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第一章 荷台に棲む獣〈こども〉たち
#3:夢見る兎 - 1
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一家の食糧の問題はアステリオンのお陰で概ね解消された。初めての貢献である。
野菜の中でも特に腐りにくい根菜はなるべく薄切りにし、短時間で乾物に変えることに成功した。
このまま何事もなく東の果てに辿り着けば、船に乗ってエシャル大陸へ渡れる。誰もがそう考えていた。
だが、二週間程経ったある日、砂漠に雨が降った。
降った、で済むのならいいが、大陸中部で雨が降る時は大抵、大粒の雨で豪雨となる。柔らかい砂地とも相まって、車を走らせればズブズブと泥状になった砂をかき込んで埋まってしまうので、こうなってしまっては大人しくどこかで停車するしかない。ラジオを聴いてみると、大陸中部で定期的に訪れる雨期に入ったということが分かった。雨はしばらく続く見込みだ。
幸い、一行は小さな街に到着していたのだが、雨は三日三晩ネチネチと嫌味を言い続けるかのように降り続け、出発の時間になってもやはり止む気配がないため、急遽出発を中止した。雲を観察していたアステリオンも、当分は無理だろうと首を振った。
町外れに停めたトラックの荷台で、子供たちは天井を延々と叩く音を耳にしながら宿を探しているルーシー達を待ち続け、暇を持て余していた。
スクァーレルはいつも通りに寝床で昼寝をし、他の三人は声を殺しながら中央で輪になって座り、カードゲームで遊んでいる。
コシュカは手札を投げやりに放り投げ、うっとうしそうに言った。
「こうも雨が続いてたら、車が砂に沈んだりするんじゃねーか?」
クニークルスは呆れた顔でそれを受け流した。
「バカね。さっき板をタイヤに噛ませたじゃない。直ぐに沈みやしないわよ」
それからわざとらしく大きな溜め息をつくと、ぼそぼそと小さな声で「……早く次の街に行きたいのに」と呟いた。
その声はアステリオンには聞こえていた。
「街にいるのに、何でそんなに急ぐんだ? 次の街に何かあるの?」
「な、なんでも……ないわよ!」
疑問を素直に言葉にしただけなのに、クニークルスは目を泳がせ、口籠もった。
らしくない慌てぶりに、コシュカの悪戯心が芽生える。尻尾のようになっている髪をぐいっと引っ張るや、クニークルスは反射的にそれを叩き、振り払った。
「何すんのよ!」
「言えばいいじゃん。何で言わねーんだよ?」
「アンタなんかに言うことなんて何もないわよ!」
「ケチー」
アステリオンはそのやり取りに、ただ苦笑して見守った。
「残念だけど、今日は野宿に決定よ」
やがて帰って来たルーシーが即座に決断を下した。
「雨のせいで宿はどこも埋まってるし、足元を見て宿賃もつり上げてる。ここで寝た方がマシよ」
そう付け足して説明すると、子供たちは異を唱えることなく納得した。そもそも、彼らが乗る車は宿泊費がかからないようにと改造した車であり、寝泊まりには何の不都合もなかったからだ。
だが、クニークルスだけはいつになく落ち着かない様子だった。アステリオンもコシュカも、何かがおかしいとだけは感付いていたが、この場では敢えて口にしなかった。
その夜。大分音の弱まった雨音を聴きながら寝つけないコシュカが、忍び足でアステリオンの寝床まで移動した。
(おい、アスティ。起きろよ)
アステリオンも何だか寝つけないので、直ぐに身を起こした。
(何? どうしたの、コシュカ?)
(お前、クニークルスが何でイライラしてるか分かるか?)
