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第三首 ホワイトデー
-肆の句- みなづき。
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その日のあけぼの、わちしがいつものように眠りから目を覚ますと、まだ目は微睡みの内にありながら、目を疑う光景が広がっていた。
わちしの眠り慣れた寝床、居慣れた部屋、住み慣れた屋敷、その全てがなくなっていたのだ。
代わりに、ひんやりとした石床が寝床となり、その上にわちしは寝そべっていたらしい。
体を起こすと、見渡す限り延々と立ち並ぶ大きな木細工と、それに詰め込まれた”綴られた紙の束”の群が、目覚めたばかりのわちしをただただ見下ろしていた。
「どこじゃ……、此処は……。」
理解など、できるはずもなかった。この奇々怪々な出来事は、學の問題でどうにかできる代物ではないのだから。
「わちしは……、陰陽師か山伏かにでも、弄ばれてしまっておるのか……?」
この手の事象にはあのような者たちが絡んでいる、とでも考えなければ、到底説明がつかぬ。
石畳の上に置かれた巨大な木細工に挟まれながらも周囲を見渡していると、陽の光を零す戸がわちしの視界に入ってきた。
「あそこを開ければ、外に出られる。夢幻の如き、異様極まるこの事態、少しは理解することも、叶うやもしれぬ……っ。」
一目散に扉のもとへ向かい、その勢いを殺すことなく戸に体をぶつけ、陽の目を浴びた。
だが、先の考えは、浅慮以外のなにものでもなかった。
外に出たわちしを待っていたのは、昨日と同じ空を仰ぐだけの、見慣れぬ景色と、見知らぬ屋敷。そしてわちしの後ろには、大きな石蔵らしきもの。
つまり、わちしはこんなところで眠りこけておったということか……!?
「なん、なのじゃ……、これは……。」
まとまらぬ考えは頭に熱を持たせ、ついにはわちしの声を荒げさせた。
「何処から視ておる!陰陽極め、さりとて堕ちし、狼藉者は……ッ!!」
しかし、どんなに吼えても、返ってくるのは山彦だけ。幾度高らかに声を張り上げようと、やはりわちし以外の声が聴こえてくることはなかった。
ふと屋敷に目線を移すと、僧と思える見てくれの老いた一人の男が、屋敷の縁側から、まるでおどろおどろしいものを垣間見るかのように、わちしの方へじっと視線を送っていた。
両の眸に捉えたわちしは、その男を眼光を以て射抜き、あとはただただ怒鳴り散らした。
「……貴様か。貴様、なのであろう……っ! この、わけの分からぬ、物の怪の仕業の如き出鱈目を、招き起こした痴れ者は!!」
鋭い声音に男は更に臆する仕草を見せたものの、男からわちしに向け放たれた言葉は、わちしの予想と相反するものだった。
「ち、違う! ワシは断じてそのようなことはしておらん!」
「信じてくれぃ」と、この石蔵からはやや距離のある屋敷の縁側で、頭を垂れる老人の姿に、わちしの方が呆気にとられた。
簡素な作務衣を羽織る様は僧侶そのものであったが、念を唱えるわけでもなく、ただ赦しを乞い、誤解を解くためだけにおいそれと頭を下げる僧など見たこともない。
妖術を仕掛けるわけでもなく、ただひたすらに木の床に頭を擦り付ける年老いた謎の男に、わちしも唖然としてしまっているうち、朝日は次第に蒼い空の天井めがけ、着実に昇り始めていた。
長い沈黙を破ったのは、わちしの口から出た言葉であった。
「…………もう、よい。わちしも大人げがなかった。面を上げよ、そこな翁。」
大人げがないと言ってはいるものの、わちしの年の頃はまだ十を過ぎて間もない。……些か分不相応な言葉を遣ってしまっているが、それほどまでに、わちしには悉く余裕がなかった。
「お主、名はなんと云う?どこの家の者じゃ?」
恐らくこの男は常人であり、わちしに害為す輩でもなかろう。……しかし、この現象について知っていることを、洗いざらい吐かせてしまわなければ、ここまでの混乱を招いた報いとして割りに合わぬ。
「わ、ワシは、三城……、三城幹彦という者じゃ。どこの家という言葉の意味は分かりかねるが、この屋敷はワシの家だ……。お、お前さんこそ、どこのどいつじゃ……? 子どもだてらに、妙にしっかりした十二単などで着飾りおって。七五三の時期でもないからなぁ。」
記憶を掘り返しているのか、老人は頭を掻き始める。
「わちしの名は若紫じゃ。この程度の衣は着慣れておる。」
答えを耳にしたにも関わらず、口を半開きにし、呆ける翁。
「……近所で仮装の催し物でもあったか?そういうことは、いの一番にみさとが教えてくれるはずなんじゃが。」
ん……?信じておらぬのか?
