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プロローグ 敵に託された少女
#03:最初のあいさつ - 1
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──少女がサイラスに拾われた直後のことだ。
長年に渡って続いてきた二つの国の争いは大きな爪痕を残し、互いの国境にある小さな農村のことごとくを廃墟に変えてしまっていた。
無論、村だけではない。地方それぞれの領主の城やその城下町も、残らず甚大な被害を受けていた。
先に争いを始めたカルツヴェルンは、しばし休戦とばかりに攻撃の手を緩めた。さすがに兵が足りなくなったのだ。
それはアルドレア軍も同じで、王は兵の増強を騎士たちの判断に任せ、自らは街の復興を手伝った。
§
北東の丘陵地帯を治める領主であり、小さな地方騎士団をも統率する騎士団長サイラス・ウッドエンドは、拾ってきた娘を妻のオリビアに任せて面倒を診させた。
侍女たちが自ら世話を申し出たが、敵意がないことを示すためだと説明して断り、また、少女のことはけっして外にもらさないように、と何度も念を押した。
一体、いくつの悪夢を見ただろう。名も分からない少女は、毎晩うなされながら懸命に母親を呼び、瞳を閉じたまま涙を流し続けた。
オリビアは辛抱強く少女の面倒を診て、毎晩着替えをさせ、湿布と包帯を取り替えた。その甲斐もあって、少女はみるみるうちに回復し、快方に向かっていった。
十日が過ぎた朝、窓から射し込むやわらかな春の陽気に包まれながら、穏やかな寝息をしていた少女は静かに目を開いた。
見たことがないほど広い部屋だった。ベッドはやわらかく、一人で使うにはとても大きい。家具やそこらじゅうに置かれた花瓶、絵画……いずれも骨董品ばかりで、少女にとっては立派な宝物に見える。
(ここは夢の世界? それとも、天国なの?)
体を起こすと、重い感覚と共に全身のあちこちが痛んだ。どうやら、これは現実らしい。
「まあ、起きたのね! 良かったわ!」
傍で花瓶の水を取り替えていたオリビアが少女の姿を見て喜び、同時に、目を奪われた。
深海を思わせるような、青い、二つの大きな瞳だ。アルドレアのどこを探してもここまで美しい瞳の持ち主はいないだろう。
「私はオリビア。あなたを助けたサイラスの妻よ」
オリビアは少女の顔を見て名乗るのを待ったが、少女は唇をぎゅっと結び、何も答えなかった。
礼儀としては少々不作法ではあるが、オリビアは逆に感心した。こんな小さな子供でも、赤の他人に対して直ぐに気を許さないようしつけてあるのだと分かったからだ。恐らく、何か理由があるのだろう。素性を知られてはいけないような、特別な理由が。
「わたしのお母さんはどこ?」
少女は顔を上げ、強い眼差しで言った。
「お母さんもここにいるんでしょ?」
オリビアは少し考えた後、目を閉じ、首を横に振った。
そして、はっきりと告げた。
「とても哀しいことだけれど、あなたのお母様は天に召されたわ。夫が最期を看取ったのよ……」
あまりのショックに、少女は目眩を覚えた。
「う、うそ……! うそよ! 病気一つしなかったお母さんが死ぬはずないわ! いい加減なこと言わないで!」
一抱えもある大きな枕を投げつける。それだけで全身に鋭い痛みが走り、少女はうずくまって悲鳴を上げた。
オリビアは枕をそっとベッドに戻し、少女を支えて優しく寝かせた。
そして、呆れたふうに溜め息をつく。
「うそじゃありません。だから、今から私が言うことをよくお聞きなさい、名無しのお嬢さん。きちんと怪我を治したら、この屋敷の家族の一員として一緒に暮らすといいわ。……いえ、そうするべきよ。ただし、これからは騎士団長の娘として生きるのだから、最低限、それなりの礼節と教養だけは身につけてもらいますよ。いいですわね?」
少女は事情が分からなくて混乱したが、オリビアの強い口調に、仕方なく首を小さく縦に動かすしかなかった。
それに、嫌だとは言えなかった。少なくとも、命を救ってもらった恩は感じていたからだ。
ただ、どうしてお母さんを助けられなかったのか、一緒にいて何故助からなかったのか、と何度も何度も自分に問いかけたが、いくら考えても、答えは出て来なかった。
更に三日が経ち、少女は歩ける程に回復した。
簡素なチュニックに着替えた少女は、早速、化粧台の前に座らせられ、台無しになった美しい金髪をオリビアがくしで丁寧にすいた。
少女は鏡の前に映る自分の姿と、後ろに立つオリビアの姿を見た。
(……おかあ……さ……)
懐かしい気分がした。ほんの少し前まで、母に髪をすいてもらっていたことがあったのを思い出したのだ。
しかしそれも、もはや遠い過去の記憶となっていく。二度と戻っては来ない、大切な思い出に。
オリビアは、鏡越しに見た少女が涙ぐんでいるのを見てはっと驚いたが、直ぐに見て見ぬふりをした。
少女も、オリビアに見られていると分かっていたので、ぐっと下唇を噛んで涙をこらえ、泣くまいと強く心を保った。
(なんて強い子なのかしら。そんなにまで意地を張るのは、一体どうして?)
