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第二章 子従として出来ること
#27:山火事 - 2
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シュテラは恐る恐る顔を上げた。燃え盛る炎をたてがみとして全身に纏った巨大な獅子が、圧倒的な存在感を醸している。そいつは、値踏みするようにシュテラを睨みつけながら、ゆったりとした足どりで側面へと回り込もうとしていた。
目を逸らしてはいけない──シュテラは本能的に悟りながら、じりじりと後ろへ退いていく。小脇に佇むエフィリオもまた、獅子を睨みつけながら、いつでも雷撃を飛ばせるよう準備を整えていた。
(エフィリオは雷を放つ雷獣。でも、あの紅いヤツって……)
シュテラは思った──たてがみに宿る炎……きっと、エフィリオと同じように、魔法の類を扱える獣に違いない。そして、ベースキャンプを襲ったのは恐らく、この獅子のような獣に違いないだろう──と。
腰に差した短剣をすらりと抜く。獣相手に短剣では心許ないが、ないよりはマシだ。
しかし、充分な訓練を受けていない自分が、果たしてこの獣に勝てるのだろうか。
「エフィリオ、もうすぐ時間よ! お義父様を迎えに行って!」
だが、エフィリオは頑として動こうとしない。相手が隙を見せないからか、或いは、自分の意志でここに立ち続けているのか。いずれにしても、この場を動くのは得策ではないというように、エフィリオは退くどころか、更に前肢を踏み出した。
シュテラの顔に焦りの色が浮かぶ。このままでは、サイラスは炎の中で煙を吸って倒れる。無茶をするなと強制したのは自分だというのに。
──突如、後方でガラガラ、と瓦礫の崩れる音がし、それを合図に、全員が一斉に動いた。
シュテラが横へ飛んでエフィリオの背にしがみつくと同時に、エフィリオは大きく背後へ跳躍し、紅い獅子の飛び掛かりを回避した。
エフィリオは大きく翼をはためかせ、風圧で砂利を獅子にぶつけていく。それが目眩ましとなり、一瞬の隙をついて旋回、その場を離れていく。
「やったわ! 早くお義父様のところへ!」
まるで神殿の柱のような炎の柱を飛び越え、先程サイラスを降ろした場所へ着地する。サイラスはゲホゲホと咳き込みながら、倒れた騎士たちを、炎から遠ざかる中央の開けた場所にかき集めていた。
「お義父様!」
最後の一人を肩に担いだサイラスがよろめく。シュテラがその者を担ぎ、サイラスはその場に崩れた。
直ぐにでも助けたい気持ちをぐっと堪えながら、シュテラはエフィリオの背に倒れた騎士たちを、まずは一度に三人ずつ乗せた。
「早く! 火と、アイツのいないところへ!」
エフィリオは大人しく言うことを聞いて、直ぐに飛行した。本来なら、心を許していない者を背に乗せることはしない雷獣だが、シュテラの頼みとあれば別だった。飛び立つ際の風圧が、熱風となってシュテラ達を襲う。シュテラは咳き込みながら、再びサイラスの下へ駆け寄った。
「もうすぐの辛抱よ、お義父様!」
「す、すまない……!」
シュテラはサイラスにあの紅い獅子のことを話そうと思ったが、こんなところで会話をする余裕はないだろう、と自制した。煙を塞ぐので精一杯だ。早く新鮮な空気を吸いたい。
間もなくして、エフィリオが帰還した。空っぽになった背中に、残りの一名とシュテラ、そしてサイラスが乗り、再び上昇する。
救出したのは全部で四名。生死までは確認していない。後はその場にいなかったか、運悪く瓦礫の下敷きになり、助からなかったかのいずれかだろう──サイラスはそう、推測で告げた。
エフィリオが三名を置いた場所に降り立つと、シュテラは布を外してあの紅い獅子の事を話した。