というか、”かそう”とはなんのことじゃ?
”みさと”なるは、人の名であるのじゃろうか?
……恐らく人の名で間違いないのだろうが、初めて聴く言葉ばかりじゃ。
しかし、わちしにも名乗らせておきながら、この翁は、わちしの答えに疑念を抱くというのか。
「わちしは、嘘偽りは申しておらぬ。”みさと”という名の者が如何なやつか、わちしの知るところではないのだが、お主とわちしとでは、話もまともにできそうにない……。」
落胆のあまり、肩を落とし深く溜め息を吐く。
「な、なぁおい、若紫とやら。」
「……なんじゃ?」
「ワシはこれから朝飯を食うつもりなんだが、お前さんも一緒にどうじゃ? みさとのやつ、今朝の飯の下拵えも昨晩済ませてくれておるんだが、肝心のワシが夕餉を半端に残してしまっておってのぉ……。このまま朝餉に手をつけていいものかどうか、いましがたちょうど困っていたところなんじゃ。」
”朝餉”という言葉に、わちしの意思とは関係なく、腹の虫が嘶きおる……。
「……はぁ、そのような事情ならば仕方がない。わちしもお主と、飯の席を同じくしてやる。」
「飯に毒なんぞが混ぜられておらぬことだけは祈っておこう。」と付け足したわちしに、
「生意気な小娘もいたもんじゃ。」
などと小さく言葉を漏らす翁。
「『人に食わせる料理に毒を混ぜろ。』なんてこと、可愛い孫に言い聴かせるわけがないじゃろうよ……。いいから、とっととこっちに来い。米もそろそろ炊き上がる頃合いじゃ。」
————確かに、そんなことを教える翁なんぞ、手に負えないにもほどがある。……というか、”みさと”と称される人間は、この者の孫にあたるのか。わちしを飯に誘う翁の血縁者であるならば、その”みさと”なる者もまた、少しは信を置いてもよい類いの者であろう。
急に大仰な口調で言葉を放った老人の態度に、わちしも少しばかり眉間に皺が寄ってしまうが、わちしとて腹拵えはしておかなければなるまいな。かの招きにわざわざ背を向けるわけにもいかぬか……。
やれやれ……、これぞまさに、『背に腹は代えられぬ』というものなのであろう。「いま行く」と生返事を翁に送り、わちしは屋敷へと歩を進めた。
屋敷に着き、床の間に案内されてからも、やはり見慣れぬものばかりが眼前に並んでいる。至るところに、漢字と片仮名が記された代物が見受けられるものの、しかし解せる言葉は何一つなく、わちしの目には、それらはただの『文字の羅列』としか写らなかった。
床の間で待つよう促されたことで、わちしはそこの畳の上で、石蔵で目覚めたとき以来、初めて己が足を崩せたのだった。
水屋と思しきところから、平皿と茶碗が乗った盆に両の手を塞がれながら、彼の翁は姿を見せた。
白い湯気を漂わせ、決して大きくはないただの平皿の上に在りながら、食欲そそる甘美な馨を纏わせる、黄の彩に染められた巻物のような逸品……。他にも、狐色に全体を覆われた、香ばしくもくしゃみを誘う焼きものと思しき代物が、皿からはみ出らんばかりに、巻物と同じ器に盛られている。
わちしの鼻を無遠慮に擽るそれらが乗った一枚の皿は、わちしの座す卓袱台の上に置かれた。
……されど、犇めくやうに飾り盛られる二つのそれらは、やはりわちしは一度たりとも見たことすらないものだった。涎が湧き出てくる辺り、食い物であることに違いはないのだろうが……。
「お主、これらは……、一体なんじゃ? 茶碗に盛られた白飯しか、この若紫は知り仰せぬぞ。」
わちしの質問は、翁に明らかな困り顔を浮かべさせ、彼との間に一拍と呼べる間が空いた。しかしその一拍の内に、翁は近くに掛けられた暦に目を移し、わちしに向かい答えを寄越す。
「だし巻き玉子と、とり肉のソテーらしい。」