オリビアは考えた。この子はもう、故郷のカルツヴェルンではなく、アルドレアにいることに気付いているだろうか。もし、ここが隣の国――つまり、敵の国であると知ったら、この子はどう思うだろう。もしかしたら、私達を恨むかもしれない。
いったい、これはどういう運命の巡り合わせか、いたずらか。この子は敵国の地方騎士団長の手によって救われたと同時に、ある意味、捕虜となってしまうのだ。
サイラスはこの子の処遇をどうしようかと迷っている。本来ならば王宮に報告して身柄を預けるべきなのだが、か弱い娘にそんなことはさせられないし、母親の遺言もある。それに、敵国の者だと判れば、牢に入れられる危険もあるのだ。
そんなオリビアの心配も理解できない少女は、髪をとかし終えると、何も言わずにスタスタと扉の方へ歩いていった。
「どこへ行くの?」
オリビアが尋ねると、少女はムスッとしたような、困ったような顔を一度向けてから、やはり何も言わずに部屋を出ていった。
見たところ、五、六歳ぐらいの年頃だ。オリビアは九歳になった長女のマリアーナのことを思い出した。
(その年頃なら、三年ぐらい前かしらね)
アルドレアの騎士の家系に生まれた者は、七歳になると宮廷で騎士教育を受けることになっている。だが、それは男子だった場合であり、女子であるマリアーナは別の道を歩むはずだった。
確かに、騎士の家系の第一子が跡取りになる、という習慣はあるのだが、それも長男が第一子だった場合に限る。マリアーナはレディとしての教育を受けるべきなのだ。
結局、その事で半年近くもサイラスと口論になったマリアーナは、七歳になると、とうとう諦めて街の学校に通い始めた。サイラスは、小さくて長い戦いが一つ終わったな、と安堵の溜め息をもらしたが、マリアーナのささやかな反撃はここからが始まりだった。
マリアーナはレディとしての嗜みを学ぶばかりか、次第に男勝りに育っていき、二年経った今では男の子と剣の稽古を付けられる程になっていた。実際、自分よりも体格の大きな年上の男の子を負かせたこともある。この噂は瞬く間に広がり、以後、騎士団長の跡取りは女騎士団長として有望だ、等と囁かれるようになった。
対して、二つ年下の長男であるエドワードは、引っ込み思案で内気な性格なため、外で遊ぶよりも本を読む方が好きだった。さすがのサイラスも、これには頭を抱えるしかなかった。
『エドとマリィが入れ代わっていれば良かったんだがな……』
もはや、今ではサイラスの口癖となっている言葉の一つだ。子供たちも、時々面白がってこのモノマネをして遊んでいる。
一方、オリビアはサイラスほど悲観的でもなかった。女性だから、といって才能を断ち切るのは、彼女の教育方針から外れるからだ。もし子供達が自分で目指したい道があるのなら、精一杯応援しようと考えていた。
ただし、礼節と作法だけはきっちり学んでもらう。それだけは絶対に譲れない条件だった。
(あの子もきっと、いずれ自分で道を見出すかしら。……今は道に迷っているでしょうけどね)
§
寝室から出て屋敷の外へと駆け出した余所者の少女は、遠くに見える山々を見て愕然となった。
自分の故郷から見える山は、絶対に徒歩では登れないぐらい急な斜面で、てっぺんは鋭く雲から突き出る程の峰だった。なのに、ここから見える山は、斜面がなだらかになっている、それほど高くもない山々ではないか。
(お日様が昇る方向も逆だわ!)
