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初めての個人授業
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藍子さんによる初めての個人授業は一時間ほどで終わった。
内容は主に中学の復習で、授業についていけず曖昧になっていた部分の補完。藍子さんの教え方は丁寧でとてもわかりやすかった。もしも中学生の頃に彼女と知り合えていたら、僕ももう少し上のランクの進学校に行けたかもしれないのに――とは思ったけれど、その時期は藍子さんも受験生だったはずだから、他人の勉強なんか見ている余裕はなかっただろう。
勉強が終わると、藍子さんは夕暮れ時を過ぎて急速に暗くなり始めた外の風景を眺めながら言った。
「もう夕方になっちゃったね。葉太郎くん、お腹すいてない?」
「いえ、特に……」
「え、嘘? 勉強するとお腹すくでしょ?」
実を言うと、結構お腹は空いていた。けれど、話の流れから察するに、ここで『はい』と答えてしまうと、藍子さんはまた僕に何か奢ろうとするのではないか。それはさすがに申し訳ないな、と思ったのだ。
しかし、そういう僕の意志に反旗を翻したバカ正直な胃袋が、間の抜けた声で藍子さんに真実を訴えた。
ぐぅぅぅ~~。
この瞬間の気まずさといったら。
藍子さんはフフンと鼻を鳴らすと、もう一度同じ質問を繰り返した。
「葉太郎くん、お・な・か、空いてるでしょ?」
最早言い逃れは不可能だった。
「……はい、少し」
「素直でよろしい。じゃあ、何食べる?」
僕は藍子さんに手渡されたメニュー表を見た。
頭を使うと甘いものが食べたくなるし、やっぱり肉も食べたいし――。僕の視線は無意識のうちにメニューの上の方にある肉系のものやデザートに誘導されてしまったが、奢ってもらう手前、それはさすがに贅沢すぎるだろう。肉料理は大体どれも1000円を超えている。僕の基準では、四桁は贅沢品なのだ。メニューの下の方にある、もう少し安価なものを……。
というわけで、僕の目に留まったのはナポリタンだった。
「……じゃあ、ナポリタンで」
「え、ナポリタン? それでいいの? 遠慮しないでよ、なんでも好きなもの食べていいのに」
「いやあ、僕、ナポリタン好きですし……」
「ナポリタンなんてどこで食べても同じでしょ? ここのチーズハンバーグ定食おいしいから、食べてみてよ。食べなきゃ損だよ!」
「チーズハンバーグ定食……?」
メニューの中からチーズハンバーグ定食を探すと、値段は何と1300円!
1300円って言ったら、ハンバーグ定食の中でも高い方ではないだろうか。きっと何かすごく高い肉を使っているか、ハンバーグがめちゃくちゃデカいかのいずれかに違いない。蓋し美味しいだろうけど、高い。高すぎる。
「でもこれ、1300円もするじゃないですか! さすがに申し訳ないですよ……」
「ええ? 1300円ぐらいで何言ってるの、若いんだからガッツリ食べなさい」
結局、藍子さんに押し切られて、僕はチーズハンバーグ定食を食べることにした。奢ってもらう手前、彼女の意向に逆らうわけにはいかないのだ。姉貴のいないところで、僕一人で贅沢してしまうことにほんの少し罪悪感を覚えたけれど、こればかりは仕方がない。
僕がチーズハンバーグ定食を注文するのと同時に、藍子さんはオムライスを注文した。さっき大きめのハニトーを平らげたばかりのはずなのに、そんなに食べて大丈夫なのだろうか。
オムライスからの連想で、僕はふと更紗のことを思い浮かべていた。武田から『更紗の好物はオムライス』と聞かされたのを思い出したのだ。
それから少しして、チーズハンバーグ定食とオムライスが運ばれてきた。
予想通り、ハンバーグはこれまで見たことがないような大きさのものだった。綺麗な焼き目のついた粗挽き牛のハンバーグにナイフを入れると、中から肉汁がジュワッと、チーズがとろりと流れ出す。おそるおそる口に含むと、甘いデミグラスソースと肉汁の旨味、濃厚なチーズの風味が渾然一体となって、得も言われぬハーモニーを奏でるのだった。肉の食感もとてもしっかりしていて、僕がこれまで口にしてきたハンバーグというものの概念を根底から揺さぶられるような気がした。藍子さんが強く勧めた理由が、今ならよくわかる。
