミキが男子から無償提供バレンタインデーにプレゼントされたチョコレートの山。
 予想していたとはいえ、冷凍庫を埋め尽くしてしまっているチョコを見ると、やはり少しだけ悔しい気持ちにはなる。友チョコだの義理チョコだのはミキより貰ってるけど、ミキの次元まで本命チョコが山積さんせきすることは、あたしのいままでの人生で一度もなかった。まぁ、あたしの場合の方が世間一般なんだろうけど。
 なにはともあれ、これだけのチョコがあるんだし、抹茶とチョコのクッキーはけっこうたくさん作れるだろう。
 あたしはスマホで料理アプリを起動させ、お気に入りに登録しているレシピを遡る。あれなら下からのぼった方が、レシピページに到達するには確実に近道だ。
 一番下までスクロールし終わると、そこにはケーキのレシピが載っていた。
 閲覧日は十五年前の三月三十一日。
 あぁ、そうか。これってミキの誕生日ケーキをおかーさんと一緒に作ったときのレシピだ。

 あたしはあの日を思い出す。もちろん、ゴムベラでクッキーの生地を混ぜながら。

***

 その日は、ミキとおとーさんは出掛けていて、家にはあたしとおかーさんだけで、二人ともダイニングのソファーでくつろいでいた。
 「今日ってミキのお誕生日だよね?」
 分かりきっていることをあえておかーさんにあたしは尋ねる。
 「そうねぇ、この家に来て初めてのお誕生日。ゆさは来月になったらすぐに七歳になるのよね。」
 あたしはこくりと頷く。
 「そうだよーっ、あたしの誕生日は四月七日だからね。」
 口に手をあておかーさんは驚く素振りを見せた。
 「あ、それじゃあ、誕生日は一週間の違いだけれど、学校ではミキと同じ学年になるわね。」
 「そうなる……の?」
 小首を傾げるあたしにおかーさんは、学校というものは四月スタートで、生まれた年が一年遅くても、一・二・三月生まれの子は学年が同じになるものなんだと、説明してくれた。
 「えっと……、そもそもあそこの子どもたちは誰も学校に行ってなかったから、初めて知ったよ、そんなこと。」
 「え!?」
 今度は本気で驚いてるみたいだ。当時のあたしにはその反応の意味が汲み取れるわけもなく、ただ本当のことだけを淡々と話していた。
 「……きっとあの院長が不登校ってことにしていたのね。全く……、人としてどうかと思うわ。」
 深い嘆息を吐いたおかーさんは、その一つの吐息に呆れや怒りや哀しみを全て込めていたのだろう、急に穏やかな表情へと切り替わった。
 「とりあえず学校は、来月からミキが通うところと同じ小学校で、ゆさも春から一年生。クラスが一緒になるかは分からないけれど、同じクラスになるように学校にはお父さんと一緒にお願いしてみるわ。」
 「うん、わかった。でもあたし、ミキと同じところにいられるならなんでもいいよっ。」
 この思いと言葉は当時から既に本心だった。ミキと同じ場所ならなにも怖くない。このときも、そう心から思っていたし、現在いまでも変わらず思っている。
 「そう、ならよかった。ありがとう。」
 そう言ったおかーさんは一安心した様子で、あたしもようやく肩の力が抜けた。

