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浦登みっひ

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チョコレートパフェ

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 岡部さんが亡くなってから数日後の朝。
 僕はいつになく陰鬱な気持ちで目を覚ました。
 今日は土曜日。藍子さんの個人授業の日だ。高校生になってから、藍子さんの個人授業は、僕の生活の中で最も楽しい時間であり、僕の心を癒してくれた。それなのに――いや、だからこそ。

「あれ、今日ってさ、藍子と会う日じゃなかった?」

 目を覚ましてからしばらくの間、布団の上に座り込んでぼうっとしている僕に、姉貴が身支度を整えながら話しかけてきた。今日は午前中からシフト入ってるんだっけ。
 普段の僕なら、藍子さんに会える日はそれだけで気分が昂って、平日より早く起きてしまうぐらいなのだ。それがなかなか布団を離れないものだから、心配になったのだろう。

「大丈夫? どっか体の調子でも悪い?」

 姉貴はそう言うと、僕の傍にしゃがみ込み、細く長い指をそっと僕の額に当てた。

「熱はない……か」
「大丈夫。何ともないよ」
「本当に? どう見ても元気ないよ」
「大丈夫だって。今、起きるから……」

 泥のように沈んだ気持ちを奮い立たせてどうにか体を起こす。すると、姉貴は優しく僕の頭を抱き寄せ、耳元で囁いた。

「気分が乗らなかったら、別に無理しなくていいんだよ。勉強なんかいつでもできるし、藍子もそんなことで怒るような子じゃないからさ」

 無理しなくていい。
 頑張らなくていい。
 姉貴のその言葉に、僕はずっと甘やかされ、守られてきたのだ。その分、姉貴はずっと無理をして。

「じゃ、あたしバイト行くね。朝ごはんは冷蔵庫に入ってるから、気が向いたら適当に食べて。そんじゃ、行ってきまーす」

 姉貴は軽く手を振り、長い髪を靡かせながらいそいそと部屋を出て行った。


 藍子さんの個人授業は、今日でもう十回目になる。当初は週末の空き時間だけ、という話だったのだけれど、平日の夕方に藍子さんが突然やってくることもあり、僕も放課後は基本的に暇だから、喜んで一緒に街へ繰り出した。
 最初は喫茶店だったが、行く店は藍子さんの気分によって毎回変わった。ファミレスの時もあるし、マックの時もあったし、勉強が終わってから『シメに』とラーメン屋に連れていかれたこともある。藍子さんの教え方が上手なせいか、中学の復習はとても順調に進み、今では勉強の時間よりも食事や雑談に割かれる時間のほうが多くなったり。こうなると、もう勉強が目的なのか食事が目的なのかわからなくなってくる。特に、今日は昼前から夕方までと長時間になる予定だから、必然的にお喋りの時間のほうが長くなるだろう。
 客観的に見れば、もしかしてこれはいわゆる『デート』なのではないか、とさえ思えてしまうのだが、だとすると、お紺の呪いが、今度は藍子さんに向けられる可能性も否定できない。

 だから僕は、藍子さんと会うのは今日で終わりにしようと考えていた。
 もう僕は、女性と仲良くなってはいけない人間だから。

 朝食を摂り、着替えて部屋で待っていると、程なくして、玄関の扉が小さく叩かれた。

「もしも~し、葉太郎くん?」

 藍子さんの声だ。

「は、はい、今開けます!」

 予定の時間より少し早くて焦ったが、僕は急いで玄関に向かい、扉を開けた。

「こんにちは、葉太郎くん」

 今日の藍子さんは、襟に大きなフリルがついた白いワンピースに、こちらもフリルがあしらわれた薄桃色のサンダルというコーディネート。今まで数回藍子さんと会ってきた中で、彼女が同じ服を着てきたことは一度もないし、その全てが完璧に似合っている。毎度のことながら、僕はほぼ無意識のうちに呟いていた。

「……か、かわいい……」

 すると、藍子さんは訝しげに軽く口を尖らせた。

「ホントにそう思ってる? なんか適当に言ってない?」
「い、いえ、そんな……ホントにかわいいです!」

 今日の藍子さんは、元々の童顔とファッションの相乗効果によって、女子高生を名乗っても違和感がないほどに可愛らしかった。こんな美少女を目の前にしたら、男なら誰だって膝蓋腱反射の如く『かわいい』と漏らしてしまうだろう。
 藍子さんは少し照れ臭そうにはにかみながら言う。