藍子さんが注文したオムライスは、チキンライスの上にオムレツが乗ったタイプのもの。オムレツを切り開くと、半熟の卵がふわりとチキンライスの上に広がっていき、こちらもとても美味しそうだ。
運ばれてきた料理を食べながら、僕たちは色々な話をした。
「姉貴とは、いつ頃から仲良くなったんですか?」
「う~ん、いつ頃だろう……ずっと違うクラスだったし、一年の時は、あんまり話さなかったなぁ。同じ演劇部だったし、よく見かけてはいたけど、すごく綺麗な子がいるな、って思ってたぐらい。話すようになったのは二年生になってから。特に親しくなったのは、二年後半ぐらいかな。その頃から、私がヒロイン、茉莉花が男役で、重要な役を任せてもらえるようになってね。それで、色々話しているうちに、誕生日が同じだってことに気付いて」
「え、姉貴と藍子さん、誕生日が一緒なんですか」
「そう。結構珍しいでしょう? 見た目は茉莉花のほうがずっと大人っぽいけどね。それにね、実は生まれた病院も同じなの」
「病院まで? それはすごい偶然」
仲良くなった二人が同じ誕生日で、しかも病院まで一緒だったとは、偶然にしても出来過ぎているような気がする。姉貴の誕生日は一月三十一日。誕生日が同じということは、藍子さんも一月三十一日生まれということか。念のため覚えておこう。
「それでね、舞台で共演する機会が増えて、脚本の解釈とか演技上のことで茉莉花とよく話すようになってから、私たちが付き合ってるんじゃないかって噂が立つようになったの――あ、誤解のないように言っとくけど、実際は全然そんなんじゃなくて、ただの親友だよ。ただのっていうのも何か変だけどさ――葉太郎くんなら知ってると思うけど、茉莉花って女の子にもすごくモテるでしょう? だから色んな子に告白されて大変だったらしいのね。でも、私と付き合ってるっていう噂が流れてからは、それもめっきり減ったみたいで。便利だし助かるからもっと仲良くなろうってさ。おかしな話だけど、まあ、そんな感じ」
確かに、藍子さんが彼女になったと聞いたら、いくら姉貴に好意を持っていても、皆諦めてしまうだろう。藍子さんと張り合える女子なんてなかなかいないはずだ。
「そうなんですか……姉貴が友達をうちに連れてくるなんて初めてのことだったから、ちょっとびっくりでした」
「ああ、そうかもね……茉莉花って優しいし、頼りがいがあるし、人望もあるんだけど、なんていうか、一線を引いて接するようなところがあるね、私以外には」
「うちに連れてくるどころか、僕が紹介されたのも、藍子さんが初めてじゃないかな……だから、ちょっと緊張しちゃって」
すると、藍子さんは意味深な微笑を浮かべた。
「あら、それはどうも。でも、女の子とのデートは、慣れたもんでしょ?」
「い、いえ、まともなデートはまだしたことがなくて」
「うっそだぁ~。その顔で? それは、よっぽど性格に問題があるよ」
褒められているのか貶されているのかよくわからない一言である。
僕だってついこの間彼女ができたのだ。意地になったつもりはないが、僕は更紗のことを藍子さんに話してみることにした。
「……いえ、あの、実は……」
つい先日初めての彼女ができたことと、その彼女が亡くなったこと。よくよく考えてみたら、この流れで話すような内容ではなかったかもしれないけれど、何故だろう、姉貴よりも藍子さんのほうが、更紗のことを気楽に話せるような気がした。
話の最中で藍子さんはさっと表情を曇らせたが、最後まで遮ることなく、ちゃんと僕の話を聞いてくれた。
「そう……昨日お通夜だったとは聞いたけど、それが葉太郎くんの彼女だったのか……ごめんね、なんか、無神経なこと言っちゃって」
「いえ、こちらこそ、暗い話になってしまってすみません。あんまり、こういうこと相談できる相手がいなくて」
「ううん、気にしないで。私のことをもう一人の姉だと思って、何でも相談していいからね」
それからしばらく、僕たちは無言で食事を続けた。ゆっくり食べたつもりはなかったのだけれど、僕がチーズハンバーグを食べきる前に、藍子さんのオムライスの皿は空になっていた。
「ねえ、ハンバーグ、一口だけもらってもいい?」
