そして何も言わなくなった【改稿版】

浦登みっひ

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三日目(4)

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「……ちょ、ちょっと待ってください、私の一存で旦那様のお部屋に皆様を入れるわけにはいきませんよ」

 霞夜が放った一言に、錦野は大いに狼狽えた様子を見せた。先程綸に睨みつけられた時の比ではなく、まさに周章狼狽といった体である。

「この部屋には、旦那様が大事にしておられる書物や、金庫だって置いてあるのですよ。みだりに部外者を入れるわけにはいかないのです。部屋の鍵は私が管理しておりましたし、皆様が乙軒島にいらして以降、この部屋には誰も足を踏み入れていないし、入りようがありません。それで十分ではないですか?」
「錦野さん、私だって、興味本位で部屋を見たいと言っているわけではないんです。この非常事態ですから、犯人が隠れ得る場所は全てチェックしておきたい。もし仮に、犯人が合鍵を持っていたり、何らかの手段でこの部屋に出入りすることが可能だったとしたら、これ以上の隠れ場所はないですよね? 仄香のご両親が滞在していない間は、ほとんど誰も立ち入らないんですから」
「そんな無茶な……」
「では、仄香が一緒ならどうです? 仄香はご主人の娘、錦野さんよりも近い存在です。いかに管理のためとはいえ、錦野さんが入れて仄香が入れないという道理はないはずですが」
「しかしですね……」

 錦野はそれでもまだ判断を渋っていたが、仄香の鶴の一声が決定打になった。

「お願いします、錦野さん……。パパにはあとで私からちゃんと説明しますから。嬰莉ちゃんにあんなことをした犯人、私もどうにかして捕まえてやりたいんです」

 哀願するように潤んだ仄香の大きな瞳で見つめられ、錦野はついに観念した。

「……やれやれ。お嬢様にそう言われては仕方ありませんな。部屋の中にある物には、くれぐれもお手を触れないようにご注意ください」


 錦野が見守る中、霞夜は仄香の両親の部屋のドアノブに触れた。そのままガチャガチャと何度かひねろうとしてみたが、やはりドアノブは動かない。

「やっぱり、鍵はかかってますね……そういえば、仄香はこの部屋によく入るの?」
「う~ん、あんまりかな……乙軒島に滞在するとき、私はリビングか自分の部屋にいることが多いから。パパとママも大体リビングにいるし、夜中にならないと部屋には戻らないんだよね。だから、夜とか早朝とか、パパとママに何か急ぎの用事があればここに呼びに来るけど、それも滅多にないし……」
「錦野さんは、この部屋には?」
「私も、まだ何度か掃除のために入ったぐらいですな」
「じゃあ、部屋の中に何か変わったところがあったとしても、気付くのは難しいかもしれませんね……」

 霞夜が鍵を開けドアノブに手をかけると、先程まで地面と水平なまま動かなかったドアノブが、45度ほど軽く押し下げられた。

「失礼しま~す……」

 誰もいないはずの部屋に向けてそう呟きながら、霞夜は扉を押し開く。
 扉の向こうは真っ暗で、人の気配はない。霞夜は一瞬ほっとしたような表情を見せたものの、違和感を覚えたらしく、『ん?』と小さく首を捻った。今はまだ午前中。いくら台風で日が差さないとはいえ、さすがにここまでの暗さは有り得ない。
 霞夜の困惑に気付いた錦野が声を掛ける。

「二階の部屋の中で、ここと遊戯室だけは窓がないのですよ。屋根裏部屋にはあるのですが……少々お待ちください、そこに電気のスイッチがあるはずです」

 錦野が先に部屋に入り、入口の横にあるスイッチに触れると、部屋の中がたちまち明るく照らし出された。
 そこはまるで図書館のような空間だった。壁を埋め尽くす巨大な書架と、そこに収められた夥しい量の書物。部屋中に数列の書架が林立し、それはまるでヨーロッパのお洒落な図書館のような光景だった。天井から吊り下げられたシンプルなデザインのシャンデリアから柔らかい光が降り注ぎ、部屋の中央には英国風のアンティーク感漂うシックな書き物机と座椅子が鎮座している。
 書架を含めたこの部屋の調度品はいずれも深みのあるダークブラウンで統一されており、表面は鏡のように磨き上げられていた。書き物机の手前には左右一対の大きなチェスターフィールドソファ。書架の前には、高い位置にある本を取る際に使うと思われる脚立が置かれている。
 部屋中に聳え立つ書架の圧迫感は凄まじく、階下のリビングと同程度の広さがあるはずのこの部屋が、やけに狭く感じられた。