あぁ、あの暦には献立が記してあったのか。この翁の孫は大層几帳面な性分なのだろう。
…………と、しばし待て。
思い至った瞬間、薫りに惑わされ、あまつさえ蕩けかけさせられていたわちしの頭は、完全に一時停止を余儀なくされた。
「わ、わちしの聴き間違いではないと思うのじゃが……、念のため、いま一度確認させよ。お主、いま、この焼き物の塊を、”とりの肉”と宣ったのか……?」
「あ、あぁ、そうじゃが……?」と呆ける翁に、更に唖然とさせられてしまう。
わちしは、三が日の歯固以外で、とりの肉を食することなどほとんどない。
そこらの民草とは格が違う、わちしらの如き"気品"にこそ重きを置く者であるが故、なおのこと、仏の教えを殊更に仰ぐ者として、簡単に口にすることは赦されていないのだ。
それを事も無げに、この三城幹彦なる男は、食卓に並べ、これを昨日半端に余らせた残り物と云う——。
「そのやうな野蛮極まる肉なんぞ、この若紫が食えたものか……!」
一文なしで出された飯に文句を垂れるは無礼の極みと知りつつも、つい、強い声音で言い放ってしまった。
「なんじゃ……、また小生意気なことを言いおる。肉が好かんのならそいつはワシが食うわ。お前さんは……、そうじゃな、神棚に供えておる"水無月"でも食っておれ。」
床の間を見渡すと、縁側の方の柱……、それも、わちしが精一杯背伸びしたところで到底指先すら掠りそうもないほど高い位置に、小さな社が据えられている。
「……わちしの手が、あそこが届くと思うてか?あまりに高過ぎて、"みなづき"の影も見えぬぞ。」
翁改め三城幹彦は、深い嘆息を溢し、
「やれやれ全く、世話のかかる小娘じゃ……。——そこで少し待っておれ。トモリの仏壇にも"みなづき"を供えておるからの、そいつを持ってきてやる。」
そう、わちしに返した。
その言葉を寄越した彼は、直ぐ様床の間にある戸の一枚を開け広げた。
そして、戸の先にあった仏間に赴くなり、足を整え、手を合わせ、「すまんな……トモリ」と仏様に向け言葉を囁き、また静かに掌を擦り合わせ、仏壇から、餅につぶ餡の乗った菓子"みなづき"を持ってくるのだった。
わちしはこの翁が抱えし暗き過去を、仏様へと向ける彼の視線と表情から垣間見た気がした。
「——……幹彦とやら。訊いても良いか逡巡したのじゃが、訊かせてたも。……お主、娘か孫か、亡くしておるのか?」
今日、初めて顔を合わせたばかりの者には、些か以上に不躾で、踏み行ったことを訊いてしまったが、一度口から出した言葉は、二度と元の処に帰ることはない————。
故にわちしは、自身の行いや発言を"悔いること"こそせぬが、小指の先ほどであろうと"省みること"は一切怠らぬ。
されど、どちらにしろ————。
わちしは、『人の気も知れぬ愚か者』では在りたくなかった——とどのつまり、それだけだったのじゃ。
「——若紫……と言ったかの。お前さんの言う通り、ワシは、一人の孫を喪っておる。」
「見かけによらず聡い娘じゃ。」と続ける翁の瞳は、頬を刻みし皺に沿う故、一閃の如く滑り落ちることのない雫を浅く認め、その面貌は遠き日を思い浮かべているやうだった。
「ワシには、孫が二人おった。一人は、三城家の本家筋にあたる"三木家"の三木みさと。もう一人は、三城家の分家筋にあたる"星灯家"のいまは亡き星灯トモリ。分家に嫁入りしたワシの娘は、自分の命と引き替えにしてトモリを産んだ。トモリも、お前さんと同じで賢い娘でのぉ、本家と分家という古くさい敷居をものともせず、『おじいちゃん』とワシを呼んで、懐いてくれておった。しかしな……、立派な大学に通うため、娘婿と継母の反対を押し切り、都会で暮らし始めた。——そして一昨年の冬、不慮の事故で、ワシより先に、独り、あの世へ逝ってしまったんじゃよ……。」
