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神のいない山
壱
しおりを挟む窓が大きいと朝陽も強烈に目覚まし役を為してくる。それを知る日曜日の朝である。
「……おはようございます。意外と起きるの早いんですね、時政さん」
ご丁寧に僕の被っていた布団を剥ぎ取り、朝陽とタッグを組んで僕を起こしてくれた時政さんは、今日も今日とてもっさりした黒髪を太陽光で焼きながら意地悪にニンマリした。
「お前は意外と寝言が面白いな」
「えっ!? うそ、僕、何言ってたんですか!? ちょっと──ふがっ」
「さてな。目ぇ覚めたならさっさと着替えろ」
剥ぎ取られた布団が時政さんの手を離れ、降って落ちてくる。もがもが呻きながらも布団から脱出する。爽やかな朝によく似合う時政さんのイヤーな笑顔に背を向けて、浴衣から私服へと着替えを開始する。浴衣の畳み方なんて知らないけれど、時政さんが既に整え終えたらしいそれを見て見様見真似で重ねる。……なんで浴衣の畳み方なんて知ってるんだ、時政さん。やっぱり探偵の知識量はバカにできない。
さて、風避けのパーカーを羽織ってリュックを背負って──振り返った。本日の時政さんのお衣装はラフなシャツにジーパンだった。ジャージじゃなくてほんっとーによかった!
「どっちを先に行くんですか?」
僕の支度を待つ間、備え付けの緑茶を優雅に堪能していた時政さんは亭主関白さながらに「ん。」と頷くと広縁のその先を仰いだ。
「まずは山だな。こんな時間から押し掛けたら、清海野旅館の人もビビんだろ」
現在時刻は早朝七時。確かに、掃除や朝食の準備等で忙しい頃だろう。
「ちなみに軽く調べたところ、あの山には『神奉山』って名前があるらしい。昔は氏神が住まう霊山として手厚く奉っていたようだが、今ではその信仰も薄れ名前だけになっている──と」
「神奉山……」
「ま。確かにありゃあ、霊山っつーより────」
そこで、時政さんは不自然に言葉を切った。見上げる。白く美しい山々を。今日も山の周囲は梅雨なんて嘘みたいな──快晴だ。
「時政さん?」
「──確信はまだ持てねぇな。だから、」
「自分の足で確証を得に行く──ですよね?」
時政さんの言葉を引き継いで完結させる。得意気に笑ってみせる。一瞬、面食らったらしい時政さんがそのままニッと笑う。
「中々さまになってきたじゃねぇか」
「そりゃあ、見てますから。時政さんのことを」
──あなたの傍で、あなたを見つめていようって決めたから。
冗談めかしていれば、宿泊室の鍵を手に取った時政さんがそのまま思い付いたように自身の鞄を漁った。中から取り出したのは──ブレスレット?
「お前、これ持っとけ」
慣れた時政さんの命令口調に反射的に物を受け取る。ブレスレットはよくよく観察すると真っ黒の数珠玉のようだった。一見、土産屋等で売られている陳腐なパワーストーンのようにも見えるが、お洒落重視のパワーストーンにはない装飾がある。──文字だ。
達筆すぎて全く読めないけれど、漢字らしきものが玉の一つ一つに書かれていた。それから、玉は完全な黒ではなかった。中に、斑に別の色が浮いていた。……なんだろう、これ。
腕に通してみる。掌に乗せた時には想像していた通りの重さであったというのに、手首に収めた瞬間、ずっしりと重くなったように感じた。
「なんですか? これ」
「御守り。肌身離さず持っとけよ」
「え……いいんですか?」
「ああ。気休め程度だが無いよりゃマシだろ。俺の傍に居ればこれからもなにかと巻き込まれるだろうからな。──それで、いいんだよな?」
「はい。それでいいんです。──ありがとうございます」
時折、垣間見える時政さんの不安げな確認に何度だって肯定する。時政さんの視る世界に巻き込まれに行こう──そう決めたのは、僕自身だ。
「ところでなんですけど」
フロントに鍵を預ける時政さんの背を見ながらやはりと胡乱な気持ちになる。時政さんは鍵を預けた。──返却ではない。チェックアウトを彼はしなかったのだ。つまりは──明日も彼はこの美岬館での調査に乗り出す気満々なわけである。
僕だってそれは、一日二日程度でややこしそうな今回の事件を解決できるとは思っていない。だけども、だ。
「時政さん」
「おう」
「明日は平日なんですけど」
「そうだな」
「僕、学校、あります」
「…………」
「あっ、その反応、本気で忘れてましたね!?」
なんということだ。僕の雇用主は僕が健全な一般学生であることを忘れていたというのだ。これだから俺様は!
