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第三首 ホワイトデー
-結の句- 今は昔の物語
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「あんなこと……?」
若紫の昔話を聴いていたおれは、彼女がわざわざ代名詞を用いてまで伏せる事柄について問うた。
「————みさとなら、わちしの起源も、知り仰せやう?」
「源氏物語、だよな。……お前自身が最初に名乗った通りなら」
「左様」と、小さなため息と共に彼女は呟く。
「わちしの真名は、若紫——、紫式部なる者が、紡ぎし源氏物語にて、源氏様がこよなく愛す妻として、拵えられた"役回り"。どこまでいっても所詮は道化。わちしはな、この、いと美しき現世に、然れどただの一度たりとも、息づいたことすらないのじゃよ……。全く、わちしのなんと滑稽なことか。」
若紫は自嘲を交え、自身の"実存の脆さ"を、弱々しくも嗤うのだった。
————目の前の若紫は、果たして気付いているのだろうか。
無理に創られた即席の笑みなんかじゃ到底隠しきれない、哀愁によって生み出された"ひとしずく"。
それが、彼女の膝を覆う炬燵布団に、頬を伝 い滑り落ち、確かな蹟を滲み込ませていることに————。
若紫の昔噺は、簡単に聴き流せる声音でもなければ、軽率にあしらえる話でもなかった。
ただ、こいつがなにも分かっていないということも、揺らぎようのない事実だ。
おれは、若紫の愛の告白と、勇気を振り絞り曝け出された彼女が抱える不安には、敢えて触れることなく、最初に渡した問いを繰り返した。
「……——それで結局、『あんなこと』ってのはなんなんだよ。まさか、自分のことを知っちまったお前は、自棄を起こして、蔵から出て行こうとでもしたのか?」
……やはり、自分の話が流されたと思い込んだのか、若紫は眉間に皺を寄せ、返事を寄越す。
「わちしより、みさとの方が不躾じゃ。……とはいえど、みさとの言った通り故、わちしも強く、異を唱えられぬ。」
「……すまん、悪かったよ」
「謝罪の言葉は、わちしの欲するところにあらず。」
「そうじゃの……、どこから話したものであろうぞ」と声を漏らしながら逡巡した若紫は、些か控えめな咳払いを挟み、続けた。
「わちしは『あの日』、いつもと同じく、じじ様と飯を待ちながら、書架埋め尽くす本の群に相対し、ただひたすらに、漁ることを止めることなく読み耽っておった。——そのなかで、わちしの着物と似通った、衣まとう女子が一人、表を飾る、ひと綴りの竹帛をわちしはこの手にしたのだった。ただならぬ、興味を抱き、それを開くと、わちしの五体は書物に呑まれ、気付けば隣で源氏様が微笑んでいた。」
「………………は?!」
「しかしながら————」と話を続けようとする若紫に、しかしおれは彼女の話を遮ってでも、どうにも思考が追い付かない、若紫が体験した現象について問い質さなくてはならないと感じた。
若紫は、話の腰を折られたことが癪に障ったのか、ほんの僅かに頬を膨らませている。
「いや、悪い。でもちょっと待ってくれ……。"本に呑まれた"、だって……?」
「その通り。さりとて、みさとはとうに、本に呑まるることなんぞ、比べ物にならぬほど、幻想の如き現象を、いま、目の当たりにしておるぞ?」
……まぁ、確かに。
"若紫が現代にいる"という現時点で、既にファンタジーも甚だしい事象が目の前で繰り広げられている。
「さてみさと、話を続けてよいものか?」
その問いかけにおれがすぐさま首肯すると、若紫は話を戻した。
「————しかしながら、傍らに、笑みを浮かぶる源氏様の、"姿"はあれど、動く気配は微塵もなく、またそれは、愛しき御方の、有り様のみに留まらず、"世界そのもの"、全てにおいて、時刻むことを止めていた。——このとき初めて、わちしの素性が"道化"だと、わちしは自覚を余儀なくされた。」
気付かされ方のあまりの残酷さに、おれは思わず返す言葉を失ってしまった。
要するに若紫は、同じ"源氏物語"の世界ではあれど、なにもかもが停止した"静止画の世界"へ、誤って飛び込んでしまったようなものなのだ。
若紫にとって、自身の正体にまつわる事実は、知らない方が幸せなことだったに違いないだろう——。
「……じゃあ、お前、どうやって現代に戻ってきたんだ?」
「知れたこと。あの蔵に、わちしが初め、顕れた折 同様に、天道までも止まる世で、己が寝床に伏したのみ。確信こそはなかったが、朝目覚むれば、あの書架共が、迎えてくれた。」
あの蔵……、本当にいったいどうなっているんだ。
「座敷わらしが出るから。」なんて理由ではないけれど、若紫の話を聴けば聴くほど、謎が謎を呼んでいる。
「——ただそれが、あらゆる不幸の始まりにして、終わりを告げる。そんなものでも、あったのじゃ……。」
「始まりにして終わり?」
「あぁ……、わちしは現代に戻るなり、蔵に在る、"源氏物語"と名の付くものは、できうる限り、この両の手で、引き裂いた。わちしは"若紫"を断罪し、"物語"という箱庭に、収まることを拒絶したのじゃ。」
……"源氏物語"を徹底的に拒んだのか。
しかし、それにしては、若紫と初めて逢ったあの書架のエリアには、しっかりと源氏物語関連の書籍が揃っていたような……?