長話をした幹彦は、小さくため息を吐いた。
わちしは、長話をさせたことに少なからず負い目を覚えつつ、思いの丈を聲に換え、紡ぐ。……——もう、眼前の翁には、浮かべることすらままならぬ、あの"一閃"を、己が頬に刻みながら————。
「……————そんなことがあったのか。本家と分家からなるしがらみ、実母を亡くす心の痛みは、この若紫にも覚えがある。故に、トモリとやらの心中を、察することも適うというもの……。」
「子どもとはいえ、会ったこともない孫にそこまで情を寄せてもらえるとは、ありがたい話じゃのぉ。」
未だ二年ほどしか経っておらぬ、哀しき過去を語ろうと、こうも穏やかに微笑む翁に、わちしは、底知れぬ心の器の深さを感じた。この三城幹彦なる者は、僧侶でこそないが、徳の高さは、人一倍に兼ね備えている貴き御人なのであろう。
わちしは一つ、少しばかり気になっていたことについて、彼に尋ねた。
「……それならば、神棚のみに留まらず、仏の前にも"みなづき"が供えられておることも、その星灯トモリに纏す理由があるのかえ?」
ほぼ間を空けることなく、わちしの問いに彼は答える。
「あぁ……、甘い餅がトモリの好物でのぉ、ワシと一緒によく食べておった。トモリが特に気に入っておったのは餡蜜入りのミツ餅なのじゃが、これが早々手に入るものではなくてな、墓参りにはミツ餅を持って行くのじゃが、ここの仏壇に供えるのは"水無月"で勘弁してもらっておる。」
「尤も、分家の仏壇が本家にあるなんてこと自体、既にきてれつな話ではあるのだがな……。」——そう、熟孫思いの翁は、淡い笑みを溢しながら言葉を重ねるのだった。
「三城幹彦殿。そなたの手にある"みなづき"は、どうかそなたの孫娘、トモリの仏前に戻してたも?わちしより、トモリが求むるものであろうよ————。」
そして、彼の在り方に心打たれたわちしは、更に、わちし自身の言葉を紡ぎ加える。
「——此よりわちしは、そなたのことを、じじ様と呼ばせていただくこととする。出された飯も残さず食べる。じじ様の如き、徳の高き者になるるのならば、その飯は、"毒"あらず"薬"なのであろうぞ。……未だ説明できぬ、事態の末に在るのだが、じじ様と巡り逢った天の気紛れは、いと僥倖と呼べるものなりて————。」
その後、「若紫自身が、この世の人間から、気味悪がられ煙たがられ、忌み嫌われて、傷つくことのないように。」との理由で、最初にわちしが姿を顕したあの蔵に籠っておくやう、じじ様から言い渡された。
そもそもあの蔵に詰め込まれていた"綴られた紙の束"は、全て"書物"だったらしく、知らぬ言葉や知識は、自ら本を開くことで、粗方のことは補完した。
蔵に籠るよう促したじじ様の心配の種には、"座敷わらし"なる存在の言い伝えが深く関わっていることも、あらゆる書物を読んでいるうちに知っていった。
——それからというもの、わちしは、"座敷わらし"としても、じじ様から仰せつかったことを守り通し、じじ様が時折書庫蔵に持ってくる美味い飯を楽しみにしつつ、蔵のなかの書物をとことん読み漁った。
さう————。
わちしが、わちし自身のことを識り、あんなことをしでかす、『あの日』までは————。
————第参首 -結の句- ニ續ク。
わちしの眠り慣れた寝床、居慣れた部屋、住み慣れた屋敷、その全てがなくなっていたのだ。
代わりに、ひんやりとした石床が寝床となり、その上にわちしは寝そべっていたらしい。
体を起こすと、見渡す限り延々と立ち並ぶ大きな木細工と、それに詰め込まれた”綴られた紙の束”の群が、目覚めたばかりのわちしをただただ見下ろしていた。
「どこじゃ……、此処は……。」
理解など、できるはずもなかった。この奇々怪々な出来事は、學の問題でどうにかできる代物ではないのだから。