アステリオンは首を横に振った。
(あいつ、楽園に行きたいってずっと言ってたろ? だから遅れるのがイヤなんだよ)
(でも、楽園なんて一日二日で行けるもんじゃないでしょ? あるかも分からないのに)
(だから焦ってるんだよ。お前だって体験しただろ? あんな砂渦がいつ頃出てくるか分からねーし、遅れるっつーことは、危険が増すってことだからさ)
それもそうだ、とアステリオンは頷いた。
しかし、だからと言って慌てたってどうにかなる問題じゃない。
(でもさ、何でそんなに楽園に執着するの? 楽園に行くことはみんなの夢だろ? それにしては急いでるっていうか)
そうそう、そこなんだよ、とコシュカが人指し指を立てて振った。
(俺もルーシーに訊いたことあるんだけどさ。みんなそうでしょ、ってそれだけしか言わなかったんだ。デュランも全く聞いてないらしいし)
(多分、何か深い理由があるんだ。そうじゃなきゃ、あんなに執着しないよ)
クニークルスは間もなく十四歳になると言う。大人になるまでまだまだ先の話だ。
アステリオンにしてみれば、早く大人になりたいと思っていた。大人になれば行動の制限が無くなり、旅をするには明らかに有利だからだ。
だから、クニークルスが大人になるのを待たずして楽園を探すという理由が、アステリオンには理解出来なかった。
(だったらさ、あいつの寝床を覗こうぜ。何か秘密があるかもしれねーし)
コシュカの突然の提案にアステリオンはどきっとした。
(ダメだよ、そんなことしちゃあ。女の子の部屋って、覗いたら怒られるんだろ?)
昔、母親にそれだけはいけない、と教え込まれたことがあった。何故か、までは分かっていないのだが。
(見つからなきゃいいんだよ)
(ぼくは遠慮するよ。見つからない自信なんてないし)
(だったらオレ一人でやるぜ。こういうのはガキん時からやってて、得意だからな)
アステリオンはコシュカを止めるべきか迷った。
良いか悪いかで言えば、悪いことのはずなのだ。
しかし、家族に秘密を持って隠し続けているクニークルスも、決していいとは言えない。
家族に入るために覚悟だ何だのと試されたわりには、クニークルスだけ本音を言わないのは不公平ではないのだろうか。
結局、アステリオンはコシュカに一任し、何があっても黙っていようと決めたのだった。
(よし、行ってくるぜ)
アステリオンは小さく頷き、這っていくコシュカを黙って見送った。
彼が上手く秘密を掴んで戻ってきたら情報を共有することが出来る。
例え見つかって失敗したとしても、アステリオンは何もしなかったということで同罪を免れる。そんな美味しい算段を考えていた。
四つ足でクニークルスのスペースへ近づく姿は、まさに図鑑で見た猫そのものだな、とアステリオンは思った。
幸い、と言うべきか、雨音が忍び寄る音を完全に遮断してくれている。
いよいよ、コシュカがクニークルスのスペースを遮る布をめくった。コシュカの胸が緊張で高鳴り、ごくり、と生唾を飲む音が自分で感じられた。
(クニークルスは……熟睡してるな……)
寝顔を見るのは初めてかもしれない、とコシュカは思った。
いつものツンとした表情はない。代わりに、ただスヤスヤと眠っているだけの無邪気な女の子の顔がそこにあった。
(……なんだよ。寝てる時は充分可愛いじゃねーか)
忍び込んでいることもすっかり忘れて、コシュカはクニークルスの寝顔に見とれていた。
五秒……いや、十秒が経過し、コシュカはようやく正気に戻る。
(おいおい、これじゃただの夜這いじゃねーか……)
頭を振って思考をリセットする。
改めて何か目ぼしいものはないか見渡すが、コシュカのスペースとは違ってしっかりと片付いているので、何があるのか直ぐに把握出来そうにない。
クニークルスの寝顔に注意しながら、コシュカは服が詰まった箪笥に手を付けた。何かを隠すにはうってつけの場所だからだ。
取っ手を両手で掴み、擦る音を立てぬよう気を付けて引っ張ると──
「ダメッ!」
「どわああっ!?」
背後から声をかけられ、コシュカは飛び上がった。
慌てて口を塞いだが、既に遅い。
