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第四章/出席番号七番・神林いずみ

(四)

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「来週、いずみの誕生日だよね。なにがほしい?」

 二月に入って、寒い寒いと言いながらも、チナと私は変わらず階段で昼食を食べている。
 お昼も中辻君と食べていいんだよ、と言ってもチナは聞かなかった。だってあいつ学食なんだもん。学食はボリューム重視だから太るじゃん。大きなメロンパンをかじりながら言うチナを、私は十年後も好きでいるのだろう。

「なにもいらないよ。チナがかわいくなっていく姿を近くで見られることが、私にはなによりものプレゼントだから」
「もう、やめてよ。別に言うほど変わってないし!」

 チナはゆるい三つ編みにした髪をいじる。カーディガンを清楚なグレーにしたり、彼と同じ医療の道に進みたいからと本格的に看護師の勉強を始めたり、好きな人のために自由に自分を変えられるチナは、本当にかわいいと思う。

【明日は私の誕生日♪ 土曜日だからこーすけにも会える♪】

 私はこうしてあの人を監視して、消えてくれるのを待つことしかできない。
 けれど先生も大変だ。二週間連続で、二人の女の誕生日を祝わなければならないのだから。

「誕生日はK氏とどこかに行くの?」
「うん、代官山のレストランに。前にテレビで見て、すごく雰囲気がよかったって言ったら、連れて行ってくれるって」
「いいなぁ、超オシャレ! 誰にも見つからなければいいけど……」
「当日は高校生に見えないような格好をして行くよ。それに代官山なんて、誰も滅多に行かないでしょう?」
「それもそうだね。楽しんできてね、いずみ」
「ありがとう、チナ」

 最近、チナはあの人の話題に触れない。K氏はゆんゆんといつ別れるの、と前は口を酸っぱくしていたけれど、気を使ってくれているのだろう。それを一番言いたいのは誰か、わかっているから。
 そのツイートを見たのは、放課後の書庫だった。

【明日は代官山だって! どこに連れて行ってくれるんだろう。楽しみ!】

 画面をす、す、とスワイプする。丸いマークがくるくるまわるばかりで、それ以上ツイートは更新されない。
 いや、私の思い過ごしかもしれない。そうだ、そうに決まってる。先生は来週の下見をしに行くのだ。私のために、あの人を利用するだけだ。

「逢坂君、明日ひま?」

 いつものように部屋の隅に座って本を読む逢坂君は、なんで、と返す。

「代官山にある『蔦屋書店』って知ってる? そこね、席に座ってコーヒーを飲みながら、売り物の本が好きなだけ読めるの。魅力的なシステムでしょう? きっと逢坂君も気に入ると思うんだ。だから一緒に行かない?」

 逢坂君がなにも言わずに私を見るから、私は今、自分がお喋りになっていることに気付く。彼の言った通りだ。女は都合の悪いものをお喋りで隠そうとする。

「別にいいけど」

 なんで、がくると思っていたから、ありがとうと返すのが遅れてしまった。
 あの人はその後のツイートで、代官山駅に十八時に待ち合わせることを律儀に教えてくれた。明日はチナのバレンタインの買い物に付き合う、と両親に伝えると、模試の勉強もしっかりねと言われただけで、特に詮索はされなかった。




 翌日は気温が二桁にも満たない、寒空になった。
 東急東横線、代官山駅の改札を降りる。この先にはどんなに眩しい光景が広がっているのだろうと構えていた分、拍子抜けした。
 私たちと同年代のカップルや、わあきゃあと飛んで跳ねてのお上りさんもいる。先生とのデートで着る予定だったワインレッドのワンピースに、ファー付きのコートを羽織ってきたけれど、どうやら杞憂だったようだ。逢坂君の普段通りのくたびれた格好も、そういうテイストであると認めてくれる余裕がこの街にはあるらしい。

