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浦登みっひ

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お紺

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 そこは評判の蕎麦屋だった。

 だが、いかに評判といえども、江戸の一隅に掃き溜めのように寄せ集められた貧しい長屋町、その近くにある小さな蕎麦屋である。味に期待を寄せるのは酷というものであろう。
 その店が評判なのは蕎麦の味ではなかった。
 そこで働く貧しい娘が、まるで荒れ野に咲く花のように可憐で美しいと、一部の若い旗本や御家人たちの間で噂になっているのである。

 胞輩共からその娘の噂を聞いても、俺は何らの関心も湧かなかった。ただ美しいだけの娘など、この江戸にはごまんといる。わざわざ見物に出掛けずとも、一刻ほど往来を歩いておれば、二、三人は目に留まる女があるものだ。
 そして、幸いにも整った容貌を持ってこの世に生を受けた俺は、女に飢えたことがない。父が出世を果たし、今川という我が家名が広く知られるようになってからは、尚更である。
 声をかければ頬を染め、名を名乗ればしなをつくる。女とはそういう単純な生き物だ。気が向いたら抱き寄せ、飽きたら捨てればよい、そう思っていた。

 あの女と出会うまでは。

 花のお江戸は八百八町、蕎麦などどこでも食べられる。
 だから、俺がその小さな蕎麦屋を訪れたのは、もののついで、ほんの気まぐれ、気の迷い、それらが複雑に絡み合った、ひとつの偶然であった。

 人、それを運命と呼ぶ。

 貧しい長屋町近くの店にしては、そこはそれなりに繁盛している様子だった。掘っ建て小屋のようなみすぼらしい佇まいの店内にびっしりと客が犇めきあい、蕎麦をすする音に交じって、品のない下町言葉がそこかしこから聞こえてくる。いったい幾日湯浴みをしていないのか、貧しい者たちの噎せ返るような体臭が鼻をついた。
 俺は思わず顔を顰めた。これでは蕎麦どころではない。おちおち息すらできぬではないか。その場で踵を返し、帰ろうとしたところであった。

「あら、いらっしゃい。お侍さん、蕎麦ですか?」

 その声は、まるで喧しく吠えたてる野犬の群れの中に紛れ込んだ一羽の鶯のように、繊細で清らかな響きを持っていた。
 振り返るとそこには、安物の若草色の着物を纏い、長い髪を無造作に後ろで纏めた、美しい娘が立っていたのだ。
 その刹那、娘の周囲のありとあらゆるものが、水墨画の背景のように無色に雪がれて、深く沈んでいくのがわかった。生まれて初めての感覚だった。息を呑み、胸の高鳴りを抑えながら、

「ああ、蕎麦を一つ」

 とだけ答えた。

 蕎麦を待つ間、俺は適当に空いている席に腰掛けた。畳座敷などはなく、丸太からそのまま切り出したような簡素な椅子と、薄汚れた板の台があるばかりだ。

 しばらくして、娘が蕎麦を持ってきた。江戸ならどこでも食えそうな、ありふれたたれ味噌の蕎麦である。だが、こんなものはどうでもよい。俺は娘に声をかけた。

「娘、お前は毎日ここで働いておるのか」
「え、ええ……父の体が弱いもので」

 娘は僅かに頬を赤らめる。

「ふむ……親孝行なよい娘ではないか。しかし、これほど繁盛しておる店で花番がお主一人では、大変だろう」
「そんな……当たり前のことでございますよ」
「お主、名は何と申す」
「紺と申します」
「お紺か。よい名だ」
「あ、あの……差し支えなければ、お侍さまのお名前を聞いてもよろしゅうございますか」

 打算も駆け引きもなくおずおずと話すその仕草が妙にいじらしく、俺はこの娘にいよいよもって興味が湧いてきた。

「うん、俺か……俺は、杳乃介と申す」

 娘は俺の名を、噛みしめるようにゆっくりと舌に乗せた。

「杳乃介さま……」
「葉太郎?」
「杳乃介さま……」
「葉太郎!」
「杳乃介さま……」
「葉太郎!」


「うわああああああっ!」

 訳の分からない夢から目覚めると、心配そうな表情で僕を覗き込む姉貴の顔が視界に飛び込んできた。
 寝汗で濡れたシャツがべっとりと肌に張り付く。
 僕は毛布を掛けられて、白いベッドに寝かされていた。姉貴の顔の向こうには白い天井が広がっている。ここはどこだろう?