錆び付いた機械のようにギリギリとゆっくり振り返ると、いつの間にやって来たのか、ムッとした表情のスクァーレルと、その背後には怒りに打ち震えるクニークルスの姿が……。
「……アンタ、まさか寝ぼけてた、とか言わないでしょうね……?」
ドスの利いた声にコシュカはぷるぷると震えだした。
顔は引きつり、ドッと汗が吹き出る。
「そうしてくれるとありがたい、んだけどな……ははは」
「出てけ! このド変態ッ!!」
鼓膜が破れるかと思う程の怒声に、コシュカは這って逃げ出した。その去りぎわにクニークルスに尻を蹴っ飛ばされ、「ゴミだめ」の山を崩しながら転がる。
遠巻きに見ていたアステリオンは顔を引きつらせ、母親が言ったことは本当だったと理解し、二度と女の子の部屋には近づかないことを心の中で誓った。
一方で、アステリオンは不思議に思っていた。スクァーレルはどうやって対角線上のクニークルスのスペースまで移動したのだろう。
暗闇の中とはいえ、モノの形状が見えるぐらいには目が肥えている。コシュカの後ろ姿が確認出来たぐらいなのだ。スクァーレルの姿だけが見えないというのはおかしい。
(壁際に沿って移動したのかもしれないな)
目の前の修羅場の方が気になってしょうがないアステリオンは、ひとまずそのように頭の中で納得したのだった。
「いってー! そこまでやらなくても……」
コシュカはたんこぶの出来た頭を摩った。
「はあ!? そこまで!? そこまでって言える!? 家族とは言え、アンタがしたことは明らかに犯罪よ! だいたい、何で忍び込んできたわけ!?」
「説明したって納得しねーだろ!?」
「いいから話しなさい! アンタにはそれを明かす責任があるわ!」
コシュカはムスッとした顔を向けた。
「……お前が、何で次の街へ急いでんのか話さねーからだよ」
「はあ!? ア、アンタ、そんなこと言って誤魔化そうってわけじゃ──」
明らかに動揺を見せるクニークルスに、コシュカはしめた、とばかりに強気な態度に出た。
「すっとぼけんなよ! アスティが来る前からずっとそうだった。雨で遅れそうになった時、すげーイライラしてよ、一家の長でもねーのに、早く行きたいだの、次の街の滞在時間を短くしろだの、ルーシー達に無理言って困らせてたじゃねーか!」
「そ、それは……」
誰から見ても形勢が逆転したのは明らかとなった。
スクァーレルは心配そうにクニークルスを見上げ、アステリオンはどちらかと言えば初めて聞いた話に驚くばかりだ。
そこへ突然、車のドアが乱暴に開け放たれ、子供たちはビクッと肩を震わせて一斉に注目した。
傘を差し、カンテラを片手に持ったルーシーが仁王立ちになっていた。
「こんな夜中にドタバタして、一体何の騒ぎ!?」
コシュカとクニークルスは半ば困ったような不貞腐れたような顔で互いに見つめ合い、ほぼ同時に視線を逸らした。
ややあって、初めに口を開いたのはクニークルスだった。
「……何でもないわ」
「嘘おっしゃい!」
「本当に何でもないのよ、ルーシー。……お願い。雨が入ってくるわ」
先程までの勢いはすっかり無くなっていた。
クニークルスは疲れた視線でルーシーをじっと見つめた。
傘に降り注ぐ雨音だけが、ルーシーの返事を待って虚しく鳴り続く。
「…………いいわ。今日はもう寝なさい」
それだけ言って、ドアはピシャリと閉じられた。
コシュカもクニークルスも、アステリオンも──スクァーレルまでもが、同時に溜め息をついた。
「一つ貸しにするわ」クニークルスが低い声で言った。「でも、次やったら本ッ当に許さないから」
だが、コシュカは頑として認めない。
「……お前もちゃんと話せよ。みんな知らねーんだから」
「…………」
それきり、二人の声は聞こえなくなり、アステリオンは二人に背を向ける形で横になった。
スクァーレルもいつの間にか戻ってきたようで、寝床でゴソゴソと動く音だけが微かに聞こえてきた。
(たった一つの疑問が、こんな傷痕を残すなんて……)
アステリオンは、余計な好奇心でコシュカを止めなかったことを後悔した。
家族と言えど、話せないこともある。だが、本当にそれでいいのだろうか?