サイラスは初め、ぼうっとした目でシュテラの話に耳を傾けていたが、ややあって何か心当たりがあったのか、目を大きく見開かせた。
「……炎獣だ……! 間違いない!」
「炎、獣? それは雷獣のようなものなの?」
「ああ。三聖獣と言ってな。この世には炎獣、雷獣、水獣という、それぞれ違った魔力を持つ獣がいるのだ。彼らは神の遣いとされ、人に使役されることは滅多にない。雷獣が、選ばれた者にしか背を預けないのと同じようにな」
であれば、と、シュテラは当然のように思いついた疑問をぶつけた。
「炎獣も、エフィリオのように友達になれば、背中に乗せてくれるのかしら?」
「いいや、それは難しいだろう。炎獣は……伝えによれば、雷獣と違って気性の荒い聖獣だ。お前が目撃したように、誰かを目撃すれば直ぐに攻撃してくる。ベースキャンプもそうやって襲われたに違いない。故に、飼い馴らすことはおろか、近づくことさえままならぬ」
サイラスは静かに語りながら、荒い息で騎士達の安否を確認した。幸い、助けた面々は生きている。
「じゃあ、退治するの?」
「いや、それはならん」
「どうして?」
「文字通り、聖なる獣だからだよ。世界に於いても目撃例の少ない、希少な獣だ。これを倒したとあれば、山の神を怒らせるとまで言われている。……討伐の噂が広がれば、どこかで炎獣を崇拝している国が黙っておれんしな」
ただでさえカルツヴェルンとの戦で大事な時に、事を荒立たせるわけにはいかない。これは不運だった、と割り切るしかないのだ。
それより、炎獣が現れたことは、サイラスの予想を遥かに超えていた。炎獣は南の、もっと暑い地域で目撃される聖獣だ。北の霊峰で目撃された例はこれが初めてだった。
「このことを王宮が知ったら、聖獣学会が喜んで調査に来るぞ。……もっとも、事件の火種になりかねんだろうが」
「あんなの、近づいただけで焼けちゃうよ。報告なんてしない方がいいんじゃない?」
娘の言うことは最もだが、素直にそうと結論付けるには難しい。サイラスは今日何度目かになる唸りを上げた。
「そうは言ってもな。このまま報告なしだと帝国の仕業だということになる。それだけは避けねばならぬ」
「また、戦争になるから……?」
不安げに見上げるシュテラに、サイラスは視線を合わせずにまあな、と答える。
「不用意に攻撃をするのだけは避けたいからな。報復は報復を呼ぶ。此度の襲撃が帝国だと決められたら、引き延ばしていた戦が一気に発火する。……さっきも聞いただろう、シュー。監視塔から山道へ行く道は未だ建設中なのだ。ベースキャンプも襲われ、今、あの地点は無防備になっている。そんなところを攻め込まれては、どうしようもない」
とはいえ、ベースキャンプを今から建て直すのも難しい。山火事が落ち着き、炎獣がいなくなるのを見計らってから復興作業を開始する他ないだろう。
「炎獣はずっとそこにいるのかな?」
「これから寒くなるし、山を降りるタイミングはあるだろう。そもそも、いつ如何なる方法であの場にやって来たのかが分からんが、あの山道に来た時に目撃されていないことを考えると、帝国側から山を越えてやって来たと考えるしかないだろうな」
自ら出した推測に、サイラスはぞっとする何かを感じた。
黒魔術を多用する帝国側に、例え聖獣でも近付けるわけがない。なのに、そっちからやって来たと考えると、色々と矛盾が起こる。仮に南からやって来たとしても、直近で先程のような火に絡む事件は起こっていない。獣道を通って来たとしても、道中のどこかで出くわした小動物が焼かれていてもおかしくはないぐらいだ。
となれば、やはり帝国側にいた炎獣なのだという結論に達する。もしそれが本当なら……。
「……お義父様?」
脂汗をかいて難しい顔をするサイラスに、シュテラは恐る恐る尋ねた。
