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第四章/出席番号七番・神林いずみ

(三)

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◆十二月二十三日『烏合の衆』

 冬の時期、日が落ちるころには、カラスはすでにねぐらに帰っている。
 群れを成し、身を寄せて、体温を分け合い、凍える夜の寒さを耐え忍ぶ。たとえそれが寄せ集めの、形ばかりの集団であっても厭わない。
 集団になじめないものは暖をとれない。暖をとれなければ、凍えるのみ。

◆ハンドルネーム/時野旅人


 赤や緑で装飾されたクリスマス・イブの商店街は、家族連れや老夫婦、サンタの帽子を被った子どもたちで賑わっている。私は逢坂君と合流して、チキンやポテトなどの惣菜とシャンメリーを買った。

「俺、金ないから」
「私が強引に誘ったんだもの、元よりもらうつもりはないよ。ケーキは何味がいい?」
「何でもいい」

 それ、一番困るやつだよ。笑う私をよそに、逢坂君は古びた書店に勝手に入っていった。彼には本以外のものに対する一切の執着が見られない。
 文芸誌を手に取った逢坂君の隣に並ぶ。

「最近、時野旅人の日記が終わりに向かってる気がするの」
「そりゃあ終わるだろ。企画は三月までなんだから」
「そうじゃないの。明るいところから暗いところへ沈んでいくような、もう二度と抜け出せない闇に落ちるような、そういう終わり」

 逢坂君との会話では、つい文学的な言葉を選んでしまう。先生といるときは聞き上手でいたいけれど、逢坂君といるときは話し上手でいたい。

「終わりがないものなんてないだろ」

 逢坂君は本を閉じた。先生は私のほしい言葉をくれるけれど、逢坂君は逆だ。言葉で私をあまやかしてはくれない。
 家に着くまでの間、私は逢坂君にチナの話をした。

「昨日、終業式の後に一緒に買い物に行ったんだけどね、チナは中辻君へのプレゼントにサッカーで使えるスポーツ手袋を買ったの。あいつ手冷たいんだよ、って言うから、手繋いだんだねって言ったら真っ赤になっちゃって。本当、かわいいの」

 逢坂君はふぅんともへぇとも言わず、白線の上を辿るように歩いていた。足元は学校に履いてくるものと同じ、くたびれたスニーカーだ。上着もいつもと同じ紺色のPコート、パンツも黒。見た目からは一切、彼のプライベートが感じられない。

「それでね、チナと中辻君は今日、お台場に行ってるの。ビーナスフォートって雪が降るんだって。もちろん人口のだけど」

 横断歩道の前で白線が途絶えると、逢坂君は口を開く。

「怖いならやめれば」

 優しさも、情けも、何も感じられない目で見下されて、彼にはなんて冬が似合うのだろうと思った。寒さで赤くなった鼻の頭が、かろうじて彼に血が通っていることを教えてくれる。

「緊張してるのバレた?」
「女は都合の悪いものをお喋りで隠そうとする」

 逢坂君が『女』を語ったことには驚いた。他人には興味ないんじゃなかったの、と言いかけてやめる。彼との会話に感情的な要素は入れたくない。
 やめないよ、と言う私に、逢坂君はため息をついた。
 私は彼を家に招くのが怖い。それは逢坂君が男だからとか、先生への裏切り行為だからだとか、そういう意味ではない。

「逢坂君、高いところは平気?」
「なんで」
「図書館はね、少し変わった場所にあるの」

 それだけ言って、私はお喋りをやめた。
 門の前に着くと、逢坂君は想像通りだな、という顔をして家を見上げた。彼には門の前で待っててもらい、私だけ先に中に入る。玄関には向かわず、車が二台停まったガレージと、金木犀と椿が植えられた庭をぐるりとまわって、日の当たらない北側の壁に緊急用のはしごをかけた。目的の二階の窓まで少し届かないけれど、逢坂君の身長なら問題ないだろう。
 近所の目に注意を払いながら、逢坂君をはしごの前まで誘導する。

「スリリングな図書館でしょう?」

 逢坂君はあからさまに嫌な顔をしたけれど、渋々登ってくれた。窓の中に吸い込まれていく彼を見届けて、はしごを外し、玄関に向かう。
 ――よし。口の端を引き上げて、玄関の鍵を開けて中に入る。そのとき、ただいま、は必ず天井の左隅に向かって言う。
 私は靴を揃えて家に上がり、リビングに行き、キッチンで手を洗い、コップの半分までミネラルウォーターを注ぎ、喉を三回鳴らして飲み干す。玄関からここまでちょうど一分。三、二、一……頭の中のカウントダウンと同時に、スマホから着信メロディーが流れた。