「——おい、まさかとは思うが……、お前、題名に"源氏"って付くものから先に破っていったのか?」
おれの問いに、若紫は目を泳がせる。同時に唇を尖らせ、か細く息を漏らし、そしらぬ振りの口笛を試みるも、そこから生まれた、粗雑に掠れた音は、口笛の音色にはほど遠く——、むしろその様は、吹奏楽部に入部したての新入生が、マウスピースを通し、未だ自在に奏でることのできない管楽器に、しかし必死に息を吹き込み続ける姿を彷彿とさせるのだった。
深い嘆息と共に、頭を抱えながら、眼前の女児に出題する。——そう、まさに小学生でも分かる、飛びきり語呂合わせのいい解を持つ、簡単な問題を。
「若紫、一つだけ訊かせてくれ————『いい箱作ろう』といえば?」
「……な、なんなのじゃ、その謎掛けは。藪から棒にもほどがあるぞ……。————わ、わからぬわい! ——もしそれが、わちしの所業と、じじ様の、"命"にまつわる事柄の、遠因ならば、わちしも頭を働かせるのじゃが……——っ。」
「だと思った…………」とため息混じりに言葉を溢すおれを見ても、若紫は相変わらず、思考の試行を繰り返している。
「答えは『鎌倉幕府』だ。——若紫……、お前は、源頼朝とか平清盛とかがいた時代にまつわる"歴史書"まで、破っちまってんだよ……」
数年前までは『いい国作ろう鎌倉幕府』と覚えられていたが、歴史と子どもを愛してやまない、美術部所属の同級生——汐月千敬の弁によれば、近年の教科書だと『いい箱作ろう鎌倉幕府』と云うらしい。
とにもかくにも、"源氏"と"平氏"が最後に衝突した『檀ノ浦の戦い』に関連するものを含め、じいさんが集め、整え、綺麗に保管していた貴重な書物たちを、あろうことかこの若紫は、「"源氏"と記されているから」という理由で、悉く紙屑にしてしまったわけだ。
……そして恐らく、若紫のいう『あの日』とは、じいさんが激昂し、破れまくった本を抱えてきた日——つまり、じいさんの命日の『前日』のことであろう。
「じじ様の、命を奪いしわちしの所業。……みさとはとうに、勘付いてしまっておるのじゃろう?」
数分前、答えをついぞ導き出せず、強い口調で言葉を放った若紫は、いまや震えた声でおれに問いを放ってきていた。
「……まぁ、な」
——つまるところ、"座敷わらし"として現世に定着していた若紫が、意図するところになかったとはいえ、『あの日』、蔵のなかから本の世界へ"出てしまった"ことが原因なのだ。
「————みさとはわちしを、責めぬのか……?」
元来"座敷わらし"というものは、その家に居座り続ける限りは安寧をもたらし、去られれば一気にその家は衰退の一途を辿らざるをえなくなる——そんな存在。
「責めるわけないだろ、莫迦紫」
————けれど現在の若紫は、"源氏物語"の世界の住人ではない。
源氏物語に、梏られる存在ではない。
それになにより————。
「もうお前は、"座敷わらし"なんかじゃない。おれの"料理の弟子"にして、ついでに、おれなんかに想いを認め慕ってくれる可愛い"恋人"——いうなれば、一人の"乙女"だ」
「そんなやつを"人殺し"なんて呼ぶかってんだよ。」と添えようとした矢先、おれの懐に若紫が飛び込んできた。
「ありがたう……、ありがたう……。わちしの想ひが伝わることの、なんと喜ばしきことか……っ。」
おれの胸元に顔面を擦りつけ、ほろほろと湧き出る雫を、止めることなく、若紫は、思いのままに泣きじゃくる。
「よく——、耐えてきたな。若紫が独りで背負うには、重かっただろう、苦しかっただろう、寂しかっただろう——。でも、もうお前は独りじゃないんだ。隣には、いつもおれがいる。お前が一人で背負い込んできたものは、これからは、二人で分かち合おう————」
おれの言葉を聴いた若紫は、「あぁ……、あぁ……」と言葉にならない声を漏らし、おれの冬着にしがみつき、また深く、頭をそこに埋めるのだった。
————若紫は、ひとしきり泣き尽くしたあと、そのままおれの膝を枕にし、浅い寝息を溢し始める。
(こんな小さな背中に、おれの知らない、幾つもの重荷を背負っていたんだな……。おやすみ、若紫)
*****
おれの袂まで、摺り寄ってきた彼女の足には、しばらく履き替えられず、萌黄に寄った色になってしまった足袋だけが装われている。
この時期に足を纏うものがそれだけでは、些か以上に冷えてしまうだろうに……。
せっかく恋人になったんだ。若紫には、なおさら風邪なんて引かせられない。
「世話が焼けるのは相変わらずだけど、若紫の冬物の洋服くらいは、この際調達しておくか……」
すやすやと眠る若紫を眺めながら、おれは、自分の口から溢れ落ちたいまの"独り言"に、どれだけ配慮の要素が孕まれているか、夢想に耽る。しかし配慮以前に、衣類方面の知識やセンスに疎すぎて、結局、まともな解には辿り着けなかった。
……いや、分かってる。
子ども服に関して、特異なほどに得意な同級生を、おれは一人だけ知っている。