サイラスはややあってからぎこちなく首を動かし、緊張に満ちた面持ちでシュテラを見つめた。
「シュテラ。この問題は決して他言せぬようにな。後は私に任せるのだ」
「は、はい……」
有無を言わせぬ気迫に負け、シュテラは疑問を抱く前に素直に頷いたのだった。
§
助けた騎士たちは、監視塔のある小屋に下ろされ、その場で火傷の治療を行った。
騎士たちは、やはり炎獣に襲われたのだと口を揃えて打ち明けた。サイラスはこの事実を内密にした上で、原因を不運な山火事にするよう命じた。
「何故ですか、サイラス殿」
疑問を口にした監視塔の騎士に、サイラスは低い声で説明する。
「炎獣が霊峰の向こう側からやって来たとしたら、帝国が黒魔術の弱点──つまり、生き物に嫌われる特性を克服したか、使役出来るようになったと考えられる」
「……ということは、帝国が故意に炎獣を放ったと仰るのですか!?」
その一言に、場にいる全員がざわついた。サイラスはすかさず手を揚げて一同を落ち着かせる。
「あくまで、可能性だ。だが、南で炎獣が目撃されていない以上、帝国側からやって来たことに違いはない。何度も言うが、黒魔術を使役する帝国に野生の獣が棲みつく例はないのだ。聖獣であれば尚更、な」
「だとしたら、尚更報告が必要なのでは? 火事が落ち着けば、帝国は直ぐにでもこちら側へ侵攻するでしょう」
サイラスは腕を組み、今一度王宮に報告すべきかをしっかりと考えた。
帝国も馬鹿ではない。今回の事件が故意である可能性も、ある程度は匂わせたと言っても過言ではない。或いは、見せつけた、と言うべきか。
であれば、罠である可能性が濃厚になる。軍の再配備や東の山道に注視されることで、何かとんでもないことが起こるのではないだろうか。
「団長! 遅れてすまない! 状況は!?」
そこへ、ライアットたち騎士小隊と、サイラスの子供達が到着した。
サイラスは、これまでの事情をかい摘んで説明した。
「なら、こうしましょうや。俺たちの小隊があの山道へ行き、ベースキャンプを再建して待ち構えるんだ。王宮の騎士を配備するよりか、ずっと小回りが利く」
「確かにな。王宮はここから遠い。騎士の再配備には時間もかかるし、王宮から何らかの命で呼び出されたらそれに従う必要がある。ここは地方騎士団の方が柔軟に動けるはずだ」
それを聞いた監視塔の騎士たちは申し訳なさそうに頭を垂れた。
「……申し訳ございません。我々が頼りないばかりに」
「何を言う。謝ることではない。お前達は王宮騎士団の分隊だ。時にはその肩書が邪魔をすることもある。ここは我々に任せるのだ」
「承知しました。サイラス殿に感謝を」
だが、サイラス側に支給されている雷獣は、エフィリオと、まだ人を乗せられない子供の雷獣しかいない。何度か分けてベースキャンプ跡地へ向かえば、エフィリオが疲弊してしまう。これでは、炎獣と鉢合わせした際に力を発揮出来なくなるだろう。
「せめて、建設中の『籠』が完成すれば、ここからベースキャンプまで一直線なのだがなあ」
「その、籠ってどういうものなの? お義父様」
シュテラがサイラスの袖を引っ張って尋ねる。
「ああ。補強した監視塔からベースキャンプまでロープを張ってな、そこに籠を吊り下げ、機械で行き来出来るようにするのだよ」
「エフィリオがロープを引っ張って行けばいいだけじゃないの?」
「確かにロープを渡す時はエフィリオに頼むことになるが、何より一番時間がかかっているのは、籠と中に乗せる人の重量に耐えられる動力炉の開発の方なのだ」
つまり、今何かしようにも、籠とやらは用意出来ないのだと言う。
「だったら、やっぱり先行して誰かがそこに行かなきゃならないってことだよな」
黙って話を聞いていたマリアーナが口を挟んだ。
