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第四章/出席番号七番・神林いずみ
(一)
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先生が時野旅人だと知ったとき、私は生まれて初めて陳腐なその言葉を口にした。
「先生は『運命』ってあると思いますか?」
タッチパネル式のリモコンで新曲一覧を眺めていた先生は、ぴたりと固まる。
「珍しいな、いずみが女の子みたいなことを言うなんて」
「ふふ、それは私が女らしくないってことですか?」
「まさか。いずみは女の子よりも、女性って感じだから」
先生は私の肩を抱き寄せる。私の何倍も固い素材でできた指が、私の髪を弄ぶ様を見ていると、女が髪を伸ばすのは男に撫でてもらうためなのだろうなと思う。
「運命、あると思うよ。じゃないといずみとの出会いに説明がつけられない」
先生はいつでも私がほしい言葉をそのままくれる。出会ったときからずっと、先生は私のサンタクロースだ。
私たちの恋には、多くの制限がある。けれど生徒と教師という関係については、取り立てて問題だとは思っていない。私が卒業するまでの間、青少年保護育成条例に反するような行動をとらなければいいだけのことだ。こうして学校から遠く離れたカラオケ店でなら、逢瀬も許される。
「いつもこんな場所でしか会えなくてごめんな」
私はなにも言わずに首を振る。すると先生は、
「いずみ、好きだよ」
囁き、キスをする。
うっすら目を開けると、ほの暗い部屋の中を、赤や黄や青の光の粒がぐるぐるまわっていた。それは修学旅行で先生と一緒に見た、熱帯魚の水槽の様子にとてもよく似ていた。私と先生が見た景色は、先生があの人と見ていない景色だ。
キスが次第に深くなる。私たちは誰の目も届かない、海の底へ沈んでいく。
どうしてK氏なの、とチナに問われたことがある。それが私にとって正しい答えだったからだよ、と答えると、チナはわかったような、わからないような顔をした。
私は幼い頃からテストが得意だった。特に、ア~オの中から正しい答えを選びなさい、という選択式の問題はほとんど間違えたことがない。それは人生も同じだ。
私はピンからキリまである高校の中で、最も偏差値が高い高校を選んで入学した。たくさんのガラス細工よりも、たった一つの天然石を大事にするチナを友達に選んだ。体育の授業中に貧血で倒れた私を保健室まで運んで、頑張りすぎるなよ、と言ってくれた先生を好きになった。
先生は遠巻きではなく私の目を見て話してくれるし、透けた下着にも鼻の下を伸ばさない。風邪を引いた先生に滋養物を差し入れすれば、こういうことをされると男は勘違いをするぞ、と真摯に諭してくれる。
勘違いしてほしいんです。そう言ったら先生は目をしばたいて、血管の浮き出た腕によく似合う、黒のG-SHOCKをいじりながら言った。
彼女がいるんだ。でも、ちゃんとけじめをつけるから。そのときは……。
「クリスマス、どこにも連れて行ってやれなくてごめんな。でも本当に仕事だから。あいつと会うわけじゃないし、そこは信じてほしい」
あの人の話をするとき、先生は苦しそうな顔をする。先生はずるい。私がしたい顔を、いつも先にしてしまう。
隣の壁から音程の外れた声で『バカにしないでよ~』と聞こえてきた。退室十分前を知らせる電話が鳴る。私から離れた先生は、もう出ます、と返す。先生の体温が、私の右半身から消えていく。
「じゃあ、私先に出ますね」
「あぁ、気をつけて帰れよ。いつも送れなくてごめんな」
私はなにも言わずに首を振る。
「先生、さようなら」
私は選択を間違えない。十年後の私は、先生にさようならを言わない。
先生と会った日の翌日は少し眠い。ブルーライトを浴びた目が、冬の乾燥した空気に触れてピリピリ痛む。
【去年のプレゼントは時計だったから、今年はマフラーかな。安く済むし(笑)】
【クリスマスは会えないって連絡きた。せっかくプレゼント買ったのに、最悪】
鍵付きのSNSは掃き溜めだ。化粧や美肌アプリでは誤魔化せない、あの人の汚い部分が詰まっている。
今日こそここに、フラれた、別れた、と書き込まれるんじゃないかと待ち続けて、気が付けば季節はひと回り半していた。先生が嘘つきだったら、あるいは時野旅人じゃなかったら、私は素直にこの選択が誤りだったと認めていたのだろう。
先生は私に、待っていてほしいだとか、約束じみたことは言わない。甘くて柔らかい言葉で私を縛りつけるだけ。本当にずるい人。けれどそのずるさに勝てないからこそ、私は先生が好きなのだ。
【やっと返事きた。今日も残業だったらしい。高校の先生ってそんなに忙しいの?】
【こーすけと付き合ってもうすぐ二年。最近好きっていわれてないなぁ】
残業じゃなくて私と会っていたんですよ。先生は本当に好きな人にしか好きって言わないんですよ。あの人が真実を知ったらどうなるだろう。先生との関係を大切にしたいのに、ときどき、衝動的に、全てをぐちゃぐちゃに壊してしまいたくなる。
そういうときはガムを噛むように、先生の言葉を反芻する。
いずみ、好きだよ。ちゃんとけじめをつけるから。そのときは……。
そうすると段々気持ちが落ち着いて、暴力的な感情は、また心の深いところで眠りにつく。
私は足にまとわりつく邪魔な枯れ葉をくしゃりと踏み潰して、校門に続く緩やかな坂道を上っていく。自分で自分の手をさすっても、指先は少しも温まらない。つま先の感覚は消えて、ローファーの中で石ころになってしまった。