藍子さんはそう言って、上目遣いに僕を見る。その魅惑的な仕草と内容のギャップに、僕は危うく口の中のご飯を吹き出すところだった。もしかしたら、僕にチーズハンバーグをやたらと勧めたのは、藍子さんもこれを食べたかったからなのかもしれない。
「え、ええ、いいですよ」
「やった~、ありがとう」
カチャカチャと音を立てることもなく、ナイフとフォークを器用に操って、藍子さんはハンバーグの一切れを口に運び、瞬く間に飲み込んだ。その様子を見ていたら、何故こんなに食べる早さに差が出るのかがよく理解できた。咀嚼の回数が全然違うのだ。
「ああ、おいしい。やっぱこれだわ……ありがと、葉太郎くん」
「藍子さんって、その……付き合ってる人とか、いらっしゃるんですか?」
この質問に他意はない。ないつもりだ。ただ、じっくり話すのが初めてにも関わらず、とても打ち解けた感じで話してくれる藍子さんが、他の男性に対しても同じように振る舞っているのか、それが少し気になっただけ。藍子さんは、手のひらと首を同時に横に振りながら言った。
「いないいない。うち、父親がすごく厳しくてさ。去年お母さんが死んでからは特に。男女交際は二十歳を過ぎるまでは許さん、なんて言うの。一人娘だから、過保護なんだよね。今日だって、家庭教師のバイトっていう言い訳がなかったら、男の子と二人で食事なんて許してもらえなかったと思う。それだって、相手は茉莉花の弟さんだからって言って許してもらったんだよ」
「……そ、そうなんですか……」
藍子さんがフリーだと聞いて、なんだかほっとしたような気はしたけれど、その意味はあまり深く考えないことにしよう。
「うちのお父さん、茉莉花のことはすごく気に入っててね。直接会ったことはないんだけど、演劇部の舞台で見て知ってるから」
「なるほど……姉貴の影響力はそんなところまで」
「そうだよ~。うちの母さんなんて、もう茉莉花の大ファンだったんだから。あんな男の子が欲しかったわ~なんて言ってね。茉莉花は身長もあるし、スラッとしてるから、男装がすごく似合うんだよね。私はダメだなあ、身長が足りないのもあるけど、お尻が大きいし……。だから、どうしても私服もスカートばかりになっちゃってさ。茉莉花みたいに小尻だとよかったんだけど」
なるほど。入学式の日、姉貴のスーツ姿に余裕があったように見えたのは、そのためだったのか。つまり、姉貴がかなり痩せ型なのに対して、藍子さんは程よくグラマー。だから、藍子さんのスーツを姉貴が着ると、かなりゆったりして見えるということだ。
こんな話を聞かされるとついつい藍子さんの下半身のシルエットを確認したくなってしまうけれど、あいにくテーブルの下に隠れていて、すぐには確かめることができなかった。この間のスーツ姿のときに見ておくべきだった、と後悔。
「……あ、いけない、男の子相手にこんな話。我ながら、はしたない」
藍子さんはそう言うと、ほんのり赤くなった顔を両手で覆い隠してしまった。
「あ、いや、忘れます、僕が全力で忘れます」
絶対忘れないけどね。忘れろと言われても忘れられるもんじゃない。
藍子さんは顔を隠した両手を下ろし、苦笑を浮かべながら言った。
「う~ん、何だろう、葉太郎くんって、可愛い顔してるせいか、あんまり男の子と話してるって感じがしなくって……それに……何だか私も……」
そして、急にまじまじと僕の顔を見つめる。
「私も……?」
吸い込まれるように大きな瞳に覚えた奇妙な既視感。
初めて藍子さんに会った時のことを、僕は思い出していた。
「……ううん、何でもない」
藍子さんは何か戸惑ったような表情で頭を振り、この話題は不自然に打ち切られた。
「一人で帰れる?」
「はい、道は覚えましたから」
「じゃあ、次はまた来週かな。私は週末のほうが時間空いてるよ」
「そうですね。僕も、部活とか始まったら、平日にはなかなか難しくなるかもしれません」
「うん。その辺も含めて、また連絡ちょうだい。じゃ、またね」
喫茶店の前で僕たちは別れた。にこやかに手を振って、藍子さんの薄桃色のカーディガンが、夜の街に消えてゆく。僕と藍子さんは帰る方向が逆だった。
その小さな背中を見送り、数歩歩いてから僕は、彼女を送っていくべきだろうか、と考えた。せめて駅まででも。