 「ところで……。」とおかーさんにあたしが最初に提案しようとした話を持ちかける。
 「ミキのためにさ、丸くておっきなお誕生日ケーキ用意しない?」
 「孤児院では小さなショートケーキだったし。」とあたしは付け足す。
 おかーさんは人差し指をピンッと立てる。
 「それはいいわね!あ、けどいまから用意するとなると……、少しお金が足りないわね。今日はお父さんにわたしのお財布の中もほとんど渡してしまっているし。」
 立ち上がった人差し指がどんどん元気を失っていく。
 「あたしもおかーさんもミキの誕生日当日になって思いついちゃったんだし、今日だけは手作りでいいと思うけど……?それにほら、ミキとあたしが来たのって一昨日だし、だからおやつの時間の果物もたっくさんあるよ。……おかーさんとおとーさんもとっても忙しくって、ケーキの予約もできなかったんだよね。」
 あたしが手作りという案を出しつつおかーさんを慰めると、「ゆさは優しいのね。」と呟きながら頭を撫でてくれた。
 「それじゃあ、わたしたちでサプライズケーキ作りましょうか。お父さんには、"ケーキが出来上がったら電話するからそれまでは帰ってこないでミキと遊んでて。"ってメールで伝えておくわ。」
 おかーさんはスマホの画面を操作しそれをソファーの上に置くと、急に立ち上がり、ダイニングからキッチンエリアへ向かう。そしてエプロンを二つ、棚から取り出し一つをあたしに渡すと、おかーさんは準備を整え始めた。既におかーさんの手には卵が二つ握られており、キッチン台にはいつの間にかボールとハンドミキサーが置かれていた。
 一方、あたしはというと、着慣れないエプロンと悪戦苦闘していた。左右にある紐のどこに頭を通せばいいのか分からず、しばらくして首にエプロンをかけることを諦め、とりあえず腰のところで紐を結んだ。おかーさんの近くに行くと、もう空になった牛乳パックとホットケーキミックスの袋がキッチン脇に散乱していて、あたしは仕方なく変なエプロン姿のままそれらのゴミを片付けた。これまでのおかーさんはきっと、まともに料理に興味を持たなかったんだろう。だから料理の後始末の手際があんまりよくない。
 あたしが片付けていると炊飯器からピロリロリー♪という起動音が聞こえた。
 ここでようやくおかーさんはあたしがゴミ処理をしていたことに気付いたらしく、あたしと目があった瞬間に苦笑いを浮かべ「あ……。」と声を漏らした。
 「ゆさー、ごめんなさいっ!つい料理でも集中しちゃうとそれしか見えなくなっちゃうの……。ってゆさその格好どうしたの?!お洋服も少し白くなって……っ。」
 「……いや、おかーさんが使ったホットケーキミックスの袋を片付けてたらいつの間にか……てへっ。というか、料理でもってことは、もしかして研究でもだったの……?」
 あたしの片付け報告で、おかーさんの苦笑いはさらに悪化した。「ごめんなさい。」という気持ちが表情から伝わってくる。
 「ごめんなさい。」
 あ、おかーさんホントに言った。
 「でもありがとう。そうね、研究をやっていた頃もずーっとそれのことばかり考えていたわ。まともにご飯を食べなかったことだって何度もあった。その度にお父さんに叱られていたけれど。」
 「なかなかこういう癖は拭いきれないものね……。」と困ったような顔をしているおかーさんに、あたしはそのとき思ったありのままを言葉にした。
 「けど、おかーさんにそういう癖がなかったら、きっとミキを探すことを途中で諦めてしまってただろうし、そうなってたらミキもあたしも、あの孤児院じごくにずっと居なきゃいけなかったんじゃないかなって、あたしは思う。だからおかーさんのその癖は、あたしたちを救ってくれたんだよ。だから……っ!?」
 あたしの言葉は途中で遮られた。突然、おかーさんがあたしを強く抱き締めてきたからだ。急すぎて頭がついていかない。
 「ありがとう。ありがとう。」と言葉を続けるおかーさんの姿は、一昨日の夜、ミキに泣きながら謝罪を繰り返していたおとーさんの姿と重なるところがあった。やっぱりおとーさんとおかーさんは夫婦なんだな、似た者同士というかなんというか。

 あたしは抱き締められている体勢のまま、おかーさんの背中を掌でポンポンと叩き、とりあえずさっき生まれた疑問を投げかける。
 「ところで、なんでケーキ作るのに炊飯器使うの?」
 「あぁ、あれはねケーキの生地を焼いてるのよ。炊飯器で焼いている間に生クリームを泡立てておこうかなと思って。わたし、ずっと研究ばかりしていたから、泡立て続ける体力に自信がなくて。」
 そう言いながらおかーさんはあたしからエプロンを脱がせ、整えて、正しい形で着せ直してくれている。
 エプロンの左右の紐って、輪っかになるように重ねて、それでできた輪のところに頭を通すのか、なるほど。
 「ゆさには果物のトッピングをお願いしようと思ってるの。それくらいならできるわよね?」
 「えぇー!それじゃあ退屈だし、おかーさんとサプライズケーキ作った感じがしないよぉー。あ、おかーさんさ、さっき生クリームの泡立てするのに自信ないって言ってたよね。それ、あたしがやろうか?その間、おかーさんは果物切っててよ。それでさ……。」
 「「二人でトッピングしようっ!」」
 おかーさんと声が重なった。ちょっぴり恥ずかしい。
 おかーさんも、あたしに生クリームの担当をさせることに、特に引け目を感じている様子はなかった。
 「分かったわ。それじゃあ生クリームはよろしくね。わたしは果物たっくさん切っておくから。」
 そう言って、おかーさんはあたしにハンドミキサーを手渡すと「ミキサーのところには気をつけてね。」と注意を促し、ハンドミキサーの柄の端から延びるコンセントケーブルを、キッチン台の下に隠すように配置されたコンセント口に差し込む。
 「うおぁ……っ!」
 突然ハンドミキサーを持っていた左手に振動が伝わってきて、驚きのあまり声をあげてしまった。隣にいるおかーさんがくすくすと笑う。
 「笑わないでよぉー、びっくりしちゃっただけなんだからー。」
 こう言っているあたしも表情は緩んでいる。
 ミキが喜ぶ顔を想像しながら、あたしは生クリームを丁寧に混ぜていく。
 早くミキのその表情を見たいけど、早く帰ってきてもらってはそれはそれで困る。
 なんとももどかしい。だけど気分は悪くない、少しわくわくもしている、不思議な感覚。
 この気持ちに名前があるならぜひ知りたい。