「神之輝さんとか岬崎さんとかに、勘違いされないようにしないとな」
今回おれは、おれと同じ片瀬川高専に通う同級生の異性に、突拍子もなく、「子ども向けの洋服を一緒に選んでほしい。」と頼み込むのだ。
(————まぁ、手作りクッキーでも作って、雑談混じりに話を切り出せばいいか)
/////
だが、翌日の昼休みの学校にて、おれの意図とは裏腹に、凝りに凝った抹茶チョコクッキー——占めて四十枚——のほとんどは、神之輝さんに連れて来られた原田湧綺さんの腹に納められた。
原田さんとおれは初対面だったが、同じクラスの神之輝さん曰く、家が貧しく、小学生の頃には、唯一の肉親である父親と公園で暮らしていたこともあるらしい。そしてチョコレートには目がなく、なんでも、そのホームレス生活をしていた頃に食べたチョコバナナが印象に残ってるからだとかなんとか……。
しかし、サクサクと軽快な音を鳴らし、
「ミキちゃん、これ美味しいよ~」
と、両の掌を、落ちかけている頬に添え、何度もその言葉を呟きながら食べてくれる原田さんの姿は、作った身としては、見ていて和むものだったし、若紫がもう少し年を重ねれば、似たような光景を毎日見ることになるのかもしれないと、微笑ましい未来を想像していた。
……ただ、肝心要の頼み込む異性——汐月千敬だけは、教室でクッキーの入った包み紙を広げた直後は、機嫌があまりよろしくない様子だった。だが、それを口に含んだ瞬間に、眉間の皺はあっという間に解けていった。
「ボクがいくら頼んでも作ってくれなかったくせにぃ」
などと本人はぼやいていたが、そんな愚痴を溢されても、無理もない話だ。
なんせ、おれがホワイトデーにクッキーを作らなくなった原因は、言うまでもなく、この千敬の言動によるところなのだから。
六年もの間、バレンタインデーにチョコを渡してきては、
「みさと君の手料理、ボクのホームページで紹介したいから、来月のお返し、楽しみにしてるね~!」
なんてことを悪びれることもなく言ってきていたのだ。
おれの恥ずかしさも心持ちも、少しは考えてくれ。……というかそもそも、おれの料理は客寄せパンダじゃない。
——まさか小学校から現在まで、続けて同じ学校の同じクラスになるとは思っていなかった、いわゆる"腐れ縁"というやつである——。
「————ねぇねぇ、みさと君?」
おれの方から声を掛けようと思っていたが、予想に反して千敬の方から話しかけてきた。
「なんだよ……。てか下の名前で呼ぶなって、何回言えばわかるんだよお前は……」
「あっはは~、ごめんよ」
返されるのは、相変わらず、反省の色がまるで感じ取れない謝罪文句。
おれは別に、そんな千敬を"許している"わけではなく、ただ距離を置くことの方が面倒で、"諦めている"だけだ。
「……それで? 用はなに?」
「いつにも増して素っ気ない返事だなぁ~もう。君のこと嫌いになっちゃうよ?」
「最初から好きだったみたいな言い回しをするんじゃない」
「え? けっこうボクは君のこと昔から好きなんだけど」なんて台詞を表情一つ変えずに言い放つことができるのは、これはこれである意味天才的なのかもしれない。
「まぁそれは置いといて~。ねね! なんで今年に限ってクッキー作ってきちゃったわけっ?」
こ、こいつ……、手料理といい話題といい、おれのことに対してだけ食いつきすぎだ。
「千敬のバレンタインチョコを断ったから」
「またまた~」
おれが数秒黙っていると、「……え、ホントにそうなの?」と、茶化しまくっていた声音から一変して、気まずそうに訊いてきた。
————まぁ、神之輝さんも岬崎さんも原田さんもクッキーに夢中だし、こっちの話が耳に届くことはないだろう————。
「いいや、全然違う。むしろ、千敬に折り入って頼みごとをしたいがためだけに作ってきたんだよ」
「え?! なにそれ超VIP待遇じゃん!!」
……本当のことを暴露するために消費したおれの緊張感を返せ。
「はしゃぎすぎだ……。"折り入って"って言ってんだろうが」
「あぁ、そうだった。……あはは、すまないね」
千敬の場合、謝る言葉に「すまない」と入っているときは、笑っていようと、本気で悪びれているときなのだ。——さすがにこういう言葉の癖は、長年同じ教室の空気を吸っていれば、勝手にわかるようになってしまう。
「じゃあ、ボクになんの用?」
ほんの少し、声の張りを抑えて千敬は問う。
「——実は、女の子用の子ども服が欲しいんだが、思ったよりチョイスが難しくてな……」
「え、なに、三木君、まさかロリに目覚めちゃったの? いま目の前に天然ものの"ボクっ娘"がいるにも関わらず————————痛っ」
ほとんど反射的に、おれの手刀は千敬の額めがけ振り下ろされていた。
「じょ、冗談だって。けど、なんだって子ども服なんて欲しがるの?」