そう考えるうちに、いつの間にかアステリオンは眠りについた。
無機質な雨の音だけが、いつまでも子供たちを責め立てるように天井を叩き続けていた。
野菜の中でも特に腐りにくい根菜はなるべく薄切りにし、短時間で乾物に変えることに成功した。
このまま何事もなく東の果てに辿り着けば、船に乗ってエシャル大陸へ渡れる。誰もがそう考えていた。
だが、二週間程経ったある日、砂漠に雨が降った。
降った、で済むのならいいが、大陸中部で雨が降る時は大抵、大粒の雨で豪雨となる。柔らかい砂地とも相まって、車を走らせればズブズブと泥状になった砂をかき込んで埋まってしまうので、こうなってしまっては大人しくどこかで停車するしかない。ラジオを聴いてみると、大陸中部で定期的に訪れる雨期に入ったということが分かった。雨はしばらく続く見込みだ。
幸い、一行は小さな街に到着していたのだが、雨は三日三晩ネチネチと嫌味を言い続けるかのように降り続け、出発の時間になってもやはり止む気配がないため、急遽出発を中止した。雲を観察していたアステリオンも、当分は無理だろうと首を振った。
町外れに停めたトラックの荷台で、子供たちは天井を延々と叩く音を耳にしながら宿を探しているルーシー達を待ち続け、暇を持て余していた。
スクァーレルはいつも通りに寝床で昼寝をし、他の三人は声を殺しながら中央で輪になって座り、カードゲームで遊んでいる。
コシュカは手札を投げやりに放り投げ、うっとうしそうに言った。
「こうも雨が続いてたら、車が砂に沈んだりするんじゃねーか?」
クニークルスは呆れた顔でそれを受け流した。
「バカね。さっき板をタイヤに噛ませたじゃない。直ぐに沈みやしないわよ」
それからわざとらしく大きな溜め息をつくと、ぼそぼそと小さな声で「……早く次の街に行きたいのに」と呟いた。
その声はアステリオンには聞こえていた。
「街にいるのに、何でそんなに急ぐんだ? 次の街に何かあるの?」
「な、なんでも……ないわよ!」
疑問を素直に言葉にしただけなのに、クニークルスは目を泳がせ、口籠もった。
らしくない慌てぶりに、コシュカの悪戯心が芽生える。尻尾のようになっている髪をぐいっと引っ張るや、クニークルスは反射的にそれを叩き、振り払った。
「何すんのよ!」
「言えばいいじゃん。何で言わねーんだよ?」
「アンタなんかに言うことなんて何もないわよ!」
「ケチー」
アステリオンはそのやり取りに、ただ苦笑して見守った。
「残念だけど、今日は野宿に決定よ」
やがて帰って来たルーシーが即座に決断を下した。
「雨のせいで宿はどこも埋まってるし、足元を見て宿賃もつり上げてる。ここで寝た方がマシよ」
そう付け足して説明すると、子供たちは異を唱えることなく納得した。そもそも、彼らが乗る車は宿泊費がかからないようにと改造した車であり、寝泊まりには何の不都合もなかったからだ。
だが、クニークルスだけはいつになく落ち着かない様子だった。アステリオンもコシュカも、何かがおかしいとだけは感付いていたが、この場では敢えて口にしなかった。
その夜。大分音の弱まった雨音を聴きながら寝つけないコシュカが、忍び足でアステリオンの寝床まで移動した。
(おい、アスティ。起きろよ)
アステリオンも何だか寝つけないので、直ぐに身を起こした。
(何? どうしたの、コシュカ?)
(お前、クニークルスが何でイライラしてるか分かるか?)