しかし、振り返ると、仕事帰りで増え始めた人波に飲み込まれて、藍子さんの姿はどこにも見えなくなっていた。
内容は主に中学の復習で、授業についていけず曖昧になっていた部分の補完。藍子さんの教え方は丁寧でとてもわかりやすかった。もしも中学生の頃に彼女と知り合えていたら、僕ももう少し上のランクの進学校に行けたかもしれないのに――とは思ったけれど、その時期は藍子さんも受験生だったはずだから、他人の勉強なんか見ている余裕はなかっただろう。
勉強が終わると、藍子さんは夕暮れ時を過ぎて急速に暗くなり始めた外の風景を眺めながら言った。
「もう夕方になっちゃったね。葉太郎くん、お腹すいてない?」
「いえ、特に……」
「え、嘘? 勉強するとお腹すくでしょ?」
実を言うと、結構お腹は空いていた。けれど、話の流れから察するに、ここで『はい』と答えてしまうと、藍子さんはまた僕に何か奢ろうとするのではないか。それはさすがに申し訳ないな、と思ったのだ。
しかし、そういう僕の意志に反旗を翻したバカ正直な胃袋が、間の抜けた声で藍子さんに真実を訴えた。
ぐぅぅぅ~~。
この瞬間の気まずさといったら。
藍子さんはフフンと鼻を鳴らすと、もう一度同じ質問を繰り返した。
「葉太郎くん、お・な・か、空いてるでしょ?」
最早言い逃れは不可能だった。
「……はい、少し」
「素直でよろしい。じゃあ、何食べる?」
僕は藍子さんに手渡されたメニュー表を見た。
頭を使うと甘いものが食べたくなるし、やっぱり肉も食べたいし――。僕の視線は無意識のうちにメニューの上の方にある肉系のものやデザートに誘導されてしまったが、奢ってもらう手前、それはさすがに贅沢すぎるだろう。肉料理は大体どれも1000円を超えている。僕の基準では、四桁は贅沢品なのだ。メニューの下の方にある、もう少し安価なものを……。
というわけで、僕の目に留まったのはナポリタンだった。
「……じゃあ、ナポリタンで」
「え、ナポリタン? それでいいの? 遠慮しないでよ、なんでも好きなもの食べていいのに」
「いやあ、僕、ナポリタン好きですし……」
「ナポリタンなんてどこで食べても同じでしょ? ここのチーズハンバーグ定食おいしいから、食べてみてよ。食べなきゃ損だよ!」
「チーズハンバーグ定食……?」
メニューの中からチーズハンバーグ定食を探すと、値段は何と1300円!
1300円って言ったら、ハンバーグ定食の中でも高い方ではないだろうか。きっと何かすごく高い肉を使っているか、ハンバーグがめちゃくちゃデカいかのいずれかに違いない。蓋し美味しいだろうけど、高い。高すぎる。
「でもこれ、1300円もするじゃないですか! さすがに申し訳ないですよ……」
「ええ? 1300円ぐらいで何言ってるの、若いんだからガッツリ食べなさい」
結局、藍子さんに押し切られて、僕はチーズハンバーグ定食を食べることにした。奢ってもらう手前、彼女の意向に逆らうわけにはいかないのだ。姉貴のいないところで、僕一人で贅沢してしまうことにほんの少し罪悪感を覚えたけれど、こればかりは仕方がない。
僕がチーズハンバーグ定食を注文するのと同時に、藍子さんはオムライスを注文した。さっき大きめのハニトーを平らげたばかりのはずなのに、そんなに食べて大丈夫なのだろうか。
オムライスからの連想で、僕はふと更紗のことを思い浮かべていた。武田から『更紗の好物はオムライス』と聞かされたのを思い出したのだ。
それから少しして、チーズハンバーグ定食とオムライスが運ばれてきた。
予想通り、ハンバーグはこれまで見たことがないような大きさのものだった。綺麗な焼き目のついた粗挽き牛のハンバーグにナイフを入れると、中から肉汁がジュワッと、チーズがとろりと流れ出す。おそるおそる口に含むと、甘いデミグラスソースと肉汁の旨味、濃厚なチーズの風味が渾然一体となって、得も言われぬハーモニーを奏でるのだった。肉の食感もとてもしっかりしていて、僕がこれまで口にしてきたハンバーグというものの概念を根底から揺さぶられるような気がした。藍子さんが強く勧めた理由が、今ならよくわかる。
