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第七話
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キャサリンが二度目に旧ドラモンド邸を訪れたその日以来、キャサリンにとって、昼間の狩りは趣味以上の日課となった。
朝起きたらすぐに森で狩りをし、誰にも見つからないよう獲物を隠しておく。そして夜中になると、隠しておいた獲物を持って、ジョセフとの待ち合わせ場所になっている敷地のはずれの繁みに向かうのだ。
雨の日を除いて、キャサリンは毎日狩りに出かけた。ジョセフが血を啜る様を想像すると、ただ自分のためだけに狩りを行っていた時よりも遥かに神経が昂り、キャサリンの放つ矢の精度は一層の冴えを見せる。だがその反面、ジョセフに会えない雨の日の憂鬱は一際強くなった。キャサリンにとっては、この『憂鬱』という感情自体、ジョセフと出会うまではほとんど意識することのなかったものである。『寂しさ』を強く感じるのも、幼い子供の時分以来のことだった。
ジョセフに会える晴れの夜は、皆が寝静まったのを確認してから、こっそりと屋敷を出る。夜中に一人で外に出ているところを誰かに見られてしまったら確実に怪しまれるため、屋敷内の移動には細心の注意を払わなければならないが、キャサリンにとっては、そのスリルもまた楽しかった。
ジョセフは意外にも、毎晩律儀にキャサリンを迎えに来た。彼は口ではいつも説教じみたことを言うが、本当に会いたくないのなら、こうして真面目に通いに来るわけがないとキャサリンは思っていた。なにしろ、ダンスの稽古には三日で飽きたキャサリンである。
晴れの日が続くと、二人は毎晩のように密会を重ね、互いに少しずつ愛情を深めていった。
とはいえ、その間全くアクシデントがなかったわけではない。
例えば、一度、キャサリンが地面に埋めておいた獲物を何者かに奪われたことがあった。皮袋に入れて埋めてあった野兎の死骸が、夜、取りに行った際には既に掘り返されて無くなっていたのである。爪痕や付近の足跡から、犯人はフォックスに間違いなかった。
その一件以来キャサリンは、獲物の隠し場所に苦慮することになった。屋内に置いておけば安全ではあるのだが、血の臭いなどで家人にバレてしまうかもしれない。適当に言い訳をして誤魔化すこともできなくはないが、それがあまりに続くようだと、さすがに怪しまれるかもしれない。
といって、外に獲物を隠すと、再びフォックスなどに狙われるおそれがある。家人の同行を見ながら、臨機応変に隠し場所を変えなければならなかった。
何日目かの夜、こんな会話があった。
コウモリから吸血鬼の姿に戻ったジョセフが、妙に真剣な表情で言ったのだ。
「キャサリン、一つ提案があるのだが」
「あら、珍しい。提案ってなに?」
「君が捕えた獲物の血を私が飲むだけならば、わざわざ私の屋敷に行かなくても、私がここで飲んで帰ればいいだけなのではないか?」
「え~、やだ」
「何故? その方が、君だって用事を早く済ませて休むことができるじゃないか」
それじゃあほんの少ししか一緒に居られないじゃないの、と内心では思いつつ、キャサリンは全く違う答えを用意していた。思ったことをそのまま口にしない――元々直情的なキャサリンがつい最近覚えた、ごくごく初歩的な駆け引きである。
「だって、ジョセフはいつも空を飛んで私を運んでくれるでしょ? 私、それが大好きなの。鳥になったみたいでとても気持ちいいもの。月も星も、ほんの少し手を伸ばせば届きそうなぐらい近くにあって――空の上から世界を眺めるなんて、私たち普通の人間にはできないわ」
鳥のように自由に大空を飛び回ってみたい。