 生地も焼き上がり、生クリームと果物をおかーさんと相談しながらトッピングし終わったときにはもう、時計の針は午後四時を指そうとしていた。
 おかーさんは慌てておとーさんに帰ってきていいよと電話をかける。あぁ、おかーさん……。本当に癖なんだ、没頭すると他のことを全く考えられなくなるの。
 おかーさんが電話をかけてから十分ほど経って、
 「「たっだいまーっ!」」
 と玄関の方から二人の明るい声が聴こえた。
 「おかえりーっ、ミキ。と、おとーさん。」
 「おかえりなさい。ミキ、お父さん。」
 あたしとおかーさんの表情が崩れかけていてニヤニヤしてたのが気持ち悪かったのか、靴を脱ぎながら、ミキとおとーさんはいぶかしげな表情を浮かべている。
 しかしミキだけは、すぐにその表情を解くやいなや、あたしたちに向かって、
 「牛乳の匂いがする!」
 と言い放った。
 あ……、あたしもおかーさんもエプロンを外すことを完全に忘れていた。
 これ以上玄関口で足止めをするわけにもいかないし、そもそもあたしがサプライズの我慢をこれ以上できそうもなくて、ミキの手を引きダイニングキッチンへと走る。「廊下は走ると転ぶよー。」と、おとーさんの声が後ろから聴こえたけど、ごめんなさい、今日だけは見逃して……っ。
 というヒントしかまだ持っていないミキを連れ、あたしはサプライズルームと化した部屋の扉を開ける。

 果物てんこ盛りの手作りケーキを目にしたときのミキの表情は、きっといつまでも忘れることはないだろう。

 六歳の誕生日おめでとう。ミキ。

***

 さて、と。クッキーも焼けたし、あとはミキが帰ってくる時間を見計らって、溶かしたチョコをこの抹茶クッキーにかけるだけかな。
 「ただいまー。」
 お、帰ってきた。けど予定よりやけに早かったな……。
 ささっとクッキーにチョコをかけ、あたしはミキを出迎える。
 「おかえりー。予定より早かったね、まだ二時過ぎだよ?」
 ミキの腕時計の針もその時刻を指している。というかミキの息切れが尋常じゃない。
 「私っ、ハァ……ッ、三時に、帰り着く予定、だったんだけど、ハァ……、その時間って、もう、黄昏時たそがれどきじゃない……っ。」
 「まぁ、うん、そうだね。けどその時間帯はあたしの検査だし、ミキは陽射しを受ける心配ないから大丈夫なんじゃ……?ていうかまず息整えなよ。」
 「……そうするっ。」
 ミキは三度ほど深呼吸を挟み、状況説明を始めた。
 「私、ゆさが車の免許持ってなくて、あそことうちを二人で行き来するには、二人で日傘を差して歩くしかないってこと、すっかり忘れてたのぉー。」
 あ……、そういえばミキって陽射しが強くなる『黄昏時たそがれどき』と『彼は誰刻かはたれどき』の車の運転は禁止されてたんだった。それでミキも急いで帰ってきたのか。なるほど。
 「そういうことね。まぁ、クッキーがさっき出来上がったばっかりだから、それもましたいし、ミキも一旦ダイニングに行こうよ。いつまでも玄関にいると、それこそ陽射しを思いっきり浴び続けちゃうから、ね。」
 「そうね……、ありがとう。今日は特に、ゆさの近くに私は居た方がいいみたい。」
 そう口にするミキの表情は、たおやかでありながら、それでもか細さや危うさを感じさせてしまう笑みだった。
 「なにをいまさら。」
 ……けどいよいよ始まったのか。

 が。

***
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