藍子さんが注文したオムライスは、チキンライスの上にオムレツが乗ったタイプのもの。オムレツを切り開くと、半熟の卵がふわりとチキンライスの上に広がっていき、こちらもとても美味しそうだ。
運ばれてきた料理を食べながら、僕たちは色々な話をした。
「姉貴とは、いつ頃から仲良くなったんですか?」
「う~ん、いつ頃だろう……ずっと違うクラスだったし、一年の時は、あんまり話さなかったなぁ。同じ演劇部だったし、よく見かけてはいたけど、すごく綺麗な子がいるな、って思ってたぐらい。話すようになったのは二年生になってから。特に親しくなったのは、二年後半ぐらいかな。その頃から、私がヒロイン、茉莉花が男役で、重要な役を任せてもらえるようになってね。それで、色々話しているうちに、誕生日が同じだってことに気付いて」
「え、姉貴と藍子さん、誕生日が一緒なんですか」
「そう。結構珍しいでしょう? 見た目は茉莉花のほうがずっと大人っぽいけどね。それにね、実は生まれた病院も同じなの」
「病院まで? それはすごい偶然」
仲良くなった二人が同じ誕生日で、しかも病院まで一緒だったとは、偶然にしても出来過ぎているような気がする。姉貴の誕生日は一月三十一日。誕生日が同じということは、藍子さんも一月三十一日生まれということか。念のため覚えておこう。
「それでね、舞台で共演する機会が増えて、脚本の解釈とか演技上のことで茉莉花とよく話すようになってから、私たちが付き合ってるんじゃないかって噂が立つようになったの――あ、誤解のないように言っとくけど、実際は全然そんなんじゃなくて、ただの親友だよ。ただのっていうのも何か変だけどさ――葉太郎くんなら知ってると思うけど、茉莉花って女の子にもすごくモテるでしょう? だから色んな子に告白されて大変だったらしいのね。でも、私と付き合ってるっていう噂が流れてからは、それもめっきり減ったみたいで。便利だし助かるからもっと仲良くなろうってさ。おかしな話だけど、まあ、そんな感じ」
確かに、藍子さんが彼女になったと聞いたら、いくら姉貴に好意を持っていても、皆諦めてしまうだろう。藍子さんと張り合える女子なんてなかなかいないはずだ。
「そうなんですか……姉貴が友達をうちに連れてくるなんて初めてのことだったから、ちょっとびっくりでした」
「ああ、そうかもね……茉莉花って優しいし、頼りがいがあるし、人望もあるんだけど、なんていうか、一線を引いて接するようなところがあるね、私以外には」
「うちに連れてくるどころか、僕が紹介されたのも、藍子さんが初めてじゃないかな……だから、ちょっと緊張しちゃって」
すると、藍子さんは意味深な微笑を浮かべた。
「あら、それはどうも。でも、女の子とのデートは、慣れたもんでしょ?」
「い、いえ、まともなデートはまだしたことがなくて」
「うっそだぁ~。その顔で? それは、よっぽど性格に問題があるよ」
褒められているのか貶されているのかよくわからない一言である。
僕だってついこの間彼女ができたのだ。意地になったつもりはないが、僕は更紗のことを藍子さんに話してみることにした。
「……いえ、あの、実は……」
つい先日初めての彼女ができたことと、その彼女が亡くなったこと。よくよく考えてみたら、この流れで話すような内容ではなかったかもしれないけれど、何故だろう、姉貴よりも藍子さんのほうが、更紗のことを気楽に話せるような気がした。
話の最中で藍子さんはさっと表情を曇らせたが、最後まで遮ることなく、ちゃんと僕の話を聞いてくれた。
「そう……昨日お通夜だったとは聞いたけど、それが葉太郎くんの彼女だったのか……ごめんね、なんか、無神経なこと言っちゃって」
「いえ、こちらこそ、暗い話になってしまってすみません。あんまり、こういうこと相談できる相手がいなくて」
「ううん、気にしないで。私のことをもう一人の姉だと思って、何でも相談していいからね」
それからしばらく、僕たちは無言で食事を続けた。ゆっくり食べたつもりはなかったのだけれど、僕がチーズハンバーグを食べきる前に、藍子さんのオムライスの皿は空になっていた。
「ねえ、ハンバーグ、一口だけもらってもいい?」
藍子さんはそう言って、上目遣いに僕を見る。その魅惑的な仕草と内容のギャップに、僕は危うく口の中のご飯を吹き出すところだった。もしかしたら、僕にチーズハンバーグをやたらと勧めたのは、藍子さんもこれを食べたかったからなのかもしれない。