それは太古の昔からの人類の悲願であり、未だ果たされない夢でもある。しかし、キャサリンは既に何度もそれを体験しているのだ。自力で飛んでいるわけではないから、鳥のように自由に、とはいかないが、ジョセフはいつもキャサリンの要望に応えて、彼女が飛んでみたいと思ったルートを飛んでくれる。
雪化粧の残る山、鏡のような湖面に映る月。ジョセフが見せてくれた景色は、もし彼と出会っていなかったら一生見ることはなかったであろうものばかりだ。
「……まあ、それはそうかもしれないが」
「夜でもこんなに楽しいんだから、昼間に空を飛ぶことができたら、きっと素晴らしい眺めなんでしょうね」
ジョセフは遠い目で夜空を見上げた。
「そうだな――そう、この森のブルーベルの青とオークの緑を空から見下ろすことができたら、さぞかし美しい眺めだろう。それだけじゃない。夏の青葉、秋の紅葉、冬の雪化粧。このオークの森には、美しいものがたくさんある」
「ふふ。ジョセフったら、なんだか詩人みたい」
キャサリンが茶化すと、ジョセフは小さく咳払いをして視線を落とす。
「お、おほん。まあ、私には生憎、その景色を見せてやることはできないがな」
「そりゃあ、吸血鬼だもの、夜にしか出歩けないのは仕方ないことだわ――ごめんね、ジョセフ。いつもワガママばかり言って」
「何を今更。自覚があるのなら、少しは態度を改めるんだな」
「やだ」
ジョセフが自分にシャーロットの面影を重ねていることに、キャサリンは薄々気付いていた。ジョセフが珍しく自分に微笑みかけるとき、彼は決まって遠い眼をして、その視線はキャサリンをすり抜け、遥か彼方を見つめているからだ。だが、今はそれでもいいと思っていた。キャサリンが見ているジョセフは今ここにいる彼なのだし、ジョセフの前にいるのはキャサリンなのだ。いつか必ず彼の瞳に自分を捉えさせてみせるという自信があったし、そのためにできる限りのことをするつもりだった。
しかし、キャサリンには気掛かりなことが一つあった。毎日のように獣の血を飲ませているにもかかわらず、ジョセフは初めて会った夜よりさらに痩せ細っているように見えるのだ。
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
夜中の密会が習慣になって一月ほど過ぎたある夜。
キャサリンをセシル家の屋敷まで送り届けて旧ドラモンド邸の応接間に戻ってきたジョセフは、一際疲れた体を長椅子に横たえて、じっと手を見る。痩せ衰えて骨ばった手のひら。永遠に続くかと思われた飢えと悲しみの日々に、ようやく終わりが見えてきた。ジョセフは激しく息を切らしながら苦笑する。
そう、キャサリンが苦労を重ねて捕え運んできた獣の死骸の血液は、ジョセフにとって、全く養分たりえなかったのである。
吸血鬼の魔力の源となるのは『生き血』。魂を持つ生物(特に人間)の脈打つ心臓から体中に送られる血液、そしてそこに宿る霊質と生命力を取り込むことで、吸血鬼は魔力を著しく増大させるのだ。だが、息絶えて時間が経ち魂の抜けた死骸の血を吸っても、何の効果も得られない。血液の成分そのものが吸血鬼の力となるわけではないからだ。
森で暮らしていれば、当然獣の死骸を見る機会は多いのだが、それに対して食指が動くことはない。しかし、生きている獣は別である。泥と汗と鉄の入り混じったような獣の血の臭いを嗅ぐたびに、ジョセフの喉は激しく疼いた。
だが、それでも、人間の臭いを嗅ぐよりは遥かに楽だった。
ごく稀に人間が迷い込んでくると、獣と遭遇した時などより遥かに苦しい忍耐を強いられる。獣とは比べ物にならないほど高い霊質を持つ人間の臭いが鼻腔をくすぐるたび、ジョセフの喉や胃は血を求めて激しく蠢く。最初の百年ほどは、何度理性を失いそうになったかわからない。
