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第一首 唐揚げ
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「・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・・・」
隣で現代のおれが読解不可能な短歌を一首詠む着物姿の女児は、先ほど、おれが作った唐揚げを全て頬張り、満面の笑みを見せてくれた。
「おいみさと、わちしの顔に、なにがある。その目わちしを、食わんかのよう。」
いや、そんな目で見ていたつもりはないんだが……。
…………それにしてもこいつ——現代の言葉をある程度覚えてはいるものの、短歌調で話す癖は治らないらしい。
おれの作った飯をあんなに微笑みながら食べてくれたこと自体は、喜ばしい話ではあるのだが、感想が全て短歌というのが些か惜しい。
まぁ間違いなく、高い評価を下してくれているのだろうけれど……。——しっかし、具体的な内容がさっぱりだ。
はぁ、と一つ嘆息を溢し、こんなひとときを送ることになったキッカケを、おれは一人、思い返す————。
///
「————なんだ? これ」
ことの発端は、先週突然死んだじいさんの、蔵の中の書架を眺めていたときだった。明らかに他《ほか》とは違う装丁で、他を圧倒するほどの異彩を放っている一冊の本をおれは見つけた。
——————おれは元々、相当数の本を読む、いわゆる読書家だ。
じいさんが死んで、おれが無類の本好きだということを知っている叔父や叔母が、じいさんの遺した書庫蔵をおれに譲ると申し出てきたのだ。
訊けばどうも、遺書に書いてあったらしい。
以前からこの書庫蔵が気になっていたこともあり、おれはすぐに承諾した。
叔父から蔵の鍵を受け取ったが、そのときの彼の面相は、優しさによって生じた微笑みではなく、安堵の笑みを浮かばせていた。——なぜならその実、この書庫蔵は、素《もと》よりじいさんとおれを除いた親戚全員から気味悪がられていたからだ。
————"座敷わらし"————
そんなものが出ると誰かが言い出し、更にその噂が流れた直後に、じいさんが錠で蔵を鎖すようになったものだから、座敷わらしの噂は確固たるものとなったらしい。
おれがその噂を聴いたのは十三才のときだった。
元々、噂を知るより以前から、自宅で親たちがいがみ合っていることに耐えられず、おれはじいさんの家に入り浸り、よく家事を手伝っていた。しかし時折おれの作った料理を片手に、書庫蔵へと向かうじいさんの姿を目撃していた。
それはなぜか、とじいさんに訊いたこともあったが、幾度問うても、ついぞ教えてくれることはなかった。
ただ、「お前の料理を食べたいと思っている人に、食べてもらうのが一番だ」と、理解に苦しむ返答を寄越すだけだった。
じいさんはおれの料理を食べたくないのか、などと邪推することもあったが、書庫蔵へ赴かないときは、おれの料理を笑って食べてくれていた。
それから少し経ってから、親に「書庫蔵の座敷わらし」の噂を聴かされ、じいさんの家に行くことを暗に止められた。
けれど、大人になってそんな噂を信じるなんて馬鹿げていると、当時のおれは思った。サンタクロースが父さんだってことに、数年前とっくに気付いていたおれは、物語にしか出てこないような〈架空の生き物〉は信じないようになっていた。
おれは、座敷わらしの噂を耳にして以降も、相変わらずじいさんの家に足を運び、家事の手伝いをしていた。そしてその頃には、暇な時間を見つけては、本を手に取り、物語の世界に耽入ることが、おれにとっての幸せなひとときになっていた。
おれがじいさんの家に通うようになった十才の頃から、じいさんはたびたび、おれが暇を持て余しているときに、書庫蔵から数冊の小説を持ってきてくれていた。
内容をハッキリと覚えてはいないが、時代小説からファンタジーものまで、多彩なジャンルの本をじいさんは書庫蔵に収めていた。