「……いまはまだ言えない。と、とにかく、小学生くらいの背丈で、桃色とも紫ともとれる和服が似合う女の子にあてがう洋服を教えてくれ」
頭を下げて懇願する姿に、並々ならぬ本気の度合いが伝わったのか、千敬は短く嘆息を挟み、「わかったから、頭を上げてよ」と声を返してきた。
「ま、要するに? 三木君は読書のしすぎで、ファンタジー小説にしか登場しないような女の子の洋服を是が非でも手に入れておきたいわけだね! この汐月千敬、その件、しかと承知した————」
「————ちょっと神之輝さんに頼んでくるわ」
席を立つおれの耳に千敬の声が飛んできた。——闇雲におれの袖口の裾を引っ張る癖だけは、いい加減なんとかしてくれ。
「待て待て待てーぃ! ボクいま『承知した』って言ったよね?! いやいやほら、そうだとでも思っておかないと、ボクだって、正気の沙汰じゃないことに付き合わされるわけじゃんか……っ!」
「……珍しく一理あること言いやがって。————じゃあそれに、今日の配ったクッキーのレシピを付けたら?」
「ボクでよければ、全力を以て、取り組ませていただきまする」
……さすがは千敬。
"純朴"という名の"単細胞"なだけはある。
///
その後、若紫にバレないように、午後の授業を早退し、千敬と一緒に、近くのショッピングモールまで各々の自転車に乗り、赴いた。
正直なところ、千敬がいてくれたことで、服を選ぶ時間に余裕を持たせることができた。
——いや、余裕がありすぎて、画材調達なんてものにも付き合わされ、挙げ句荷物持ちにされたのだから、良くも悪くも"持ちつ持たれつ"の買い物になった。
ショッピングモールからの帰路にて、
「ボクたち、デートしてるって思われてたんじゃない?」
などと、千敬は冗談めかしていたものの、突発的に口にされた。
「子ども服売り場と画材専門店にしか行ってないだろうが……。どんなにがんばっても、"相方の趣味に付き合わされて若干げんなりしてる幼馴染の二人組"ってくらいにしか映らねぇよ。それに——————ッ」
「ん? それに?」
「いや、なんでもない」
————危なかった。「恋人の枠には困っていない」なんて言ったら……、こいつがどんな行動をとるか知れたもんじゃない。
「そっかそっか。まぁでも、ボクだってこれでも一応は"女の子"だからね。そういうことも、少しくらい、意識してくれてもいいんだよ?」
「……————『多元宇宙論』に等しい次元の話を持ち出すな。千敬は千敬らしく、コンピュータの英数字高速処理でもやっとけ。……おれとしちゃ、お前がやってることの方が、謎めいた芸当に見えるんだからさ」
そう————、千敬は性格こそこんなやつだが、パソコンに向かっているときの並外れた技量は、同じクラスの眉目秀麗、才色兼備の天才美少女——神之輝ミキすら優に超えており、企業から直々に打診が来るほどのプログラミングの達人なのである。
「あっはは、それもそうだね~。でーも機械はいいよ? 嘘つかないし。今日買った画材なんかと一緒だよ。ボクが触った分だけを、ただ忠実に表現してくれる」
そういう問題なんですか。
「文系のみさと君には分かんない世界かもね」
——まぁ単純な性格を持ち合わせている千敬らしいといえば千敬らしいか。……それよりも————、
「……千敬。またおれを名前で呼んだら、お前のことを汐月って呼ぶか、この重すぎる画材を全部自転車から突き落とすかするから、どっちがいいかいまのうちに決めとけよ?」
————こいつは、他人から名字で呼ばれることに対して、凄まじい嫌悪感を抱いている。"しおづき"だの"せきづき"だの、読み方のバリエーションが多すぎて、入学式や卒業式ですらも、往々にして「しおづき」と呼ばれてしまっている。——ほぼおれと同じコンプレックスを抱えてるんだから、そろそろ察してくれ。
「すみませんでしたぁ……!! お、お詫びはなにをしたらよろしくて……?」
「————おれからレシピを訊き出さないこと」
「なにそれ小狡い! 小賢しい!」
「おれのことを指すなら"狡猾"って言え。実際、千敬は乗っちまっただろ? おれの、"巧妙にして狡猾な策"に」
口角を上げ、しめしめと言わんばかりに嗤ってやった。
「ぐぬぬ……っ、この策士め。————あ、そろそろ別れ道だね」
雑談を繰り広げている間にも歩は進み、千敬の家と若紫の待つ家への道を分ける交差点が見えてきた。
「おう、今日は世話になったな。ありがとう。千敬がいてくれて助かった」
心からの感謝の言葉を贈ったつもりだが、千敬は数拍間を空け、「そ、それならよかった。」と借りてきた猫のように、先ほどまでの言葉の勢いを失わせていた。
「じゃあ、またね」
と珍しくおれから切り出し、おれはそそくさと若紫への手土産を自転車のかごに乗せ、彼女の家に向け、ペダルを漕ぎ進めるのだった。
/////
本当は、「いまはまだ言えない」って言ってくれた君の言葉に、今日のボクは突き動かされていただけだったんだよ……?