キャサリンのような美しい生娘であれば尚更である。もしもあと百年早くキャサリンと出会っていたら、ジョセフは間違いなくキャサリンの首筋に噛みついていただろう。
それでもジョセフがキャサリンの持ってくる死骸の血を飲んだのは、彼女の喜ぶ顔が見たかったからである。
ジョセフが血を啜るたび、キャサリンは満面の笑みを浮かべる。そのキャサリンの笑顔が、余命いくばくもない彼の、現在の唯一の愉しみといっていい。キャサリンを乗せて飛ぶのは骨が折れるし、もし彼女を乗せて飛んでいるうちに力尽きてしまったら、と不安にもなるのだが、天真爛漫なキャサリンに頼まれると、嫌とは言えないジョセフであった。
キャサリンと出会った当初、シャーロットと瓜二つの容貌を持つ彼女を自分と引き合わせた神の差配を呪ったジョセフだったが、今ではむしろ神に深く感謝していた。三百年もの長い年月、飢えに苦しみながらついに誰の命も奪わなかったジョセフに対して、神が施した恩寵なのではないかとすら思う。だからジョセフは、彼に残された僅かな時間と魔力の全てをキャサリンのために費やそうと決心していた。
それがどれほど辛く苦しいものであっても。
朗らかなキャサリンの笑顔が、瞼の裏に焼き付いた可憐なシャーロットと重なるたびに、ジョセフは天にも昇るような無上の幸福に包まれる。そして思うのだ。もしもこのキャサリンの勝気な気性が、三百年前のシャーロットにあったらと。
自分がこの世から消え去ったら、キャサリンは悲しむだろうか。今のジョセフにとっては、それが最大の懸念だった。いや、答えは明らかだ。痩せ細ったジョセフの身を案じ、彼を生き長らえさせるために、キャサリンは毎日獣を狩っているのだから。
立つ鳥跡を濁さず、何も言わぬまま霧のように朽ちてゆくべきか。
それとも、彼女に全てを伝えるべきか。
ジョセフの心は揺れていた。
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
ブルーベルの季節が終わり、オークの森が深緑一色に染まった頃。
キャサリンとジョセフの深夜の密会は変わらずに続いていた。屋敷の近くの繁みに向かうと、ジョセフはいつも先に待っている。日一日と日が長くなり、その分だけ待ち合わせの時間もずれ込んでいたが、ジョセフがキャサリンを待たせたことは一度もなかった。
しかし――。
そんな初夏のある夜のこと。深夜に一人で屋敷を出るキャサリンの姿が、ついに、一人の使用人に目撃されてしまった。
この若い女の使用人は、別にキャサリンを見張っていたわけではない。なかなか寝付けずに起き出したところ、周囲を警戒しながら、抜き足差し足で外に出るキャサリンの姿を偶然見かけたのだ。声をかけるべきかと一瞬考えたが、キャサリンの只ならぬ様子を見て躊躇した。お嬢様とて年頃の乙女。密かに逢瀬を重ねる相手の一人や二人いたところで罪ではない。邪魔するだけ野暮というものである。
が、それはそれとして、世にも美しいセシル家の侯爵令嬢キャサリンの心を射止めたのはいかなる美男子か、興味を持たずにはいられない。古今東西老若男女、野次馬根性ほど厄介なものはないのだから。
獲物に忍び寄る蛇のように慎重にキャサリンの後を追う使用人。キャサリンは屋敷から出ると、庭の外れにある繁みへと姿を消した。ここまで来て何も見ずに帰るわけにはいかない。使用人はその繁みへと近寄り、気配を断って様子を窺った。
そしてその直後、突如として降ってきた羽音に驚いて空を見上げると、世にも不気味なコウモリの大群が遥か上空へと飛び立ってゆくのが見えた。使用人は困惑しながら周囲を見渡すが、どこを探しても、キャサリンの姿はおろか、人の気配すら全く残されていない。このたった一瞬で遠くまで走り去ることなど不可能だし、馬車や馬を使ったのなら、もっと大きな音がするはずだ。