 駅前に停まっていた、レトロな黄色のケータリングワゴン車に寄る。温かいエスプレッソコーヒーを二つ買って、蔦屋書店に向かった。もくもくと流れていく湯気だけがお喋りで、私たちは変なポーズを決めるマネキンにも、虎を一頭まるまる背負ったようなご婦人のコートにも、一切触れない。
 逢坂君は、今日の誘いに私の不都合な事情が絡んでいることに気付いているのだろう。それなのにまったく追求してこない。だからこそきまりが悪い。わかっているのならむしろ問い詰めてほしい。
 逢坂君を利用して、チナを口実に使って、両親に嘘をついて、私はここに来ている。そんな私を愚かな奴だと罵ってくれたなら、まだ引き返せるかもしれない。知らなくていいことを知らずに済むかもしれない。
 結局、逢坂君がまともに喋ったのは「本当にこれ全部読んでいいのか」だけだった。彼はやはり俺のものだと言わんばかりに本を積み上げて、ひたすらに読みふけっていた。私は隣の席で模試の勉強をしながら、十分に一回、ツイッターを確認する。

「逢坂君、そろそろご飯にしない?」

 一七時半になったところで、逢坂君に声をかける。入店時にコーヒーを一杯頼んだきり、逢坂君はなにも口にしていない。彼は本当に本を食べて生きているのではないかと思う。
 かくいう私もちっともお腹は減っていないけれど、それでも私は、ご飯を食べに行かなければならない。

 外の街は大人になっていた。クリスマスは終わったのに、イルミネーションがあちらこちらで煌めいている。子供はいない。甲高い声もしない。あるのは代官山というイメージをそのまま形にした景色だけ。五センチのヒールが急に恥ずかしくなってきた。
 どうして私はここにいるのだろう。今からでも遅くはない。ここで引き返せば、たくさん本が読めてよかったね、楽しかったね、と今日を笑って終えられる。

「で、どこ行くの」

 逢坂君は私がほしい言葉をくれない。

「この先におすすめのお店があるの。エスニック料理を扱うレストランなんだけど、そこでもいい?」

 逢坂君は私が指差した方に向かって歩き出す。スマホで調べに調べぬいたお店だから、少しも迷わずに着いてしまう。お店は混んでいたけれど、運良く待たずに入れてしまう。通された席は店内がよく見渡せる壁際だった。まったく、笑ってしまうほどおあつらえ向きだ。
 二人はもう出会っただろうか。そのときは絶対来てほしくないのに、さっさと来てしまえばいいとも思う。
 スパイスの香りが空の胃を刺激して、じくじく痛い。体中の細胞が聴覚器官になってしまったかのように、いらっしゃいませの言葉に過敏になる。

 五回目のいらっしゃいませに、ご予約のお客様ですね、が付いた。
 目の前の逢坂君はおいしいともまずいとも言わずに、ナシゴレンを食べている。私はストローでジンジャーエールの氷をからから回しながら、逢坂君の肩越しにそれを眺めた。

 もーびっくり! こんな素敵なお店、どこで知ったのぉ?
 メニューもおっしゃれー! あ、私これ食べたい!
 エスニック料理って美味しいんだね! チリソース、ハマりそう!
 うそー、誕生日プレート? 嬉しくて泣けてくるよう。ね、写真撮ってもらお!
 えへへ。さっそくツイッターに載せて自慢しちゃおっと。
 今日は私のためにありがとね、こーすけ。

 バカな女。あまりのうるささに隣の夫婦が迷惑しているのがわからないのかな。それに、先生も先生だ。呆れたような優しい顔で、まったくお前は仕方ないな、だなんて。
 九十九パーセント、こうなると思っていた。けれど、それでも、一パーセントは確かに信じていた。
 だって、一週間ごとに違う女を同じお店で祝うなんて、そんなバカなことある? 私が提案したお店をあの人のために使うだなんて、そんなことある?

「逢坂君は前に、私が先生に執着する理由がわからないって言ったよね」

 私は手を上げて店員を呼び、会計をお願いする。逢坂君は食後のマンゴーラッシーをずず、と吸いながら私を見た。

「答えを教えてあげるね」

 昨日の夜、何度もイメージトレーニングをした。私はなにも言わずにこの場を後にして、【先生と一緒に行きたかったです】とお店の写真を添えてメッセージを送る。後悔してほしいから、別れの理由はあえて告げない。
 それが正しい選択。正しい終わり。先生以外は誰も傷つかない、誰も傷つけない、優等生の私のけじめのつけ方だ。