そして、その日読んだ物語のことを、じいさんに夕飯どきに聴いてもらうことが、おれは楽しくてしかたがなかった。
じいさんはおれの頼みは大概聴いてくれ、おれの疑問にはいつも美しい答えをくれる。そんなじいさんにおれは随分となついていた。
けれど、書庫蔵関連の話だけは、やはり、尋ねても答えてはくれなかった。
ある日、じいさんの激昂する声が蔵から聴こえたことがあった。じいさんが書庫蔵から戻ると、所々散り散りに破れまくっている本を抱えながらおれを睨み、
「書庫に入ったりしてないだろうな?」
と訊いてきた。そんな覚えのないおれが首を横に振ると、
「そうか……。今日はもう帰っていいぞ。それからこのことは誰にも言うな。」
と、抱えた数冊の本を見つめながらおれに告げた。
————その翌朝、じいさんはポックリと死んだ。死因までは、聴かされなかった。
——……おれと交わしたあの言葉が、じいさんの最期の言葉となった。
あの破れた本は家のどこにも見当たらず、もやもやとした感情を抱きながらじいさんの葬儀を迎え、それが終わったとき、蔵の鍵を手に入れたのだった。
——————じいさんが死んで一週間が経った一昨日、満を持して蔵の錠を解き、古びた木と錆びた金具が軋む音を耳にしながら、その扉を開く。
そこで初めて、おれは書庫蔵へと足を踏み入れた。
ひんやりとした書庫蔵の中は、無数とも思わせる書架がどこまでも立ち並んでおり、端麗にカテゴライズされた多種多様な書籍が、びっしりとその書架の群れを埋め尽くしていた。
しかし、綺麗にカテゴライズされているはずの書架のなかに、一冊だけ、明らかに装丁の違う単行本が挟まっていた。
本のタイトルは、〈源氏物語〉。
なるほど、確かにここ一帯は源氏物語を主題に据えた本が所狭しと並べられている。
このエリアにあるものは、漫画から文庫本に至るまで、全て源氏物語に類するものばかりだが、その全てが、埃に覆われることなく、背表紙すら一切焼けることのない状態で保管されていた。
だが、おれが手にしたこの源氏物語だけは、埃を被っている上、表面もなかなかに焼けてしまっている。
けれど、表紙の絵の細かさだけは一丁前で、他のなによりもおれ好みだった。
ハードカバーの単行本の表紙に桃色とも紫ともとれる色の花がポツンと描いてある。
一輪の華が必死に艶やかさを振る舞う表紙に、なぜだか、おれの心は強く惹かれた。
中が気になり本を開く。
その瞬間————
本は自らその体についた埃を払うかのように、「ポンッ!」と音をたて、埃混じりの煙を振り撒いた。
手元での小さな爆発に、おれは反射的に目を瞑る。
再び目を開いたおれは、自分の目を疑った。
————なんせおれの眸は、ついさっきまで手にしていた本の装丁に描いてあったような、桃色とも紫ともとれる色の着物を纏った女児が凛と嫋やかに佇むその姿を、映し出していたのだから————。
思わず見惚れ固まっているおれに向け、それは告げる。
「おい、お前。お前がわちしに、飯《めし》作る、三木みさとなる、男であるか?」
自分の名を呼ばれ、数瞬我に返ったおれは、詠うように紡がれたあまりにも拍子のいい言葉の内に、小さな反論点を見つけた。
「そ、その通りだけど、お前はなんなんだよ。きゅ、急に出てきやがって……。お、お前も名乗れよ……っ!」
ダメだ、急な事態におれ自身が全くついていけていない————。
出逢い方がここまで突拍子もないと、質問もろくに浮かばないらしい。
「わちしの名……、その手の本に、よるならば、若紫と、云うことになる。」
——————若紫……?
おれの記憶が正しければ、確か、光源氏の嫁だったか。
「三木みさと、先ほどからの、その仏頂面。どうにかならぬか、怖くてならぬ。」
「…………まず、みさとって呼ぶな」
「?」
突如怪訝な態度をとったおれに、首を傾げる目の前の女児。
……こいつ、おれの言っていることが分からないのか?