はて、私の見間違いだったのかしら――使用人は首を傾げる。しかし、その繁みには、キャサリンのものと思しき芳しい薔薇の香水の香りが、仄かに漂っていたのである。
朝起きたらすぐに森で狩りをし、誰にも見つからないよう獲物を隠しておく。そして夜中になると、隠しておいた獲物を持って、ジョセフとの待ち合わせ場所になっている敷地のはずれの繁みに向かうのだ。
雨の日を除いて、キャサリンは毎日狩りに出かけた。ジョセフが血を啜る様を想像すると、ただ自分のためだけに狩りを行っていた時よりも遥かに神経が昂り、キャサリンの放つ矢の精度は一層の冴えを見せる。だがその反面、ジョセフに会えない雨の日の憂鬱は一際強くなった。キャサリンにとっては、この『憂鬱』という感情自体、ジョセフと出会うまではほとんど意識することのなかったものである。『寂しさ』を強く感じるのも、幼い子供の時分以来のことだった。
ジョセフに会える晴れの夜は、皆が寝静まったのを確認してから、こっそりと屋敷を出る。夜中に一人で外に出ているところを誰かに見られてしまったら確実に怪しまれるため、屋敷内の移動には細心の注意を払わなければならないが、キャサリンにとっては、そのスリルもまた楽しかった。
ジョセフは意外にも、毎晩律儀にキャサリンを迎えに来た。彼は口ではいつも説教じみたことを言うが、本当に会いたくないのなら、こうして真面目に通いに来るわけがないとキャサリンは思っていた。なにしろ、ダンスの稽古には三日で飽きたキャサリンである。
晴れの日が続くと、二人は毎晩のように密会を重ね、互いに少しずつ愛情を深めていった。
とはいえ、その間全くアクシデントがなかったわけではない。
例えば、一度、キャサリンが地面に埋めておいた獲物を何者かに奪われたことがあった。皮袋に入れて埋めてあった野兎の死骸が、夜、取りに行った際には既に掘り返されて無くなっていたのである。爪痕や付近の足跡から、犯人はフォックスに間違いなかった。
その一件以来キャサリンは、獲物の隠し場所に苦慮することになった。屋内に置いておけば安全ではあるのだが、血の臭いなどで家人にバレてしまうかもしれない。適当に言い訳をして誤魔化すこともできなくはないが、それがあまりに続くようだと、さすがに怪しまれるかもしれない。
といって、外に獲物を隠すと、再びフォックスなどに狙われるおそれがある。家人の同行を見ながら、臨機応変に隠し場所を変えなければならなかった。
何日目かの夜、こんな会話があった。
コウモリから吸血鬼の姿に戻ったジョセフが、妙に真剣な表情で言ったのだ。
「キャサリン、一つ提案があるのだが」
「あら、珍しい。提案ってなに?」
「君が捕えた獲物の血を私が飲むだけならば、わざわざ私の屋敷に行かなくても、私がここで飲んで帰ればいいだけなのではないか?」
「え~、やだ」
「何故? その方が、君だって用事を早く済ませて休むことができるじゃないか」
それじゃあほんの少ししか一緒に居られないじゃないの、と内心では思いつつ、キャサリンは全く違う答えを用意していた。思ったことをそのまま口にしない――元々直情的なキャサリンがつい最近覚えた、ごくごく初歩的な駆け引きである。
「だって、ジョセフはいつも空を飛んで私を運んでくれるでしょ? 私、それが大好きなの。鳥になったみたいでとても気持ちいいもの。月も星も、ほんの少し手を伸ばせば届きそうなぐらい近くにあって――空の上から世界を眺めるなんて、私たち普通の人間にはできないわ」
鳥のように自由に大空を飛び回ってみたい。
それは太古の昔からの人類の悲願であり、未だ果たされない夢でもある。しかし、キャサリンは既に何度もそれを体験しているのだ。自力で飛んでいるわけではないから、鳥のように自由に、とはいかないが、ジョセフはいつもキャサリンの要望に応えて、彼女が飛んでみたいと思ったルートを飛んでくれる。