「そういうことになる。今から、ライアット達にその役を引き受けてもらおう」
ライアットはどん、と分厚い胸を叩いた。
「お安い御用だ。近くの山道を使うから、早くて夕暮れ時に到着ってところだな」
「構わぬ。準備を整え次第向かい、何かあれば信号で報せよ」
「おう」
§
結局、その後の対応は大人たちに一任し、子供達は先に屋敷に戻ることになった。
「子供って無力だな」
馬に揺られながらぼうっとした面持ちで語るマリアーナに、その後ろに乗ったシュテラは「そうだね」と半ば無意識に応える。
監視塔の籠。アレさえ出来ていれば、何人の騎士を助けられただろうか。
今回ばかりは天災と言うしかない。だが、帝国の仕業であるという可能性も拭いきれない部分がある。
(わたしに出来ることって何だろう)
シュテラは考える。大人達が驚くほどの力を持っていながら、何も出来ない自分が悔しい。
早く一人前の騎士になりたい。そうすれば、サイラスの力になれるというのに。
「炎獣のこと、調べてみよう」
唐突にエドワードが切り出すと、マリアーナとシュテラは、ほぼ同時に振り返った。
「炎獣のことを?」
「うん。父様の書斎なら、見つかるかもしれない」
本が好きなエドワードは、いつも父親の書斎から本を借りて読んでいる。
何故、剣の修行をさぼってまで読書ばかりしているエドワードに、サイラスが反対をしなかったのか──それは、彼が借りた本のほとんどが、騎士になると必ず頭に叩き込まなければならない知識ばかりだからだ。
つまり、書斎にはそれだけの本が揃っている。先日のグリュプスのことも、書斎にあった図鑑で身に付けた知識なのだ。
「父様は炎獣のことを知っていたんでしょ? だったら、そこに詳しい本が置いてあるに違いない」
「でも、父様が読んだはずの本を、わたしたちが読み返す必要ってあるのかしら?」
「そりゃあ、父様にだって覚えきれないものがあるかもしれないからだよ。本当に炎獣が南に棲んでいるのか、その辺もキッチリ調べなきゃ」
エドワードの珍しく頼りになる意見に、マリアーナとシュテラは強く頷いて同意を示した。
目を逸らしてはいけない──シュテラは本能的に悟りながら、じりじりと後ろへ退いていく。小脇に佇むエフィリオもまた、獅子を睨みつけながら、いつでも雷撃を飛ばせるよう準備を整えていた。
(エフィリオは雷を放つ雷獣。でも、あの紅いヤツって……)
シュテラは思った──たてがみに宿る炎……きっと、エフィリオと同じように、魔法の類を扱える獣に違いない。そして、ベースキャンプを襲ったのは恐らく、この獅子のような獣に違いないだろう──と。
腰に差した短剣をすらりと抜く。獣相手に短剣では心許ないが、ないよりはマシだ。
しかし、充分な訓練を受けていない自分が、果たしてこの獣に勝てるのだろうか。
「エフィリオ、もうすぐ時間よ! お義父様を迎えに行って!」
だが、エフィリオは頑として動こうとしない。相手が隙を見せないからか、或いは、自分の意志でここに立ち続けているのか。いずれにしても、この場を動くのは得策ではないというように、エフィリオは退くどころか、更に前肢を踏み出した。
シュテラの顔に焦りの色が浮かぶ。このままでは、サイラスは炎の中で煙を吸って倒れる。無茶をするなと強制したのは自分だというのに。
──突如、後方でガラガラ、と瓦礫の崩れる音がし、それを合図に、全員が一斉に動いた。
シュテラが横へ飛んでエフィリオの背にしがみつくと同時に、エフィリオは大きく背後へ跳躍し、紅い獅子の飛び掛かりを回避した。
エフィリオは大きく翼をはためかせ、風圧で砂利を獅子にぶつけていく。それが目眩ましとなり、一瞬の隙をついて旋回、その場を離れていく。
「やったわ! 早くお義父様のところへ!」
