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第二章/出席番号三十四番・本宮千波

(四)

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 文化祭ではお母さんの浴衣を着ることにした。古典柄なんて地味で嫌だったけど、こういう清楚な感じが男は好きなのよ、というあまい言葉に乗せられて着てみたら、死ぬほど似合わなかった。
 たくちゃんとはしばらく会う約束はないし、と一時的に黒髪にして着てみた。まぁ、見られるくらいにはなった。キスマークもいつの間にかなくなっていたから、せっかくなのでいずみに髪を結ってもらった。

「うわっ、本宮さんめっちゃかわいい! てか黒髪のほうがいいよ!」

 ペンキの一件以来、なぜかクラスの女子からよく声をかけられるようになった。女子のかわいいには信ぴょう性なんてこれっぽっちもないけれど、声をかけられるのは、思ったよりも嫌じゃなかった。
 いずみ考案の、こぼれたペンキをうまく利用して作った『縁日なのにお化け屋敷風の血塗れ看板』の前で、クラスの女子と写真を撮った。チナ、楽しいね。いずみの言葉に素直にうん、と頷く自分が少し照れくさかった。

「いや、反則。むりむり直視できない」
「あんたが浴衣着てほしいって言ったんじゃん」
「だってまさかの黒髪だし、髪上げるのはもっと反則……」

 うろたえる中辻トーマをかわいいと思ってしまうあたしは、いよいよやばい。
 あたしたちは『血塗れ縁日』の手持ち看板を持って、賑やかな校内を練り歩く。ペンキの一件以来、見事にクラス公認の仲になってしまったけれど、以前のようにいかがわしい関係での噂ではなくなったので、まぁ良しとしよう。

 途中、あのマネージャーとすれ違った。せんぱぁい、甚平カッコいいですぅ! 一緒に写真撮ってくださぁい! そう言ってあたしにスマホを寄越す。マネージャーは中辻トーマの腕に手を回した。
 さすがに近くない? 呆れつつ写真を撮る。すると中辻トーマは、ついでに俺と本宮さんの写真も撮って、と今度は自分のスマホをマネージャーに渡した。マネージャーは写真を撮ったあと、先輩、趣味悪いですねー、ととんでもな捨て台詞を残して去っていった。
 せんぱぁい、が先輩、になったことも気が付かない中辻トーマは、俺のスマホケースそんなに変? と頓珍漢なことを言った。これにはさすがに吹き出した。

「うん、俺も本宮さんは黒髪のほうがかわいいと思う」

 中辻トーマは写真を見ながら言う。その写真送って、と言いたくなったけど、言えなかった。素直スキルを持っているマネージャーが、少しだけ羨ましくなった。
 文化祭二日目は一般公開日だ。アカ高への受験を考えている中学生、保護者、友人、恋人。老若男女で校内はいっぱいになる。学校が学校なので、教育委員会のお偉いさんなんかも来るらしい。
 お母さんが仕事で来れないことを残念がっていたから、クラスの女子と撮った浴衣の写真を送ってあげた。たくちゃんにも送ろうかと思ったけど、今日も大学の人と遊んでるだろうから、後で送ることにする。

「チナ、ゆんゆんが来てる」
「えっ!? うそ、どれ?」

 いずみは大学生と思しき女性二人組の、ショートカットの方の女性を指差した。
 初めて見る生身のゆんゆんは、いずみに見せてもらった自撮り写真の三割減といったところで、贔屓目なしに見てもいずみのほうがかわいかった。何倍も。というか、いずみがいるのに彼女を呼ぶK氏の神経が理解できないんですけど。

「優子!? え、お前なんでいるの!?」
「えへへ、来ちゃった。こーすけが頑張ってるところ見たくて」

 前言撤回、どうやらゆんゆんが勝手に来たらしい。
 ゆんゆんの登場に、教室は大いに盛り上がった。こーちゃん彼女いたの!? ちょっとかわいくね? などなど、好奇の目を向けられたゆんゆんは困ったように微笑む。

「はい、彼女です。いつもこーすけがお世話になってます」

 うわ、嫌な女。そう直感した。K氏も「まったくお前は仕方ないな」じゃねぇよ。
 教室に来ればこうなることはわかっていただろうし、むしろそれが狙いなのだろう。キラキラした女子高生がK氏に惚れないように、自分の存在を植え付けて牽制する。いずみはどうするんだろうと思っていたら、まさかのK氏の隣に立った。

「初めまして、神林いずみと申します。滝田先生には、日頃から体育委員でお世話になっています」

 いずみの完璧なその挨拶に、恐らくK氏とあたしだけが怖さを感じていた。いずみは怖い。怖いくらいに、強くて美しい。
 ゆんゆんはいずみの牽制返しに気付いただろうか。わぁ、そうなんですねーと気の抜けた返事をしていたから、まったく気付いていないかもしれない。なんにせよ、容姿も対応も全て、直接対決の軍配はいずみに上がった。