少女には方角というものが分からない。ただ、時間の測り方だけは教わっていた。今は朝方だから、いつもなら山を前にして左から昇ってくるはず、と覚えていたのだ。しかし、ここに見える角の取れた山々は、向かって右側から太陽が昇っている。
少女は慌てふためきながら、小さな頭で考えに考え、自分がどれだけ遠くに来てしまったのか、どれだけ深刻な状況なのかをようやく悟った。
それでも少女は──田舎育ちが幸いしてか、自分が敵国に居るという可能性を思いつくことはなかった。
長年に渡って続いてきた二つの国の争いは大きな爪痕を残し、互いの国境にある小さな農村のことごとくを廃墟に変えてしまっていた。
無論、村だけではない。地方それぞれの領主の城やその城下町も、残らず甚大な被害を受けていた。
先に争いを始めたカルツヴェルンは、しばし休戦とばかりに攻撃の手を緩めた。さすがに兵が足りなくなったのだ。
それはアルドレア軍も同じで、王は兵の増強を騎士たちの判断に任せ、自らは街の復興を手伝った。
§
北東の丘陵地帯を治める領主であり、小さな地方騎士団をも統率する騎士団長サイラス・ウッドエンドは、拾ってきた娘を妻のオリビアに任せて面倒を診させた。
侍女たちが自ら世話を申し出たが、敵意がないことを示すためだと説明して断り、また、少女のことはけっして外にもらさないように、と何度も念を押した。
一体、いくつの悪夢を見ただろう。名も分からない少女は、毎晩うなされながら懸命に母親を呼び、瞳を閉じたまま涙を流し続けた。
オリビアは辛抱強く少女の面倒を診て、毎晩着替えをさせ、湿布と包帯を取り替えた。その甲斐もあって、少女はみるみるうちに回復し、快方に向かっていった。
十日が過ぎた朝、窓から射し込むやわらかな春の陽気に包まれながら、穏やかな寝息をしていた少女は静かに目を開いた。
見たことがないほど広い部屋だった。ベッドはやわらかく、一人で使うにはとても大きい。家具やそこらじゅうに置かれた花瓶、絵画……いずれも骨董品ばかりで、少女にとっては立派な宝物に見える。
(ここは夢の世界? それとも、天国なの?)
体を起こすと、重い感覚と共に全身のあちこちが痛んだ。どうやら、これは現実らしい。
「まあ、起きたのね! 良かったわ!」
傍で花瓶の水を取り替えていたオリビアが少女の姿を見て喜び、同時に、目を奪われた。
深海を思わせるような、青い、二つの大きな瞳だ。アルドレアのどこを探してもここまで美しい瞳の持ち主はいないだろう。
「私はオリビア。あなたを助けたサイラスの妻よ」
オリビアは少女の顔を見て名乗るのを待ったが、少女は唇をぎゅっと結び、何も答えなかった。
礼儀としては少々不作法ではあるが、オリビアは逆に感心した。こんな小さな子供でも、赤の他人に対して直ぐに気を許さないようしつけてあるのだと分かったからだ。恐らく、何か理由があるのだろう。素性を知られてはいけないような、特別な理由が。
「わたしのお母さんはどこ?」
少女は顔を上げ、強い眼差しで言った。
「お母さんもここにいるんでしょ?」
オリビアは少し考えた後、目を閉じ、首を横に振った。
そして、はっきりと告げた。
「とても哀しいことだけれど、あなたのお母様は天に召されたわ。夫が最期を看取ったのよ……」
あまりのショックに、少女は目眩を覚えた。
「う、うそ……! うそよ! 病気一つしなかったお母さんが死ぬはずないわ! いい加減なこと言わないで!」
一抱えもある大きな枕を投げつける。それだけで全身に鋭い痛みが走り、少女はうずくまって悲鳴を上げた。
オリビアは枕をそっとベッドに戻し、少女を支えて優しく寝かせた。
そして、呆れたふうに溜め息をつく。
「うそじゃありません。だから、今から私が言うことをよくお聞きなさい、名無しのお嬢さん。きちんと怪我を治したら、この屋敷の家族の一員として一緒に暮らすといいわ。……いえ、そうするべきよ。ただし、これからは騎士団長の娘として生きるのだから、最低限、それなりの礼節と教養だけは身につけてもらいますよ。いいですわね?」
少女は事情が分からなくて混乱したが、オリビアの強い口調に、仕方なく首を小さく縦に動かすしかなかった。
それに、嫌だとは言えなかった。少なくとも、命を救ってもらった恩は感じていたからだ。
ただ、どうしてお母さんを助けられなかったのか、一緒にいて何故助からなかったのか、と何度も何度も自分に問いかけたが、いくら考えても、答えは出て来なかった。
更に三日が経ち、少女は歩ける程に回復した。
簡素なチュニックに着替えた少女は、早速、化粧台の前に座らせられ、台無しになった美しい金髪をオリビアがくしで丁寧にすいた。
少女は鏡の前に映る自分の姿と、後ろに立つオリビアの姿を見た。
(……おかあ……さ……)
懐かしい気分がした。ほんの少し前まで、母に髪をすいてもらっていたことがあったのを思い出したのだ。
しかしそれも、もはや遠い過去の記憶となっていく。二度と戻っては来ない、大切な思い出に。
オリビアは、鏡越しに見た少女が涙ぐんでいるのを見てはっと驚いたが、直ぐに見て見ぬふりをした。
少女も、オリビアに見られていると分かっていたので、ぐっと下唇を噛んで涙をこらえ、泣くまいと強く心を保った。
(なんて強い子なのかしら。そんなにまで意地を張るのは、一体どうして?)