もーう、どうすんのさー! と、山に向かって歩み止めることはしない時政さんに食って掛かる。相変わらずじゃれつく犬を払うみたいな仕草で気だるげに逃げた時政さんは、その手で自身の携帯電話を取った。何度かタップして、画面を眺めて、またタップ。それを二回ほど繰り返した後、僕に画面を見せる。メール機能が開かれている。先程の作業はどこかにメールを送る為だったらしい。さて、開かれた受信メールには。
「公欠、申請?」
僕の名前。公欠申請。だれに。──檜垣高等学校の校長宛に、だ。
「明日、学校に行きたいなら今から帰ればいいし──ずる休みしたいならお兄さんが悪ーい大人の世界を教えてやろう」
「…………」
「いいか、この職に限らず社会人になる上で最も重要なのは────人脈作りだ」
「…………」
「人脈は、武器だ!」
「時政さん、それらしいこと言って誤魔化そうとしてるんでしょうけど墓穴でしかないですからね」
「かわいくなくなったな、お前」
それらしい顔でそれらしい声色でそれらしい事を言えば僕がなんでもかんでも感心すると思うなよ。そう、目だけでじっとり訴えれば降参とばかり時政さんは両手を挙げた。僕を明日も拘束する気だったと探偵が白状した瞬間だった。
もう、しかたないなあ──嘆息する。時政さんが形ばかりしおらしく伺う。
「──で、どうする?」
「──最後まで付き合うに決まってるじゃないですか!」
まだ事件の輪郭すらも見えてないのに、こんなところで投げ出せるわけないじゃないか! 僕は探偵の臨時助手なんだから。
僕の返答に肩を竦めつつも満足げに笑った時政さんは、「りょーかい」とまたメールを飛ばす作業へと戻った。
────山が、見えていた。
◆◆◆
『神奉山』──ここら一帯を守る氏神が住まうとされる霊山。現地民でも滅多な事がなければ入らない禁域。その前に僕らは立っていた。
見れば見るほど不気味だ。まったく似た所などないのに、いっそ美しいくらいなのに、この山はどこか富士の樹海のような不吉なものを思い起こさせる。
「どうします? 時政さん。禁止区域らしいですけど──こっそり入ってみます?」
注連縄がかかった鳥居の前、じっと山を見つめて黙り込む時政さんにやんわりと伺う。
「──いや、これは駄目だ。入ったら出られなくなる。神奈備ですらない」
「……え?」
「まさかこんなことに為ってるとは。信仰ってのはとことん厄介だな」
山から目線を外さないまま薄く笑う時政さんにゾッと肌が粟立つ。今、彼の『目』には──〝なに〟が視えているのだろう。
「あの、時政さん──」
「────なにやってるの、あなた達!」
突然の怒声だった。反射的に体が跳ねてしまう。振り返った時政さんが僕を庇うように前へと出る。
「この山には近付いたら駄目って、知ってるでしょう!? ふざけていたらその内に酷い目に──て、あら?」
「ご忠告ありがとうございます。眺めていただけなので心配ご無用ですよ」
相手に対し、時政さんの声色がわざとらしい程に柔らかくなる。接客モードだ。普段の時政さんの俺様っぷりを知っているだけに、この時の時政さんにはちょっぴりむず痒くなる。
「──もしかして、観光の方でしたか?」
「はい。昨日から美岬館に泊まっていまして、人伝にこの山が霊山であると聞き、記念にと」
人当たり良く模範解答する時政さんの背からこっそりと相手を伺ってみる。──女性だ。先程、大声で叱咤を飛ばしたとは思えないほど優しげな雰囲気をまとった女性がいた。
歳は初老程だろうか。着物姿に凛と背を伸ばして立つ様には強烈な既視感があった。──あれ、最近どこかで似たものを見たような。
「ああ、そうでしたか。それは失礼しました。ここは観光するにも不釣り合いな場所ですから、観光の方がいらっしゃるとは思わなくて……ガイドブックなんかにも載ってないでしょう? この山のことは」