「それは私が、ただの女だからだよ」

 店員からお釣りを受け取り、最後にお水をいただけますか、と頼む。コップいっぱいに注がれた水の、揺れる水面に口付けをして、私は席を立った。
 あの人が先に私に気付く。ねぇ、と促されて、先生は私を見上げた。

 ――神林。

 バチャン、と音が弾けて、賑やかな店内が凍りつく。“水を打ったような静けさ”って、こういう状況を言うんだな。

「先生、さようなら」




 濡れた右手が冷気に触れて、じんじんと痛む。
 あの場に居合わせたお客さんは、今頃こぞってツイッターを更新しているだろう。修羅場に遭遇、まじで水ぶっかける女とかいるんだ、写真はさすがに載せないだろうけれど、wをたくさんつけて私の分まで二人を笑ってくれる。

「逢坂君、今日はありがとう。巻き込んでごめんね。でも、すっきりしたぁ。これで全部終わり!」

 代官山駅の近くのベンチに座って、背もたれいっぱいに体重をあずける。
 空を見上げた。都会のうるさい明かりのせいで、星がかすんで見える。ベテルギウス、シリウス、プロキオン。冬の大三角形ですら見つけるのがやっとだけれど、この街には綺麗なものがたくさんあるから、空なんて見上げる必要がないのだろう。

「先生、あの人に私のことなんて説明するのかな。実はあいつに言い寄られててさ、って私に罪をなすりつけるのかな。仕方ないか。実際に今日はストーカーみたいなことしちゃったしね。でも、後悔はしてないよ」

 逢坂君は立ち上がる。

「小銭ない?」
「あ、飲み物? 寒いもんね。ちょっと待ってね」

 はい、と五百円を渡す。白い息をまとわせながら自動販売機に向かう、逢坂君のまるまった背中を見て、ああ、本当に終わったんだなと実感した。
 もう、先生の筋肉質な腕にも、背中にも触れられない。髪をなでてもらえない。キスもできない。好きだよって囁きも聞けない。いずみ、って呼んでもらえない。
 逢坂君が私の目の前に立つのを感じた。かろうじて、手にペットボトルを持っているのが見える。私の分を買ってきてくれたのだろうか。けれど今は、顔を下ろすことができない。

「きっと、ただのくだらないプライドだったの」

 鼻からつんとまっすぐ入ってくる冷気が、痛い。

「先生が、とかじゃなくて、手に入らないことが、思い通りにいかないことが、納得できなかったの。私の中で、悔しい、と好き、は同義語だから」

 目の縁が、痛い。

「先生のことは本当に好きだった。でもきっと、私は途中から、先生じゃなくて、時野旅人のことが――」

 バチャン、と音が弾けた。

「一番かわいそうなのは誰だと思う」

 パタタ、と前髪から流れる雫が視界を覆う。ひゅ、と吹いた風が体温をさらって、私は逢坂君に水をかけられたのだと理解した。

「バカな男に弄ばれたお前でも、女子高生との遊びがバレた担任でもない。幸せなはずの誕生日に、彼氏の浮気を知って、好奇の目に晒された、担任の彼女だ」

 逢坂君は、真冬の目で私を見下ろす。

「プライドは自分を支える背骨だ。自分を守る盾でもなければ、他人を攻撃する矛でもない。プライドのせいにするな。被害者ぶるな。お前はただ、負けたんだよ」

 心の中でバカだと蔑んだ、あの女に。
 逢坂君の言葉を聞き終えるが早いか、私は彼の手からペットボトルを奪って水をかけた。
 うるさい、ムカつく、どうして私ばっかり、わかってるよそんなの、バカな女は私の方だよ、でも、それでも、私は愛されたかった――。

 なにを言ったのかはよく覚えていない。寒さで震える唇で、なにも悪くない、むしろ正しさしかない逢坂君に、罵詈雑言を浴びせた記憶はある。
 彼の服を掴んで、振り払われてもしがみついて、わあわあ泣いた。触るな、と何度も言っていた気がするけれど、彼は観念したように私に胸を貸してくれた。抱き締めてはくれなかった。
 通りすがりの人が足を止めていたこともなんとなくわかった。けれど溢れ出した汚いものを、全部、全部きれいに吐き出すまで、私の涙は止まらなかった。
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