「Hello――お父さん、お母さん」

 ただいま。天井の左隅に向かって言う。圧倒的な高さから私を見下ろし、服についたら一生消えないような黒色のレンズに、両親の笑顔を思い浮かべながら。
 もともと心配症な両親ではあった。遅くに産まれた一人娘ということもあって、高校入学直前に父の海外赴任が決まったときは、私も連れて行くの一点張りだった。
 日本に残りたい。私は恐らく、物心ついてから初めてわがままを言った。
 両親には、高校生活を楽しみにしていたから、と健気なことを言ってみたけれど、実のところ、なぜ両親の意思に逆らったのかは私にもよくわからない。もしかしたらこれが、私にとっての反抗期だったのかもしれない。
 両親は条件付きで、私が日本に残ることを了承してくれた。それがこの、防犯――いや、監視カメラだ。

「Merry Christmas.って、そっちはまだ二十三日だよね。うん、チキンとケーキを買ってきたの。今日は書斎にこもって模試の勉強。あはは、クリスマス・イブだからって男の人を連れ込んだりしないよ。うん、それじゃあ、Sweet dreams.」

 レンズに向かって手を振って、通話を切り、二階に向かった。
 この家には、私の自室も含め、複数箇所にカメラが設置されている。完全に死角になっている部屋は、風呂とトイレ、両親の部屋、そして書斎だけだ。
 この生活の異常性は理解している。けれど慣れてしまえばどうってことないし、常に人に見られているという意識は、私に正しさを与えてくれた。物は考えようだ。困難は必ずしも自分の敵ではない。上手く利用できるかできないかは、自分の力量次第だ。
 自室に寄って勉強道具を持ち、書斎に向かう。私は習慣的にスマホを開いた。

【今夜、こーすけが仕事終わりに会いに来てくれるって! やった! なに着よう!】

 五分前に更新されていた。身体は冷えているのに、胃の辺りから煮えるような熱が昇ってくる。
 画面をす、す、とスワイプして無駄に更新されるツイッターの画面を眺める。さてどうしようかと考えて、書斎の扉を開けた。

「お待たせ、逢坂君。気に入った本はあった?」

 返事はない。逢坂君は床に座って早速本を読んでいた。これは俺のだと言わんばかりに、傍らにはすでに六冊ほど本が積み上がっている。もう、隣にソファがあるじゃない。笑いながら部屋の電気を点ける。

「私はそこのデスクで勉強してるから、逢坂君は好きな本を好きなだけ読んで。その前に一応、乾杯しない?」

 言いながら、トートバッグから惣菜のパックを取り出して、用意しておいた皿にあけていく。ローテーブルが華やかになったところで、スマホで写真を撮った。右端には並んだグラスが写っている。

「すごいな、これ。『人間失格』の初版本なんて初めて見た……!」

 逢坂君は巻末の奥付にある『太宰』の著者検印を見て、感嘆の息をつく。
 こちらこそ、こんなにも興奮している逢坂君は初めて見た。普段は生気のない極寒の真冬の瞳に、細雪のような煌めきを感じる。
 先生とは違う、涼やかな奥二重の目。きっと私以外には誰も知らない、逢坂君の表情。

「父が無類の本好きで、特に初版本を集めるのが好きなの。他にもいろいろあるよ」
「まじかよっ」

 まじ、なんて今時な言葉を使う逢坂君に思わず笑ってしまった。ばつが悪そうに居住まいを正した逢坂君に、シャンメリーを渡す。

「なにこれ、開けんの?」
「そういうのは男の人の役目でしょう?」

 ふぅん、と逢坂君は『人間失格』をソファの上に置いて、シャンメリーを手に取った。
 開けるときは瓶口を自分や他人に向けないでください、という注意書きを読んだ逢坂君は、訝しげに栓を握って回す。想像以上に大きな音で、ポンッ!と鳴った。

「……びびった」
「……びっくりしたね」

 目を点にして見つめ合う。なんだよこれ、音が出るとか聞いてない。逢坂君は瓶口からちょろちょろと溢れる水蒸気を睨む。私はまた笑ってしまった。

「シャンメリー、初めてだったんだね。みんな飲むものかと思ってた」
「俺はキリストを父だとは思っていない」
「それは私も同じ。逢坂君のお父様はどんな方なの?」
「知らない」