雪化粧の残る山、鏡のような湖面に映る月。ジョセフが見せてくれた景色は、もし彼と出会っていなかったら一生見ることはなかったであろうものばかりだ。
「……まあ、それはそうかもしれないが」
「夜でもこんなに楽しいんだから、昼間に空を飛ぶことができたら、きっと素晴らしい眺めなんでしょうね」
ジョセフは遠い目で夜空を見上げた。
「そうだな――そう、この森のブルーベルの青とオークの緑を空から見下ろすことができたら、さぞかし美しい眺めだろう。それだけじゃない。夏の青葉、秋の紅葉、冬の雪化粧。このオークの森には、美しいものがたくさんある」
「ふふ。ジョセフったら、なんだか詩人みたい」
キャサリンが茶化すと、ジョセフは小さく咳払いをして視線を落とす。
「お、おほん。まあ、私には生憎、その景色を見せてやることはできないがな」
「そりゃあ、吸血鬼だもの、夜にしか出歩けないのは仕方ないことだわ――ごめんね、ジョセフ。いつもワガママばかり言って」
「何を今更。自覚があるのなら、少しは態度を改めるんだな」
「やだ」
ジョセフが自分にシャーロットの面影を重ねていることに、キャサリンは薄々気付いていた。ジョセフが珍しく自分に微笑みかけるとき、彼は決まって遠い眼をして、その視線はキャサリンをすり抜け、遥か彼方を見つめているからだ。だが、今はそれでもいいと思っていた。キャサリンが見ているジョセフは今ここにいる彼なのだし、ジョセフの前にいるのはキャサリンなのだ。いつか必ず彼の瞳に自分を捉えさせてみせるという自信があったし、そのためにできる限りのことをするつもりだった。
しかし、キャサリンには気掛かりなことが一つあった。毎日のように獣の血を飲ませているにもかかわらず、ジョセフは初めて会った夜よりさらに痩せ細っているように見えるのだ。
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夜中の密会が習慣になって一月ほど過ぎたある夜。
キャサリンをセシル家の屋敷まで送り届けて旧ドラモンド邸の応接間に戻ってきたジョセフは、一際疲れた体を長椅子に横たえて、じっと手を見る。痩せ衰えて骨ばった手のひら。永遠に続くかと思われた飢えと悲しみの日々に、ようやく終わりが見えてきた。ジョセフは激しく息を切らしながら苦笑する。
そう、キャサリンが苦労を重ねて捕え運んできた獣の死骸の血液は、ジョセフにとって、全く養分たりえなかったのである。
吸血鬼の魔力の源となるのは『生き血』。魂を持つ生物(特に人間)の脈打つ心臓から体中に送られる血液、そしてそこに宿る霊質と生命力を取り込むことで、吸血鬼は魔力を著しく増大させるのだ。だが、息絶えて時間が経ち魂の抜けた死骸の血を吸っても、何の効果も得られない。血液の成分そのものが吸血鬼の力となるわけではないからだ。
森で暮らしていれば、当然獣の死骸を見る機会は多いのだが、それに対して食指が動くことはない。しかし、生きている獣は別である。泥と汗と鉄の入り混じったような獣の血の臭いを嗅ぐたびに、ジョセフの喉は激しく疼いた。
だが、それでも、人間の臭いを嗅ぐよりは遥かに楽だった。
ごく稀に人間が迷い込んでくると、獣と遭遇した時などより遥かに苦しい忍耐を強いられる。獣とは比べ物にならないほど高い霊質を持つ人間の臭いが鼻腔をくすぐるたび、ジョセフの喉や胃は血を求めて激しく蠢く。最初の百年ほどは、何度理性を失いそうになったかわからない。
キャサリンのような美しい生娘であれば尚更である。もしもあと百年早くキャサリンと出会っていたら、ジョセフは間違いなくキャサリンの首筋に噛みついていただろう。
それでもジョセフがキャサリンの持ってくる死骸の血を飲んだのは、彼女の喜ぶ顔が見たかったからである。