「わちしは……、陰陽師か山伏かにでも、弄ばれてしまっておるのか……?」
この手の事象にはあのような者たちが絡んでいる、とでも考えなければ、到底説明がつかぬ。
石畳の上に置かれた巨大な木細工に挟まれながらも周囲を見渡していると、陽の光を零す戸がわちしの視界に入ってきた。
「あそこを開ければ、外に出られる。夢幻の如き、異様極まるこの事態、少しは理解することも、叶うやもしれぬ……っ。」
一目散に扉のもとへ向かい、その勢いを殺すことなく戸に体をぶつけ、陽の目を浴びた。
だが、先の考えは、浅慮以外のなにものでもなかった。
外に出たわちしを待っていたのは、昨日と同じ空を仰ぐだけの、見慣れぬ景色と、見知らぬ屋敷。そしてわちしの後ろには、大きな石蔵らしきもの。
つまり、わちしはこんなところで眠りこけておったということか……!?
「なん、なのじゃ……、これは……。」
まとまらぬ考えは頭に熱を持たせ、ついにはわちしの声を荒げさせた。
「何処から視ておる!陰陽極め、さりとて堕ちし、狼藉者は……ッ!!」
しかし、どんなに吼えても、返ってくるのは山彦だけ。幾度高らかに声を張り上げようと、やはりわちし以外の声が聴こえてくることはなかった。
ふと屋敷に目線を移すと、僧と思える見てくれの老いた一人の男が、屋敷の縁側から、まるでおどろおどろしいものを垣間見るかのように、わちしの方へじっと視線を送っていた。
両の眸に捉えたわちしは、その男を眼光を以て射抜き、あとはただただ怒鳴り散らした。
「……貴様か。貴様、なのであろう……っ! この、わけの分からぬ、物の怪の仕業の如き出鱈目を、招き起こした痴れ者は!!」
鋭い声音に男は更に臆する仕草を見せたものの、男からわちしに向け放たれた言葉は、わちしの予想と相反するものだった。
「ち、違う! ワシは断じてそのようなことはしておらん!」
「信じてくれぃ」と、この石蔵からはやや距離のある屋敷の縁側で、頭を垂れる老人の姿に、わちしの方が呆気にとられた。
簡素な作務衣を羽織る様は僧侶そのものであったが、念を唱えるわけでもなく、ただ赦しを乞い、誤解を解くためだけにおいそれと頭を下げる僧など見たこともない。
妖術を仕掛けるわけでもなく、ただひたすらに木の床に頭を擦り付ける年老いた謎の男に、わちしも唖然としてしまっているうち、朝日は次第に蒼い空の天井めがけ、着実に昇り始めていた。
長い沈黙を破ったのは、わちしの口から出た言葉であった。
「…………もう、よい。わちしも大人げがなかった。面を上げよ、そこな翁。」
大人げがないと言ってはいるものの、わちしの年の頃はまだ十を過ぎて間もない。……些か分不相応な言葉を遣ってしまっているが、それほどまでに、わちしには悉く余裕がなかった。
「お主、名はなんと云う?どこの家の者じゃ?」
恐らくこの男は常人であり、わちしに害為す輩でもなかろう。……しかし、この現象について知っていることを、洗いざらい吐かせてしまわなければ、ここまでの混乱を招いた報いとして割りに合わぬ。
「わ、ワシは、三城……、三城幹彦という者じゃ。どこの家という言葉の意味は分かりかねるが、この屋敷はワシの家だ……。お、お前さんこそ、どこのどいつじゃ……? 子どもだてらに、妙にしっかりした十二単などで着飾りおって。七五三の時期でもないからなぁ。」
記憶を掘り返しているのか、老人は頭を掻き始める。
「わちしの名は若紫じゃ。この程度の衣は着慣れておる。」
答えを耳にしたにも関わらず、口を半開きにし、呆ける翁。
「……近所で仮装の催し物でもあったか?そういうことは、いの一番にみさとが教えてくれるはずなんじゃが。」
ん……?信じておらぬのか?