「『じゃあ、またね』 ……そのひとことが 心刺す 片恋ゆえの 別れのことば」
ってところなんだけど、やっぱり彼には伝わらないよね。
苦手な文系科目でも、君と話すためなら、がんばって覚えちゃうくらいの————、ボクのこの気持ちはさ。
*****
「おーい、若紫ー。帰ったぞー」
みさとの聲が家の外から届いただけで、胸躍らせるわちしはやはり、みさとのことを心底慕っておるらしい。
————されど、もう苦しまなくていい。
みさとはわちしを受け入れて、また"恋人"として認めると、昨日誓ってくれたのじゃから————。
「足摺りて、たな知らぬもの、頬張るも、ころもまとうて、食えど飽かぬも————。おかえり我が君! 三木みさと」
屋敷の廊下を足摺りながら、「ひょう、ひょら、ひょう、ひょ。」と駆けるわちしは、いと待ちわびた想ひ人への、かやうな"詩"と犒ひの"ことほぎ"を、詠い、また紡ぐのじゃった。
今日の夕餉に並ぶ飯なるは、はてさて、どんなものであろうぞ————。
若紫の昔話を聴いていたおれは、彼女がわざわざ代名詞を用いてまで伏せる事柄について問うた。
「————みさとなら、わちしの起源も、知り仰せやう?」
「源氏物語、だよな。……お前自身が最初に名乗った通りなら」
「左様」と、小さなため息と共に彼女は呟く。
「わちしの真名は、若紫——、紫式部なる者が、紡ぎし源氏物語にて、源氏様がこよなく愛す妻として、拵えられた"役回り"。どこまでいっても所詮は道化。わちしはな、この、いと美しき現世に、然れどただの一度たりとも、息づいたことすらないのじゃよ……。全く、わちしのなんと滑稽なことか。」
若紫は自嘲を交え、自身の"実存の脆さ"を、弱々しくも嗤うのだった。
————目の前の若紫は、果たして気付いているのだろうか。
無理に創られた即席の笑みなんかじゃ到底隠しきれない、哀愁によって生み出された"ひとしずく"。
それが、彼女の膝を覆う炬燵布団に、頬を伝 い滑り落ち、確かな蹟を滲み込ませていることに————。
若紫の昔噺は、簡単に聴き流せる声音でもなければ、軽率にあしらえる話でもなかった。
ただ、こいつがなにも分かっていないということも、揺らぎようのない事実だ。
おれは、若紫の愛の告白と、勇気を振り絞り曝け出された彼女が抱える不安には、敢えて触れることなく、最初に渡した問いを繰り返した。
「……——それで結局、『あんなこと』ってのはなんなんだよ。まさか、自分のことを知っちまったお前は、自棄を起こして、蔵から出て行こうとでもしたのか?」
……やはり、自分の話が流されたと思い込んだのか、若紫は眉間に皺を寄せ、返事を寄越す。
「わちしより、みさとの方が不躾じゃ。……とはいえど、みさとの言った通り故、わちしも強く、異を唱えられぬ。」
「……すまん、悪かったよ」
「謝罪の言葉は、わちしの欲するところにあらず。」
「そうじゃの……、どこから話したものであろうぞ」と声を漏らしながら逡巡した若紫は、些か控えめな咳払いを挟み、続けた。
「わちしは『あの日』、いつもと同じく、じじ様と飯を待ちながら、書架埋め尽くす本の群に相対し、ただひたすらに、漁ることを止めることなく読み耽っておった。——そのなかで、わちしの着物と似通った、衣まとう女子が一人、表を飾る、ひと綴りの竹帛をわちしはこの手にしたのだった。ただならぬ、興味を抱き、それを開くと、わちしの五体は書物に呑まれ、気付けば隣で源氏様が微笑んでいた。」
「………………は?!」
「しかしながら————」と話を続けようとする若紫に、しかしおれは彼女の話を遮ってでも、どうにも思考が追い付かない、若紫が体験した現象について問い質さなくてはならないと感じた。
若紫は、話の腰を折られたことが癪に障ったのか、ほんの僅かに頬を膨らませている。
「いや、悪い。でもちょっと待ってくれ……。"本に呑まれた"、だって……?」
「その通り。さりとて、みさとはとうに、本に呑まるることなんぞ、比べ物にならぬほど、幻想の如き現象を、いま、目の当たりにしておるぞ?」
……まぁ、確かに。
"若紫が現代にいる"という現時点で、既にファンタジーも甚だしい事象が目の前で繰り広げられている。
「さてみさと、話を続けてよいものか?」
その問いかけにおれがすぐさま首肯すると、若紫は話を戻した。
「————しかしながら、傍らに、笑みを浮かぶる源氏様の、"姿"はあれど、動く気配は微塵もなく、またそれは、愛しき御方の、有り様のみに留まらず、"世界そのもの"、全てにおいて、時刻むことを止めていた。——このとき初めて、わちしの素性が"道化"だと、わちしは自覚を余儀なくされた。」
気付かされ方のあまりの残酷さに、おれは思わず返す言葉を失ってしまった。
要するに若紫は、同じ"源氏物語"の世界ではあれど、なにもかもが停止した"静止画の世界"へ、誤って飛び込んでしまったようなものなのだ。
若紫にとって、自身の正体にまつわる事実は、知らない方が幸せなことだったに違いないだろう——。
「……じゃあ、お前、どうやって現代に戻ってきたんだ?」
「知れたこと。あの蔵に、わちしが初め、顕れた折 同様に、天道までも止まる世で、己が寝床に伏したのみ。確信こそはなかったが、朝目覚むれば、あの書架共が、迎えてくれた。」
あの蔵……、本当にいったいどうなっているんだ。
「座敷わらしが出るから。」なんて理由ではないけれど、若紫の話を聴けば聴くほど、謎が謎を呼んでいる。
「——ただそれが、あらゆる不幸の始まりにして、終わりを告げる。そんなものでも、あったのじゃ……。」
「始まりにして終わり?」
「あぁ……、わちしは現代に戻るなり、蔵に在る、"源氏物語"と名の付くものは、できうる限り、この両の手で、引き裂いた。わちしは"若紫"を断罪し、"物語"という箱庭に、収まることを拒絶したのじゃ。」
……"源氏物語"を徹底的に拒んだのか。
しかし、それにしては、若紫と初めて逢ったあの書架のエリアには、しっかりと源氏物語関連の書籍が揃っていたような……?
