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消えた友人
壱
しおりを挟む「おはようございます」
「おはようございます、教頭先生」
日常の証の一つとして、今日も挨拶運動の手本を示す教頭先生に会釈する。昨日は佐竹の安否が心配で誰よりも早く登校したので、こうして教頭先生と馴染みの挨拶を交わすのは一昨日ぶりだった。相変わらず美しく整えられたスーツを完璧に着こなしている。時政さんのよれよれジャージとは大違いだ。
「昨日、見かけなかったがお休みでもしていたのかい?」
「いえ、昨日はちょっと早く来すぎちゃいまして」
「へえ! 僕がここに立つ前に登校していたのか。いやはや、それは結構なことだ。倉橋くんは本当に熱心な良い子だね」
ニコニコと嬉しそうに頬へシワを寄せて笑う教頭先生に、佐竹が心配だっただけなんだけどね、と心の中で付け加えておく。
教頭先生は人気者である。まず、人柄が良い。穏やかでそれでいて教育には熱心で、いつだって彼からは微笑みが絶えない。完全なる癒し系。一部の人懐っこい生徒なんかはこの人をおじいちゃん先生と呼んで慕っている。気持ちはよくわかる。
そんな人格者の御仁が一連の事件に対して胸を痛めていない筈もなく。
「佐竹くん、まだ行方がわからないらしいね」
「……はい」
「君は佐竹くんと仲が良かった。……あまり、気を落としてはいけないよ」
目尻を下げて、教頭先生の年期の刻まれた手が僕の肩を叩く。どうやらお人好しのこの人は、佐竹のみならず僕のことも心配してくれていたようだ。
「君も佐竹くんのように、夜中に学校へ忍び込むなんて危険な真似をしてはいけないよ。最近は物騒な事件も多いんだ。気を付けて」
「はい。ありがとうございます」
最後にもう一度だけ軽く会釈してから玄関スロープを上がる。下駄箱で佐竹の上履きの不在を本日も確認してから、ローファーと上靴とを履き替えながら思う。──あんなに良い先生でも、嫌う人間ってのは一定数いるんだよな。
一度だけ見た光景があるのだ。上級生の、所謂不良と呼ばれる個性的な生徒の数名が教頭先生へと聞くに耐えない罵詈雑言を投げつけるシーンを。一部の発言を切り取っただけなので正確な事情はわからないけれど、教頭先生が未成年のタバコの所持を注意したことが事の発端だったと思う。
やはり人気には反意が付き物なのだろうか。──どことなく苦味を感じる唾液をさっさと喉へ押し込んだ。
さて、教室に入室した直後、僕は尋常でない顔付きをしたクラスメートに囲まれていた。
「おは、よ?」
「おはよー……じゃなくてっ、倉橋、シマセンになんか喋った!?」
ぐわりと。まだまだ幼さの残る顔付きではあるものの、迫力満点に迫り来る男子クラスメートの一人に背筋を反って戦く。一昨日、佐竹と教室の隅で盛り上がっていた生徒だ。彼等は焦っていた。
「喋った、て……何が?」
「佐竹のこと! シマセン、話に来い、つってたじゃん」
ちなみにシマセンとは担任・島先生のあだ名である。単純だ。
「え、何か知ってるの?」
「いや、ほら、アイツ夜に学校に忍び込むって騒いでたじゃん。誰も本気にしてなかったけど、でも──やったんだろ? それで今──行方不明、なんだろ? 俺ら、絶対怒られると思って誰も言ってねぇんだけど……倉橋ならシマセンに言ってるかな、て」
思わず閉口する。同じだった。彼等も──僕も。自分の責任になるのが怖くて真実を噤んでいた。紀美子さんに──どうして止めなかったの、一緒に行ってやってくれなかったの──あなたが代わりに消えなかったの。と、母の目で責められるのが怖かった。
無論、紀美子さんがそんな酷いことを言うわけがない。だから、これはすべて僕が臆病者というだけの話だ。
「やっぱ、喋ってきた方がいいかな?」
すっかり怯えた様子でいるクラスメートにうっかり同情心が芽生える。なんたって島先生は、普段はダウナーなくせに怒ると怖いことで有名なのだから。だから。
「──僕が言っとくよ」
だなんて。強がってしまった。僕なりに一番の友人の無謀を放り出した責任を取りたかったのかもしれない。
子犬のごとく瞳を潤ませていたクラスメートは、救世主が現れたとばかりに飛び上がった。
「マジで!? サンキューっ、恩に切る!」
自慢ではないが、成績はともかくとして内申的には優等生で通っている自信がある。多少の理解は得られるだろう、と、努めて楽観視してみる。
「でもさぁ──」
ふと、口を開いたのは松原だ。彼もなんだかんだと佐竹の話を信じなかったことに罪悪感を覚えている生徒の一人だった。
