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序章 いつものホラーアクション夢
ここは現実。で、私は?
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用事がなくなり手持ち無沙汰となった『私』は出てきたビルを見上げた。少し古びた六階建ての四角いビルは周りと比べても低かった。
地上数十メートルの高さにみえていたのは、空間が螺子曲げられていたためである。
あの不思議な空間のそのものが『ホラー夢』だったと感想を抱きながら、外の景色をみつめる。
大都会の中心部だ。高層ビル、行き交う車、ビルの周りに侵入規制が貼られているためか野次馬が集まっている。一つ一つがくっきりと判別できる。音や声の種類も多様だ。
(不思議だ)
肌寒い空気に、体温を上げようと体が身震いする。
数秒、数分待ってみても、『私』を取り巻く状況に変化はない。
目を瞑って、開いて、瞑って、開いて、やはり何も変化はない。
(一向に夢から覚める気配は、ないな……)
『私』は両手を組んで「うーん」と唸った。
(そろそろ起きないと仕事遅刻する気がする。起きろー私、おきろおおおお!)
気合を入れて起きると、目を瞑って必死に念じた。
一分ほどそうして突っ立っていると、
「息吹戸、お手柄だ! 」
と渋い低音で呼びかけられた。
ハッとして瞼を開け、声が聞こえた方へ視線を向ける。
こちらに歩いてくる男性をみた『私』の胸が、トゥンクと高鳴った。
五十代半ばの男性。前髪だけ白髪交じりの茶髪をオールバックにしている。
百九十センチの長身、すらっとした姿はダンディかつイケメン。深い皺も味があっていい。太い眉にやや垂れた目がとても可愛く思える。富裕層の社長もしくは味のある男優のような見た目だが、彼も茜色のジャンパーを羽織っている。
(おおおうううああああ! いいいいけめんだんでぃいいいい!)
『私』のガチ好みであった。
思わず目をハートマークにして見惚れていると、脳裏に言葉が過る。
――父親のような、部長。
津賀留の時と同じく天啓のように、ドン、と振ってきて、思わず焦った。
「え! この人は父親のような部長さん!?」
男性の目の前で声に出してしまい、『私』はきゅっと口を閉じる。男性が「はあ?」と肩透かしした声をあげたので、『私』は「なんでもない」と慌てて誤魔化した。
(思わず声が出ちゃった。そうか、この人、父親なのか。残念。でも、どんな人か分からないから喋ってもらって人物像把握しよう)
「ええと、ごめんなさい。お話をどうぞ」
急いで『私』が取り繕うと、
「ごめんなさい? お話を、どうぞ?」
男性は驚愕した表情になり、ゆっくりと復唱して、首を傾げた。
(リアクションが同じいいいいいい!)
『私』は心の中では飽き足らず、本当に頭を抱えた。
それを見た男性は片方の眉をあげながら「ん?」と声を上げる。
「どうした息吹戸。見た目は怪我をしていないようだが、頭でも打ったのか?」
「いいえ違います。みんなの反応がちょっと……」
「反応が?」
「腫物のような扱いが気になって……」
「腫物、まぁ、いつものことじゃないか」
男性が不思議そうに首を傾げた。
普通に接しているだけなのにこの対応は理解に苦しむと、『私』が苦悩のあまり眉をしかめるた。それを見て男性は安堵したように表情を明るくする。
『私』は「おや?」と首を捻ってから、不機嫌な顔を前面に出して睨んでみた。メンチ切っても男性は特に気にした様子もない。
(もしかして、普段の息吹戸はムムッとした表情なのかな?)