「"みさと"って呼ぶなって言ったんだよ。名前が女みたいだってバカにされるんだ。だから——……ッ、おれも嫌いなんだよ!!」
幾重にも織り重なったここまでの動揺も相まって、つい声を荒げてしまった。けれどそれほどまでにこの名前には嫌悪感がある。
「三木みさと。」
「なんだよ、だから名前で呼ぶなって……」
「お前のその名、良き名なり。わちしにだけは、その名呼ばせよ。」
「な……っ」
初めて言われた。
自分の名前を褒められることがこんなにも照れくさいものだなんて知らなかった。
「————ありがとう」
「あぁみさと、ようやく解けた、仏頂面。そのほころんだ、顔は忘れぬ。」
なんだ……、この子。
若紫と話していると、気持ちが落ち着いてくる。
まるで穏やかな小川を笹舟が流れていく様な、そんな緩やかさが心を満たしていく。
ところで、さっき最初に気になることを言われたような……————
「あ、そういえば、お前さっき、『わちしに飯作る男か?』って訊いてきてたよな。てことは、お前は、じいさんからおれの手料理を貰ってたってことか?」
おれの言葉に若紫はほんの少し顔を伏せる。その姿は悲しそうで、また寂しそうで、けれどどこか怒りを秘めているようにも見えた。
「この蔵に、じじ様の来るその度に、飯の数々持ってはいぬかと、目を光らせた。」
一応別のテンポも話せるようだ。にしても、こんな心持ちで待ってくれていたとは、作り手としては嬉しい限りだ。
「いつの日か、源氏様にも、振る舞いたい。…………それがいつに、なるか知れぬが。」
「——教えて、やろうか?」
ほぼ反射的に、おれは呟いていた。
「え……————っ?」
今度は若紫の理解が追いついていないのか、彼女は質問を投げ返してきた。
「だから、飯の作り方、教えてやろうかって言ってんの」
若紫のその表情は、次第に、深みのある笑みへと変わっていく——。
「この日から、みさとの弟子に、なるとする。美味い飯を、あの方のため……。」
————さて、今日の夕飯は、なににしようか。
家から少し離れた蔵から段々と見えてくる、現在はもう、じいさんのいない、その木造家屋を眺め歩を進めつつ、おれは今夜の献立に考えを巡らせていた。
うむ、久々にここに来たのだ。じいさんの手料理で一番美味かった唐揚げにしよう。
若紫でも、じいさん流の、ほどよくややこしすぎない唐揚げなら、見ていて飽きることもないだろう。
おれは若紫を書庫蔵に待たせ、直ぐ様自転車に飛び乗り、近所のスーパーで必要な食材を買い揃えた。
帰り着いた頃にはもうとっくに十七時を過ぎていて、腹を空かせた若紫が書庫蔵の扉の裏でおれの帰りを待ちわびていた。
おれは若紫を連れ台所に立つと、早速、材料を巾着袋から取り出し、調理を始める。
一口大に切った鶏肉と塩や醤油、すりおろしの調味料を袋に入れて、しっかり揉み込み冷蔵庫で一時間。取り出したそれに片栗粉をまぶして薄く色がつくまで揚げる。
数分おいておいたそれを温度を上げた鍋に再び投下して、油を切り、お皿に盛れば完成だ。
面倒くさいけれど、この"二度揚げ"をすることが美味しい唐揚げの秘訣である。
ひと手間ふた手間かけたおれの料理を見ながら、まだかまだかと言わんばかりに、若紫は腹の虫を嘶かせている。
本人も気付いたのか少し恥ずかしそうにしながら、ひたすらに鍋を見つめていた。
///
どうやら完成したようだ。
皿に盛られる"唐揚げ"とやらを見やりながら、わちしは腹の虫を抑え、よだれが出ぬよう口元をきゅっと結んでいた。
ちゃぶ台の上に唐揚げの乗った皿が置かれ、わちしの前に、白飯の入った茶碗と箸が用意された。
ふと隣を見ると、みさとが手を合わせている。なにか仏様にお願いでもしているのだろうか。
すると、みさとはわちしに向かってこう告げてきた。
「なんだ、若紫。飯食う前は手と手を合わせて"いただきます"だろ。こういうの、じいさんに習わなかったのか?」
そんなこと、じじ様は言っておらなんだ。
————というより、じじ様が飯を持ってきたときにはもう、じじ様の言葉なんぞ、耳に入ってこなかっただけなのだが……。
みさとに倣って手を合わせた。
そして、みさとと一緒に——
「「いただきます!!」」
わちしは箸を手にした次の瞬間には唐揚げに手を伸ばしていた。
飯を作っているときから決めていたのだ。最初はあの唐揚げを食べるのだと。
かぶりついた瞬間、口のなかで肉汁と醤油の香りが弾けた。
柔らかい肉は噛み締める度にほくほくとした熱さと旨味が口を満たす。
炊きたての白米が更にその味を引さ立てるものだから、 休みなく箸が動いてしまう。
止まらぬ、止まらぬ、止まらぬ!!