それでも私は冬が好きだ。この厳しさを越えた先には、必ず暖かい春が待っているとわかっているから。
「先生は『運命』ってあると思いますか?」
タッチパネル式のリモコンで新曲一覧を眺めていた先生は、ぴたりと固まる。
「珍しいな、いずみが女の子みたいなことを言うなんて」
「ふふ、それは私が女らしくないってことですか?」
「まさか。いずみは女の子よりも、女性って感じだから」
先生は私の肩を抱き寄せる。私の何倍も固い素材でできた指が、私の髪を弄ぶ様を見ていると、女が髪を伸ばすのは男に撫でてもらうためなのだろうなと思う。
「運命、あると思うよ。じゃないといずみとの出会いに説明がつけられない」
先生はいつでも私がほしい言葉をそのままくれる。出会ったときからずっと、先生は私のサンタクロースだ。
私たちの恋には、多くの制限がある。けれど生徒と教師という関係については、取り立てて問題だとは思っていない。私が卒業するまでの間、青少年保護育成条例に反するような行動をとらなければいいだけのことだ。こうして学校から遠く離れたカラオケ店でなら、逢瀬も許される。
「いつもこんな場所でしか会えなくてごめんな」
私はなにも言わずに首を振る。すると先生は、
「いずみ、好きだよ」
囁き、キスをする。
うっすら目を開けると、ほの暗い部屋の中を、赤や黄や青の光の粒がぐるぐるまわっていた。それは修学旅行で先生と一緒に見た、熱帯魚の水槽の様子にとてもよく似ていた。私と先生が見た景色は、先生があの人と見ていない景色だ。
キスが次第に深くなる。私たちは誰の目も届かない、海の底へ沈んでいく。
どうしてK氏なの、とチナに問われたことがある。それが私にとって正しい答えだったからだよ、と答えると、チナはわかったような、わからないような顔をした。
私は幼い頃からテストが得意だった。特に、ア~オの中から正しい答えを選びなさい、という選択式の問題はほとんど間違えたことがない。それは人生も同じだ。
私はピンからキリまである高校の中で、最も偏差値が高い高校を選んで入学した。たくさんのガラス細工よりも、たった一つの天然石を大事にするチナを友達に選んだ。体育の授業中に貧血で倒れた私を保健室まで運んで、頑張りすぎるなよ、と言ってくれた先生を好きになった。
先生は遠巻きではなく私の目を見て話してくれるし、透けた下着にも鼻の下を伸ばさない。風邪を引いた先生に滋養物を差し入れすれば、こういうことをされると男は勘違いをするぞ、と真摯に諭してくれる。
勘違いしてほしいんです。そう言ったら先生は目をしばたいて、血管の浮き出た腕によく似合う、黒のG-SHOCKをいじりながら言った。
彼女がいるんだ。でも、ちゃんとけじめをつけるから。そのときは……。
「クリスマス、どこにも連れて行ってやれなくてごめんな。でも本当に仕事だから。あいつと会うわけじゃないし、そこは信じてほしい」
あの人の話をするとき、先生は苦しそうな顔をする。先生はずるい。私がしたい顔を、いつも先にしてしまう。
隣の壁から音程の外れた声で『バカにしないでよ~』と聞こえてきた。退室十分前を知らせる電話が鳴る。私から離れた先生は、もう出ます、と返す。先生の体温が、私の右半身から消えていく。
「じゃあ、私先に出ますね」
「あぁ、気をつけて帰れよ。いつも送れなくてごめんな」
私はなにも言わずに首を振る。
「先生、さようなら」
私は選択を間違えない。十年後の私は、先生にさようならを言わない。
先生と会った日の翌日は少し眠い。ブルーライトを浴びた目が、冬の乾燥した空気に触れてピリピリ痛む。
【去年のプレゼントは時計だったから、今年はマフラーかな。安く済むし(笑)】
【クリスマスは会えないって連絡きた。せっかくプレゼント買ったのに、最悪】
鍵付きのSNSは掃き溜めだ。化粧や美肌アプリでは誤魔化せない、あの人の汚い部分が詰まっている。
今日こそここに、フラれた、別れた、と書き込まれるんじゃないかと待ち続けて、気が付けば季節はひと回り半していた。先生が嘘つきだったら、あるいは時野旅人じゃなかったら、私は素直にこの選択が誤りだったと認めていたのだろう。
先生は私に、待っていてほしいだとか、約束じみたことは言わない。甘くて柔らかい言葉で私を縛りつけるだけ。本当にずるい人。けれどそのずるさに勝てないからこそ、私は先生が好きなのだ。
【やっと返事きた。今日も残業だったらしい。高校の先生ってそんなに忙しいの?】
【こーすけと付き合ってもうすぐ二年。最近好きっていわれてないなぁ】
残業じゃなくて私と会っていたんですよ。先生は本当に好きな人にしか好きって言わないんですよ。あの人が真実を知ったらどうなるだろう。先生との関係を大切にしたいのに、ときどき、衝動的に、全てをぐちゃぐちゃに壊してしまいたくなる。
そういうときはガムを噛むように、先生の言葉を反芻する。
いずみ、好きだよ。ちゃんとけじめをつけるから。そのときは……。
そうすると段々気持ちが落ち着いて、暴力的な感情は、また心の深いところで眠りにつく。
私は足にまとわりつく邪魔な枯れ葉をくしゃりと踏み潰して、校門に続く緩やかな坂道を上っていく。自分で自分の手をさすっても、指先は少しも温まらない。つま先の感覚は消えて、ローファーの中で石ころになってしまった。
それでも私は冬が好きだ。この厳しさを越えた先には、必ず暖かい春が待っているとわかっているから。
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