血の輪唱

浦登みっひ

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第十二話

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 キャサリンの腕の中で、彼女の体温に包まれながら、ジョセフの意識は深い奈落へと落ちてゆく。それはジョセフが三百年ぶりに感じる人の温もりであった。
 愛する人の腕を棺として永遠の眠りに就く。長い道のりではあったが、これほど幸福な最後はあるまい――薄れゆく意識の中、ジョセフの脳裏を三百年分の記憶が駆け巡る。その殆どは、旧ドラモンド邸で孤独に過ごした時間だった。そして、次に思い起こされたのは、遠く意識の深層に眠っていた生前の記憶。威厳のある善良な父、優しい母、勤勉な使用人たち。そして、愛しいシャーロット。
 その華奢な体を抱き留めると、シャーロットは安らかな微笑を浮かべながらジョセフの胸に顔を埋める。それはジョセフの人生の中で最も純粋に幸福を感じられていた時期だった。
 シャーロットの髪から漂う芳しい薔薇の香りから、意識はごく最近の記憶へと舞い戻る。突然旧ドラモンド邸を訪れたキャサリン。彼女のためにセシル家の屋敷へ通う、オークの森の静けさ。それから、彼女が持ってきた獣の血の――。

 ……いや、違う。口の中には確かに血の味が広がっているのだが、それは獣の死骸の生臭さとは明らかに異なるものだった。まろやかな風味、滑らかな舌触り、臭みのない爽やかな喉ごし。まるで極上のワインのような――。
 深淵に飲み込まれたはずのジョセフの意識は急速に引き上げられ、明確な像を結び始める。

 これは一体?
 困惑しながらジョセフが目を覚ますと、そこは天国でも地獄でもなく、豪奢な調度品の並ぶキャサリンの部屋だった。床に倒れ込んだまま力尽きたはずのジョセフの体はいつの間にか抱き起こされて、床に座ったままキャサリンと抱擁を交わしている。背中に回された彼女の細い腕は、まるでしがみつくようにジョセフの夜会服を強く握っている。
 ジョセフの体を強く抱き締めながら、キャサリンは小さく体を震わせていた。そして、ジョセフのすぐ目の前に、血の気を失ったキャサリンの白い首筋が――。

「……!!」

 ジョセフはこの時ようやく気が付いた。自分の長い牙がキャサリンの首筋を深く抉っていること、喉を潤している血液が、キャサリンのものであることに。
 ジョセフはすぐにキャサリンから離れようとしたが、体は金縛りにあったように全く動かない。飢えて渇ききった体は、彼の意に反して、さらに貪欲にキャサリンの生き血を求めていたのである。

「ああ……ジョセフ……」

 消え入るような声でジョセフの名を呼ぶキャサリン。その声の脆弱さが、彼女の状態の深刻さを如実に示している。

(キャサリン――このままでは……!)

 声だけではない。キャサリンの血が喉を通るごとに、ジョセフの体を抱く腕の力が弱まってゆく。衰弱する彼女をまざまざと感じつつも、吸血鬼の本能のままに生き血を貪る喉の動きを止めることはできなかった。

 キャサリンの血は、今までに味わったことがないほど美味だった。吸血鬼になってからは勿論、生前まで含めても、これほど美味いものを口にしたことはない。単に血液の味だけではなく、生娘であるキャサリンの血が含む穢れなき霊質と、豊かな生命力が齎す極上の味わい。彼女の霊質はジョセフの体内でたちまち魔力へと変換されて、弱り切った五臓六腑に染み渡る。それを悍ましく思うほど、甘美な呪いのように、彼女の血液は旨味を増していった。

 キャサリンの血が喉を通り続けるその時間は、飢えに耐え続けた三百年の年月よりも遥かに長く感じられた。ジョセフが意識を取り戻した頃にはまだ彼の体を抱き起こすだけの力が残っていたキャサリンだったが、今ではむしろ、倒れ込みそうになるキャサリンの体をジョセフが支えなければならなくなっている。

