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第三章/出席番号二十九番・保戸田俊平

(四)

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 修学旅行は三日目を迎え、グループに別れて体験学習に向かう。
 マングローブを探検するカヤックや、乗船したまま海中の様子が楽しめるグラスボートなど、いくつかコースがある中で、俺は一番ハードなダイビングの体験を選んだ。
 トーマがそれなら俺もそれにするわ、と言って決めたのだけれど、内心はこれならトーマより目立てるかもしれないという思いがあった。小学生のころに水泳を習っていたから、泳ぎには自信がある。だから修学旅行で一番気合いを入れていたイベントのはずなのに……どうしても気分が上がらなかった。

 講習を受けて、いざ海に潜っていく。ボートの縁に腰掛けて、背中からどぼん、と落ちたときは、海に吸い込まれるような感覚に驚いてバタついてしまった。情けないけれど、インストラクターに手を握ってもらって心底ほっとした。そのまましばらく引率に任せて、いよいよ手が離される。

 無重力の中で、たゆたう流れに身を任せた。終わりが見えない海の景色は、宇宙から見た地球のイメージそのものだった。
 あぁ、これは『青かった』って言いたくなるわ。俺はいま地球に抱かれているんだな。そんなポエムな言葉が浮かんだ自分を恥ずかしいと思う余裕すらないくらい、俺は圧倒的な青色に魅了されていた。

 女子にいいところを見せようと、最初は泳ぎの格好ばかり気にしていたのに、気が付いたら潮の流れに身を任せていた。見た目は決してカッコよくない、クラゲのようになっていたかもしれない。けれど流れに逆らって泳ぐよりも、それはずっとずっと楽だった。
 あー、人生もこれくらい自由で、うまく扱えたらいいのになぁ。
 自分の口から、ぶくぶく、ぶくぶく、と上がっていく泡を見つめながら思う。口から出て行く呼吸のように、ありのままの、プライドや意地に縛られない言葉を選べたら、どれだけ楽になるだろう。

 本当は、トーマみたいになりたいんだ。
 本当は、家族に名前で呼んでほしいんだ。
 本当は、女子とも仲良く話したいんだ。
 本当は、みんなに認めてもらいたいだけなんだ。

 魚はいいなぁ。面倒なことばかり考えてしまう脳なんて、なくなってしまえばいい。
 俺、生まれ変わったら魚になりたいな。できれば長男の。魚にきょうだい制度があるのかは、この際考えないことにする。
 ボートまで上がると、たまたまトーマも上がったところだった。トーマはマウスピースを外してぷはっ、と息をする。

「俊平すごいなっ、潜るの超うまいな!」

 トーマは肩を揺らしながら、興奮した様子で言った。ぎょっとして、俺もマウスピースを外す。

「え、俺うまかった?」
「超うまかったよ! コツが掴めなくてジタバタしてる俺の横を、俊平がすーって追い越していったんだけど、その俊平の背中を追うように魚が泳いでいってさ! なんか俺、感動しちゃったよ!」

 じん、と鼻の奥が痛くなった。海水が入ってしまったのかもしれない。俺はバシャバシャと顔を洗い、大きく息を吸った。

「だろーッ!? もしかして俺、ダイビングの天才だったりして? うわやべっ、海水が目に入った! いってー!」
「あはは、なにやってるんだよ俊平! カッコよかったのに台無しだぞ!」

 カッコいいのはお前だよ、トーマ。
 俺はもう一度顔を洗って、ボートの階段に足をかける。海を出た途端、ずしりと重力が身体にのしかかった。
 これが地上だ、現実だ。ここは海の中のように自由ではない。自分の足で立たなければならない。どんなにしんどくても、うまくいかなくても、前を向いて歩いていかなければならない。
 ああ、現実は本当にだるい。

「俊平、大丈夫か?」

 ボートの上から、トーマが俺に手を差し伸べる。

「トーマ、昨日、言いそびれたんだけど」
「ん?」

 俺はトーマの手を取った。

「おめでとう。フラれた奴の分まで、幸せになれよ!」

 鼻声になっていなかっただろうか。いつものように、ひょうきんに言えただろうか。
 トーマは少し驚いたような顔をして、サンキュ、と鼻をこする。

「でも俺、誰もフッてないけど?」

 思わずぶはっ、と吹き出した。さすがは黒子、全然気付いてもらえてねぇ。本当、かわいそうな奴だ。
 かわいそうで仕方がないから、また本を借りに行ってやろう。それでまた、あの長ったらしい説明をしてくるようなら、こう言ってやろう。
 うるせーな。もう、借りパクなんてしねぇよ。
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