 つい上向きな会話の流れに身を任せてしまった。彼には探りのような会話はタブーだと決めていたのに。そっか、と相槌を打って会話を終わらせて、シャンメリーをグラスに注いでもらう。

「最後にクリスマスを祝ったのは小六のときだ。それも母親が気まぐれにケーキとプレゼントを買ってきただけの、簡素なものだった」

 しゅわあ、と気泡がグラスの中で舞い上がる。

「そのとき、これに似た酒を飲まされてぶっ倒れた記憶がある」
「これはノンアルコールだよ」
「ならいい」

 逢坂君はグラスを手に取る。私をじっと見つめる目が、乾杯するんだろ、と言う。

「そのときのプレゼントって、もしかして本だった?」

 ややあって、逢坂君は初めて私から目を逸らした。

「お前のような人間が、担任に執着する理由がわからない」

 逢坂君はグラスを一方的に押しつけて、カンと鳴らした。
 彼は私のほしい言葉をくれない。そうだよ、とは言わず、私が決して打ち返せない、私の想像の上をいく言葉を返してくる。
 悔しい。こんな言葉をもらって、悔しくならないはずがない。

「ケーキに合う紅茶をいれてくるね」

 私は逃げるように書斎を出て、リビングに向かう。頭の中では、逢坂君の言葉が繰り返し再生されている。焼き付いて離れない。だって、まるで告白のようだった。
 そう感じているのは、私が逢坂君との会話に感情的な要素を入れていた証拠だ。彼が図らずも家族の話をしてくれたから、私に心を開いてくれたのだと勘違いしてしまったのだろう。
 彼は私の性格や、先生の性格、全ての状況を知った上で、客観的に理解できないと言ったにすぎないのに。

 今まで誰に告白されようと、先生を好きな気持ちは揺るがなかった。先生に妬いてもらえるいいネタができた、その程度のことだった。
 逢坂君が時野旅人だったら、先生とおあいこになると思った。そうなればいいと思った。けれど私は自分が思うよりも、ずっと不器用な人間なのかもしれない。
 私が好きなのは先生で、時野旅人で、つまりは先生一人だ。

【お仕事お疲れ様です、先生。今日は家でクリスマスパーティーをしています。先生はお仕事が終わったら直帰ですか?】

 先ほど撮った写真と一緒にメッセージを送った。
 男の浮気は遊び。世間ではそう言われている。けれど先生は違う。先生は私のことを真剣に考えてくれている。それを証明するために、私は今日まで頑張ってきた。
 私はまた、ガムを噛むように反芻する。
 いずみ、好きだよ。ちゃんとけじめをつけるから。そのときは……。
 何度も噛んで、噛み続けて、いよいよ固くなってしまった。もう吐き出してしまいたい。けれど、せっかくここまで我慢してきたのに、諦めてしまっていいのだろうか。私はあの人に負けているところなんて、一つもないはずなのに。

【いいね、うまそう。もしかして逢坂と一緒にいる?】

 ティーポットを用意していると、スマホが震えた。先生はずるい。私の質問に答えていない。

【はい。一緒に模試の勉強をしています】
【そっか。今日、思いのほか早く帰れそうなんだ。二十時ごろ、少し会えないかな?】

 ――二十時。

【たぶん大丈夫だと思いますが、どこで会いますか?】
【迎えに行く】

 迎えに行く、なんて初めて言われた。思わず緩みかけた口元を慌てて抑える。両親はもう眠っている時間だけれど、万が一でも見られていたら大変だ。
 私は少し蒸らしすぎたかもしれないティーポットを持って二階に上がる。書斎に戻ると、逢坂君は『人間失格』を読んでいた。

「逢坂君、今日は何時ごろまでいる?」

 紅茶をカップに注ぎながら聞く。

「用事ができたなら、すぐにでも帰るけど」

 逢坂君は私を見ずに、ぺり、と本を捲った。
 それからはほとんど会話をしなかった。逢坂君はずっと本を読んでいたけれど、ときどき立ち上がって、宝探しをするように本棚を眺めたりもした。私は模試の勉強をしながら、十五分に一回、あの人のツイッターをチェックする。