「すごい量の本……それに、とても落ち着いた雰囲気のある空間ですね……」

 霞夜が呆気にとられたように呟くと、錦野も大きく頷いた。

「ええ、私も初めてこの部屋に入った時は驚かされましたよ。まるで十九世紀の英国に迷い込んだようですな。それこそ、シャーロック・ホームズの時代のような」

 書斎の格調高く落ち着いた雰囲気に、霞夜は犯人探しという本来の目的をすっかり忘れて、その光景に見惚れていた。
 霞夜が最も目を奪われたのは、英国風の調度品でもシャンデリアでもない。読書家の霞夜にとっては、巨大な書架に収められた稀覯本の数々こそが最も興味を惹かれる対象のようだった。
 専門書や資料の類も多かったが、父親はミステリ好きだという仄香の言葉に違わず、書架には数多の推理小説が並んでいる。乱歩、正史、夢野久作といった国内の大家はもちろんのこと、新本格から新鋭作家に至るまで、それはまるで日本のミステリの博物館といった様相を呈していた。国内の作品だけではない。クリスティやクイーン、カーといった海外のミステリ作品の原本も、巨大な書架の一隅を占めている。いずれもミステリマニア垂涎の品である。
 純文学や他のジャンルのものもあったが、それは全体から見ればほんの一部だった。

 読書家、特にミステリ愛好家にとってはまさに天国のような空間。霞夜が陶然とするのも無理からぬことだった。そんな霞夜の様子に気付いた錦野が、わざとらしく一つ咳払いをする。

「……おほん。どうやら、この部屋にも犯人が隠れている様子はありませんな。荒らされたような形跡もない」

 錦野の言葉でようやく書斎に入った目的を思い出した霞夜は、はっとしたような顔で部屋の探索を始めようとしたが、錦野に先手を打たれてしまったせいもあり、既に大きく勢いを削がれている。
 それに、この書斎には身を潜めるのに適したような場所、空間がないのも事実だった。書架にはびっしりと本が詰め込まれているし、書き物机の周囲に立っているチェストやキャビネットも、人が隠れられるほど大きくはない。キャビネットは前面がガラス張りで、中が丸見えである。
 書き物机の引き出しには小型の金庫以上の大きさのものはなく、その金庫も、せいぜい人間の頭部が入るかどうかという程度の大きさしかない。

「たしかに、ここではなさそうですね……」

 そう言いつつも、霞夜は既にその先へと目を向けていた。確かめるべき部屋はもう一つあったからだ。霞夜は書斎の壁面の中で唯一書架が立てられていない一角へと視線を転じた。そこにあったのは木製の階段。屋根裏部屋へと繋がる階段である。

「この屋根裏部屋が、ご夫妻の寝室ということになりますな」

 階段を昇りながら、錦野が言った。屋根裏部屋へと繋がる木製の階段は、地下室へ降りる際に使った階段より簡素な造りで、またもや錦野が一段上がるごとに振動が伝わってくる。今にも壊れるのではないかと仄香も気が気ではなかったが、幸いこちらの階段はそれほど長くはなく、すぐに屋根裏部屋に着くことができた。

 屋根裏部屋と言うと、狭くて天井が低い小さな空間を想像するものだ。しかし、いややはりと言うべきか、この屋敷の屋根裏部屋はそうした常識を覆すものだった。
 切妻屋根に沿った三角型の天井はさすがに他の部屋よりは低いものの、天井高は一般的な家屋の一室と比べても遜色がない。広さは少なく見積もっても二十畳はあるだろうか。ドーマーの窓からは相変わらずどんよりと暗く曇った空が見える。
 部屋の南側には分厚いマットレスが敷かれたキングサイズのベッドが設えられているが、部屋の主が不在なため、シーツや枕、寝具の類はかけられていない。ベッドの反対、南側には夫人のものと思しき大きな鏡が設えられたドレッサーがあったが、こちらも台の上には物が一切置かれていなかった。
 他に目についたのはベッド脇のシンプルなナイトテーブルぐらいだが、それとて人が身を隠せるような大きさには程遠い。天井には埋め込み型のLEDライト、ベッドサイドには間接照明のスタンドライトが立ち、照明はシンプルにまとめられている。
 そして、言うまでもなく、ここにも誰かが潜んでいたような痕跡も、身を隠せるような場所も存在しなかった。屋敷中を隈なく探し回っても何の成果も得られなかったことに、さしもの霞夜も落胆の色を隠せない。