オリビアは考えた。この子はもう、故郷のカルツヴェルンではなく、アルドレアにいることに気付いているだろうか。もし、ここが隣の国――つまり、敵の国であると知ったら、この子はどう思うだろう。もしかしたら、私達を恨むかもしれない。
いったい、これはどういう運命の巡り合わせか、いたずらか。この子は敵国の地方騎士団長の手によって救われたと同時に、ある意味、捕虜となってしまうのだ。
サイラスはこの子の処遇をどうしようかと迷っている。本来ならば王宮に報告して身柄を預けるべきなのだが、か弱い娘にそんなことはさせられないし、母親の遺言もある。それに、敵国の者だと判れば、牢に入れられる危険もあるのだ。
そんなオリビアの心配も理解できない少女は、髪をとかし終えると、何も言わずにスタスタと扉の方へ歩いていった。
「どこへ行くの?」
オリビアが尋ねると、少女はムスッとしたような、困ったような顔を一度向けてから、やはり何も言わずに部屋を出ていった。
見たところ、五、六歳ぐらいの年頃だ。オリビアは九歳になった長女のマリアーナのことを思い出した。
(その年頃なら、三年ぐらい前かしらね)
アルドレアの騎士の家系に生まれた者は、七歳になると宮廷で騎士教育を受けることになっている。だが、それは男子だった場合であり、女子であるマリアーナは別の道を歩むはずだった。
確かに、騎士の家系の第一子が跡取りになる、という習慣はあるのだが、それも長男が第一子だった場合に限る。マリアーナはレディとしての教育を受けるべきなのだ。
結局、その事で半年近くもサイラスと口論になったマリアーナは、七歳になると、とうとう諦めて街の学校に通い始めた。サイラスは、小さくて長い戦いが一つ終わったな、と安堵の溜め息をもらしたが、マリアーナのささやかな反撃はここからが始まりだった。
マリアーナはレディとしての嗜みを学ぶばかりか、次第に男勝りに育っていき、二年経った今では男の子と剣の稽古を付けられる程になっていた。実際、自分よりも体格の大きな年上の男の子を負かせたこともある。この噂は瞬く間に広がり、以後、騎士団長の跡取りは女騎士団長として有望だ、等と囁かれるようになった。
対して、二つ年下の長男であるエドワードは、引っ込み思案で内気な性格なため、外で遊ぶよりも本を読む方が好きだった。さすがのサイラスも、これには頭を抱えるしかなかった。
『エドとマリィが入れ代わっていれば良かったんだがな……』
もはや、今ではサイラスの口癖となっている言葉の一つだ。子供たちも、時々面白がってこのモノマネをして遊んでいる。
一方、オリビアはサイラスほど悲観的でもなかった。女性だから、といって才能を断ち切るのは、彼女の教育方針から外れるからだ。もし子供達が自分で目指したい道があるのなら、精一杯応援しようと考えていた。
ただし、礼節と作法だけはきっちり学んでもらう。それだけは絶対に譲れない条件だった。
(あの子もきっと、いずれ自分で道を見出すかしら。……今は道に迷っているでしょうけどね)
§
寝室から出て屋敷の外へと駆け出した余所者の少女は、遠くに見える山々を見て愕然となった。
自分の故郷から見える山は、絶対に徒歩では登れないぐらい急な斜面で、てっぺんは鋭く雲から突き出る程の峰だった。なのに、ここから見える山は、斜面がなだらかになっている、それほど高くもない山々ではないか。
(お日様が昇る方向も逆だわ!)
少女には方角というものが分からない。ただ、時間の測り方だけは教わっていた。今は朝方だから、いつもなら山を前にして左から昇ってくるはず、と覚えていたのだ。しかし、ここに見える角の取れた山々は、向かって右側から太陽が昇っている。
少女は慌てふためきながら、小さな頭で考えに考え、自分がどれだけ遠くに来てしまったのか、どれだけ深刻な状況なのかをようやく悟った。
それでも少女は──田舎育ちが幸いしてか、自分が敵国に居るという可能性を思いつくことはなかった。
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