「葉太郎……よかった。すごく魘されてたけど、大丈夫?」
「あ……姉貴? どうして……それに、ここは?」
「保健室だよ。葉太郎が気を失って保健室に運ばれてきたって、北条先生から連絡があったからさ。もう、バイト先にも断り入れて飛んで来たんだから」

 北条先生……それはたしか、花倉高校の養護教諭、つまり保健室の先生の名前だ。
 少しずつ意識が鮮明になってきて、気を失う直前の記憶が蘇る。更紗の唇の感触、不自然な軌道で落下する植木鉢、そして――。

「姉貴、更紗は……由比さんは、どうなったの?」

 すると、姉貴は躊躇いがちに目を伏せた、その表情が全てを物語っているように思えた。体を起こすと、姉貴の背後から、こちらに歩いてくる北条先生の姿が見える。
 北条先生は、ストレートの黒髪を腰まで伸ばした、アダルティな雰囲気の美人だ。センター分けの前髪の間から見えるなだらかなおでこのラインが均整のとれたスタイルや整った顔立ちを絶妙に引き立て、黒いフレームの眼鏡が知的な雰囲気を添えている。
 薄いグレーのスーツの上に白衣を羽織った北条先生は、慎重に言葉を選ぶように話し始めた。

「由比さんは……亡くなったわ。三階の教室の窓際に置いてあった植木鉢が落下して、その直撃を頭に受けて」

 北条先生の説明に喚起されるように、その瞬間の記憶がフラッシュバックする。

「植木鉢が置かれていた教室の生徒が今川くんの悲鳴を聞いて異変に気付き、現場に駆け付けると、由比さんと、気を失った今川くんが倒れていた。一応救急車も呼ばれたけど、由比さんは既に手遅れだった。あなたには特に異常なところはなく、眠っているだけだと判断されて、そのまま保健室まで運ばれてきた。それから今まで……二時間ぐらいかしら。誰の呼び掛けにも目を覚まさず、このベッドで眠り続けていたというわけ」
「更紗……」

 前髪を押さえながら微笑む更紗の笑顔と、最後に見た彼女の変わり果てた姿が、同時に思い起こされた。

「……思い出しました。すみません、僕が傍にいたのに……」

 不意に目頭が熱くなり、視界が滲んでいく。
 更紗が亡くなった。北条先生の口から聞かされたことで、それがもう覆しようのない事実として確定されてしまったように思える。
 ベッドに腰掛けた姉貴が僕の肩を抱き寄せ、慰めるように優しく僕の頭を撫でた。

「いえ、今川くんのせいではない。後で一応警察に事情を聞かれることになると思うけど、あくまで形式的なもので、現場に来た警察官も、おそらく事件性はないと言っていた。不幸な事故よ、これは」

 北条先生が口にした『事件性』という単語に刺激されて、僕はあの時近くに立っていた着物姿の女のことを思い出した。

「あっ、あの、その時、近くに着物姿の血塗れの女の人がいませんでしたか?」
「血塗れの、着物姿の女……?」

 北条先生は少し眉根を寄せて記憶を辿っていたが、すぐに首を横に振った。

「いえ、そんな話は聞いていないけど」
「若草色の着物で、髪はモップみたいにぐしゃぐしゃで……」
「ううん……その、植木鉢が置かれていた三年B組の生徒は、今川くんの悲鳴を聞いてすぐに窓の外を確認して、君と由比さんを発見した。でも、君たち以外の人影はなかったと言っていたよ。そんな奇妙な格好の人が近くにいたら、すぐに気付くんじゃないかしら」
「でも、あの時確かにいたんです、更紗のすぐそばに、着物姿の女が……」