白飯が入っている茶碗の底に箸がついたとき、自分が唐揚げを一つ残らず食べ尽くしてしまっていたことに気付いた。
みさとは箸と、まだ白飯が残った茶碗を持ったまま、呆然とわちしの顔を見ている。
食い尽くしたことを叱られるのだろうか……。
(ここはやはり、わちしから謝るべきであろうか……。)
そんなことを考え黙々と反省していると、みさとの方が先に口を開いた。
「……もう、お腹いっぱいか?」
その問いにわちしはこくりと小さく頷く。
「じゃあ、今度は"ごちそうさま"だな」
————あれ、怒っていない?
それどころか、いまのみさとは微笑んでいるようにも見える。
(た、助かった……っ。みさとに、叱る気概はないらしい。)
「美味しかったなら、ごちそうさまと言ってくれ」
寛容な心を持つみさとから教えられたそんな短い言葉を、わちしは何《なん》の迷いもなく、その通りの意味を込め、食べ始めるときと同じように手を合わせて声にする。
「ごちそうさまっ!」
みさとは心からの笑みをその面貌に浮かべるのだった。
隣で現代のおれが読解不可能な短歌を一首詠む着物姿の女児は、先ほど、おれが作った唐揚げを全て頬張り、満面の笑みを見せてくれた。
「おいみさと、わちしの顔に、なにがある。その目わちしを、食わんかのよう。」
いや、そんな目で見ていたつもりはないんだが……。
…………それにしてもこいつ——現代の言葉をある程度覚えてはいるものの、短歌調で話す癖は治らないらしい。
おれの作った飯をあんなに微笑みながら食べてくれたこと自体は、喜ばしい話ではあるのだが、感想が全て短歌というのが些か惜しい。
まぁ間違いなく、高い評価を下してくれているのだろうけれど……。——しっかし、具体的な内容がさっぱりだ。
はぁ、と一つ嘆息を溢し、こんなひとときを送ることになったキッカケを、おれは一人、思い返す————。
///
「————なんだ? これ」
ことの発端は、先週突然死んだじいさんの、蔵の中の書架を眺めていたときだった。明らかに他《ほか》とは違う装丁で、他を圧倒するほどの異彩を放っている一冊の本をおれは見つけた。
——————おれは元々、相当数の本を読む、いわゆる読書家だ。
じいさんが死んで、おれが無類の本好きだということを知っている叔父や叔母が、じいさんの遺した書庫蔵をおれに譲ると申し出てきたのだ。
訊けばどうも、遺書に書いてあったらしい。
以前からこの書庫蔵が気になっていたこともあり、おれはすぐに承諾した。
叔父から蔵の鍵を受け取ったが、そのときの彼の面相は、優しさによって生じた微笑みではなく、安堵の笑みを浮かばせていた。——なぜならその実、この書庫蔵は、素《もと》よりじいさんとおれを除いた親戚全員から気味悪がられていたからだ。
————"座敷わらし"————
そんなものが出ると誰かが言い出し、更にその噂が流れた直後に、じいさんが錠で蔵を鎖すようになったものだから、座敷わらしの噂は確固たるものとなったらしい。
おれがその噂を聴いたのは十三才のときだった。
元々、噂を知るより以前から、自宅で親たちがいがみ合っていることに耐えられず、おれはじいさんの家に入り浸り、よく家事を手伝っていた。しかし時折おれの作った料理を片手に、書庫蔵へと向かうじいさんの姿を目撃していた。
それはなぜか、とじいさんに訊いたこともあったが、幾度問うても、ついぞ教えてくれることはなかった。
ただ、「お前の料理を食べたいと思っている人に、食べてもらうのが一番だ」と、理解に苦しむ返答を寄越すだけだった。
じいさんはおれの料理を食べたくないのか、などと邪推することもあったが、書庫蔵へ赴かないときは、おれの料理を笑って食べてくれていた。
