PULLUSTERRIER《プルステリア》

杏仁みかん

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Section3:揺れる魂(アニマ)

22:十二歳の誕生日 - 2

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 ――まだ記憶にある。あれは六年前の春だ。
 象牙色アイボリーに統一された長い通路だった。僕にとっての通学路でもあるその道は、何度通っても面会に来る親族や看護士、先生、或いは患者も……数える程しか見たことがない。
 六十五階。その突き当たりの一番奥の病室。一般病棟の相部屋なんかではなく、広い個室だった。壁のところどころには温かみのある木材が利用されていて、通路とは違った優しい病室だった。
 窓際には大きなベッドと、その脇にある小さなキャビネットには病室を彩る色彩豊かな花束。面会用の机には今も手つかずのリンゴが籠の中に一つ、置かれている。
 母は身体を起こしたまま、垂れ流しにしているテレビも観ずにずっと、白く濁った窓の外を眺めていた。何かが見えるわけじゃない。雲があるというわけでもない。スモッグのどこがいいと言うのだろう。
 テーブルに新しい果物を置くと、物音で気がついた母は、ようやく僕の方を振り返った。

「……あら、悠月ユヅキ。お帰り」

 母はそう言って痩せこけた顔で笑顔を作った。それから、二度、強い咳をした。
 僕は辛そうな母を気がかりにしながらもランドセルを適当な所に置くと、椅子を引っ張ってきて母のベッドの傍に座った。

「……ただいま、母さん。リンゴ、買っておいたよ」
「ありがとう。学校はどうだった? テストだったんでしょ、今日」
「まぁね。……うん、わりと楽だったよ、今回は。でも、カイはどうだか」

 母は「まあ」と呆れてから、クスクスと笑った。
 弟は僕と真逆で勉強嫌いだ。今もテストが終わるやゲームに夢中ってところだろう。
 彼は僕と同じ時間に面会をしたがらない。話のネタにされ、バカにされるのが嫌らしいのだ。

「カイはね、今回は頑張ってくれたわよ」

 と、母は満足そうに目を閉じて語った。どうやら、僕よりも先にここを訪れていたらしい。

「あの子は、やれば出来る子なの。私にはずうっと昔から……解ってた」
「……あいつ、なんか言ってたの?」

 僕は自分でも分からないうちに声のトーンを落とし、恐る恐る訊ねていた。ところが、母はゆっくりと首を横に振ってみせた。

「いいえ、なんにも。ここへ来たら、『ただいま』って言って、それから私の話に『うん』とか『そうだね』とか、相槌しか打ってなかったわよ」
「……そっか」
「でもね、試験前に比べて、ずっと晴れやかな顔してた。『母さん、やったよ』っていう気持ちが伝わってくるの」

 それは母の主張だ。だって、カイのヤツ、まるで勉強をしている素振りを見せていなかったじゃないか。
 これまでも成績は悪く、何度も職員室に呼び出されていたらしい。大丈夫、なんてことはないはずだが。

「ところで母さん。さっきから何で窓の外を見ているのさ。何も見えないでしょ?」

 母はちょっと話しかけないと、また窓の外を眺める作業に没頭する。
 少し前まではこんなことをしていなかったというのに、どこか不安にさせる行動だった。
 母はまた強い咳を何度か繰り返し、それから重々しく口を開いた。

「……ちょっとでもね。スモッグが晴れて景色が見られたらって思うのよ」
「無理だよ、そんなの。見えるわけないじゃん」

 僕はきっぱりと言ってしまい、それから直ぐに後悔した。

「……ごめんなさい」

 そう謝ると、母は僕の頭を優しく撫でた。

「そうね。だから、尚更憧れるのよ。空が見える、プルステラってところに」
「え!? 母さん……聞いてたんだ?」
「ええ。父さんからね。……今度の日曜日、みんなで説明会に行くんでしょ? 大変らしいじゃない、色々と」
「……その、さ」

 僕はそこで言葉を一旦詰まらせた。話そうか一瞬迷いが生じたが、思い切って話すことにした。

「母さんのことも、訊いてみるよ。何とかなるかもしれない」

 約束なんて出来ない。相手がいい答えを返してくれるとも思えない。
 それでも母はにっこりと笑い、ありがとう、とだけ返した。

 その週末の土曜日だった。担当医師に呼び出され、僕の描いていた微かな希望はことごとく崩れ去った。

「あと半年の命です」と、医者は端的に言った。

 ――死の宣告。

 僕も、カイも、父も、きっと同じような顔をしていただろう。
 どこにぶつけることも出来ないやるせない怒りや悲しみにうちひしがれ、歯ぎしりし、或いは泣いていたと思う。
 プルステラの完成はおよそ五年後だ、という噂をネットで聞いたばかりだ。例え奇跡が起きたとしても、そこまで生きられる確率は限りなく低い。
 母には告げないことにした。……いや、告げなくても解っているだろう。だから、敢えて僕らの方が知らないフリをしていたかった。母さんは……他人に迷惑をかけさせたくない性格だから……。