 その女子生徒が僕の悲鳴を聞いてすぐに外を見たのなら、あの女の姿を見ていなければおかしいはずだ。
 しかし、そこには僕と更紗以外に誰もいなかった――。

 北条先生はやや困惑気味の表情を浮かべながら言った。
 
「そっか……一応、私からももう一度、着物の女を見なかったか聞いてみる。警察の事情聴取の時も、それ、忘れずに話しなさいね」

  一瞬、さっき見ていた夢の断片がちらりと脳裏をよぎった気がしたけれど、それは具体的な像を結ぶことなく、再び無意識の底に沈んでいった。

「僕の責任なんです……あの時はちょうど、僕と更紗……由比さんが、あの桜の木の下で、お互いに気持ちを伝えあって、付き合うことになった直後だったんです。もしそれがあと一日でもずれていたら。あるいは、もしも僕がもう少しだけ、あの桜の下で彼女と話していれば……」

 そう、全てがもう少しだけずれていたら、彼女が死ぬことはなかった。後悔の念が、波のようにとめどなく押し寄せてくる。
 僕の突然の告白に、姉貴と北条先生は揃って目を丸くし、顔を見合わせた。まさか、まだ入学してから一週間も経っていないのに、とでも言いたげに。

「……そ、そう……それは気の毒ね。でも……その、何て言えばいいのか……あまり、思い詰めないようにね」

 北条先生は戸惑いながらも僕を励ましてくれた。僕が夕方から二時間も眠っていたということは、北条先生はもしかしたら既に残業中なのかもしれない。それでも嫌な顔一つせず、姉貴に連絡し、僕を見守っていてくれたのだ。

 姉貴は無言のまま、僕の体を強く抱き締めた。
 寝汗で冷えた体に、姉貴の体温がじんわりと伝わってくる。姉貴の温もりと微かに漂う花の香りが、悲しみに押しつぶされそうな僕の心を癒してくれた。

 だが、そんな僕たちの姿を見て、北条先生はさらに瞠目していた。抱き合う僕たちの姿が、一般的な姉弟の関係を超えたもののように映ったのかもしれない。それに、花倉高校での姉貴には常に、壇上で凛々しく輝く男役としての姿が重ねられているのだろう。
 だから、夜の褥の中で、僕の素肌を求めて指を這わせる彼女の姿など……。



 その夜、僕と姉貴は、数年ぶりに向かい合って布団に入った。

 保健室で目覚めてからほどなくして警察による事情聴取が始まったため、忙しさで更紗の死を悲しむ暇すらなかった。だが、アパートに帰ってきた途端に悲しさが押し寄せてきて、涙が止まらなくなってしまったのだ。
 たった二日間の付き合いだったけれど、僕にとって更紗と過ごした時間はかけがえのないものだった。これから二人でもっと楽しい毎日を過ごせると思っていた。それなのに、こんな形で終止符が打たれてしまうなんて。
 若草色の着物を着た血まみれの女については、事情聴取の際、警察にもちゃんと言ってみたのだけれど、うんうんという生返事ばかりで、まともに取り合ってもらえなかった。心理的ショックから来る幻視――そう取られたに違いない。

 僕は姉貴の柔らかい胸の中で泣き続けた。
 両親が死んだ夜、同じように姉貴の腕の中で眠ったことを思い出す。中学生当時の姉貴の胸は、こんなにふかふかではなかったけれど。
 姉貴の温もりはいつだって、何よりも強く僕の心を乱し、何よりも大きな安らぎをもたらしてくれる。

 そして、気付けば朝になっていた。いつの間に眠ってしまったのか、全く記憶に残っていない。
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