「俺、佐竹と同じ中学校だったんだけど、なんつーか、佐竹は佐竹なんだけどあそこまでじゃなかったっていうか……なんか大袈裟なんだよな、アイツ。前は──もうちょっとだけ落ち着いてた、と、思う。だからつい冗談って決め込んだ。……こんなの言い訳にもなんないけどさ」
「あ、それ俺も同じだ。てか佐竹はなんでこの学校に来たんだ? 志望校あそこじゃなかったっけ? ほら、スポーツ特待取ってる……」
「え、そうなの?」
「だったと思うけど。受験落ちたんかな……基本滑り止めの場所じゃん? ここって」
「ハイ、田口はおくちチャックなー。第一志望で受験した人にシツレーでしょーが」
話題はすっかり身内雑談へと移行する。それに苦笑いで断って、自身の席へと着く。
僕と佐竹の付き合いは高校の入学式からなので、当然、以前の彼について僕は何も知らない。それを知る人間から見て──今の佐竹はどこかがおかしいのだという。
思えば紀美子さんのことも、如何にも同情を誘う様なだけに気にも留めず受け入れてしまっていたけれど、彼女は過保護だ。一晩帰ってこないだけで、彼女の様子は息子に一ヶ月は会えてないと言わんばかりの悲壮さを纏っていた。ほんのちょっと、普通でない気がする。彼女は佐竹を────佐竹のなにを、それ程に心配していたのだろう。
「おはよう、倉橋くん」
「あ、おはよう。後藤さん」
次に、考え込む僕の元へと静かな足取りでやってきたのは、小柄で綺麗な少女だった。地毛らしい茶髪のボブカットに規定通りに着用された制服、控えめに笑う上品な娘だ。そんな彼女はいつもならば楚々とした笑みを不安気に蒼くして呟く。
「佐竹くん、大丈夫かな……」
「うん……まだわからないけど……。あ、ねえ。最近、変な噂とか、気になることとかない?」
グルグルと回り出そうとしていた思考を一時停止して本来の目的を思い出す。聞き込みだ。今日の僕はその為に学校に来たのだから。
「変な噂? 不審者のこと?」
「それもあるけど、他にも知ってたら──なんでもいいんだ」
「他……うーん、前にこの辺りで事故があった事くらいしか……」
「──事故?」
初めて聞く話だった。後藤さんは世間話の一つとして坦々と答えた。
「かなり前だけど、ほら、近くにちょっと深い川があるでしょう? あそこで女の子が溺れ死んだらしいよ。ええと、去年の年が替わるか替わらないか──くらいの事じゃなかったかな」
後藤さんの言葉に、該当しそうな川のアタリを頭の中でつける。──たぶん、あそこかな。大人が立って、やっと胸が出るくらいの深さがあるのに、ガードレールでしか境がされてないところ。豪雨の次の日なんかは水の量と勢いに隣を通るだけでヒヤッとする川だ。あの川なら──事故が起きてもおかしくないと思ってしまう。
「あとは──あ、不審者の話に戻るけど、一部では男じゃなくてもっと小さな子供説もあるみたい。矛盾してるよね。これはたぶん、尾ひれはひれかなぁ」
「…………」
おそらく──と誰かさんを真似して推理ぶってみる。不審者の噂を確かめに、佐竹同様に忍び込んだ生徒の誰かがその不審者と間違えられたのだ。僕としてはこれが一番、納得できる解釈だ。そう思うのに──釈然としない。
後藤さんに礼を言ったところで朝礼のチャイムが鳴った。島先生が今日も気だるげに出席確認を始める。佐竹を除いた日常が無機質に繰り返される。
──佐竹は今、どこでどうしているのだろう。
時は過ぎて、放課後。一日情報集めに奔走したところで、結局得られたのは後藤さんの話にさらに背びれ胸びれがついたものや、元体育教師(物凄く意外だ!)の教頭先生が、現体育教師である島先生の授業にゲスト参加させられ、その際に笑い話として披露した酒による失敗談だったりと至極くだらないネタばかりだった。
コレを僕はこれから例の事務所へ持ち込みに行くわけだが──ああ、憂鬱だ。まともに情報収集もできないのかとあの男にバカにされる未来しか見えない。僕、一応あなたの客なんですけど。
スクールバッグに荷物を詰めながら、最近すっかり癖になってしまっている溜め息をつく。下駄箱へ向かう途中に、思い出す。
──あ、島先生にまだ佐竹の話してないや。
気は進まないけれど、約束は約束だ。クルリと上靴の先を180度回転させて、職員室に繋がる階段を上がった。
「──失礼します。島先生いますか?」
「おう、倉橋か。どうした」
職員室の扉をノックしてすぐ、声をかけてきたのは探していた張本人の島だった。彼のなんとも緊張感のない声に肩の力を抜く。
「実は佐竹のことで話が、」