【結局、残業になったらしい。二十一時半からじゃちょっとしか会えないじゃん!】

 先生はあの人よりも早く、私に会いに来てくれる。今日こそここに、私の望む言葉が書き込まれるかもしれない。
 来たときと同じように壁にはしごをかける。逢坂君は地上に降りると、寒いな、と呟いた。
 逢坂君の家は三つ隣の駅にあるらしい。駅まで送るねと言うと、別にいい、と白い息を吐き出した。私はそれを無視して彼の隣を歩く。手に持った三つの紙袋がぶつかって、カサカサと鳴る。
 今日の昼、逢坂君と待ち合わせしたツリーの前には、かわいく着飾った女の人が立っていた。お待たせ、とやってきた男の人の腕に手を回して、待ってないよ、と言う。彼らはクリスマスの力を借りなくても、いつも自然にそういうことができるのだろう。

「逢坂君、今日はありがとう。これ、残り物だけどよかったら食べて」

 ためらいつつ、彼はどーもと呟いて、惣菜パックが入った紙袋を受け取った。
 スマホがポケットの中で震えた。もうすぐ着くよ、という先生からのメッセージだろう。私はそれを開かない。

「それから、これ。日頃の感謝も込めて、私からのクリスマスプレゼント」

 二つ目の紙袋を差し出す。しかし受け取ってくれない。逢坂君の表情がかげっていく。

「いらない」

 断られる展開なんて少しも予想していなかった。逢坂君は私に背を向ける。

「ま、待って。たぶん、いや、絶対に喜んでくれると思うの。中身は――」
「いらないって言ってるだろ」
「どうして?」

 彼は止まってくれない。自分は納得するまで、なんで、と聞くくせに。
 苛立たしさを覚えて彼の袖を掴んだ、その瞬間。

「触るな!」

 振り払われた紙袋が地面に落ちた。

「俺に、触るな」

 ひときわ低い声で言って、逢坂君は煌々とした駅の光の中に消えていった。
 彼氏ヒドーイ。あの子フラれちゃったのかな? クリスマスなのにかわいそー。好奇の目が飛んでくる。私は気丈に、けれど素早く紙袋を拾って、その場を去った。
 食べ物はいいけど物はダメ。触れられるのはもっとダメ。逢坂君の私に対する線引きが、いまはっきりと見えてしまった。
 歩調が早まる。駆け足になる。冷気に触れた鼻の頭が痛んで、つんとしみた。赤信号で足を止めると、ポケットの中のスマホが断続的に震えていることに気が付く。

《いずみ、今どこにいる? 南区公園の横に車つけてるんだけど》

 先生、と袖にすがるような声が出てしまって、慌てて咳払いをする。あと五分で着きます。そう告げて通話を切り、走った。
 前に一度だけ乗せてもらったことがある、先生の車を見つけた。周囲に人目がないことを確認して、助手席に乗り込む。暖かい。

「早かったな。そんなに俺に会いたかったのか?」
「はい」

 そ、そうか。自分で言ったくせに照れている先生は、とりあえずドライブしようか、と車を発進させた。
 先生はいつも会うときと同じように、最近あった出来事を面白おかしく話してくれた。私はそれに、ふふ、やだ、そうなんですね、すごい、と数種類ある相槌から最適なものを選んで入れる。私は話すことよりも、聞くことほうがずっと上手なのかもしれない。

「ところで、いずみ。逢坂と一緒にいたんだよな?」

 どうして彼の話をするの、と先生を責めたくなった。さっきまではあんなにも気にしてほしかったくせに。

「いずみのご両親はいないんだろ? その、家に二人きりというのは……」
「先生、相手は逢坂君ですよ。なにか起きると思いますか?」
「もちろんいずみのことは信用してるけど、逢坂は男だから。いずみはかわいいし、万が一ってこともあり得るだろ」
「逢坂君は私のことを、残念なクラスメイトくらいにしか思っていませんよ」

 残念って、いずみが? どうして? 先生は首を傾げた。
 会話はこれくらい、不自由なほうが安心する。言葉は本音の隠れみのだ。知られたくない感情まで否応なしに見透かされてしまうのは、いくらなんでも疲れてしまう。
 時間はあっという間に過ぎた。先生はG-SHOCKをしきりに気にしている。

「先生、私そろそろ帰ります」
「そうか、じゃあ公園のところまで送るな」

 そんな、ほっとしたような顔をしないで。
 本音の代わりに、ありがとうございますを言うと、先生はおう、と笑った。ほら、先生が相手ならこんなにも簡単に猫を被れる。折り目正しくて、聞き分けのいい、みんなが望む私でいられる。
 車を停めた先生は、後部座席から紙袋を取り出した。