「え、ええ、いいですよ」
「やった~、ありがとう」
カチャカチャと音を立てることもなく、ナイフとフォークを器用に操って、藍子さんはハンバーグの一切れを口に運び、瞬く間に飲み込んだ。その様子を見ていたら、何故こんなに食べる早さに差が出るのかがよく理解できた。咀嚼の回数が全然違うのだ。
「ああ、おいしい。やっぱこれだわ……ありがと、葉太郎くん」
「藍子さんって、その……付き合ってる人とか、いらっしゃるんですか?」
この質問に他意はない。ないつもりだ。ただ、じっくり話すのが初めてにも関わらず、とても打ち解けた感じで話してくれる藍子さんが、他の男性に対しても同じように振る舞っているのか、それが少し気になっただけ。藍子さんは、手のひらと首を同時に横に振りながら言った。
「いないいない。うち、父親がすごく厳しくてさ。去年お母さんが死んでからは特に。男女交際は二十歳を過ぎるまでは許さん、なんて言うの。一人娘だから、過保護なんだよね。今日だって、家庭教師のバイトっていう言い訳がなかったら、男の子と二人で食事なんて許してもらえなかったと思う。それだって、相手は茉莉花の弟さんだからって言って許してもらったんだよ」
「……そ、そうなんですか……」
藍子さんがフリーだと聞いて、なんだかほっとしたような気はしたけれど、その意味はあまり深く考えないことにしよう。
「うちのお父さん、茉莉花のことはすごく気に入っててね。直接会ったことはないんだけど、演劇部の舞台で見て知ってるから」
「なるほど……姉貴の影響力はそんなところまで」
「そうだよ~。うちの母さんなんて、もう茉莉花の大ファンだったんだから。あんな男の子が欲しかったわ~なんて言ってね。茉莉花は身長もあるし、スラッとしてるから、男装がすごく似合うんだよね。私はダメだなあ、身長が足りないのもあるけど、お尻が大きいし……。だから、どうしても私服もスカートばかりになっちゃってさ。茉莉花みたいに小尻だとよかったんだけど」
なるほど。入学式の日、姉貴のスーツ姿に余裕があったように見えたのは、そのためだったのか。つまり、姉貴がかなり痩せ型なのに対して、藍子さんは程よくグラマー。だから、藍子さんのスーツを姉貴が着ると、かなりゆったりして見えるということだ。
こんな話を聞かされるとついつい藍子さんの下半身のシルエットを確認したくなってしまうけれど、あいにくテーブルの下に隠れていて、すぐには確かめることができなかった。この間のスーツ姿のときに見ておくべきだった、と後悔。
「……あ、いけない、男の子相手にこんな話。我ながら、はしたない」
藍子さんはそう言うと、ほんのり赤くなった顔を両手で覆い隠してしまった。
「あ、いや、忘れます、僕が全力で忘れます」
絶対忘れないけどね。忘れろと言われても忘れられるもんじゃない。
藍子さんは顔を隠した両手を下ろし、苦笑を浮かべながら言った。
「う~ん、何だろう、葉太郎くんって、可愛い顔してるせいか、あんまり男の子と話してるって感じがしなくって……それに……何だか私も……」
そして、急にまじまじと僕の顔を見つめる。
「私も……?」
吸い込まれるように大きな瞳に覚えた奇妙な既視感。
初めて藍子さんに会った時のことを、僕は思い出していた。
「……ううん、何でもない」
藍子さんは何か戸惑ったような表情で頭を振り、この話題は不自然に打ち切られた。
「一人で帰れる?」
「はい、道は覚えましたから」
「じゃあ、次はまた来週かな。私は週末のほうが時間空いてるよ」
「そうですね。僕も、部活とか始まったら、平日にはなかなか難しくなるかもしれません」
「うん。その辺も含めて、また連絡ちょうだい。じゃ、またね」
喫茶店の前で僕たちは別れた。にこやかに手を振って、藍子さんの薄桃色のカーディガンが、夜の街に消えてゆく。僕と藍子さんは帰る方向が逆だった。
その小さな背中を見送り、数歩歩いてから僕は、彼女を送っていくべきだろうか、と考えた。せめて駅まででも。
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