「——おい、まさかとは思うが……、お前、題名に"源氏"って付くものから先に破っていったのか?」
おれの問いに、若紫は目を泳がせる。同時に唇を尖らせ、か細く息を漏らし、そしらぬ振りの口笛を試みるも、そこから生まれた、粗雑に掠れた音は、口笛の音色にはほど遠く——、むしろその様は、吹奏楽部に入部したての新入生が、マウスピースを通し、未だ自在に奏でることのできない管楽器に、しかし必死に息を吹き込み続ける姿を彷彿とさせるのだった。
深い嘆息と共に、頭を抱えながら、眼前の女児に出題する。——そう、まさに小学生でも分かる、飛びきり語呂合わせのいい解を持つ、簡単な問題を。
「若紫、一つだけ訊かせてくれ————『いい箱作ろう』といえば?」
「……な、なんなのじゃ、その謎掛けは。藪から棒にもほどがあるぞ……。————わ、わからぬわい! ——もしそれが、わちしの所業と、じじ様の、"命"にまつわる事柄の、遠因ならば、わちしも頭を働かせるのじゃが……——っ。」
「だと思った…………」とため息混じりに言葉を溢すおれを見ても、若紫は相変わらず、思考の試行を繰り返している。
「答えは『鎌倉幕府』だ。——若紫……、お前は、源頼朝とか平清盛とかがいた時代にまつわる"歴史書"まで、破っちまってんだよ……」
数年前までは『いい国作ろう鎌倉幕府』と覚えられていたが、歴史と子どもを愛してやまない、美術部所属の同級生——汐月千敬の弁によれば、近年の教科書だと『いい箱作ろう鎌倉幕府』と云うらしい。
とにもかくにも、"源氏"と"平氏"が最後に衝突した『檀ノ浦の戦い』に関連するものを含め、じいさんが集め、整え、綺麗に保管していた貴重な書物たちを、あろうことかこの若紫は、「"源氏"と記されているから」という理由で、悉く紙屑にしてしまったわけだ。
……そして恐らく、若紫のいう『あの日』とは、じいさんが激昂し、破れまくった本を抱えてきた日——つまり、じいさんの命日の『前日』のことであろう。
「じじ様の、命を奪いしわちしの所業。……みさとはとうに、勘付いてしまっておるのじゃろう?」
数分前、答えをついぞ導き出せず、強い口調で言葉を放った若紫は、いまや震えた声でおれに問いを放ってきていた。
「……まぁ、な」
——つまるところ、"座敷わらし"として現世に定着していた若紫が、意図するところになかったとはいえ、『あの日』、蔵のなかから本の世界へ"出てしまった"ことが原因なのだ。
「————みさとはわちしを、責めぬのか……?」
元来"座敷わらし"というものは、その家に居座り続ける限りは安寧をもたらし、去られれば一気にその家は衰退の一途を辿らざるをえなくなる——そんな存在。
「責めるわけないだろ、莫迦紫」
————けれど現在の若紫は、"源氏物語"の世界の住人ではない。
源氏物語に、梏られる存在ではない。
それになにより————。
「もうお前は、"座敷わらし"なんかじゃない。おれの"料理の弟子"にして、ついでに、おれなんかに想いを認め慕ってくれる可愛い"恋人"——いうなれば、一人の"乙女"だ」
「そんなやつを"人殺し"なんて呼ぶかってんだよ。」と添えようとした矢先、おれの懐に若紫が飛び込んできた。
「ありがたう……、ありがたう……。わちしの想ひが伝わることの、なんと喜ばしきことか……っ。」
おれの胸元に顔面を擦りつけ、ほろほろと湧き出る雫を、止めることなく、若紫は、思いのままに泣きじゃくる。
「よく——、耐えてきたな。若紫が独りで背負うには、重かっただろう、苦しかっただろう、寂しかっただろう——。でも、もうお前は独りじゃないんだ。隣には、いつもおれがいる。お前が一人で背負い込んできたものは、これからは、二人で分かち合おう————」
おれの言葉を聴いた若紫は、「あぁ……、あぁ……」と言葉にならない声を漏らし、おれの冬着にしがみつき、また深く、頭をそこに埋めるのだった。
————若紫は、ひとしきり泣き尽くしたあと、そのままおれの膝を枕にし、浅い寝息を溢し始める。
(こんな小さな背中に、おれの知らない、幾つもの重荷を背負っていたんだな……。おやすみ、若紫)
*****
おれの袂まで、摺り寄ってきた彼女の足には、しばらく履き替えられず、萌黄に寄った色になってしまった足袋だけが装われている。
この時期に足を纏うものがそれだけでは、些か以上に冷えてしまうだろうに……。
せっかく恋人になったんだ。若紫には、なおさら風邪なんて引かせられない。
「世話が焼けるのは相変わらずだけど、若紫の冬物の洋服くらいは、この際調達しておくか……」
すやすやと眠る若紫を眺めながら、おれは、自分の口から溢れ落ちたいまの"独り言"に、どれだけ配慮の要素が孕まれているか、夢想に耽る。しかし配慮以前に、衣類方面の知識やセンスに疎すぎて、結局、まともな解には辿り着けなかった。
……いや、分かってる。
子ども服に関して、特異なほどに得意な同級生を、おれは一人だけ知っている。
「神之輝さんとか岬崎さんとかに、勘違いされないようにしないとな」
今回おれは、おれと同じ片瀬川高専に通う同級生の異性に、突拍子もなく、「子ども向けの洋服を一緒に選んでほしい。」と頼み込むのだ。
(————まぁ、手作りクッキーでも作って、雑談混じりに話を切り出せばいいか)
/////