「これ、プレゼント。正直会えると思ってなかったから、即席のものになっちゃって。ごめんな」
「嬉しいです。ありがとうございます」

 紙袋の中身は、クリスマスらしい赤と白のミニブーケに、ハンドクリームがついたギフトセットだった。わあ、キレイ。ハンドクリームもいい香り。私の反応に、先生は満足そうに笑った。実は私も、と先生に紙袋を差し出す。

「時計……って、これ高いんじゃないか?」
「先生にはこういうラグジュアリーな時計も似合うと思うんです」

 先生は戸惑いのあと、嬉しさを噛みしめるように目を細めた。

「ありがとう、大切にする。いずみ、好きだよ」

 先生は囁き、キスをする。
 別れ際に先生は、二月半ばの私の誕生日について、どこでも好きなところに連れてってやる、時計のお礼もしたいし、と言った。私は去っていく車のテールランプが視界から消えるまで見届けて、家に帰る。
 案の定、両親にどこに行っていたのかと尋ねられて、私は花を買いに行っていたと答えた。一人でも寂しくないように、玄関に花を飾るの。両親に赤と白のミニブーケを見せたら、寂しくさせてごめんね、と言われた。

 書斎にはかすかな暖房の温もりが残っているだけで、そこに逢坂君がいたことは夢だったのではないかと思うほど、いつもと同じ見慣れた風景になっていた。積み上げられていた本も、きっちりと本棚に戻っている。
 逢坂君は結局、ソファに座らなかった。すん、と布に鼻を寄せてみるけれど、彼の香りはもちろんしない。そもそも私は彼の香りを知らない。当然だ。ただの一度も、彼に触れたことがないのだから。

【今日はありがとう。楽しかった。気が向いたら、また遊びに来てね】

 ガラケーの逢坂君に合わせて、メッセージアプリではなくメールを送る。拒絶された件については触れられなかった。理由を聞くのが怖かった。
 返事は意外にも、すぐに届いた。

【ごちそうサン。あと、悪かった】

 悪かった、ということは、少なくとも拒絶は本意ではなかったということだろうか。安堵感がどっと押し寄せる。
 ガラケーは半角カナが使えるんだね。なんだかかわいいね。いろんな言葉を打ち込んだけれど、読み返したら感情が丸出しになっていたから、すべて消した。

【こちらこそごめんね。おやすみなさい】

 メールを送ってスマホを置く。私は逢坂君に受け取ってもらえなかった紙袋から『人間失格』を取り出して棚に戻した。
 これは私が幼い頃、もう一冊同じものを持っているから、と父に譲り受けたものだ。当時はとても嬉しかったけれど、今日の逢坂君の顔を見たら、ただ書斎で眠っているよりも逢坂君に愛されていたほうが、この本も幸せだと思った。
 実を言うと、逢坂君には別のプレゼントを用意していた。
 デスクの下に隠しておいた紙袋の中には、革でできた黒のブックカバーが入っている。逢坂君が使っている紙のカバーはあまりにボロボロだから、と思って選んだのだけれど、思いがけずお母様の話を聞いてしまって、渡せなくなった。
 あの紙のカバーは、お母様からのプレゼントについていたものなのだろう。そうでなければ、物にも他人にも執着のない彼が、それを使い続けるはずがない。

 そろそろカメラがある場所に帰らなければ、両親が心配して連絡をしてくる。私の生活は規則正しい。私は寝る準備をして、二十三時五分前にベッドに潜った。
 あの人のツイッターは更新されていない。まさかまだ、先生と一緒にいるのだろうか。そうだとしたら、時野旅人の日記も更新されないだろうか。
 予想に反して、今日も時野旅人の日記は二十三時ぴったりに更新された。私はいつも待ちきれず、更新通知が届く前に時野旅人の日記を読みに行く。時野旅人の日記は今まで一度も、一分でも、更新が遅れたことはない。

 時野旅人の日記は、今日も最高だった。
 いつもならあの人のツイッターが更新されるまで寝ないけれど、もしかしたら今日は、朝まで更新されないかもしれない。それなら時野旅人の日記を読んだあとの、この幸せな気持ちのまま、いろんなことから目を瞑ってしまいたいと思った。
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