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浦登みっひ

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夢の残響

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「そんなに難しい顔して、な~に読んでんの?」

 と、隣に座った姉貴が、僕の体に凭れかかるようにして手元を覗き込んでくる。艶のあるライトブラウンの髪から、微かにふわりとシャンプーの香り。銭湯で髪を洗ったのは昨日の晩のはずなのに、姉貴はどうしてこんなにいい匂いが長持ちするんだろう。香水をつけているわけでも、高価なシャンプーを使っているわけでもないはずなのに。姉貴の七不思議の一つである――なんて適当に思ってしまったけど、他の六つは咄嗟には思い付かない。でも、探し始めたら、きっと七つどころでは収まらないだろう。
 僕は姉貴の質問に答えた。

「ああ、これ、同じクラスの、隣の席の子から貸してもらった本なんだ。『ドグラ・マグラ』っていうタイトルの」
「ふ~ん」

 と素っ気なく呟くと姉貴は、今度は本の表紙を覗き込む。

「うわっ、何この表紙! なんかえっちだあ~」

 姉貴の声とともに、周りの座席にいる乗客たちの視線が一斉にこちらに向けられる。
 そう、僕たちは今、ばあちゃんの家に行くため電車に揺られている。週末の昼だし、もともとあまり利用客の多い路線でもないから、ラッシュ時のように混雑はしていないけれど、それでも周りには乗客が十人、いや二十人ぐらいはいた。さすがに全員がこちらを振り向いたわけではないが、少なくとも五、六人はぎょっとした目で僕たちを見ていたはずだ。

 この『ドグラ・マグラ』の文庫本上巻の表紙には妖しげな女性の絵が描かれているのだが、その女性は衣服の前をはだけさせ、色々なものが露出されていて(一応股間は出版社のロゴで隠されているんだけど)、なんかどころではなく、とてもえっちだ。朝比奈さんからブックカバーも借りておくんだったと今更になって後悔。
 部屋でじっくり読めばいいじゃないかと思うかもしれないが、この『ドグラ・マグラ』は内容が非常に難解で、読むのにとても時間がかかる。わざわざ貸してもらったからには読まずに返すなんてことはできないし、少なくとも感想を聞かれたら答えられる程度には読んでおかなくちゃと思うし、あんまり長いこと借りっぱなしじゃ申し訳ないし――と、僕が電車の中でこのえっちな表紙の本を開いているのはそういう理由による。空き時間を使って少しでも読み進めておきたいのだ。
 僕は声を潜めて姉貴に耳打ちする。

「ちょっと姉貴! わざわざそんな大声で言わなくてもいいじゃん、恥ずかしいよ……」
「だぁってぇ、退屈なんだもん」
「そんな、子供みたいなこと言うなよ……」
「あたしだってまだ未成年だしぃ~」

 姉貴はそう言って、僕の体に凭れかかりながら本のページに目を落とした。
 その時僕が読んでいたのは、『胎児の夢』に関する記述の部分だった。胎児の夢とは、胎児が母親の胎内にいる間に見ている夢のこと。人間の発達や進化のプロセスについての壮大で大胆な仮説という感じだ。
 『ドグラ・マグラ』には他にも、人間の脳や神経についての仮説である『脳髄論』や精神病に対する見解など、独特の文体と世界観によっておどろおどろしい物語が紡がれている。

「うわ~、エロ本にしては漢字多いんだね」
「だからぁ、エロ本じゃないってば」

 それからしばらく、僕たちの間に沈黙が流れた。
 ガタンゴトンと電車が揺れる音、停車駅を告げる車内のアナウンス、揺れが止まり、周りの乗客が入れ替わって――それが四、五回は繰り返されたと思う。姉貴は僕の肩に体を預け、僕の側頭部に頭を押し付けたままじっとしていた。

