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浦登みっひ

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二人のロミオ

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「もしもこの卑しい手があなたの聖堂を汚すなら、それは優しい罪。私の唇は頬を赤らめた二人の巡礼者、柔らかい口づけでその穢れを雪ぎましょう」
「そ、そうおっしゃっては、あなたの手がかわいそうですわ、優しい巡礼さま。あなたの手は敬虔な信徒。そして聖者の手は、巡礼者が触れるためにある。互いに手を合わせることは、神聖な、せ、接吻にも等しい……」
「あ~、ストップストップ。ねえ葉太郎、そんなに恥ずかしがってちゃ練習になんないじゃん」
「……ご、ごめん……」

 姉貴は唇を曲げながら小さくため息をついた。
 ロミオとジュリエットの舞踏会での出会いのシーン、ロミオが口づけを請うドラマチックな場面なのだが、僕たちがいるのはアパートの一室で、二人とも部屋着のままだ。
 今回使用する台本は去年姉貴たちが演じたものと同じで、シェイクスピアの原作から台詞回しなどに藍子さんを中心とした先輩たちがアレンジを加えたもの。とはいえ、もっと口語調で現代的にアレンジされた脚本が多い中、僕たちの台本は原作の雰囲気を尊重している方らしい。
 普段、部室での稽古や読み合わせの際には副部長が台詞を読み上げ、僕は唇の動きをなるべくそれに合わせるという、今回の演目に合わせた特殊な練習を主にやっているので、自分で台詞を読む機会は少ない。だから、女言葉のジュリエットの台詞を読むと何となく恥ずかしくなってしまうのだ。
 でも、姉貴と二人で稽古するならジュリエットの台詞は当然僕が読まなければならない。本番では自分で台詞を読むことはないといっても、これを恥じらっているようではジュリエットを演じることはできないだろう。頭ではわかっているんだけど、ジュリエットの台詞が自分の男の声で聞こえてしまうと、どうしても違和感が拭えない。

「ここで照れてちゃ本番の舞台になんて上がれないよ。稽古でも役に集中して、まず最低限台詞は噛まないように」
「はい、わかりました」
「じゃ、少しでも気分を本番に近付けるために、読み上げだけじゃなくて動きもやってみよ」

 姉貴はおもむろに立ち上がり、深呼吸して集中力を高める。台本は持っていない。台詞は完全に覚えているということか。なら現役の僕が台本を持つわけにはいかない。ちっぽけなプライドではあるが、僕も台本を持たずに立ち、姉貴と向かい合う。
 姉貴はそっと僕の手を取った。

「もしもこの卑しい手があなたの聖堂を汚すなら、それは優しい罪。私の唇は頬を赤らめた二人の巡礼者、柔らかい口づけでその穢れを雪ぎましょう」

 姉貴は、いやロミオはそう言うと、僕の手のひらに優しく口づける。それはまさにロミオの台詞のように柔らかい感触だった。そして再び顔を上げた姉貴を見て、僕は身震いしそうになった。その鋭く情熱的な眼差しは既に、映像で観た、舞台の上のロミオの表情へと完全に変わっていたのだ。

「そうおっしゃっては、あなたの手がかわいそうですわ、優しい巡礼さま。あなたの手は敬虔な信徒。そして聖者の手は、巡礼者が触れるためにある。互いに手を合わせることは、神聖な接吻にも等しい……」

 姉貴のロミオに引き込まれたせいか、僕も今度はすんなりとジュリエットの台詞を言うことができた。射貫くような目で僕を見つめながら、ロミオは続ける。

「聖者である貴女も唇をお持ちでしょう?」
「え、ええ……ですが、この唇は祈りを捧げるためのもの……」
「ならば聖女さま、その手が成すことを、唇にもお許しください。私の祈りが絶望へと変わることのないように」
「……いいえ、あなたの祈りを受け入れるとしても、聖者の心は易々とは動きません」

 互いに一目で恋に落ちたロミオとジュリエット。情熱的に接吻を請うロミオに対して、ジュリエットはまだそこまでの決心がついていないのだが、かといって頑なに拒むわけでもない。ロミオを見つめ返す仕草からその絶妙なニュアンスを出すのが肝だと藍子さんは言っていた。
 ロミオはさらに畳みかける。

「では、動かないでいてください。私の祈りが届くまでの間……」

 ロミオはそう言い、そっと唇を重ねた。
 短いキスの後、ロミオは優しく語り掛ける。

「貴女の唇のおかげで、私の罪は清められました」

 ジュリエットは恥じらいつつもどこか艶やかな笑みをたたえて答える。

「まあ……では、私の唇にあなたの罪が移ってしまったのですね?」
「私の罪が、貴女の唇に……? なんということだ。では、すぐに私に返してください」

 そして二人は濃厚な口づけをかわす。この後ジュリエットの乳母が現れて二人の出会いのシーンは終わりなのだが、乳母の役はここにはいない。長いキスのあと、僕と姉貴は互いの役のまましばらく見つめ合っていたが、やがて姉貴がしびれを切らした様子で言った。