それから少し経ってから、親に「書庫蔵の座敷わらし」の噂を聴かされ、じいさんの家に行くことを暗に止められた。
けれど、大人になってそんな噂を信じるなんて馬鹿げていると、当時のおれは思った。サンタクロースが父さんだってことに、数年前とっくに気付いていたおれは、物語にしか出てこないような〈架空の生き物〉は信じないようになっていた。
おれは、座敷わらしの噂を耳にして以降も、相変わらずじいさんの家に足を運び、家事の手伝いをしていた。そしてその頃には、暇な時間を見つけては、本を手に取り、物語の世界に耽入ることが、おれにとっての幸せなひとときになっていた。
おれがじいさんの家に通うようになった十才の頃から、じいさんはたびたび、おれが暇を持て余しているときに、書庫蔵から数冊の小説を持ってきてくれていた。
内容をハッキリと覚えてはいないが、時代小説からファンタジーものまで、多彩なジャンルの本をじいさんは書庫蔵に収めていた。
そして、その日読んだ物語のことを、じいさんに夕飯どきに聴いてもらうことが、おれは楽しくてしかたがなかった。
じいさんはおれの頼みは大概聴いてくれ、おれの疑問にはいつも美しい答えをくれる。そんなじいさんにおれは随分となついていた。
けれど、書庫蔵関連の話だけは、やはり、尋ねても答えてはくれなかった。
ある日、じいさんの激昂する声が蔵から聴こえたことがあった。じいさんが書庫蔵から戻ると、所々散り散りに破れまくっている本を抱えながらおれを睨み、
「書庫に入ったりしてないだろうな?」
と訊いてきた。そんな覚えのないおれが首を横に振ると、
「そうか……。今日はもう帰っていいぞ。それからこのことは誰にも言うな。」
と、抱えた数冊の本を見つめながらおれに告げた。
————その翌朝、じいさんはポックリと死んだ。死因までは、聴かされなかった。
——……おれと交わしたあの言葉が、じいさんの最期の言葉となった。
あの破れた本は家のどこにも見当たらず、もやもやとした感情を抱きながらじいさんの葬儀を迎え、それが終わったとき、蔵の鍵を手に入れたのだった。
——————じいさんが死んで一週間が経った一昨日、満を持して蔵の錠を解き、古びた木と錆びた金具が軋む音を耳にしながら、その扉を開く。
そこで初めて、おれは書庫蔵へと足を踏み入れた。
ひんやりとした書庫蔵の中は、無数とも思わせる書架がどこまでも立ち並んでおり、端麗にカテゴライズされた多種多様な書籍が、びっしりとその書架の群れを埋め尽くしていた。
しかし、綺麗にカテゴライズされているはずの書架のなかに、一冊だけ、明らかに装丁の違う単行本が挟まっていた。
本のタイトルは、〈源氏物語〉。
なるほど、確かにここ一帯は源氏物語を主題に据えた本が所狭しと並べられている。
このエリアにあるものは、漫画から文庫本に至るまで、全て源氏物語に類するものばかりだが、その全てが、埃に覆われることなく、背表紙すら一切焼けることのない状態で保管されていた。
だが、おれが手にしたこの源氏物語だけは、埃を被っている上、表面もなかなかに焼けてしまっている。
けれど、表紙の絵の細かさだけは一丁前で、他のなによりもおれ好みだった。
ハードカバーの単行本の表紙に桃色とも紫ともとれる色の花がポツンと描いてある。
一輪の華が必死に艶やかさを振る舞う表紙に、なぜだか、おれの心は強く惹かれた。
中が気になり本を開く。
その瞬間————
本は自らその体についた埃を払うかのように、「ポンッ!」と音をたて、埃混じりの煙を振り撒いた。
手元での小さな爆発に、おれは反射的に目を瞑る。
再び目を開いたおれは、自分の目を疑った。