 寝ちゃったのかな、と思って横目で様子を窺ってみたが、姉貴はちゃんと起きていた。その視線は僕の手元にある本に注がれており、上下左右に小刻みに動く眼球から、文字を追っているらしいことがわかる。
 たったそれだけのことのはずなのに、何故だろう、僕はとてもドキドキした。
 距離がとても近かったせいだろうか――わからない。とにかく僕は、胎児の夢そっちのけで、姉貴の横顔と細かい眼球運動に見入っていた。

 姉貴が突然口を開く。

「ねえ……」
「え、えっ?」

 ずっと見ていたことに気付かれてしまっただろうか。僕は慌てて姉貴から目を逸らし、何事もなかったかのように、再び本へと視線を落とした。ええっと、どこまで読んでたっけ……。
 しかし、姉貴の口から出てきたのは、全く違う言葉だった。

「あの、さ、葉太郎のクラスメイトの女の子が亡くなった日、葉太郎、気を失って保健室に運ばれたじゃない?」
「う、うん」

 僕と更紗が付き合うことになった直後の出来事だったことは知っているはずなのに、姉貴は頑なに更紗のことを『彼女』ではなく『クラスメイトの女の子』と言う。

「あの時の葉太郎、保健室のベッドですごく魘されてたけど、なんの夢見てたか覚えてる?」
「それは……」

 それは、今日僕がばあちゃんに会いに行く理由でもある。
 更紗が死んだあの日、僕の前に現れ、忽然と姿を消した着物姿の女。そして、その直後に見た奇妙な夢の内容。夢の記憶なんて、普段は目覚めたらすっかり忘れてしまうのに、何故かあの夢だけは今でも鮮明に思い出せる。ごみごみした江戸の街並み、汗くさくて埃っぽい蕎麦屋の空気、それから――夢の中で僕が名乗った名前と、注文を聞きに来た女の名前。それらは全て、ばあちゃんが昔から僕に語ってきたあの悲しい昔話の内容に沿ったものだったのだ。

 僕は、そのことを素直に姉貴に話した。姉貴は相変わらず文字を追いながら、言葉を選ぶようにゆっくりと答える。

「そっか……うーん、それはさあ、何ていうか、ちょっと思い込みもあるんじゃない?」
「思い込み?」
「うん。葉太郎はさ、その、杳之介とお紺の話を、小さい頃からばあちゃんに何度も聞かされてきたわけでしょ? その記憶があるから、あの与太話に沿った内容の夢を見ちゃったんだと思う」
「う~ん、そうかな……」
「血みどろの着物の女が立っていたって話だってさ、きっと、目の前で女の子が死んで、すごいショックを受けた状態で、あの与太話を連想しちゃって、女の幻を見てしまった――っていう解釈もできると思うんだ」

 そう言われると確かにそんな気もするし、警察でその話をしたときにも、同じようなことを言われた。PTSDの可能性もあるから、カウンセリングを受けてみたほうがいいかもしれない、とも。

「だからさ、あんまり深刻に考えないで。ばあちゃんは何て言うかわかんないけど、あたしは、ただの考えすぎだと思うよ」
「うん……わかってる」

 自分でもそう思う、いや、そう思いたい。けれど、夢の中で聞いたお紺の『杳之介さま』という声が、未だに耳の奥にこびりついて離れない。普通に生活していても、ふとした瞬間にお紺の笑顔が脳裏に浮かび、あの鈴のような声が鼓膜を震わせるのだ。
 心の奥底に蟠った不安は収まるどころか日に日に大きくなって、自分の力だけではどうにもできないところまで成長しつつあった。カウンセラーに相談してみたところで、言われることは警察と同じだろう。いや、普通に考えれば、それがまともな見解なんだ。たかが夢の内容がこんなに気になってしまうこと自体、僕が呪いに囚われている証拠なのかもしれない。

 もう、あれをただの与太話とか思い込みでは済ませられない。
 更紗を巡って起こった一連の出来事を、どうしてもばあちゃんに相談してみたくなったのだ。

 そんなことを考えていると、姉貴がぽつりと呟いた。

「ねえ、あたしこのページもう十回ぐらい読んだんだけど、そろそろ次のページ行かない?」
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