まるで神殿の柱のような炎の柱を飛び越え、先程サイラスを降ろした場所へ着地する。サイラスはゲホゲホと咳き込みながら、倒れた騎士たちを、炎から遠ざかる中央の開けた場所にかき集めていた。
「お義父様!」
最後の一人を肩に担いだサイラスがよろめく。シュテラがその者を担ぎ、サイラスはその場に崩れた。
直ぐにでも助けたい気持ちをぐっと堪えながら、シュテラはエフィリオの背に倒れた騎士たちを、まずは一度に三人ずつ乗せた。
「早く! 火と、アイツのいないところへ!」
エフィリオは大人しく言うことを聞いて、直ぐに飛行した。本来なら、心を許していない者を背に乗せることはしない雷獣だが、シュテラの頼みとあれば別だった。飛び立つ際の風圧が、熱風となってシュテラ達を襲う。シュテラは咳き込みながら、再びサイラスの下へ駆け寄った。
「もうすぐの辛抱よ、お義父様!」
「す、すまない……!」
シュテラはサイラスにあの紅い獅子のことを話そうと思ったが、こんなところで会話をする余裕はないだろう、と自制した。煙を塞ぐので精一杯だ。早く新鮮な空気を吸いたい。
間もなくして、エフィリオが帰還した。空っぽになった背中に、残りの一名とシュテラ、そしてサイラスが乗り、再び上昇する。
救出したのは全部で四名。生死までは確認していない。後はその場にいなかったか、運悪く瓦礫の下敷きになり、助からなかったかのいずれかだろう──サイラスはそう、推測で告げた。
エフィリオが三名を置いた場所に降り立つと、シュテラは布を外してあの紅い獅子の事を話した。
サイラスは初め、ぼうっとした目でシュテラの話に耳を傾けていたが、ややあって何か心当たりがあったのか、目を大きく見開かせた。
「……炎獣だ……! 間違いない!」
「炎、獣? それは雷獣のようなものなの?」
「ああ。三聖獣と言ってな。この世には炎獣、雷獣、水獣という、それぞれ違った魔力を持つ獣がいるのだ。彼らは神の遣いとされ、人に使役されることは滅多にない。雷獣が、選ばれた者にしか背を預けないのと同じようにな」
であれば、と、シュテラは当然のように思いついた疑問をぶつけた。
「炎獣も、エフィリオのように友達になれば、背中に乗せてくれるのかしら?」
「いいや、それは難しいだろう。炎獣は……伝えによれば、雷獣と違って気性の荒い聖獣だ。お前が目撃したように、誰かを目撃すれば直ぐに攻撃してくる。ベースキャンプもそうやって襲われたに違いない。故に、飼い馴らすことはおろか、近づくことさえままならぬ」
サイラスは静かに語りながら、荒い息で騎士達の安否を確認した。幸い、助けた面々は生きている。
「じゃあ、退治するの?」
「いや、それはならん」
「どうして?」
「文字通り、聖なる獣だからだよ。世界に於いても目撃例の少ない、希少な獣だ。これを倒したとあれば、山の神を怒らせるとまで言われている。……討伐の噂が広がれば、どこかで炎獣を崇拝している国が黙っておれんしな」
ただでさえカルツヴェルンとの戦で大事な時に、事を荒立たせるわけにはいかない。これは不運だった、と割り切るしかないのだ。
それより、炎獣が現れたことは、サイラスの予想を遥かに超えていた。炎獣は南の、もっと暑い地域で目撃される聖獣だ。北の霊峰で目撃された例はこれが初めてだった。
「このことを王宮が知ったら、聖獣学会が喜んで調査に来るぞ。……もっとも、事件の火種になりかねんだろうが」
「あんなの、近づいただけで焼けちゃうよ。報告なんてしない方がいいんじゃない?」
娘の言うことは最もだが、素直にそうと結論付けるには難しい。サイラスは今日何度目かになる唸りを上げた。
「そうは言ってもな。このまま報告なしだと帝国の仕業だということになる。それだけは避けねばならぬ」
「また、戦争になるから……?」