だが、翌日の昼休みの学校にて、おれの意図とは裏腹に、凝りに凝った抹茶チョコクッキー——占めて四十枚——のほとんどは、神之輝さんに連れて来られた原田湧綺さんの腹に納められた。
原田さんとおれは初対面だったが、同じクラスの神之輝さん曰く、家が貧しく、小学生の頃には、唯一の肉親である父親と公園で暮らしていたこともあるらしい。そしてチョコレートには目がなく、なんでも、そのホームレス生活をしていた頃に食べたチョコバナナが印象に残ってるからだとかなんとか……。
しかし、サクサクと軽快な音を鳴らし、
「ミキちゃん、これ美味しいよ~」
と、両の掌を、落ちかけている頬に添え、何度もその言葉を呟きながら食べてくれる原田さんの姿は、作った身としては、見ていて和むものだったし、若紫がもう少し年を重ねれば、似たような光景を毎日見ることになるのかもしれないと、微笑ましい未来を想像していた。
……ただ、肝心要の頼み込む異性——汐月千敬だけは、教室でクッキーの入った包み紙を広げた直後は、機嫌があまりよろしくない様子だった。だが、それを口に含んだ瞬間に、眉間の皺はあっという間に解けていった。
「ボクがいくら頼んでも作ってくれなかったくせにぃ」
などと本人はぼやいていたが、そんな愚痴を溢されても、無理もない話だ。
なんせ、おれがホワイトデーにクッキーを作らなくなった原因は、言うまでもなく、この千敬の言動によるところなのだから。
六年もの間、バレンタインデーにチョコを渡してきては、
「みさと君の手料理、ボクのホームページで紹介したいから、来月のお返し、楽しみにしてるね~!」
なんてことを悪びれることもなく言ってきていたのだ。
おれの恥ずかしさも心持ちも、少しは考えてくれ。……というかそもそも、おれの料理は客寄せパンダじゃない。
——まさか小学校から現在まで、続けて同じ学校の同じクラスになるとは思っていなかった、いわゆる"腐れ縁"というやつである——。
「————ねぇねぇ、みさと君?」
おれの方から声を掛けようと思っていたが、予想に反して千敬の方から話しかけてきた。
「なんだよ……。てか下の名前で呼ぶなって、何回言えばわかるんだよお前は……」
「あっはは~、ごめんよ」
返されるのは、相変わらず、反省の色がまるで感じ取れない謝罪文句。
おれは別に、そんな千敬を"許している"わけではなく、ただ距離を置くことの方が面倒で、"諦めている"だけだ。
「……それで? 用はなに?」
「いつにも増して素っ気ない返事だなぁ~もう。君のこと嫌いになっちゃうよ?」
「最初から好きだったみたいな言い回しをするんじゃない」
「え? けっこうボクは君のこと昔から好きなんだけど」なんて台詞を表情一つ変えずに言い放つことができるのは、これはこれである意味天才的なのかもしれない。
「まぁそれは置いといて~。ねね! なんで今年に限ってクッキー作ってきちゃったわけっ?」
こ、こいつ……、手料理といい話題といい、おれのことに対してだけ食いつきすぎだ。
「千敬のバレンタインチョコを断ったから」
「またまた~」
おれが数秒黙っていると、「……え、ホントにそうなの?」と、茶化しまくっていた声音から一変して、気まずそうに訊いてきた。
————まぁ、神之輝さんも岬崎さんも原田さんもクッキーに夢中だし、こっちの話が耳に届くことはないだろう————。
「いいや、全然違う。むしろ、千敬に折り入って頼みごとをしたいがためだけに作ってきたんだよ」
「え?! なにそれ超VIP待遇じゃん!!」
……本当のことを暴露するために消費したおれの緊張感を返せ。
「はしゃぎすぎだ……。"折り入って"って言ってんだろうが」
「あぁ、そうだった。……あはは、すまないね」
千敬の場合、謝る言葉に「すまない」と入っているときは、笑っていようと、本気で悪びれているときなのだ。——さすがにこういう言葉の癖は、長年同じ教室の空気を吸っていれば、勝手にわかるようになってしまう。
「じゃあ、ボクになんの用?」
ほんの少し、声の張りを抑えて千敬は問う。
「——実は、女の子用の子ども服が欲しいんだが、思ったよりチョイスが難しくてな……」
「え、なに、三木君、まさかロリに目覚めちゃったの? いま目の前に天然ものの"ボクっ娘"がいるにも関わらず————————痛っ」
ほとんど反射的に、おれの手刀は千敬の額めがけ振り下ろされていた。
「じょ、冗談だって。けど、なんだって子ども服なんて欲しがるの?」
「……いまはまだ言えない。と、とにかく、小学生くらいの背丈で、桃色とも紫ともとれる和服が似合う女の子にあてがう洋服を教えてくれ」
頭を下げて懇願する姿に、並々ならぬ本気の度合いが伝わったのか、千敬は短く嘆息を挟み、「わかったから、頭を上げてよ」と声を返してきた。
「ま、要するに? 三木君は読書のしすぎで、ファンタジー小説にしか登場しないような女の子の洋服を是が非でも手に入れておきたいわけだね! この汐月千敬、その件、しかと承知した————」
「————ちょっと神之輝さんに頼んでくるわ」
席を立つおれの耳に千敬の声が飛んできた。——闇雲におれの袖口の裾を引っ張る癖だけは、いい加減なんとかしてくれ。
「待て待て待てーぃ! ボクいま『承知した』って言ったよね?! いやいやほら、そうだとでも思っておかないと、ボクだって、正気の沙汰じゃないことに付き合わされるわけじゃんか……っ!」