ジョセフが血を啜るたび、キャサリンは満面の笑みを浮かべる。そのキャサリンの笑顔が、余命いくばくもない彼の、現在の唯一の愉しみといっていい。キャサリンを乗せて飛ぶのは骨が折れるし、もし彼女を乗せて飛んでいるうちに力尽きてしまったら、と不安にもなるのだが、天真爛漫なキャサリンに頼まれると、嫌とは言えないジョセフであった。
キャサリンと出会った当初、シャーロットと瓜二つの容貌を持つ彼女を自分と引き合わせた神の差配を呪ったジョセフだったが、今ではむしろ神に深く感謝していた。三百年もの長い年月、飢えに苦しみながらついに誰の命も奪わなかったジョセフに対して、神が施した恩寵なのではないかとすら思う。だからジョセフは、彼に残された僅かな時間と魔力の全てをキャサリンのために費やそうと決心していた。
それがどれほど辛く苦しいものであっても。
朗らかなキャサリンの笑顔が、瞼の裏に焼き付いた可憐なシャーロットと重なるたびに、ジョセフは天にも昇るような無上の幸福に包まれる。そして思うのだ。もしもこのキャサリンの勝気な気性が、三百年前のシャーロットにあったらと。
自分がこの世から消え去ったら、キャサリンは悲しむだろうか。今のジョセフにとっては、それが最大の懸念だった。いや、答えは明らかだ。痩せ細ったジョセフの身を案じ、彼を生き長らえさせるために、キャサリンは毎日獣を狩っているのだから。
立つ鳥跡を濁さず、何も言わぬまま霧のように朽ちてゆくべきか。
それとも、彼女に全てを伝えるべきか。
ジョセフの心は揺れていた。
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キャサリンとジョセフの深夜の密会は変わらずに続いていた。屋敷の近くの繁みに向かうと、ジョセフはいつも先に待っている。日一日と日が長くなり、その分だけ待ち合わせの時間もずれ込んでいたが、ジョセフがキャサリンを待たせたことは一度もなかった。
しかし――。
そんな初夏のある夜のこと。深夜に一人で屋敷を出るキャサリンの姿が、ついに、一人の使用人に目撃されてしまった。
この若い女の使用人は、別にキャサリンを見張っていたわけではない。なかなか寝付けずに起き出したところ、周囲を警戒しながら、抜き足差し足で外に出るキャサリンの姿を偶然見かけたのだ。声をかけるべきかと一瞬考えたが、キャサリンの只ならぬ様子を見て躊躇した。お嬢様とて年頃の乙女。密かに逢瀬を重ねる相手の一人や二人いたところで罪ではない。邪魔するだけ野暮というものである。
が、それはそれとして、世にも美しいセシル家の侯爵令嬢キャサリンの心を射止めたのはいかなる美男子か、興味を持たずにはいられない。古今東西老若男女、野次馬根性ほど厄介なものはないのだから。
獲物に忍び寄る蛇のように慎重にキャサリンの後を追う使用人。キャサリンは屋敷から出ると、庭の外れにある繁みへと姿を消した。ここまで来て何も見ずに帰るわけにはいかない。使用人はその繁みへと近寄り、気配を断って様子を窺った。
そしてその直後、突如として降ってきた羽音に驚いて空を見上げると、世にも不気味なコウモリの大群が遥か上空へと飛び立ってゆくのが見えた。使用人は困惑しながら周囲を見渡すが、どこを探しても、キャサリンの姿はおろか、人の気配すら全く残されていない。このたった一瞬で遠くまで走り去ることなど不可能だし、馬車や馬を使ったのなら、もっと大きな音がするはずだ。
はて、私の見間違いだったのかしら――使用人は首を傾げる。しかし、その繁みには、キャサリンのものと思しき芳しい薔薇の香水の香りが、仄かに漂っていたのである。
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