 そして、ジョセフの体がようやく彼の意識の制御下に還ってきたとき、キャサリンは既にがっくりと項垂れ、意識が混濁している状態だった。三百年もの長きにわたって飢えに苦しんだジョセフの体は、真綿が水を吸い取るように、たったの一噛みで、致死量に達する量の血液をキャサリンから奪ってしまったのである。
 キャサリンの首筋から口を離したジョセフは、ぐったりと動かなくなった彼女の体を膝の上に横たえる。先程とは立場が完全に逆転していた。

「キャサリン! しっかりしろ、キャサリン!」

 眠るように目を閉じていたキャサリンは、ジョセフの声に応えてうっすらと瞼を開く。

「ジョ……ジョセ……フ……?」
「ああ、キャサリン……何故このような……」
「言ったでしょ……勝手に死ぬなんて、絶対に……許さないって……」
「どうして……一体何があったというのだ、私はさっき確かに……」
「あのままじゃ、ジョセフ、そのまま死んじゃいそうだったから……口を無理矢理こじ開けて……私の首に当てたの……感謝しなさいよ……私の血を……こんなにたくさん、飲ませてあげたんだから……」

 そう答える間にも、キャサリンの体からは少しずつ体温が失われていく。

「馬鹿な! 私は……私は、もう充分すぎるほどに生きたのだ……これ以上望むものなど……」

 キャサリンは、だらりと投げ出された腕をどうにか持ち上げ、震える指先でジョセフの頬に触れた。

「ああ、ジョセフ……なんて綺麗な顔……今の貴方が、この世で一番美しいわ」

 初めて生き血、それも純度の高い霊質を持つ生娘の血を大量に飲んだジョセフの体は、飢餓状態を脱し、極めて充実した状態にあった。干からびた肌は潤いを取り戻し、げっそりとこけていた頬は、細面ながらも健康的な膨らみを取り戻している。双眸には再びルビーのような輝きが宿り、その瞳にかつてないほど強大な魔力を漲らせながら、しかし今にも泣き出しそうなほど悲しげな視線をキャサリンに落としていた。

「無理に喋るんじゃない! 今すぐ、誰か人を……」

 ジョセフは慌てて立ち上がろうとしたが、キャサリンの手は彼の夜会服の襟を掴んで引き留める。満足に話もできない状態で、どこにこんな力が残されていたのかと思うほど、その手は力強かった。

「やめて……もう手遅れだって、貴方もわかっているんでしょ……? もう私を一人にしないでよ……ずっと、ずっと寂しかったんだからさ……」
「そんな……諦めないでくれ、キャサリン……」

 自ら死を望んでいた私などを生かすために、彼女が命を落とすことは許されない――とは思いつつも、キャサリンの言う通り、彼女を救うことはもう不可能であることを、ジョセフも頭では理解していた。
 キャサリンが初めて見せた強請るような眼差しに負け、ジョセフは再び床に座ってキャサリンの体を膝に乗せる。

「ねえ、ジョセフ……私の血、おいしかった……?」
「それは……いや、味なんて……」
「まさか、こんなに飲んでおいて、不味かったなんて……言わないでしょうね……?」
「う……美味かった、美味かったとも……」
「ああ……よかった……美味しかったから、ちょっと飲みすぎちゃったんでしょう? そうに決まってる。そうじゃなかったら、許さないから……」

 不意に、ジョセフの夜会服を掴むキャサリンの手の力が一瞬緩んだ。

「キャサリン……? キャサリン!」
「っ……。はいはい、そんなに大声出さなくても聴こえてるわよ……ねえ、ジョセフ、一つだけ、約束して?」
「約束……?」
「そう……もしもまた貴方が血を飲まずに、飢えて死んじゃいそうになったら、私はまた生まれ変わって、必ず貴方に血を吸わせに来るわ……だから、それまで、私以外の誰の血も吸わないでいて欲しいの……」

 唐突な申し出にジョセフは一瞬困惑したが、死にゆくキャサリンに彼がしてやれることは、最早これ以外にない。ジョセフは何度も大きく頷きながらキャサリンの願いを受け入れた。