「……珍しく一理あること言いやがって。————じゃあそれに、今日の配ったクッキーのレシピを付けたら?」
「ボクでよければ、全力を以て、取り組ませていただきまする」
……さすがは千敬。
"純朴"という名の"単細胞"なだけはある。
///
その後、若紫にバレないように、午後の授業を早退し、千敬と一緒に、近くのショッピングモールまで各々の自転車に乗り、赴いた。
正直なところ、千敬がいてくれたことで、服を選ぶ時間に余裕を持たせることができた。
——いや、余裕がありすぎて、画材調達なんてものにも付き合わされ、挙げ句荷物持ちにされたのだから、良くも悪くも"持ちつ持たれつ"の買い物になった。
ショッピングモールからの帰路にて、
「ボクたち、デートしてるって思われてたんじゃない?」
などと、千敬は冗談めかしていたものの、突発的に口にされた。
「子ども服売り場と画材専門店にしか行ってないだろうが……。どんなにがんばっても、"相方の趣味に付き合わされて若干げんなりしてる幼馴染の二人組"ってくらいにしか映らねぇよ。それに——————ッ」
「ん? それに?」
「いや、なんでもない」
————危なかった。「恋人の枠には困っていない」なんて言ったら……、こいつがどんな行動をとるか知れたもんじゃない。
「そっかそっか。まぁでも、ボクだってこれでも一応は"女の子"だからね。そういうことも、少しくらい、意識してくれてもいいんだよ?」
「……————『多元宇宙論』に等しい次元の話を持ち出すな。千敬は千敬らしく、コンピュータの英数字高速処理でもやっとけ。……おれとしちゃ、お前がやってることの方が、謎めいた芸当に見えるんだからさ」
そう————、千敬は性格こそこんなやつだが、パソコンに向かっているときの並外れた技量は、同じクラスの眉目秀麗、才色兼備の天才美少女——神之輝ミキすら優に超えており、企業から直々に打診が来るほどのプログラミングの達人なのである。
「あっはは、それもそうだね~。でーも機械はいいよ? 嘘つかないし。今日買った画材なんかと一緒だよ。ボクが触った分だけを、ただ忠実に表現してくれる」
そういう問題なんですか。
「文系のみさと君には分かんない世界かもね」
——まぁ単純な性格を持ち合わせている千敬らしいといえば千敬らしいか。……それよりも————、
「……千敬。またおれを名前で呼んだら、お前のことを汐月って呼ぶか、この重すぎる画材を全部自転車から突き落とすかするから、どっちがいいかいまのうちに決めとけよ?」
————こいつは、他人から名字で呼ばれることに対して、凄まじい嫌悪感を抱いている。"しおづき"だの"せきづき"だの、読み方のバリエーションが多すぎて、入学式や卒業式ですらも、往々にして「しおづき」と呼ばれてしまっている。——ほぼおれと同じコンプレックスを抱えてるんだから、そろそろ察してくれ。
「すみませんでしたぁ……!! お、お詫びはなにをしたらよろしくて……?」
「————おれからレシピを訊き出さないこと」
「なにそれ小狡い! 小賢しい!」
「おれのことを指すなら"狡猾"って言え。実際、千敬は乗っちまっただろ? おれの、"巧妙にして狡猾な策"に」
口角を上げ、しめしめと言わんばかりに嗤ってやった。
「ぐぬぬ……っ、この策士め。————あ、そろそろ別れ道だね」
雑談を繰り広げている間にも歩は進み、千敬の家と若紫の待つ家への道を分ける交差点が見えてきた。
「おう、今日は世話になったな。ありがとう。千敬がいてくれて助かった」
心からの感謝の言葉を贈ったつもりだが、千敬は数拍間を空け、「そ、それならよかった。」と借りてきた猫のように、先ほどまでの言葉の勢いを失わせていた。
「じゃあ、またね」
と珍しくおれから切り出し、おれはそそくさと若紫への手土産を自転車のかごに乗せ、彼女の家に向け、ペダルを漕ぎ進めるのだった。
/////
本当は、「いまはまだ言えない」って言ってくれた君の言葉に、今日のボクは突き動かされていただけだったんだよ……?
「『じゃあ、またね』 ……そのひとことが 心刺す 片恋ゆえの 別れのことば」
ってところなんだけど、やっぱり彼には伝わらないよね。
苦手な文系科目でも、君と話すためなら、がんばって覚えちゃうくらいの————、ボクのこの気持ちはさ。
*****
「おーい、若紫ー。帰ったぞー」
みさとの聲が家の外から届いただけで、胸躍らせるわちしはやはり、みさとのことを心底慕っておるらしい。
————されど、もう苦しまなくていい。
みさとはわちしを受け入れて、また"恋人"として認めると、昨日誓ってくれたのじゃから————。
「足摺りて、たな知らぬもの、頬張るも、ころもまとうて、食えど飽かぬも————。おかえり我が君! 三木みさと」
屋敷の廊下を足摺りながら、「ひょう、ひょら、ひょう、ひょ。」と駆けるわちしは、いと待ちわびた想ひ人への、かやうな"詩"と犒ひの"ことほぎ"を、詠い、また紡ぐのじゃった。
今日の夕餉に並ぶ飯なるは、はてさて、どんなものであろうぞ————。
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