筆と刀の混沌戦禍

皐月やえす

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「庄右衛門……?」

 雪丸は唖然としていた。
目の前にいたはずの庄右衛門が突然消えたのだ。
ザワザワと木が騒ぎ、湿った不快な風がうなじを掠める。

 雪丸は、突然人ならざるものの気配を感じた。

(庄右衛門とはぐれた、こんな時に……!)

 気配は一つ、三つ、七つ、十五、三十…あまりに多すぎる。あちこちから雪丸の様子を伺っているようだ。

(仕方がない。せめて庄右衛門と合流するまで、私だけでもやり遂げないと……!)

 刀の柄を掴もうとした途端、それを邪魔するかのように強い風が吹いた。
雪丸はよろめくがなんとか踏ん張る。だがもう一つ反対から強風が来ると、たまらず膝をついてしまった。

 やがて、濃い霧のようなものが発生した。
ウッカリ吸ってしまい、慌てて鼻と口を押さえる。

(なんだこれは……、妙な匂いがする!毒か⁉︎)

 ざくり。

 足音がした。雪丸が顔を上げると、一人の人間が段々こちらに向かって近づいてくる。
目を凝らした時、雪丸は小さな悲鳴を上げた。

「お雪……」

優しく綺麗な声なのに、背筋が凍る。
雪丸そっくりな顔が、酷く無表情だ。
雪丸と同じ切長の目が、冷たく見下ろしてくる。
背負う気迫はまるで羅刹のようだ。

「母さん……」

 雪丸は喉から搾り出したような声で呟いた。

 雪丸にとって逆らえず、この世で最も恐ろしい人間――母・牡丹ぼたんの姿が、そこにあった。

 森の木々が、一斉にザワザワと鳴き出した。

 庄右衛門は仁王立ちをしていた。

 目の前には、はる、実松、尚竹、梅吉、そしてマキの無惨に切り刻まれた亡骸が転がっている。
庄右衛門の周りが、どんどん血で満たされていき、まるで地獄の血の池のようになっていく。

「父さん……苦しいよぉ……」

 梅吉が哀れな声を上げた。

「忍びの家になんて……生まれたくなかった……」
「どうして……僕たちを助けてくれなかったんだ……」

実松と尚竹が恨みがましく泣いた。
マキはひんひんと情けない鳴き声を上げる。

「いつも血生臭い話が付いて回るお前さんの側は辛かった」

はるが庄右衛門の足を掴んだ。

「周りの者に迷惑をかけて、命の危機に晒して、何が忍びの誇りだ……そんなもののために、あたしらは犠牲になったなんて、死んでも死にきれないよ……!」

はるの丸い顔が、怒りと憎しみでクシャリと歪む。
血の匂いが濃い霧のようになり、庄右衛門の鼻腔に充満し、庄右衛門の視界も暗く…。

「なるか、ボケェ‼︎」

 庄右衛門が大声で怒鳴ると、途端に周りの景色が元の森に戻った。
 はる達の亡骸も消え、そこには岩がいくつか転がっているだけだった。

「チャチな幻見せやがって……はるはもっと美人だぞ」

 庄右衛門はぶつくさ言いながら左の手甲から筆を引き抜く。
最近は硯で擦った墨を瓢箪にそのまま入れて持ち歩いているので、それを筆に浸し、紙を取り出した。

(姿は見えないが、こういう事をしてくるのは人ならざるものだろう。雪丸とはぐれたのも、そいつのせいだな)

 何の変哲もない森。
 しかし、四方八方から視線が突き刺さって、非常に不愉快だ。

(恐らく、俺はもうそいつを見ている。探すんだ。どこだ?何の姿だ?)

 庄右衛門はあちこちに目を向けた。静かな一人の戦いが始まったのだ。
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