「――ああ……ああ、約束する。我、ジョセフ・ドラモンドの名に於いて、契約を交わそう」

 すると、キャサリンは薄く目を細め、陶然とした表情を浮かべる。

「ありがとう――ジョセフ……愛してる、わ……」

 キャサリンがそう言い終えた瞬間、ジョセフの夜会服を掴んでいた彼女の手はするりと滑り落ち、床の上にだらりと投げ出された。

「キャサリン……キャサリン……」

 何度名前を呼んでも、キャサリンはもう目を覚まさない。禍々しく光るジョセフの両目から、キャサリンの青白い頬に赤い涙のしずくが落ちる。
 自分が最後にキャサリンに会いたいと思わなければ、彼女は死ぬことはなかった。キャサリンを殺したのは自分なのだ。ジョセフは自らを激しく責めたが、しかし、それだけでは彼の悲しみは収まらなかった。ジョセフは鉄格子の窓から空を見上げる。
 神よ、改めて問う。何故貴方はキャサリンを私の元へ遣わされたのだ。これが貴方のなさることなのか――?
 キャサリンの体をかき抱きながら、ジョセフは再び神を呪った。冷たくなってゆくキャサリンの体と反比例するように、体中を巡るキャサリンの血が次第に熱を帯び、魔力を増幅させてゆく。

「うおおおおおおおおおおおおおお!」

 キャサリンを死なせてしまった自分に対する怒り、そして、彼女を自分の元へ導いた神に対する怒りが、キャサリンの血を吸って活力を取り戻したジョセフの肉体を昂らせる。だが、ジョセフの中に芽生えた激しい怒りは、沸騰するような血の熱さと共に、徐々に彼の理性の制御を超えていく。

「こ、これは……や、やめてくれ、シャーロッ……うがぁぁぁっ!!!」

 そこに自分ではない何者かの意志が宿っていることに気付いた瞬間、ジョセフの意識は途絶えた。



 キャサリンの居室の前で眠りこけていた中年の男の使用人は、中から響いてきた凄まじい物音で目を覚ました。

「何だ、こりゃ……もしや、お嬢様の身に何か……?」

 だが、それにしてもこんな大きな音は――と、戸惑いながら扉を開けた使用人は、その先に広がっていた光景の異様さ、そして凄惨さに、言葉を失った。
 部屋中に飛び散った夥しい量の血液と、散乱した肉塊。ふと足元を見ると、そこには、恐ろしく強い力で引きちぎられたかのような白く華奢な腕が転がっていた。先程の物音は、これが扉に投げつけられた音だったのだ。

「ひ……ひぃっ……」

 思わず声を上げた使用人に、部屋の中央から殺気に満ちた視線が投げられる。黒い夜会服に身を包んだその視線の主は、かつてキャサリンだった肉塊、その胴体に、組み敷くように覆い被さっていた。血の色に鈍く輝く瞳、長い牙から滴る鮮血――それが吸血鬼であることは一目でわかった。
 この時、使用人としての彼の最も正しい行動は、すぐに夜会服の不審者を取り押さえる、もしくは他の使用人たちを起こして共に対処する、というものだっただろう。しかし、令嬢を惨殺した吸血鬼に対する恐怖が、使用人の判断を鈍らせ、足を竦ませる。
 使用人が最後に見たのは、キャサリンの死体から飛び上がるようにしてこちらへ駆けてくる吸血鬼と、その鋭く伸びた爪だった。


 それからセシル家の屋敷で行われた酸鼻を極める殺戮劇について、ここで多くは語るまい。
 悲鳴や怒号、轟音が飛び交う中、セシル家の屋敷の窓のすぐ外を舞いながらその一部始終を見ていた世にも珍しい模様を持つ美しい蝶は、屋敷の中で繰り広げられる惨劇を尻目に、軽やかにひらりと飛び上がる。
 毒の鱗粉を月光に透かしながら、不気味なほど妖しく光る満月に向かって飛び立ったその蝶は、しかし、その半ばで炎を上げて燃え尽きた。


 数時間後、ジョセフがようやく正気を取り戻した時、セシル家の屋敷に生きている人間は一人もいなかった。温厚なセシル候も、キャサリンの密会を目撃した使用人も、全て小さな肉片へと変わり、豪奢なセシル家の内装は赤黒く染め上げられ――だが、キャサリンとの契約に基づいて、ジョセフはその血を一滴も口にしていなかった。

 そして、この時から再び、ジョセフの長く苦しい飢えと悲しみの日々が始まったのである。
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