「お前の読みは大当たりだった。まさかこんな中心部で、禍神降臨の儀が行われているなんて思いもしなかった。手が空いたものを急いで集めたが、もう解決しているとは流石だ。お前は本当に有能なカミナシだ!」
「……犠牲だしましたけど」
「それでもだ。禍神降臨を防ぐことが一番だ。経過はどうであれ結果が良ければ目を瞑る。よくやった」
男性は饒舌になりながら笑みを零した。
今までと違う反応に『私』はちょっと驚いて瞬きをした。
「それに、小鳥と津賀留が無事なのはお前のお陰だ。礼を言う」
(イケオジは声もかっこいい……威力がすごくて心臓に悪いな)
『私』は頬に熱を感じたため、右手で顔を触る。
直視すると心臓が持たないと感じて、ぷいっと顔をそむけた。
「……どうも。有難うございます」
男性の動きが止まる。
瞬きを数回繰り返して「……ありがとう、ございます?」と訝し気に復唱した。
「やはりどこか変だ。どうした? なにかあったのか?」
(感謝の言葉に対するリアクションは同じか)
『私』は舌打ちをして少し反論した。
「普通に対応しているんですけど変ですか? 変でしょうか?」
男性はゆっくりと眉をひそめた。それだけで変だと言っているようなものである。
「ああもう私はどんなキャラ設定なんだよ! ストレス溜まる!」
『私』は空に向かって絶叫した。
男性は得体の知れない者を見る様な目つきになり、理解しがたいと言わんばかりに首を捻った。
「それは、遅れてきた儂らに文句もなく、暴れることもなく、嫌味を言うこともなく、暴れ足りないといって去ることもなく、大人しくそこに立っているだろう? 儂の覚えている限り、初めてみる態度だ」
「私は五歳児なのかやだもおおお! エンディング終わったでしょ!? 早く夢から醒めたい! 仕事に遅刻するじゃん!」
『私』はうろうろと落ち着きなく歩き始めた。
どうやって夢から抜け出せるのか本気で考え始める。
(もしかして生存が駄目だった? 死んでバッドエンドで目が覚めるタイプ? いや、どっちでもいいよね夢なんだから時間がくれば起きるんだけど、ほんとに今何時なの? まだ夜中とか?)
うろうろする間に『私』が場所を移動し始めたので、男性はすぐに追いかけて『私』の肩をポンと叩いて気を引いた。
「さっきから何を言っている……。仕事は今終えただろう? 本当にどこか体がおかしいのか?」
「体じゃなくてこの状態がおか……」
『私』の腹からぐううううと腹の虫が鳴る。
(腹が鳴った!?)
驚いてる横で、男性の表情が和らいだ。
「なんだ。腹が減って苛ついていただけか。ちょっと待ってろ」
『私』の奇妙な言動は空腹によるものだと気づいた男性は、ここで待っているように告げて、近くに駐車している車に急ぎ足で向かった。
助手席に置いてあるコンビニ袋から残っていたメロンパンを手に取ると、すぐに『私』のところへ戻った。
大人しく待ってるのを見て、余程空腹だったのかと意外に思いつつ、『私』にメロンパンを差し出す。
「今はこれしかない」
『私』は差し出されたメロンパンをジッと眺めた。
(お腹がなるって初めてかも。このパン、見た事のない銘柄だ。うーん、何度か夢の中で食べる事あるけど、いつも味がないんだよねー。空気食べているみたいな感じで)
「ほら、食べなさい」
と男性から再度促される。
(……まぁ、好意は受け取るか。起きたらちゃんとしたご飯食べればいいんだし)
『私』は軽く会釈をしてメロンパンを受け取る。ふわふわで少し硬い手触りだ。
ビニール袋を開けると甘い香りが鼻腔をくすぐった。
大変おいしそうだなと思いつつ、パクッと一口。
(んんんん!?)
ほわっと、もちっと、柔らかい触感。そしてザラメの甘い味が脳に届く。
(味がある!?)