 その翌日、僕らは互いにほとんど無言でアニマリーヴ・プロジェクトの説明会に足を運んだ。
 僕はこれまで、このプロジェクトに対してあまり乗り気ではなかった。人の手で汚した環境を棚に上げ、新しい世界に逃げ込むような計画に、どうして賛同出来ようか。そのせいで母は病気になったっていうのに。
 しかし、父だけは冷静に説明に耳を傾け、資料を貰っているのにも関わらず、ノートでわざわざ細かいメモを取っていた。行くかどうかに関わらず、あくまで検討するためのメモだったらしい。
 後でそっと聞いたのだが、カイは僕と同じで興味を示さず、ずっと母のことを考えていたそうだ。どうしたら救えるのか、プルステラの完成に間に合う術はないだろうか……などと。

 だが、そんな考えを嘲笑うかのように、説明会は予定していたプログラムに従ってあっさりと幕を閉じた。そこに、母が入り込める余地など、ありはしなかった。
 父は帰り際、僕らに一言、こう告げた。

「……母さんのところに行こう。一旦家に帰って、ちゃんと着替えてからな」

 どうせ病室へ行くのなら直接行けばいいのに、と思ったのだが、父の考えはそんなものではなかった。
 家に帰ると、父は僕らに制服に着替えろと命じてきた。父も、パリッとしたスーツに着替え始めている。
 一体何のつもりだろうと思いつつ、休日だというのに明日着る予定の制服一式を取り出した。

 僕の通う小学校は私立校だった。……たまにこうも言われる。「お坊っちゃま学校」だと。
 もう百年以上も昔に制服というものは一般的な小学校から廃れたと聞くが、うちの学校を含む一部の私立校だけは制服の伝統を絶やさなかった。お陰で、電車に乗る時は必ずと言っていいほどいろんな視線を向けられる。
 白いワイシャツに深緑で統一されたブレザー、ベレー帽、半ズボンに校章のワンポイントが入ったハイソックス、そして黒のローファー……これが当たり前のように毎日着ていた僕らの小学校の制服であり、女子はズボンがスカートに変わるだけだった。
 カイも同じ制服に身を包むと、「変な気分だね」と呟いていた。

 無機質な病院の長い通路を、放課後でも入学式でもないのに横一列に並ぶ僕ら三人は、どう見ても異質なものにしか映らなかっただろう。
 病室のドアを開けるや、当然ながら母は「どうしたの?」と驚いた表情を向けてきた。

「写真を撮りたいんだ。プルステラに写真が持ち込めるって言うからな」

 父はそう説明した。
 母はどう思っただろうか。自分が死ぬと告げられたように感じただろうか。
 ところが――

「……私もそれを待っていたところなの」

 と、母はまるで父のやることを見透かしていたかのように言った。

「こうして子供たちの制服が見られるのも、あと少しなのね」

 それは卒業を意味するのか、寿命を意味するのか。
 僕は母に背を向けた。悲しさのあまりに涙を零しそうになり、ぎゅっと下唇を噛みしめた。

「じゃあ、タイマーで撮るぞ」

 父は持ち込んできた三脚にカメラを乗せ、タイマーをセットし、僕らの後ろに立った。
 母はベッドから身体を起こし、仏頂面になっている僕とカイの両肩に腕を回した。
 そして、セットした十秒が経つ寸前、母はそっと耳元に声をかけた。

「ユズ、カイ、……笑って?」

 ――ユズ。
 母が入院する前、ずっと呼んでいた僕の愛称だ。
 その言葉が僕の凍りついた心を少しだけ溶かし、噛みしめていた唇がほんの僅かだけ力を緩ませた。……それでも。

 パシャッ。

 フラッシュと同時に軽いシャッター音が鳴り、その瞬間が切り取られた。
 プレビューを見た母は満足そうに笑ってくれた。……僕だけはきっと満足のいく顔じゃなかっただろう、そう思っていたのに。
 父、カイ、そして母――全員が無理矢理笑顔を作っていた中、僕だけは無表情を貫いていたのだ。

 ――嘘をつきたくない。
 そういう心の表れなんだと思う。

「ねぇ、ユヅキ」

 母は僕の頭を撫でながら優しく語りかけた。

「この写真、青いフレームに飾りたいわね。……やってくれる?」

 僕は、はっとなって母を振り返った。

 母はどこか遠くを見る目をしていた。
 ずっと憧れる空の下にいるかのように――この写真を空の色のフレームに納めたいのだ。

「……うん。約束する。うんと高い空の色にしてあげる」
「ふふっ……ありがとう」

 後日、病室には青い縁の写真立てが置かれ、プルステラに持ち込むフォトフレームの色も、後の手続きで同じ色に決定した。
 宇宙に最も近い、ギリギリ空色と呼べる、濃い青色。
 母は喜び、毎日のようにそのフレームを手放さなかった。