アステリオンは首を横に振った。
(あいつ、楽園に行きたいってずっと言ってたろ? だから遅れるのがイヤなんだよ)
(でも、楽園なんて一日二日で行けるもんじゃないでしょ? あるかも分からないのに)
(だから焦ってるんだよ。お前だって体験しただろ? あんな砂渦がいつ頃出てくるか分からねーし、遅れるっつーことは、危険が増すってことだからさ)
それもそうだ、とアステリオンは頷いた。
しかし、だからと言って慌てたってどうにかなる問題じゃない。
(でもさ、何でそんなに楽園に執着するの? 楽園に行くことはみんなの夢だろ? それにしては急いでるっていうか)
そうそう、そこなんだよ、とコシュカが人指し指を立てて振った。
(俺もルーシーに訊いたことあるんだけどさ。みんなそうでしょ、ってそれだけしか言わなかったんだ。デュランも全く聞いてないらしいし)
(多分、何か深い理由があるんだ。そうじゃなきゃ、あんなに執着しないよ)
クニークルスは間もなく十四歳になると言う。大人になるまでまだまだ先の話だ。
アステリオンにしてみれば、早く大人になりたいと思っていた。大人になれば行動の制限が無くなり、旅をするには明らかに有利だからだ。
だから、クニークルスが大人になるのを待たずして楽園を探すという理由が、アステリオンには理解出来なかった。
(だったらさ、あいつの寝床を覗こうぜ。何か秘密があるかもしれねーし)
コシュカの突然の提案にアステリオンはどきっとした。
(ダメだよ、そんなことしちゃあ。女の子の部屋って、覗いたら怒られるんだろ?)
昔、母親にそれだけはいけない、と教え込まれたことがあった。何故か、までは分かっていないのだが。
(見つからなきゃいいんだよ)
(ぼくは遠慮するよ。見つからない自信なんてないし)
(だったらオレ一人でやるぜ。こういうのはガキん時からやってて、得意だからな)
アステリオンはコシュカを止めるべきか迷った。
良いか悪いかで言えば、悪いことのはずなのだ。
しかし、家族に秘密を持って隠し続けているクニークルスも、決していいとは言えない。
家族に入るために覚悟だ何だのと試されたわりには、クニークルスだけ本音を言わないのは不公平ではないのだろうか。
結局、アステリオンはコシュカに一任し、何があっても黙っていようと決めたのだった。
(よし、行ってくるぜ)
アステリオンは小さく頷き、這っていくコシュカを黙って見送った。
彼が上手く秘密を掴んで戻ってきたら情報を共有することが出来る。
例え見つかって失敗したとしても、アステリオンは何もしなかったということで同罪を免れる。そんな美味しい算段を考えていた。
四つ足でクニークルスのスペースへ近づく姿は、まさに図鑑で見た猫そのものだな、とアステリオンは思った。
幸い、と言うべきか、雨音が忍び寄る音を完全に遮断してくれている。
いよいよ、コシュカがクニークルスのスペースを遮る布をめくった。コシュカの胸が緊張で高鳴り、ごくり、と生唾を飲む音が自分で感じられた。
(クニークルスは……熟睡してるな……)
寝顔を見るのは初めてかもしれない、とコシュカは思った。
いつものツンとした表情はない。代わりに、ただスヤスヤと眠っているだけの無邪気な女の子の顔がそこにあった。
(……なんだよ。寝てる時は充分可愛いじゃねーか)
忍び込んでいることもすっかり忘れて、コシュカはクニークルスの寝顔に見とれていた。
五秒……いや、十秒が経過し、コシュカはようやく正気に戻る。
(おいおい、これじゃただの夜這いじゃねーか……)
頭を振って思考をリセットする。
改めて何か目ぼしいものはないか見渡すが、コシュカのスペースとは違ってしっかりと片付いているので、何があるのか直ぐに把握出来そうにない。
クニークルスの寝顔に注意しながら、コシュカは服が詰まった箪笥に手を付けた。何かを隠すにはうってつけの場所だからだ。
取っ手を両手で掴み、擦る音を立てぬよう気を付けて引っ張ると──
「ダメッ!」
「どわああっ!?」
背後から声をかけられ、コシュカは飛び上がった。
慌てて口を塞いだが、既に遅い。
錆び付いた機械のようにギリギリとゆっくり振り返ると、いつの間にやって来たのか、ムッとした表情のスクァーレルと、その背後には怒りに打ち震えるクニークルスの姿が……。