というか、”かそう”とはなんのことじゃ?
”みさと”なるは、人の名であるのじゃろうか?
……恐らく人の名で間違いないのだろうが、初めて聴く言葉ばかりじゃ。
しかし、わちしにも名乗らせておきながら、この翁は、わちしの答えに疑念を抱くというのか。
「わちしは、嘘偽りは申しておらぬ。”みさと”という名の者が如何なやつか、わちしの知るところではないのだが、お主とわちしとでは、話もまともにできそうにない……。」
落胆のあまり、肩を落とし深く溜め息を吐く。
「な、なぁおい、若紫とやら。」
「……なんじゃ?」
「ワシはこれから朝飯を食うつもりなんだが、お前さんも一緒にどうじゃ? みさとのやつ、今朝の飯の下拵えも昨晩済ませてくれておるんだが、肝心のワシが夕餉を半端に残してしまっておってのぉ……。このまま朝餉に手をつけていいものかどうか、いましがたちょうど困っていたところなんじゃ。」
”朝餉”という言葉に、わちしの意思とは関係なく、腹の虫が嘶きおる……。
「……はぁ、そのような事情ならば仕方がない。わちしもお主と、飯の席を同じくしてやる。」
「飯に毒なんぞが混ぜられておらぬことだけは祈っておこう。」と付け足したわちしに、
「生意気な小娘もいたもんじゃ。」
などと小さく言葉を漏らす翁。
「『人に食わせる料理に毒を混ぜろ。』なんてこと、可愛い孫に言い聴かせるわけがないじゃろうよ……。いいから、とっととこっちに来い。米もそろそろ炊き上がる頃合いじゃ。」
————確かに、そんなことを教える翁なんぞ、手に負えないにもほどがある。……というか、”みさと”と称される人間は、この者の孫にあたるのか。わちしを飯に誘う翁の血縁者であるならば、その”みさと”なる者もまた、少しは信を置いてもよい類いの者であろう。
急に大仰な口調で言葉を放った老人の態度に、わちしも少しばかり眉間に皺が寄ってしまうが、わちしとて腹拵えはしておかなければなるまいな。かの招きにわざわざ背を向けるわけにもいかぬか……。
やれやれ……、これぞまさに、『背に腹は代えられぬ』というものなのであろう。「いま行く」と生返事を翁に送り、わちしは屋敷へと歩を進めた。
屋敷に着き、床の間に案内されてからも、やはり見慣れぬものばかりが眼前に並んでいる。至るところに、漢字と片仮名が記された代物が見受けられるものの、しかし解せる言葉は何一つなく、わちしの目には、それらはただの『文字の羅列』としか写らなかった。
床の間で待つよう促されたことで、わちしはそこの畳の上で、石蔵で目覚めたとき以来、初めて己が足を崩せたのだった。
水屋と思しきところから、平皿と茶碗が乗った盆に両の手を塞がれながら、彼の翁は姿を見せた。
白い湯気を漂わせ、決して大きくはないただの平皿の上に在りながら、食欲そそる甘美な馨を纏わせる、黄の彩に染められた巻物のような逸品……。他にも、狐色に全体を覆われた、香ばしくもくしゃみを誘う焼きものと思しき代物が、皿からはみ出らんばかりに、巻物と同じ器に盛られている。
わちしの鼻を無遠慮に擽るそれらが乗った一枚の皿は、わちしの座す卓袱台の上に置かれた。
……されど、犇めくやうに飾り盛られる二つのそれらは、やはりわちしは一度たりとも見たことすらないものだった。涎が湧き出てくる辺り、食い物であることに違いはないのだろうが……。
「お主、これらは……、一体なんじゃ? 茶碗に盛られた白飯しか、この若紫は知り仰せぬぞ。」
わちしの質問は、翁に明らかな困り顔を浮かべさせ、彼との間に一拍と呼べる間が空いた。しかしその一拍の内に、翁は近くに掛けられた暦に目を移し、わちしに向かい答えを寄越す。