「……ねえ、このシーン、いつまで続けるわけ?」
「……あ、ああ……うん、ここでいいよ、ありがとう」

 完全に役に没頭していた僕も、ここでようやく自分を取り戻した。これだけジュリエットの役に入り込めたのは初めてだ。男の僕の声で台詞を読んでいるにもかかわらず。きっと姉貴のロミオのおかげだろう。
 僕がロミオを演じようとしたとき、不足していると部長に言われた情熱。姉貴のロミオにはたしかにそれがあった。愛する者のためなら本当に全てを犠牲にしてしまいそうな、狂気を孕んだ愛情。姉貴が演じるロミオの危ういほどに真摯な眼差しは、劇中のロミオを忠実に表現しつつ、でもたしかに姉貴らしさも残っている。そんなロミオにリードされて、僕も素直にジュリエットでいられたのだ。

 そう、そうだ。僕はたった今、姉貴とキスをしてしまった。姉貴の小さな柔らかい唇の感触が今もはっきりと口に残っている。ロミオとジュリエットとして、性別も逆の役ではあったけれど、たしかにキスをした。それも結構がっつりと、情熱的なやつを。お互いにシスコンブラコン気味の姉弟だと自覚しているが、さすがにキスなんてしたことはない。役に没頭していたため、今更になって気が付いたのだ。なんか舌とかも入ってきたような気もする。
 姉貴の方は全く気にしていないようで、何気ない素振りでまた台本を読み始めた。ロミオとしてのキスだから何の意味もないということだろうか。そこまで割り切れない僕はやはりまだ演劇の初心者なのか。

 姉貴が何とも思っていないのに僕が変に意識してしまったらかえってそれがいけないことになってしまうように感じたので、僕も何も言わずにそのまま台本の読み合わせに戻った。


!i!i!i!i!i!i!i!i


「で、どうなの? 稽古の方は。いい感じに進んでる?」

 次の週末、藍子さんは家庭教師としての本来の目的もそっちのけでそう切り出した。夏休みのあいだ毎日のように会っていたし、彼女のおかげで高校進学当初と比べると僕の成績もだいぶ上がってきて、予習や復習にそれほど時間をかける必要がなくなったのも大きい。藍子さん自身も、後輩たちが自分と同じ『ロミオとジュリエット』をどう創り上げるのか気になってしかたがないようだ。

「はい。台詞もだいたい頭に入ってきたし、小道具や音響なんかも準備は着々と。副部長の声ともだいぶシンクロできるようになってきてます」
「そっか。よかった。しかし、大胆なことを思い付くよねえあの子たち。あたしが知る限りではもうちょっと頼りない感じだったんだけど。一年も経てばみんな成長する、か」

 藍子さんはカフェの天井のサーキュレーターを見るともなしに見上げながら、感慨深そうに呟いた。僕たちにとっては頼れる先輩でも、藍子さんから見ればずっと面倒を見てきた後輩なのだ。先輩たちの成長ももちろんあるだろうけど、立場が違えば視点も異なるのかもしれない。

「袴田さんだっけ。ロミオ役の子とは、息が合ってきた?」
「はい、もう結構部にも馴染んでくれたみたいで」
「そっか。それはよかった。でもキスシーンとかは? 演劇未経験だと、そこに抵抗ある子もいると思うんだけど」
「そこは……実は稽古でもまだ詰めていない部分なんですけど、袴田さんは別に気にしないって言ってくれてますね」
「そう。まあいざとなったら、ほんとにキスしなくても、してるように見せる手段はいくらでもあるからね」

 話の流れがちょうどよく劇中のキスシーンの話題になったので、僕は気になっていたことを藍子さんに尋ねてみることにした。

「あの、藍子さん、その……姉貴と藍子さんのロミジュリのとき、キスシーンって、結構濃厚にやったんですか?」
「え? 濃厚っていうか……うん、まあ、回数とか時間的には結構あるからね」
「じゃなくてその、ディープなやつとか……」
「ええ? まさか。それに二人とも年齢的に葉太郎くんと同じか年下ぐらいの設定で、数日間の短い恋の物語なんだから、そんなにがっついてちゃ逆に不自然じゃない? 映画化とかもされてるけど、そんなディープなのはないんじゃないかな、あたしの知る限りでは」
「あ、そうなんですか?」

 僕は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。だってこの間、姉貴はあんなに……。
 藍子さんは僕に疑惑の眼差しを向けた。

「当たり前でしょ? あ、葉太郎くん、いくらロミオ役の袴田さんって子が美人だからって、演技の枠を超えるようなことはダメだからね。それはただのセクハラだよ」
「は? いや、そんなこと考えてませんって」
「本当かなぁ~? 葉太郎くんは女好きだからなぁ」