衝撃だった。
夢では食べ物はおいしいイメージは残るものの、味はわからなかった。
だがこのメロンパンは味がしっかりわかる。
噛めば噛むほど唾液が出てくる。
パンを飲みこむと喉の渇きを訴えてくる。
胃に食物が入り、内臓がぐるぐる動き始めるのが分かる。
口の中のものを飲み込んで、ショックで体が固まる。
(あれ? え? どーいうこと? これってまさか……)
いつもの夢と違うことに気づいて、『私』の背中に冷や汗が流れた。
(これは、夢ではなくて、現実……?)
『私』はすぐに自分の腕の袖をまくった。
今までの経験上、夢かどうか確かめるにはこうするのが一番である。
思いっきり爪を立てて自身の腕を、手首の裏に近い部位を引っ掻いた。
皮膚が破れて鮮血が出る。そして痛みもしっかり伝わった。
「嘘!? めっちゃ痛い!」
「な、何をやっとる!」
男性が慌てて『私』の腕を掴んで傷の具合をみる。他愛もないひっかき傷だと分かると、ホッとした表情になり腕を離したが、すぐに『私』の両肩を掴んだ。
「どうした息吹戸!? 錯乱しとるのか!?」
異変を探ろうとする鋭い視線と、心配している感情を向けてくる。
「まって……まって、まって、まって?」
だが『私』にそれを推し量る余裕はなく、この状態に激しく戸惑うばかりである。
腕から伝わるズキズキした痛みに動揺して、心臓の鼓動が激しくなり呼吸も荒くなる。
ショックから足がガクガクと震えてきた。
「これは現実……? 現実なの? 嘘でしょ!?」
男性は『私』がパニック状態に陥ったことに気づいた。
「儂を見るんだ息吹戸! 深呼吸をしなさい! 落ち着きなさい! 大丈夫だから落ち着きなさい……大丈夫、大丈夫」
男性優しい呼びかけを聞いて、『私』は正気を取り戻した。
(そう、そうだね。とりあえず落ち着かなきゃ……パニックが一番マズイ、ホラー映画だと真っ先に死ぬことになる。よし、瞑想しよう)
目を瞑って、深呼吸を繰り返すと、体の震えが消えた。
(私の名前は息吹戸じゃない)
そして夢と現実の違いを比較するため『私』を思い出すことにした。
(そもそも、私の名前は……)
『私』という存在は。
(名前は■■■■で、■■歳。■■■■家族構成で、職業は■■■■。アニメや小説などのオタ活動を盛んに■■■■、ホラーやSFや神話や映画好き。私が住んでいた場所は■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■)
記憶が、まるで海苔弁と化した書類のように何も読めない。
「っ!?」
ヒュッと鋭く息を飲んで、『私』は目をバッと開けた。落ち着くどころか、さらなる混乱を追加してしまった。
(何も、思い出せない、だと!)
嫌な汗が出る。精神的ショックから力が抜けて、ぽとん、とメロンパンが地面に落ちた。
(……なのに、趣味だけ覚えている辺りがなんか私らしい)
少しでも覚えたと前向きにとらえたが、あまり役に立たない、とセルフツッコミをして終わった。
(でも何も覚えてないのに、この体が『自分じゃない』ってこと。この世界が『私の住んでいる世界じゃない』って知っているのは何故? 思い出せないのも怖いけど、自分は別の場所から来たって言い切れるのは何故? めっちゃ怖い、ホラーだ)
サァァと血の気が引くのが分かった。顔面が真っ青になって嫌な汗が出る。
(まずは落ち着こう。冷静に動けばホラー展開でも生存できる。パニック禁止。よし、おそらくこの状態は『転生』ではない。転生なら息吹戸の記憶が多少なりともあるはず。だって小説ではそーいう展開多かったし)
事実は小説より奇なり。
そんな言葉がぐるぐると頭を駆け巡る。
(でも私の場合は全く何も分からない。だとすれば『憑依』と考える方が無難で、その場合は殆どキャラが死んでることになって……え? ってことは私死んでるの!?)