「だし巻き玉子と、とり肉のソテーらしい。」
あぁ、あの暦には献立が記してあったのか。この翁の孫は大層几帳面な性分なのだろう。
…………と、しばし待て。
思い至った瞬間、薫りに惑わされ、あまつさえ蕩けかけさせられていたわちしの頭は、完全に一時停止を余儀なくされた。
「わ、わちしの聴き間違いではないと思うのじゃが……、念のため、いま一度確認させよ。お主、いま、この焼き物の塊を、”とりの肉”と宣ったのか……?」
「あ、あぁ、そうじゃが……?」と呆ける翁に、更に唖然とさせられてしまう。
わちしは、三が日の歯固以外で、とりの肉を食することなどほとんどない。
そこらの民草とは格が違う、わちしらの如き"気品"にこそ重きを置く者であるが故、なおのこと、仏の教えを殊更に仰ぐ者として、簡単に口にすることは赦されていないのだ。
それを事も無げに、この三城幹彦なる男は、食卓に並べ、これを昨日半端に余らせた残り物と云う——。
「そのやうな野蛮極まる肉なんぞ、この若紫が食えたものか……!」
一文なしで出された飯に文句を垂れるは無礼の極みと知りつつも、つい、強い声音で言い放ってしまった。
「なんじゃ……、また小生意気なことを言いおる。肉が好かんのならそいつはワシが食うわ。お前さんは……、そうじゃな、神棚に供えておる"水無月"でも食っておれ。」
床の間を見渡すと、縁側の方の柱……、それも、わちしが精一杯背伸びしたところで到底指先すら掠りそうもないほど高い位置に、小さな社が据えられている。
「……わちしの手が、あそこが届くと思うてか?あまりに高過ぎて、"みなづき"の影も見えぬぞ。」
翁改め三城幹彦は、深い嘆息を溢し、
「やれやれ全く、世話のかかる小娘じゃ……。——そこで少し待っておれ。トモリの仏壇にも"みなづき"を供えておるからの、そいつを持ってきてやる。」
そう、わちしに返した。
その言葉を寄越した彼は、直ぐ様床の間にある戸の一枚を開け広げた。
そして、戸の先にあった仏間に赴くなり、足を整え、手を合わせ、「すまんな……トモリ」と仏様に向け言葉を囁き、また静かに掌を擦り合わせ、仏壇から、餅につぶ餡の乗った菓子"みなづき"を持ってくるのだった。
わちしはこの翁が抱えし暗き過去を、仏様へと向ける彼の視線と表情から垣間見た気がした。
「——……幹彦とやら。訊いても良いか逡巡したのじゃが、訊かせてたも。……お主、娘か孫か、亡くしておるのか?」
今日、初めて顔を合わせたばかりの者には、些か以上に不躾で、踏み行ったことを訊いてしまったが、一度口から出した言葉は、二度と元の処に帰ることはない————。
故にわちしは、自身の行いや発言を"悔いること"こそせぬが、小指の先ほどであろうと"省みること"は一切怠らぬ。
されど、どちらにしろ————。
わちしは、『人の気も知れぬ愚か者』では在りたくなかった——とどのつまり、それだけだったのじゃ。
「——若紫……と言ったかの。お前さんの言う通り、ワシは、一人の孫を喪っておる。」
「見かけによらず聡い娘じゃ。」と続ける翁の瞳は、頬を刻みし皺に沿う故、一閃の如く滑り落ちることのない雫を浅く認め、その面貌は遠き日を思い浮かべているやうだった。
「ワシには、孫が二人おった。一人は、三城家の本家筋にあたる"三木家"の三木みさと。もう一人は、三城家の分家筋にあたる"星灯家"のいまは亡き星灯トモリ。分家に嫁入りしたワシの娘は、自分の命と引き替えにしてトモリを産んだ。トモリも、お前さんと同じで賢い娘でのぉ、本家と分家という古くさい敷居をものともせず、『おじいちゃん』とワシを呼んで、懐いてくれておった。しかしな……、立派な大学に通うため、娘婿と継母の反対を押し切り、都会で暮らし始めた。——そして一昨年の冬、不慮の事故で、ワシより先に、独り、あの世へ逝ってしまったんじゃよ……。」