 十二月――僕らが卒業するのを待たずして亡くなる、その日まで。


 ◆


 そっとドアを開けると、ヒマリのすすり泣きが聞こえてきた。
 ベッドの上でうずくまり、写真を抱えているのは……ヒマリの姿をしたユヅキと言う名の、別の少年。

「……お兄ちゃん……」

 ユヅキは俺の姿に気付いて、ヒマリの声でそう告げた。
 細い手で涙を拭き取り、無理に笑いかけるその姿は……本当に妹のように思える。
 ユヅキは、無理をしているのではないだろうか。
 ヒマリでいることで、辛いことを忘れようだとか、そんなことを考えていたんじゃないだろうか。

「えっとさ……これ、どうしたの?」

 ユヅキは濃い青色のフォトフレームを僕に見せた。
 ヒマリと変わらない歳の少年と、それよりも幼い――恐らく弟だろう――と、後ろには両親と思える姿の写真。

「ごめん。前に聞いたユヅキの家に行って、拝借してきた」
「……さらっと……すごいことするね」
「まあな。そういう道を歩んだ時期もあったからな。可愛い妹のためなら何だってするぜ」

 ……などとカッコいい言い訳を言ってみたが、実は警官に適当な嘘を言い、ちょっとばかり協力を要請したのだ。
 オオガミ家は遠い親戚なのだが、一カ月経ったのにプルステラに来ない。ここの長男であるユヅキと仲良くしていた妹が非常に悲しんでいるので、せめてこの家の住人がやって来るまで、写真だけでも預かってていいだろうか――と。

 実際、オオガミ家の人間は一人としてプルステラにやって来ていない。その記録を確かめた警官は、親戚と裏付ける証拠の提示を求めた。ユヅキの生年月日や出身地など、事前にユヅキ本人に聞いていてコミュでは判明できない部分を答えると、警官はようやく納得し、署名の上で一時的にフォトフレームを借りる、という名目で手に入れることに成功した。以後、俺の行動は警官にマークされるだろうが、下手にピッキングをしてバレるよりか遥かにマシだった。

「……うっ……ぐすっ……」

 気付けば、妹はまた肩を震わせて泣いている。
 ――しょうがないな。しばらく傍にいてやるか。

 隣に座り、昔そうしていたように、ヒマリの頭を撫でてやる。
 不思議と、それだけでユヅキは落ち着いてきた。

「ごめん……わからなくて……どうしたらいいか」と、ユヅキはまだ震える声で言った。「ヒマリとして誕生日プレゼントを貰って……キミからはユヅキのプレゼントを貰ってる……こんなのってさ……」

 恐らくユヅキは、ユヅキとしての孤独による冷たさと、ヒマリとしての家族や友人による温かさを同時に感じていたのだろう。
 本来はユヅキでなくてはならない。だが、そのユヅキの心は冷えきっていて、ヒマリとして生きることに幸せを感じつつある。……でもそれは、ユヅキだった頃の大切な思い出をないがしろにするということでもあったのだ。

「この写真はね、母さんが死ぬ、半年前のものなんだ――」

 ――と、ユヅキは俺にこの写真に纏わる一部始終を説明してくれた。六年前、ユヅキがちょうどヒマリと同じ十二歳だった頃だ。
 そのおよそ三年後――つまり今から三年前に、まさかヒマリをも救えなかったアニマ・バンクが登場しようとは、誰が予想出来ただろうか。
 家族の命を救えなかった家庭は、誰もがこう思ったに違いない。――どうして、もっと早くにこのシステムが出来なかったのか――と。

 俺は最初、ヒマリがヒマリで無かったということに、やるせない怒りと悲しみを感じていた。それが仕方のないことだと自分に言い聞かせてはいたし、ユヅキのせいでもないのは解っていたのだが、時折やり場のない怒りをどこかにぶつけたくなる時もあった。
 でも、ユヅキは、もっと酷い苦しみを味わっていた。そもそも家族の魂を預けることすら、赦されなかったのである。
 こんなの、あんまりだ。きっと、彼の母親だって無念だったに違いない。
 ユヅキだって一人でここに来たわけだし、身寄りもなく、今はヒマリとして生きている。
 その辛さを考えると責められるわけがなく、むしろ、何とかしてやりたい――そう思うのだ。

「……ユヅキ」

 俺は彼の名で呼んだ。
 ヒマリである彼は、赤く腫れあがった目で俺を見上げた。

「どう生きても、俺は責めない。お前が欲しいものは、何だって手に入れてやる。……だからもう、一人で悩むなよ」

 まるで氷が溶けていくように、ヒマリの姿をした少年は少しずつ顔を緩ませていった。
 終いにはいつもの屈託のない笑顔で、

「うん!」

 と、元気良く頷いたのだった。
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