突然、怒鳴り込んだりしてしまってごめんなさいね。そう頭を下げる彼女にイエイエと手を振る。
神奉山なんて大仰な名前があるのに、こんなにも美しいのに、あくまでも観光地ではないのか。まあ──入れないなら、確かに、見るものなんてこの鳥居くらいしかないもんな。
「──それしても、美岬館ですか」
形の良い眉をやんわりと寄せ、心配そうにとも不機嫌そうにとも取れる顔で不自然に言葉を切った女性に、おや、と思う。
「美岬館が何か?」
追及するのはやはり時政さんだ。咄嗟にボイスレコーダーとメモの用意をする。しかし。
「……いえ、何でもありません。ご旅行、楽しんでくださいね」
きっぱりと笑顔を取り戻して、女性は一礼するとそのまま去って行ってしまった。なんとも存在感のある人だった。
その背を見えなくなるまで見送った時政さんは、呟いた。
「──やっぱり何かあるな。ライバル関係のいざこざ以上の何かが」
「? どういうことですか? さっきの人が、なにか?」
「お前、気付いてなかったのか? さっきのは清海野旅館の現女将だぞ」
え。──ええええっ!?
「なんで知ってるんですか!?」
「少年よ、観察眼を養いたまえよ。──ここ、見てみろ」
時政さんが問答無用で僕のリュックからガイドブックを取り出す。美岬館の特集ページのその次、諸々と共に小さくまとめられた清海野旅館の写真を指す。──あ、いた。先程の剣幕とは結び付きもしない微笑みの女将さんが旅館の玄関に立っていた。確かに、ヒントはあった。
既視感だって覚える筈である。彼女の佇まいは、職業柄なのか美岬館の女将ともよく似ていた。
うう、観察眼──本当に足りないんだなぁ、僕。ちょっとヘコむ。恨めしげにもう一度写真を眺めてみる。そして────気付く。
「──あ。これ、おなじもの、ありますよ。そこに」
「あ? ────花か」
神奉山の麓にポツリと、青みがかった紫の花が咲いていた。そして同じものが清海野旅館の写真──おそらくは庭園らしき所にも映っていた。こちらは色取り取りだ。見る限りその箇所以外に神奉山に同種の花が咲いている様子はないので、意図的に植えられたものだろうかと推測する。もしも意図的なのだとすれば──清海野の女将さんが、植えたのだろうか。
どことなく奇妙な光景だった。アンバランスなのだ。山に、花は似合わないのだ。だからこそ──山も花も禁忌的な美しさを醸し出していた。
「なんでしょう、これ。なんでここだけ……」
「──スカビオサ」
花の元へ駆け寄り花弁に触れようと伸ばした手を時政さんに取られる。この人に触られるのなんて今さらで慣れたものなのに、ほんの少しドキリとする。
「それはスカビオサつってな、和名は確か松虫草だったか。派手じゃない楚々とした形が昔から日本人に好まれるらしい。このスカビオサも清海野のものだろう。女将はこれに用があってここまで来たのかもな」
「スカビオサ……。でも、なんでこんなところに? 女将さんが植えたんでしょうか」
「それをこれから聞きに行くんだよ。ほら、清海野旅館はすぐそこだ。そろそろ行くぞ」
「っはい」
慌てて立ち上がる。相変わらず時政さんの足取りに迷いはない。だから、置いていかれないよう縺れる足でその背を追おうとして。
違和感。
緑が、混ざっていた。紫の大群の中にぽつりと────クローバーが。
手折られた一本のクローバーは、影のようにスカビオサを彩っていた。
──どうして、クローバーが? 手折られているのだから、つまりは別の場所から人の手でここまで移動させられてきた物だ。
誰が、なんの目的で? これも清海野の女将さんなのか? どうして一本だけ?
「おい、何してんだ。早く来い」
「あ、はい!」
結局、時政さんの声に僕の思考は断ち切られた。様々な違和感を山への置き土産にして、僕は駆けた。
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