長話をした幹彦は、小さくため息を吐いた。
わちしは、長話をさせたことに少なからず負い目を覚えつつ、思いの丈を聲に換え、紡ぐ。……——もう、眼前の翁には、浮かべることすらままならぬ、あの"一閃"を、己が頬に刻みながら————。
「……————そんなことがあったのか。本家と分家からなるしがらみ、実母を亡くす心の痛みは、この若紫にも覚えがある。故に、トモリとやらの心中を、察することも適うというもの……。」
「子どもとはいえ、会ったこともない孫にそこまで情を寄せてもらえるとは、ありがたい話じゃのぉ。」
未だ二年ほどしか経っておらぬ、哀しき過去を語ろうと、こうも穏やかに微笑む翁に、わちしは、底知れぬ心の器の深さを感じた。この三城幹彦なる者は、僧侶でこそないが、徳の高さは、人一倍に兼ね備えている貴き御人なのであろう。
わちしは一つ、少しばかり気になっていたことについて、彼に尋ねた。
「……それならば、神棚のみに留まらず、仏の前にも"みなづき"が供えられておることも、その星灯トモリに纏す理由があるのかえ?」
ほぼ間を空けることなく、わちしの問いに彼は答える。
「あぁ……、甘い餅がトモリの好物でのぉ、ワシと一緒によく食べておった。トモリが特に気に入っておったのは餡蜜入りのミツ餅なのじゃが、これが早々手に入るものではなくてな、墓参りにはミツ餅を持って行くのじゃが、ここの仏壇に供えるのは"水無月"で勘弁してもらっておる。」
「尤も、分家の仏壇が本家にあるなんてこと自体、既にきてれつな話ではあるのだがな……。」——そう、熟孫思いの翁は、淡い笑みを溢しながら言葉を重ねるのだった。
「三城幹彦殿。そなたの手にある"みなづき"は、どうかそなたの孫娘、トモリの仏前に戻してたも?わちしより、トモリが求むるものであろうよ————。」
そして、彼の在り方に心打たれたわちしは、更に、わちし自身の言葉を紡ぎ加える。
「——此よりわちしは、そなたのことを、じじ様と呼ばせていただくこととする。出された飯も残さず食べる。じじ様の如き、徳の高き者になるるのならば、その飯は、"毒"あらず"薬"なのであろうぞ。……未だ説明できぬ、事態の末に在るのだが、じじ様と巡り逢った天の気紛れは、いと僥倖と呼べるものなりて————。」
その後、「若紫自身が、この世の人間から、気味悪がられ煙たがられ、忌み嫌われて、傷つくことのないように。」との理由で、最初にわちしが姿を顕したあの蔵に籠っておくやう、じじ様から言い渡された。
そもそもあの蔵に詰め込まれていた"綴られた紙の束"は、全て"書物"だったらしく、知らぬ言葉や知識は、自ら本を開くことで、粗方のことは補完した。
蔵に籠るよう促したじじ様の心配の種には、"座敷わらし"なる存在の言い伝えが深く関わっていることも、あらゆる書物を読んでいるうちに知っていった。
——それからというもの、わちしは、"座敷わらし"としても、じじ様から仰せつかったことを守り通し、じじ様が時折書庫蔵に持ってくる美味い飯を楽しみにしつつ、蔵のなかの書物をとことん読み漁った。
さう————。
わちしが、わちし自身のことを識り、あんなことをしでかす、『あの日』までは————。
————第参首 -結の句- ニ續ク。
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