「ふふ。ありがとう。ちょっと若作りしすぎちゃったかなって不安だったんだけど……大学生にもなってこんなフリフリのワンピなんか着ちゃって、イタくないかな?」
「全然、全然! よく似合ってます。とっても可愛らしくて、なんか、マンガのヒロインみたいに」
「そう? よかった。葉太郎くんはいつも褒めてくれるから、オシャレのし甲斐があるよ。じゃ、行こっか」

 今回藍子さんに連れて行かれた先は、近くのビルの二階にあるカフェだった。
 アパートから歩いて数分の距離にあるにも関わらず、そのビルにカフェが入っているなんて、今まで知りもしなかった。内装はモノトーンと木目を基調としたモダンで落ち着いた雰囲気。店内に静かに流れるジャズのBGMが、そのお洒落な空間を一層引き立てているように思えた。

 個人授業はいつもより時間がかかった。それは僕自身がなかなか勉強に集中できなかったからだ。
 藍子さんも僕の異変に気付いたらしく、隣から顔を覗き込んできた。

「葉太郎くん、どうしたの? なんか、今日は疲れてるみたい」

 と、藍子さんの顔がすぐ目の前にあって、僕の脈拍数は急激に跳ね上がる。なんか今日は、いつにも増して距離が近くないか? 彼女の微かなフローラル系の香水の匂いが鼻腔をくすぐり、まっすぐ目を合わせられない僕の視線は自然と藍子さんの肉感的な唇から首、そして胸元へ……。
 ああ、いかんいかん、ダメだこんなんじゃ!
 雑念を振り払おうとしてはみたが、元々集中しきれていない状態だった上、さらに一度途切れてしまうと、もうモチベーションを取り戻すのは難しかった。

「……すみません。ちょっと、今日はダメみたいです」
「……そっか。まあ、そんな日もあるよね。じゃ、勉強はここで終わりにしましょうか」

 藍子さんはそう言うと、教科書や参考書を手早く片付け、ウエイトレスに二杯目のコーヒーと二人分のチョコレートパフェを注文した。そのウエイトレスの背中を目で追い、藍子さんはそのままウエイトレスが消えていったキッチンの方向を、文字通り首を長くして見つめている。
 このタイミングを逃したら、きっともう切り出せなくなる。僕は心を決めて、藍子さんに向き直った。

「……あの、藍子さん。ちょっと、お話したいことがあって」
「なに? そんな改まって」
「こうして会うのは、もう終わりにしたいんです」

 そこで一瞬の間。

「……え……?」

 藍子さんはそれだけ呟いて絶句した。
 僕もその次の言葉がなかなか出てこなかった。
 それは実際にはほんの数一、二分の出来事だったはずだけれど、僕にはもっと長く感じられた。ウエイトレスが二人分のコーヒーを持って来てテーブルに置いたが、口をつける気には全くなれない。が、コーヒーの皿をテーブルに置く『コト』という微かな音が、なんとなく沈黙を破るきっかけにはなったようで、藍子さんは困惑気味に口を開いた。

「……どうして? あたしの教え方、下手だったかな……?」
「いえ、藍子さんの教え方はすごくわかりやすかったです」
「じゃあ、何で? ウザかった? 私……」
「全然ウザくなんかないです。優しくて、可愛くて……違うんです、藍子さんに嫌なところがあるわけじゃないんです」
「どういうこと?」

 僕は、更紗に続き、身の回りで二人目の犠牲者が出てしまったこと、そして今川家にかけられたお紺の呪い(呪いを解くためには生まれ変わったお紺を殺さなければならないかもしれないことは伏せておいたが)、学校で居場所がなくなりつつあること、そして何より、藍子さんに災いが降りかかる前に、会うのをやめたいこと――を、自分なりに言葉を尽くして丁寧に伝えた。
 僕が話している間、藍子さんは無表情のままじっと押し黙っていたが、

「藍子さんのことが嫌いだとか、そういうんじゃないんです。このままだと、藍子さんに迷惑をかけてしまいそうで……。だから、そうなる前に、もう会うのをやめたほうがいいと思って」

 と、一通り話し終え、少し肩の荷が下りたところで、藍子さんは突然、地の底から湧き出てきたのかと思うような、彼女にしては恐ろしく低い声で言った。

「葉太郎くん、あたしのことバカにしてんの?」
「……え?」

 今度は僕が絶句する番だった。藍子さんは畳みかけるように早口でまくし立てる。その剣幕たるや、ちょうど二つのチョコレートパフェをお盆に載せてやってきたウエイトレスが、驚いてチョコレートパフェをひっくり返しそうになるほどだった。
 九死に一生を得たチョコレートパフェが二つテーブルに並んだが、藍子さんはそちらを見ようともしない。ただならぬ気配を感じたらしいウエイトレスは、忍び足で僕達のテーブルを離れていった。