不安げに見上げるシュテラに、サイラスは視線を合わせずにまあな、と答える。
「不用意に攻撃をするのだけは避けたいからな。報復は報復を呼ぶ。此度の襲撃が帝国だと決められたら、引き延ばしていた戦が一気に発火する。……さっきも聞いただろう、シュー。監視塔から山道へ行く道は未だ建設中なのだ。ベースキャンプも襲われ、今、あの地点は無防備になっている。そんなところを攻め込まれては、どうしようもない」
とはいえ、ベースキャンプを今から建て直すのも難しい。山火事が落ち着き、炎獣がいなくなるのを見計らってから復興作業を開始する他ないだろう。
「炎獣はずっとそこにいるのかな?」
「これから寒くなるし、山を降りるタイミングはあるだろう。そもそも、いつ如何なる方法であの場にやって来たのかが分からんが、あの山道に来た時に目撃されていないことを考えると、帝国側から山を越えてやって来たと考えるしかないだろうな」
自ら出した推測に、サイラスはぞっとする何かを感じた。
黒魔術を多用する帝国側に、例え聖獣でも近付けるわけがない。なのに、そっちからやって来たと考えると、色々と矛盾が起こる。仮に南からやって来たとしても、直近で先程のような火に絡む事件は起こっていない。獣道を通って来たとしても、道中のどこかで出くわした小動物が焼かれていてもおかしくはないぐらいだ。
となれば、やはり帝国側にいた炎獣なのだという結論に達する。もしそれが本当なら……。
「……お義父様?」
脂汗をかいて難しい顔をするサイラスに、シュテラは恐る恐る尋ねた。
サイラスはややあってからぎこちなく首を動かし、緊張に満ちた面持ちでシュテラを見つめた。
「シュテラ。この問題は決して他言せぬようにな。後は私に任せるのだ」
「は、はい……」
有無を言わせぬ気迫に負け、シュテラは疑問を抱く前に素直に頷いたのだった。
§
助けた騎士たちは、監視塔のある小屋に下ろされ、その場で火傷の治療を行った。
騎士たちは、やはり炎獣に襲われたのだと口を揃えて打ち明けた。サイラスはこの事実を内密にした上で、原因を不運な山火事にするよう命じた。
「何故ですか、サイラス殿」
疑問を口にした監視塔の騎士に、サイラスは低い声で説明する。
「炎獣が霊峰の向こう側からやって来たとしたら、帝国が黒魔術の弱点──つまり、生き物に嫌われる特性を克服したか、使役出来るようになったと考えられる」
「……ということは、帝国が故意に炎獣を放ったと仰るのですか!?」
その一言に、場にいる全員がざわついた。サイラスはすかさず手を揚げて一同を落ち着かせる。
「あくまで、可能性だ。だが、南で炎獣が目撃されていない以上、帝国側からやって来たことに違いはない。何度も言うが、黒魔術を使役する帝国に野生の獣が棲みつく例はないのだ。聖獣であれば尚更、な」
「だとしたら、尚更報告が必要なのでは? 火事が落ち着けば、帝国は直ぐにでもこちら側へ侵攻するでしょう」
サイラスは腕を組み、今一度王宮に報告すべきかをしっかりと考えた。
帝国も馬鹿ではない。今回の事件が故意である可能性も、ある程度は匂わせたと言っても過言ではない。或いは、見せつけた、と言うべきか。
であれば、罠である可能性が濃厚になる。軍の再配備や東の山道に注視されることで、何かとんでもないことが起こるのではないだろうか。
「団長! 遅れてすまない! 状況は!?」
そこへ、ライアットたち騎士小隊と、サイラスの子供達が到着した。
サイラスは、これまでの事情をかい摘んで説明した。
「なら、こうしましょうや。俺たちの小隊があの山道へ行き、ベースキャンプを再建して待ち構えるんだ。王宮の騎士を配備するよりか、ずっと小回りが利く」