————なんせおれの眸は、ついさっきまで手にしていた本の装丁に描いてあったような、桃色とも紫ともとれる色の着物を纏った女児が凛と嫋やかに佇むその姿を、映し出していたのだから————。
思わず見惚れ固まっているおれに向け、それは告げる。
「おい、お前。お前がわちしに、飯《めし》作る、三木みさとなる、男であるか?」
自分の名を呼ばれ、数瞬我に返ったおれは、詠うように紡がれたあまりにも拍子のいい言葉の内に、小さな反論点を見つけた。
「そ、その通りだけど、お前はなんなんだよ。きゅ、急に出てきやがって……。お、お前も名乗れよ……っ!」
ダメだ、急な事態におれ自身が全くついていけていない————。
出逢い方がここまで突拍子もないと、質問もろくに浮かばないらしい。
「わちしの名……、その手の本に、よるならば、若紫と、云うことになる。」
——————若紫……?
おれの記憶が正しければ、確か、光源氏の嫁だったか。
「三木みさと、先ほどからの、その仏頂面。どうにかならぬか、怖くてならぬ。」
「…………まず、みさとって呼ぶな」
「?」
突如怪訝な態度をとったおれに、首を傾げる目の前の女児。
……こいつ、おれの言っていることが分からないのか?
「"みさと"って呼ぶなって言ったんだよ。名前が女みたいだってバカにされるんだ。だから——……ッ、おれも嫌いなんだよ!!」
幾重にも織り重なったここまでの動揺も相まって、つい声を荒げてしまった。けれどそれほどまでにこの名前には嫌悪感がある。
「三木みさと。」
「なんだよ、だから名前で呼ぶなって……」
「お前のその名、良き名なり。わちしにだけは、その名呼ばせよ。」
「な……っ」
初めて言われた。
自分の名前を褒められることがこんなにも照れくさいものだなんて知らなかった。
「————ありがとう」
「あぁみさと、ようやく解けた、仏頂面。そのほころんだ、顔は忘れぬ。」
なんだ……、この子。
若紫と話していると、気持ちが落ち着いてくる。
まるで穏やかな小川を笹舟が流れていく様な、そんな緩やかさが心を満たしていく。
ところで、さっき最初に気になることを言われたような……————
「あ、そういえば、お前さっき、『わちしに飯作る男か?』って訊いてきてたよな。てことは、お前は、じいさんからおれの手料理を貰ってたってことか?」
おれの言葉に若紫はほんの少し顔を伏せる。その姿は悲しそうで、また寂しそうで、けれどどこか怒りを秘めているようにも見えた。
「この蔵に、じじ様の来るその度に、飯の数々持ってはいぬかと、目を光らせた。」
一応別のテンポも話せるようだ。にしても、こんな心持ちで待ってくれていたとは、作り手としては嬉しい限りだ。
「いつの日か、源氏様にも、振る舞いたい。…………それがいつに、なるか知れぬが。」
「——教えて、やろうか?」
ほぼ反射的に、おれは呟いていた。
「え……————っ?」
今度は若紫の理解が追いついていないのか、彼女は質問を投げ返してきた。
「だから、飯の作り方、教えてやろうかって言ってんの」
若紫のその表情は、次第に、深みのある笑みへと変わっていく——。
「この日から、みさとの弟子に、なるとする。美味い飯を、あの方のため……。」
————さて、今日の夕飯は、なににしようか。
家から少し離れた蔵から段々と見えてくる、現在はもう、じいさんのいない、その木造家屋を眺め歩を進めつつ、おれは今夜の献立に考えを巡らせていた。
うむ、久々にここに来たのだ。じいさんの手料理で一番美味かった唐揚げにしよう。
若紫でも、じいさん流の、ほどよくややこしすぎない唐揚げなら、見ていて飽きることもないだろう。
おれは若紫を書庫蔵に待たせ、直ぐ様自転車に飛び乗り、近所のスーパーで必要な食材を買い揃えた。