「急にもう会うのをやめたいって言うから何かと思ったら、呪いって……。ねえ、あたしがそんなオカルトを信じるようなバカ女に見えるわけ? 自慢じゃないけどさ、こう見えてもT大生だよ、あたし。そんな理由で会うのをやめたいって言われるぐらいなら、いい年こいてその服装はねーよって言われるほうがよっぽどマシだわ」
「あ、あの……」
「たしかに、家にそういう言い伝えがあって、身近にいる人が続けて亡くなったら、もしかして、って思っちゃうのはわからなくもないよ。でも二人でしょ? そんなの、客観的に、普通に考えたら、それはただ不幸な偶然が重なったに過ぎない。少なくともあたしは、呪いなんて全く怖くない。ただの迷信だよ。だから、そんなことを理由にしてほしくない」
「……は、はい……」
「ねえ葉太郎くん、そういうの抜きにして、はっきり聞かせて。私に会いたいの? 会いたくないの?」

 その二択は卑怯すぎる。僕はもう何も言い返せなくなっていた。

「……会いたくないわけじゃないです」
「答えになってない」
「……あ、会いたい……です」

 は、恥ずかしい……。
 先程とは全く違う意味で、僕は藍子さんの顔を直視できなくなってしまった。
 でも、上目遣いに盗み見た藍子さんの表情は、うっすらと笑みを浮かべて、吸い込まれるように穏やかなものへと変わっている。藍子さんは言った。

「よし。よく言えました。はい、じゃあこんな話は、金輪際しないこと。わかった?」

 その時の藍子さんの瞳が微かに揺れているように見えたのは、僕の目の錯覚だろうか。
 ふう、と大きなため息をついて、藍子さんはチョコレートパフェと少し冷めかけたコーヒーに口をつけ始めた。

「それにしても、周りの子たちの話、ほんっとくだらないな。葉太郎くんの無実は、警察の捜査でちゃんと証明されてるわけでしょう? なのに、その二人が亡くなったことに、葉太郎くんが何か超自然的な力で関与してるとでも言うわけ? 義務教育を受けた現代の日本人が? 呆れて物も言えないよ。しかも、そんな理由でハブるなんて。女子のそういうネチネチネチネチしたとこ、大嫌いなんだ、あたし」
「……は、はぁ、そうなんですね」

 男子も男子なりにネチネチはしているけど、女子は少し様子が違うということは、僕も最近わかってきた。

「そそ。花倉に進学して間もない頃はさ、女子高に進んだことを後悔したもん。そんなくっだらないことで葉太郎くんが気に病む必要なんか全然ないよ。葉太郎くんは全然悪くないって、私が保証するから。だから、元気出して」
「……はい。ありがとうございます」

 とは言うものの。
 藍子さんが僕の味方でいてくれることはとても嬉しかったが、それで気分がスッキリと晴れるわけでもない。二人が死んだのは事実だし、藍子さんはくだらないと言うけれど、僕はお紺の姿を実際に見ているのだ。これは確かにオカルトかもしれないが、僕にとっては迷信ではない。

「葉太郎くん? 私の話聞いてる?」
「えっ、あ、はい!」

 慌てて視線を上げると、藍子さんは眉を吊り上げ、タコのように口を尖らせている。膨らんだ頬はまるで、子供の頃にお祭りで買ってもらった水風船みたいだった。

「浮かない顔しちゃって、もう……」
「す、すみません……」
「……まあ、いいけど」

 今日の藍子さんは、いつにも増してころころと表情が変わる。水風船の頬を萎ませると、今度は弾むような声で、藍子さんは言った。

「ねえ葉太郎くん、次の週末暇?」
「え? ええ、特に予定はないですけど」

 次の週末は土日まるまる休みだが、一緒に遊ぶほど仲の良い友達もおらず、いつもながらスケジュールは真っ白だ。一人で外に出るのも億劫だし、こんなときは大体家でゴロゴロと、もう何度読んだかわからない漫画を読み返したりするのだけれど。

「じゃあさ、今度の土曜日、茉莉花と三人で遊ぼうよ。勉強抜きにして、ぱーっと。そんな辛気臭い顔されてたら、こっちの気が滅入っちゃうもの。茉莉花にはあたしからも連絡しておくからさ」
「あ、あの……」
「まさか、断ったりしないでしょうね?」

 と、藍子さんは今度は眉根を寄せて、その童顔で可能な限りのこわい表情を作って見せた。
 わざわざ脅迫なんてしなくても、僕が藍子さんの誘いを断れるわけがないじゃないか。
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