最悪な状況がまた一つプラスされたので、すぐに考えを否定した。
(いやいやいや、意識だけ飛んで行った可能性もある。でもなんでこんなことに。夢だと思っていたのに現実だなんて嘘でしょう? 泣きたい……これからどうしよう……どうすればいいの?)
地上数十メートルの高さにみえていたのは、空間が螺子曲げられていたためである。
あの不思議な空間のそのものが『ホラー夢』だったと感想を抱きながら、外の景色をみつめる。
大都会の中心部だ。高層ビル、行き交う車、ビルの周りに侵入規制が貼られているためか野次馬が集まっている。一つ一つがくっきりと判別できる。音や声の種類も多様だ。
(不思議だ)
肌寒い空気に、体温を上げようと体が身震いする。
数秒、数分待ってみても、『私』を取り巻く状況に変化はない。
目を瞑って、開いて、瞑って、開いて、やはり何も変化はない。
(一向に夢から覚める気配は、ないな……)
『私』は両手を組んで「うーん」と唸った。
(そろそろ起きないと仕事遅刻する気がする。起きろー私、おきろおおおお!)
気合を入れて起きると、目を瞑って必死に念じた。
一分ほどそうして突っ立っていると、
「息吹戸、お手柄だ! 」
と渋い低音で呼びかけられた。
ハッとして瞼を開け、声が聞こえた方へ視線を向ける。
こちらに歩いてくる男性をみた『私』の胸が、トゥンクと高鳴った。
五十代半ばの男性。前髪だけ白髪交じりの茶髪をオールバックにしている。
百九十センチの長身、すらっとした姿はダンディかつイケメン。深い皺も味があっていい。太い眉にやや垂れた目がとても可愛く思える。富裕層の社長もしくは味のある男優のような見た目だが、彼も茜色のジャンパーを羽織っている。
(おおおうううああああ! いいいいけめんだんでぃいいいい!)
『私』のガチ好みであった。
思わず目をハートマークにして見惚れていると、脳裏に言葉が過る。
――父親のような、部長。
津賀留の時と同じく天啓のように、ドン、と振ってきて、思わず焦った。
「え! この人は父親のような部長さん!?」
男性の目の前で声に出してしまい、『私』はきゅっと口を閉じる。男性が「はあ?」と肩透かしした声をあげたので、『私』は「なんでもない」と慌てて誤魔化した。
(思わず声が出ちゃった。そうか、この人、父親なのか。残念。でも、どんな人か分からないから喋ってもらって人物像把握しよう)
「ええと、ごめんなさい。お話をどうぞ」
急いで『私』が取り繕うと、
「ごめんなさい? お話を、どうぞ?」
男性は驚愕した表情になり、ゆっくりと復唱して、首を傾げた。
(リアクションが同じいいいいいい!)
『私』は心の中では飽き足らず、本当に頭を抱えた。
それを見た男性は片方の眉をあげながら「ん?」と声を上げる。
「どうした息吹戸。見た目は怪我をしていないようだが、頭でも打ったのか?」
「いいえ違います。みんなの反応がちょっと……」
「反応が?」
「腫物のような扱いが気になって……」
「腫物、まぁ、いつものことじゃないか」
男性が不思議そうに首を傾げた。
普通に接しているだけなのにこの対応は理解に苦しむと、『私』が苦悩のあまり眉をしかめるた。それを見て男性は安堵したように表情を明るくする。
『私』は「おや?」と首を捻ってから、不機嫌な顔を前面に出して睨んでみた。メンチ切っても男性は特に気にした様子もない。
(もしかして、普段の息吹戸はムムッとした表情なのかな?)