「やっぱり、ここもダメか……」
「犯人はもう屋敷の中にいないってこと?」

 仄香が尋ねると、霞夜は顎に手を当てて黙考したのち、ゆったりと首肯した。

「……そういうことになるね。仄香、錦野さん、部屋はこれで全てですか? まだ私たちが見ていない部屋は……」
「いえ、私が知る限り、これで全てです。お嬢様もご存じないのであれば、屋敷内にはもう残された部屋はないと思われますが……」
「うん、私も知らないよ。屋敷の中は、もう全部調べ尽くしたと思う」
「……なるほどね。残るは屋外か……」

 そう言いながら、霞夜はおもむろに窓の外に広がる黒い雲を見やる。

「じゃあ、外に出てみましょうか。まさかこの天気の中で風雨に打たれているとは思いづらいけれど、船着き場のログハウスなら、まだ可能性はあります」


!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!


 透明なビニールの雨合羽に身を包んで外に出ると、立っているのが困難なほどの暴風と、それに乗って勢いをつけたBB弾のような雨粒が容赦なく叩きつけられる。

「きゃっ!」
「危ない!」

 風の勢いによろめいた仄香の腕を、霞夜が慌てて掴み、グイと引き寄せた。

「ひゃぁ、怖かった……ありがとう霞夜ちゃん」
「お礼はいいから気を付けなさいよ、あたしだってうっかりしたら一緒に飛ばされちゃいそうなんだから」
「いやあ、やっぱりものすごい風だ……私は平気ですが、皆さんはずいぶん華奢でいらっしゃいますから、飛ばされないよう、くれぐれも注意してくださいね」

 ――との言葉通り、歩く文鎮のような錦野は、この強風の中でもビクともせずに、のっしのっしと先導してゆく。錦野が最も頼もしく見えた瞬間である。
 念のため屋敷の周囲をぐるりと歩いてみたが、ログハウス以外に身を隠せるような場所は見当たらない。一昨日の昼に訪れた時は可憐な花々が咲き乱れていた花壇も、風雨に曝され、見るも無残な有様となっている。
 船着き場に近付くと、波が時折白い泡を飛ばしながら岸へと絶え間なく打ち付けてくるのが見えた。押し寄せる波に注意しながら、霞夜は鍵束からキーを取り出し、緊張した面持ちでログハウスの鍵を開ける。

 だが、ここもハズレだった。ログハウスの中にあったのは、ボートの燃料となるガソリンや園芸用品などで、不審者が潜伏したような形跡はどこにもない。ログハウス内には花壇や菜園のための土や肥料の袋がうず高く積まれており、空いたスペースにはボートのメンテナンス用具、スコップや鋤などの雑多なものが詰め込まれていて、とても人が身を潜められるようなスペースはなかった。

 しかし、霞夜が落胆とも安堵ともとれないため息をついたその瞬間、背後にいた錦野が突然慌て始めた。

「あっ……! ない……ないですぞ! もしや……まさか……」

 錦野はそう叫ぶや否や、巨体を躍らせながら海の方向へと駆け出していく。
 あの様子はただ事ではない。何かあったのだろうか――顔を見合わせた仄香と霞夜は目顔でそう交わし合い、錦野の後を追う。

「ああっ……これは……なんということだ……!」

 船着き場へ辿り着くと、錦野は禿げ上がった頭を両手で抱え、激しく動揺していた。

「錦野……さん……? どうしたんですか!?」

 怪訝に思った仄香は錦野の背中に問うたが、仄香が錦野に尋ねるより早く異変に気付いた霞夜が、唖然とした表情で呟いた。

「……ボートが……ない……?」
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