「……アンタ、まさか寝ぼけてた、とか言わないでしょうね……?」
ドスの利いた声にコシュカはぷるぷると震えだした。
顔は引きつり、ドッと汗が吹き出る。
「そうしてくれるとありがたい、んだけどな……ははは」
「出てけ! このド変態ッ!!」
鼓膜が破れるかと思う程の怒声に、コシュカは這って逃げ出した。その去りぎわにクニークルスに尻を蹴っ飛ばされ、「ゴミだめ」の山を崩しながら転がる。
遠巻きに見ていたアステリオンは顔を引きつらせ、母親が言ったことは本当だったと理解し、二度と女の子の部屋には近づかないことを心の中で誓った。
一方で、アステリオンは不思議に思っていた。スクァーレルはどうやって対角線上のクニークルスのスペースまで移動したのだろう。
暗闇の中とはいえ、モノの形状が見えるぐらいには目が肥えている。コシュカの後ろ姿が確認出来たぐらいなのだ。スクァーレルの姿だけが見えないというのはおかしい。
(壁際に沿って移動したのかもしれないな)
目の前の修羅場の方が気になってしょうがないアステリオンは、ひとまずそのように頭の中で納得したのだった。
「いってー! そこまでやらなくても……」
コシュカはたんこぶの出来た頭を摩った。
「はあ!? そこまで!? そこまでって言える!? 家族とは言え、アンタがしたことは明らかに犯罪よ! だいたい、何で忍び込んできたわけ!?」
「説明したって納得しねーだろ!?」
「いいから話しなさい! アンタにはそれを明かす責任があるわ!」
コシュカはムスッとした顔を向けた。
「……お前が、何で次の街へ急いでんのか話さねーからだよ」
「はあ!? ア、アンタ、そんなこと言って誤魔化そうってわけじゃ──」
明らかに動揺を見せるクニークルスに、コシュカはしめた、とばかりに強気な態度に出た。
「すっとぼけんなよ! アスティが来る前からずっとそうだった。雨で遅れそうになった時、すげーイライラしてよ、一家の長でもねーのに、早く行きたいだの、次の街の滞在時間を短くしろだの、ルーシー達に無理言って困らせてたじゃねーか!」
「そ、それは……」
誰から見ても形勢が逆転したのは明らかとなった。
スクァーレルは心配そうにクニークルスを見上げ、アステリオンはどちらかと言えば初めて聞いた話に驚くばかりだ。
そこへ突然、車のドアが乱暴に開け放たれ、子供たちはビクッと肩を震わせて一斉に注目した。
傘を差し、カンテラを片手に持ったルーシーが仁王立ちになっていた。
「こんな夜中にドタバタして、一体何の騒ぎ!?」
コシュカとクニークルスは半ば困ったような不貞腐れたような顔で互いに見つめ合い、ほぼ同時に視線を逸らした。
ややあって、初めに口を開いたのはクニークルスだった。
「……何でもないわ」
「嘘おっしゃい!」
「本当に何でもないのよ、ルーシー。……お願い。雨が入ってくるわ」
先程までの勢いはすっかり無くなっていた。
クニークルスは疲れた視線でルーシーをじっと見つめた。
傘に降り注ぐ雨音だけが、ルーシーの返事を待って虚しく鳴り続く。
「…………いいわ。今日はもう寝なさい」
それだけ言って、ドアはピシャリと閉じられた。
コシュカもクニークルスも、アステリオンも──スクァーレルまでもが、同時に溜め息をついた。
「一つ貸しにするわ」クニークルスが低い声で言った。「でも、次やったら本ッ当に許さないから」
だが、コシュカは頑として認めない。
「……お前もちゃんと話せよ。みんな知らねーんだから」
「…………」
それきり、二人の声は聞こえなくなり、アステリオンは二人に背を向ける形で横になった。
スクァーレルもいつの間にか戻ってきたようで、寝床でゴソゴソと動く音だけが微かに聞こえてきた。
(たった一つの疑問が、こんな傷痕を残すなんて……)
アステリオンは、余計な好奇心でコシュカを止めなかったことを後悔した。
家族と言えど、話せないこともある。だが、本当にそれでいいのだろうか?
そう考えるうちに、いつの間にかアステリオンは眠りについた。
無機質な雨の音だけが、いつまでも子供たちを責め立てるように天井を叩き続けていた。
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