「お前の読みは大当たりだった。まさかこんな中心部で、禍神降臨の儀が行われているなんて思いもしなかった。手が空いたものを急いで集めたが、もう解決しているとは流石だ。お前は本当に有能なカミナシだ!」
「……犠牲だしましたけど」
「それでもだ。禍神降臨を防ぐことが一番だ。経過はどうであれ結果が良ければ目を瞑る。よくやった」
男性は饒舌になりながら笑みを零した。
今までと違う反応に『私』はちょっと驚いて瞬きをした。
「それに、小鳥と津賀留が無事なのはお前のお陰だ。礼を言う」
(イケオジは声もかっこいい……威力がすごくて心臓に悪いな)
『私』は頬に熱を感じたため、右手で顔を触る。
直視すると心臓が持たないと感じて、ぷいっと顔をそむけた。
「……どうも。有難うございます」
男性の動きが止まる。
瞬きを数回繰り返して「……ありがとう、ございます?」と訝し気に復唱した。
「やはりどこか変だ。どうした? なにかあったのか?」
(感謝の言葉に対するリアクションは同じか)
『私』は舌打ちをして少し反論した。
「普通に対応しているんですけど変ですか? 変でしょうか?」
男性はゆっくりと眉をひそめた。それだけで変だと言っているようなものである。
「ああもう私はどんなキャラ設定なんだよ! ストレス溜まる!」
『私』は空に向かって絶叫した。
男性は得体の知れない者を見る様な目つきになり、理解しがたいと言わんばかりに首を捻った。
「それは、遅れてきた儂らに文句もなく、暴れることもなく、嫌味を言うこともなく、暴れ足りないといって去ることもなく、大人しくそこに立っているだろう? 儂の覚えている限り、初めてみる態度だ」
「私は五歳児なのかやだもおおお! エンディング終わったでしょ!? 早く夢から醒めたい! 仕事に遅刻するじゃん!」
『私』はうろうろと落ち着きなく歩き始めた。
どうやって夢から抜け出せるのか本気で考え始める。
(もしかして生存が駄目だった? 死んでバッドエンドで目が覚めるタイプ? いや、どっちでもいいよね夢なんだから時間がくれば起きるんだけど、ほんとに今何時なの? まだ夜中とか?)
うろうろする間に『私』が場所を移動し始めたので、男性はすぐに追いかけて『私』の肩をポンと叩いて気を引いた。
「さっきから何を言っている……。仕事は今終えただろう? 本当にどこか体がおかしいのか?」
「体じゃなくてこの状態がおか……」
『私』の腹からぐううううと腹の虫が鳴る。
(腹が鳴った!?)
驚いてる横で、男性の表情が和らいだ。
「なんだ。腹が減って苛ついていただけか。ちょっと待ってろ」
『私』の奇妙な言動は空腹によるものだと気づいた男性は、ここで待っているように告げて、近くに駐車している車に急ぎ足で向かった。
助手席に置いてあるコンビニ袋から残っていたメロンパンを手に取ると、すぐに『私』のところへ戻った。
大人しく待ってるのを見て、余程空腹だったのかと意外に思いつつ、『私』にメロンパンを差し出す。
「今はこれしかない」
『私』は差し出されたメロンパンをジッと眺めた。
(お腹がなるって初めてかも。このパン、見た事のない銘柄だ。うーん、何度か夢の中で食べる事あるけど、いつも味がないんだよねー。空気食べているみたいな感じで)
「ほら、食べなさい」
と男性から再度促される。
(……まぁ、好意は受け取るか。起きたらちゃんとしたご飯食べればいいんだし)
『私』は軽く会釈をしてメロンパンを受け取る。ふわふわで少し硬い手触りだ。
ビニール袋を開けると甘い香りが鼻腔をくすぐった。
大変おいしそうだなと思いつつ、パクッと一口。
(んんんん!?)
ほわっと、もちっと、柔らかい触感。そしてザラメの甘い味が脳に届く。
(味がある!?)