!i!i!i!i!i!i!i!i


「さ、文化祭まであんまり時間もないし、そろそろ本番を意識して稽古していこう」

 天野部長の一声で、部室に集った部員全員に緊張が走る。『ロミオとジュリエット』は登場人物が多く、裏方まで含めればかなりの人手が必要になる。だが僕たち一年世代の新入部員は少なく、今の三年生が卒業してしまったら、もうこんな大規模な劇はできなくなるかもしれない。その危機感があるからこそ、学内で注目度の高い文化祭で悔いのない舞台を見せたい。姉貴と藍子さんのときのように大きな話題になれば、あるいは部員も増やせるかもしれない。袴田さんというゲスト、いやジョーカーを主役に招聘してでも……。
 その想いは袴田さんにももちろん届いているはずだ。プレッシャーも感じているだろう。でも、彼女を助けてやれるような余裕は僕にはまだない。異性を演じるという難題、自分のジュリエットで精一杯なのだ。

 当初は自分にロミオを演じ切れるのかと戸惑っているように見えた袴田さんだが、ロミオの衣装に身を包み男装のメイクを施された彼女は、僕なんかよりずっと役にハマっている。
 それから僕たちは体育館に移動し、本番の舞台となるステージで初めての通し稽古を行った。ステージを貸し切って稽古ができる機会はそう多くない。これが最初で最後になるかもしれない。だからこそ、皆本番さながらの緊張感を持ってこの稽古に臨んでいた。
 いくつか細かい修正点は見つかったものの、稽古は概ね滞りなく進み、ロミオとジュリエットが出会う舞踏会のシーンを迎える。

「もしもこの卑しい手があなたの聖堂を汚すなら、それは優しい罪。私の唇は頬を赤らめた二人の巡礼者、柔らかい口づけでその穢れを雪ぎましょう」

 去年姉貴が着ていたロミオの衣装を纏った袴田さんが言う。ちなみに僕の衣装も去年藍子さんが着ていたもので、僕のサイズに合わせて少し仕立て直している。ロミオの衣装も袴田さんの体型に合わせて調整されているはずだ。

「そうおっしゃっては、あなたの手がかわいそうですわ、優しい巡礼さま。あなたの手は敬虔な信徒。そして聖者の手は、巡礼者が触れるためにある。互いに手を合わせることは、神聖な接吻にも等しい……」

 ジュリエットの台詞を読むのは副部長なので、僕は唇の動きや仕草に集中した。副部長はジュリエットの上品さや可憐さを上手く出せるかが課題と言われていたけれど、ここ数日の稽古の中で、見事にジュリエットらしい声色を習得している。

「聖者である貴女も唇をお持ちでしょう?」
「え、ええ……ですが、この唇は祈りを捧げるためのもの……」
「ならば聖女さま、その手が成すことを、唇にもお許しください。私の祈りが絶望へと変わることのないように」
「……いいえ、あなたの祈りを受け入れるとしても、聖者の心は易々とは動きません」
「では、動かないでいてください。私の祈りが届くまでの間……」

 劇中でロミオとジュリエットが最初に口づけを交わすシーン。ロミオの、そして袴田さんの顔が近付いてくる。
 キスシーンの扱いについては、僕と袴田さんの意向に完全に委ねられていた。姉貴と藍子さんが小細工なしのキスシーンを演じたことは袴田さんも知っている。が、僕たちの場合は異性だし、袴田さんは本来演劇部の部員でもない。だから、あの部長や副部長でさえも直接の言及は避けているのだ。ここは疑似のキスシーンでと言ってもらえた方がずっと気が楽なんだけど。
 当の袴田さんは、初期の打ち合わせの中で、劇中のキスシーンは特に意識していないと言っていた。つまりガチのキスでも構わないという意味だ。そして実はそれ以来、この件に関して袴田さんと話し合えていない。ということは――。

 袴田さんのロミオは何の躊躇いもなく顔を近づけてくる。ロミオを袴田さんと意識してしまうのは、僕が自分の役に集中しきれていないからだろう。もっとちゃんと話し合っておけばよかった。

 その時ふと、新人デビューコンテストの際、真桑甜花を演じた福島麻美さんの顔が脳裏をよぎった。本番の舞台で初めて、完全にアドリブで行われたキスシーン。突然のことに僕は驚き、役を忘れて目を開いてしまった。そしてその日、お紺が姿を現して、彼女は帰らぬ人となってしまったのだ。
 袴田さんの顔はすぐ目の前にあり、今にも唇が触れようとしている。今の僕の状態で彼女とキスをしてしまったら、袴田さんもきっと……!

「だ、ダメだっ……!」

 僕は咄嗟に舞台の上で袴田さんから顔を背けた。
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