「……あー、そのことなんだが、もういい。佐竹の事は気にするな」
「──は?」
本題を話す前から食い気味に断られてしまった。どういうことだ。
「昨日進展があってな。後は先生達でなんとかするから、お前は余計な詮索するんじゃない。これでまた、次は佐竹を捜すためなんて別のアホが忍び込んで来ても困るだろ。それこそ学校閉鎖の危機だ。判ったらさっさと帰んなさい。倉橋は部活やってないだろ? 戸締まりは教頭の仕事だから、お前らが帰るの遅くなると教頭に迷惑がかかるんだ」
「…………」
台本でも読むみたいにさっさと話を切り上げたがる島に不信感が増幅する。怪しい。怪しすぎる。この人は今、間違いなく何かを誤魔化したし、隠してもいる。それに──
ぽつりと。違和感。
朝の噂、島の態度、数々の違和感がもやのかかった状態で積み上がる。もう少しで形になりそうなのに──まだ、駄目だ。
足りない。揃ったピースに確信が足りない。だから、得に行こう。────『探偵』の言葉を。
「こんにちはー……」
寄り道もせずに向かった時刻探偵事務所内は、異様に静かで暗かった。日が落ちきったわけでないにしろ、そろそろ電灯に頼らねば太陽光だけでは心許なくなる暗さだ。
もしや、不在なのだろうか。しかし、ならば何故、事務所の鍵は開いて────
「…………。」
寝ていた。時政さんが。ソファーで。
「……ッいやいや何してんですかアンタ! 仕事は! 情報収集は!」
「んお? おー、学校おつかれー」
「おつかれじゃないですよ! もうっ、仕事ぐらい真面目にしてくださいよ!」
ただでさえぐしゃぐしゃの髪をさらにうねらせながらうとうとしている時政さんを揺すり起こす。近くに寄ってようやく彼の呼吸音を確かめる。ジャージの野暮ったい袖がプランと宙を掻く。
完全に寝起きだし完全にオフの姿だ。昨日の真剣モードはどこいった!
「──これは、不可抗力ってやつですからね」
ふう。息をついて。一向に目覚めへの意欲を見せない眠気眼な時政さんに、ゆっくり拳を握り締めた。
◆◆◆
「イィッテ……殴るこたねぇだろ……。おまえ、平凡系に見せ掛けてそういうキャラなの?」
「自業自得ですし僕を妙なジャンルにカテゴライズしないでください」
どうにか整った時刻探偵事務所・応接間にて。まず、この場所を(散らかりきった書類・散乱したペン・積み上がっていた洗い物エトセトラ)掃除整理整頓したのは僕だし、その際発掘したケトルとティーバッグ式の茶葉から二人分のお茶を淹れたのも僕だ。
あれぇ? もう一度確認するけど、僕って一応、客の立場の筈なんだけど?
「お、サンキュー。……で、あれは?」
「はいどうぞ!」
バンッと壊れないよう僕自身の拳で机を叩きながら、例のブツを机上へと置く。簡易ボイスレコーダーだ。実は昨日、帰り際に時政さんから「人と話す時は録りながらしろ」と渡されていたのである。
「ちゃんと使えたじゃねぇか。エライエライ」
時政さんがボイスレコーダーを再生しながら褒美とばかり頭を撫でてくる。この人、僕を小学生かなにかだと思ってるんじゃないだろうか。そりゃあ、確かに身長順に並ばされた際は前から数えた方が早いし、童顔なのでいまだ中学生と間違えられることもザラだけど。……バイトの面接でも、何度か年齢確認されたし。
本当に変な人だ。でも、彼の手をまんざらでもない心地で受け入れている僕はもっと変だ。──この人の手、兄ちゃんに似てるんだもんなぁ。
「──ん、読めてきた」
すっかり時政さんからの子供扱いを享受してる間に、当の時政さんはボイスレコーダーから的確に情報を拾っていた。その流れるような手腕にはプロとしてのプライドを感じた。悔しいけれど、もう彼が探偵であることは疑わない。詐欺師の可能性と五分五分だけれど。
──いつもそうして、真剣にしていればかっこいいのに。相変わらず野暮ジャージに眼鏡ではあるけど。これが所謂雰囲気イケメン、てやつか。
早送りを駆使して全て聴き終った時政さんが一息をつく。僕が淹れた紅茶を飲む。そんな彼の様子に、なんだか僕まで疲れを思い出してしまった。
改めて今日一日の会話を聴いてみたけれど、やっぱり僕にはさっぱりだ。時政さんならばわかるのだろうか。会話の中に落とされたヒントが。僕では形にできない違和感の輪郭が。
僕と時政さんの間にある、どうしようもなく厚い壁。
「…………」
やっぱり、慣れないことはするものじゃない。────紅茶、美味しくないな。
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