「確かにな。王宮はここから遠い。騎士の再配備には時間もかかるし、王宮から何らかの命で呼び出されたらそれに従う必要がある。ここは地方騎士団の方が柔軟に動けるはずだ」
それを聞いた監視塔の騎士たちは申し訳なさそうに頭を垂れた。
「……申し訳ございません。我々が頼りないばかりに」
「何を言う。謝ることではない。お前達は王宮騎士団の分隊だ。時にはその肩書が邪魔をすることもある。ここは我々に任せるのだ」
「承知しました。サイラス殿に感謝を」
だが、サイラス側に支給されている雷獣は、エフィリオと、まだ人を乗せられない子供の雷獣しかいない。何度か分けてベースキャンプ跡地へ向かえば、エフィリオが疲弊してしまう。これでは、炎獣と鉢合わせした際に力を発揮出来なくなるだろう。
「せめて、建設中の『籠』が完成すれば、ここからベースキャンプまで一直線なのだがなあ」
「その、籠ってどういうものなの? お義父様」
シュテラがサイラスの袖を引っ張って尋ねる。
「ああ。補強した監視塔からベースキャンプまでロープを張ってな、そこに籠を吊り下げ、機械で行き来出来るようにするのだよ」
「エフィリオがロープを引っ張って行けばいいだけじゃないの?」
「確かにロープを渡す時はエフィリオに頼むことになるが、何より一番時間がかかっているのは、籠と中に乗せる人の重量に耐えられる動力炉の開発の方なのだ」
つまり、今何かしようにも、籠とやらは用意出来ないのだと言う。
「だったら、やっぱり先行して誰かがそこに行かなきゃならないってことだよな」
黙って話を聞いていたマリアーナが口を挟んだ。
「そういうことになる。今から、ライアット達にその役を引き受けてもらおう」
ライアットはどん、と分厚い胸を叩いた。
「お安い御用だ。近くの山道を使うから、早くて夕暮れ時に到着ってところだな」
「構わぬ。準備を整え次第向かい、何かあれば信号で報せよ」
「おう」
§
結局、その後の対応は大人たちに一任し、子供達は先に屋敷に戻ることになった。
「子供って無力だな」
馬に揺られながらぼうっとした面持ちで語るマリアーナに、その後ろに乗ったシュテラは「そうだね」と半ば無意識に応える。
監視塔の籠。アレさえ出来ていれば、何人の騎士を助けられただろうか。
今回ばかりは天災と言うしかない。だが、帝国の仕業であるという可能性も拭いきれない部分がある。
(わたしに出来ることって何だろう)
シュテラは考える。大人達が驚くほどの力を持っていながら、何も出来ない自分が悔しい。
早く一人前の騎士になりたい。そうすれば、サイラスの力になれるというのに。
「炎獣のこと、調べてみよう」
唐突にエドワードが切り出すと、マリアーナとシュテラは、ほぼ同時に振り返った。
「炎獣のことを?」
「うん。父様の書斎なら、見つかるかもしれない」
本が好きなエドワードは、いつも父親の書斎から本を借りて読んでいる。
何故、剣の修行をさぼってまで読書ばかりしているエドワードに、サイラスが反対をしなかったのか──それは、彼が借りた本のほとんどが、騎士になると必ず頭に叩き込まなければならない知識ばかりだからだ。
つまり、書斎にはそれだけの本が揃っている。先日のグリュプスのことも、書斎にあった図鑑で身に付けた知識なのだ。
「父様は炎獣のことを知っていたんでしょ? だったら、そこに詳しい本が置いてあるに違いない」
「でも、父様が読んだはずの本を、わたしたちが読み返す必要ってあるのかしら?」
「そりゃあ、父様にだって覚えきれないものがあるかもしれないからだよ。本当に炎獣が南に棲んでいるのか、その辺もキッチリ調べなきゃ」
エドワードの珍しく頼りになる意見に、マリアーナとシュテラは強く頷いて同意を示した。
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