帰り着いた頃にはもうとっくに十七時を過ぎていて、腹を空かせた若紫が書庫蔵の扉の裏でおれの帰りを待ちわびていた。
おれは若紫を連れ台所に立つと、早速、材料を巾着袋から取り出し、調理を始める。
一口大に切った鶏肉と塩や醤油、すりおろしの調味料を袋に入れて、しっかり揉み込み冷蔵庫で一時間。取り出したそれに片栗粉をまぶして薄く色がつくまで揚げる。
数分おいておいたそれを温度を上げた鍋に再び投下して、油を切り、お皿に盛れば完成だ。
面倒くさいけれど、この"二度揚げ"をすることが美味しい唐揚げの秘訣である。
ひと手間ふた手間かけたおれの料理を見ながら、まだかまだかと言わんばかりに、若紫は腹の虫を嘶かせている。
本人も気付いたのか少し恥ずかしそうにしながら、ひたすらに鍋を見つめていた。
///
どうやら完成したようだ。
皿に盛られる"唐揚げ"とやらを見やりながら、わちしは腹の虫を抑え、よだれが出ぬよう口元をきゅっと結んでいた。
ちゃぶ台の上に唐揚げの乗った皿が置かれ、わちしの前に、白飯の入った茶碗と箸が用意された。
ふと隣を見ると、みさとが手を合わせている。なにか仏様にお願いでもしているのだろうか。
すると、みさとはわちしに向かってこう告げてきた。
「なんだ、若紫。飯食う前は手と手を合わせて"いただきます"だろ。こういうの、じいさんに習わなかったのか?」
そんなこと、じじ様は言っておらなんだ。
————というより、じじ様が飯を持ってきたときにはもう、じじ様の言葉なんぞ、耳に入ってこなかっただけなのだが……。
みさとに倣って手を合わせた。
そして、みさとと一緒に——
「「いただきます!!」」
わちしは箸を手にした次の瞬間には唐揚げに手を伸ばしていた。
飯を作っているときから決めていたのだ。最初はあの唐揚げを食べるのだと。
かぶりついた瞬間、口のなかで肉汁と醤油の香りが弾けた。
柔らかい肉は噛み締める度にほくほくとした熱さと旨味が口を満たす。
炊きたての白米が更にその味を引さ立てるものだから、 休みなく箸が動いてしまう。
止まらぬ、止まらぬ、止まらぬ!!
白飯が入っている茶碗の底に箸がついたとき、自分が唐揚げを一つ残らず食べ尽くしてしまっていたことに気付いた。
みさとは箸と、まだ白飯が残った茶碗を持ったまま、呆然とわちしの顔を見ている。
食い尽くしたことを叱られるのだろうか……。
(ここはやはり、わちしから謝るべきであろうか……。)
そんなことを考え黙々と反省していると、みさとの方が先に口を開いた。
「……もう、お腹いっぱいか?」
その問いにわちしはこくりと小さく頷く。
「じゃあ、今度は"ごちそうさま"だな」
————あれ、怒っていない?
それどころか、いまのみさとは微笑んでいるようにも見える。
(た、助かった……っ。みさとに、叱る気概はないらしい。)
「美味しかったなら、ごちそうさまと言ってくれ」
寛容な心を持つみさとから教えられたそんな短い言葉を、わちしは何《なん》の迷いもなく、その通りの意味を込め、食べ始めるときと同じように手を合わせて声にする。
「ごちそうさまっ!」
みさとは心からの笑みをその面貌に浮かべるのだった。
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これは、誤解が元ですれ違った夫婦のお話です。
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短いお話ですが、珍しく冒頭鬱展開ですので、読む方はお気をつけて。
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