衝撃だった。
夢では食べ物はおいしいイメージは残るものの、味はわからなかった。
だがこのメロンパンは味がしっかりわかる。
噛めば噛むほど唾液が出てくる。
パンを飲みこむと喉の渇きを訴えてくる。
胃に食物が入り、内臓がぐるぐる動き始めるのが分かる。
口の中のものを飲み込んで、ショックで体が固まる。
(あれ? え? どーいうこと? これってまさか……)
いつもの夢と違うことに気づいて、『私』の背中に冷や汗が流れた。
(これは、夢ではなくて、現実……?)
『私』はすぐに自分の腕の袖をまくった。
今までの経験上、夢かどうか確かめるにはこうするのが一番である。
思いっきり爪を立てて自身の腕を、手首の裏に近い部位を引っ掻いた。
皮膚が破れて鮮血が出る。そして痛みもしっかり伝わった。
「嘘!? めっちゃ痛い!」
「な、何をやっとる!」
男性が慌てて『私』の腕を掴んで傷の具合をみる。他愛もないひっかき傷だと分かると、ホッとした表情になり腕を離したが、すぐに『私』の両肩を掴んだ。
「どうした息吹戸!? 錯乱しとるのか!?」
異変を探ろうとする鋭い視線と、心配している感情を向けてくる。
「まって……まって、まって、まって?」
だが『私』にそれを推し量る余裕はなく、この状態に激しく戸惑うばかりである。
腕から伝わるズキズキした痛みに動揺して、心臓の鼓動が激しくなり呼吸も荒くなる。
ショックから足がガクガクと震えてきた。
「これは現実……? 現実なの? 嘘でしょ!?」
男性は『私』がパニック状態に陥ったことに気づいた。
「儂を見るんだ息吹戸! 深呼吸をしなさい! 落ち着きなさい! 大丈夫だから落ち着きなさい……大丈夫、大丈夫」
男性優しい呼びかけを聞いて、『私』は正気を取り戻した。
(そう、そうだね。とりあえず落ち着かなきゃ……パニックが一番マズイ、ホラー映画だと真っ先に死ぬことになる。よし、瞑想しよう)
目を瞑って、深呼吸を繰り返すと、体の震えが消えた。
(私の名前は息吹戸じゃない)
そして夢と現実の違いを比較するため『私』を思い出すことにした。
(そもそも、私の名前は……)
『私』という存在は。
(名前は■■■■で、■■歳。■■■■家族構成で、職業は■■■■。アニメや小説などのオタ活動を盛んに■■■■、ホラーやSFや神話や映画好き。私が住んでいた場所は■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■)
記憶が、まるで海苔弁と化した書類のように何も読めない。
「っ!?」
ヒュッと鋭く息を飲んで、『私』は目をバッと開けた。落ち着くどころか、さらなる混乱を追加してしまった。
(何も、思い出せない、だと!)
嫌な汗が出る。精神的ショックから力が抜けて、ぽとん、とメロンパンが地面に落ちた。
(……なのに、趣味だけ覚えている辺りがなんか私らしい)
少しでも覚えたと前向きにとらえたが、あまり役に立たない、とセルフツッコミをして終わった。
(でも何も覚えてないのに、この体が『自分じゃない』ってこと。この世界が『私の住んでいる世界じゃない』って知っているのは何故? 思い出せないのも怖いけど、自分は別の場所から来たって言い切れるのは何故? めっちゃ怖い、ホラーだ)
サァァと血の気が引くのが分かった。顔面が真っ青になって嫌な汗が出る。
(まずは落ち着こう。冷静に動けばホラー展開でも生存できる。パニック禁止。よし、おそらくこの状態は『転生』ではない。転生なら息吹戸の記憶が多少なりともあるはず。だって小説ではそーいう展開多かったし)
事実は小説より奇なり。
そんな言葉がぐるぐると頭を駆け巡る。
(でも私の場合は全く何も分からない。だとすれば『憑依』と考える方が無難で、その場合は殆どキャラが死んでることになって……え? ってことは私死んでるの!?)
最悪な状況がまた一つプラスされたので、すぐに考えを否定した。
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