 文化祭が終わってみんなが写真を撮ったり、片付けをしたりする中、いずみはK氏のところに行っていた。ゆんゆんのことを話し合うのだろう。とても冷静に。
 この学校で誰よりもいずみと仲がいい自負があるけど、いずみはあたしにも決して隙を見せない。それはいずみの素がすでに完璧であるということの裏付けだ。たとえばいずみは、真夜中の誰もいない道を歩いていたとしても、大口を開けてあくびをしたりしない。そういうイメージを絶対に持たせない。
 だからいずみがいつもの階段にあたしを連れて行って、やってしまった、という顔をしたときは、心の底から驚いた。

「先生とキスしてるところ、逢坂君に見られた」

 はぁッ!? 思わず声を出してしまった。

「うそっ、なんっ……」
「迂闊だったの。誰もいないと思って図書室の書庫にいったら、逢坂君がいて……」

 いずみの口からウカツという言葉が出ること自体、信じられなかった。

「会話も聞かれたの?」
「うん、ちょっと盛り上がっちゃって。気付いたらそこにいて、邪魔だからよそでやれって」

 あんたら学校でなにしてんのよ、と思ったけど、いずみが盛り上がっちゃってるところを想像したら、不謹慎ながらもきゅんとしてしまった。

「逢坂って、いずみの前の席の根暗っぽいやつだよね。なら大丈夫じゃないかな、あいつ、あたし以上に友達いなさそうだし!」

 少しでも安心させてあげたくて、大げさにフォローを入れた。いずみも、そうだよねと表情を明るくする。そしてしばらくは様子を見よう、という結論になったところで、「あのぅ」と声をかけられた。

「お二人とも、打ち上げの話があるから教室に集合って、中辻君が……」
「あぁ、ありがとう。えっと……巻島さん?」

 内心バクバクしながら言うと、巻島莉歩は頭を下げて去っていく。いずみに今の聞かれてないよね、と耳打ちすると。

「怖い子」

 そう言った。あたしには神出鬼没な巻島莉歩より、いずみの含みのある笑みのほうが、ずっと怖く思えた。




 中辻トーマと数人の女子の押しに負けて、あたしは渋々打ち上げに参加した。中辻トーマが予約していたらしいカラオケルームで、ドリンクや軽食を楽しみながらバカ騒ぎをする。
 進学校の生徒である以上、間違っても補導されてはいけないので、二十二時にはきっちり解散した。こんなにもスマホが気にならない日は、高校に入って初めてだったかもしれない。
 いろいろあったけど、文化祭は、まぁ楽しかった。だからあたしは、あたしが思う以上に、浮かれてしまっていたんだと思う。

「チナ、なんで黒髪にしたの?」

 もしかしたらたくちゃんも、黒髪のほうがかわいいって言ってくれるんじゃないか。そう少しでも期待したあたしがバカだった。
 たくちゃんは、中辻トーマじゃないのに。

「文化祭で浴衣を着てね。茶髪じゃ似合わなかったから、仕方なく黒髪に……」
「写真」
「え?」
「写真、見せろよ」

 楽しかった思い出の話ができると思っていた数秒前までの自分に、氷水をぶっかけてやりたい。
 車内の薄暗さの中でもわかるくらい、たくちゃんの眉間にはくっきりしわが寄っていた。言われた通り、写真フォルダを開いてたくちゃんに渡す。
 中辻トーマとの写真をもらっていなくて、本当によかった。

「楽しそうじゃん」
「うん、ぼちぼち。でもみんなガキ臭くて、やっぱり話合わないけどねー」

 動揺を悟られないために、それとなくリップを塗ろうとしたのに、手が震えてうまく引けない。大丈夫、たくちゃんの沸点はよく知っている。とにかく曖昧にしないこと。
 たくちゃんはしばらくあたしのスマホをいじっていた。過去の写真も見てるのだろう。大丈夫、グループトークに挙げられていた打ち上げの写真は保存していないし、中辻トーマに繋がる情報は写真には一切入っていない。

「で、なんでロックかけてんの?」

 向けられた画面に肝を冷やす。緑色のトークアプリ画面には【パスコードが間違っています。もう一度最初から入力してください】と表示されていた。

「それ、前からかけてるよ。落としたときに悪用されたら困るし」
「嘘つくなよ。前はかけてなかっただろ」
「……なんで知ってるの?」

 たくちゃんは答えない。

「今まで勝手に見てたの?」
「話すり替えんじゃねぇよ。俺に見られなくないトークでもあんのかよ」
「そうじゃないけど、でも」
「じゃあなんでロックかけてんだよ!」

 びり、と鼓膜が震えた。過去の記憶が警鐘を鳴らす。これは、まずいパターンだ。

「それから、この『オープン・ダイアリー』ってやつもなんだよ。俺に隠れて日記でも書いてんのか?」
「それはダメッ!」

 たくちゃんの腕に咄嗟にしがみついた。やってしまったと思ったときには、もう遅かった。

「男か。男と交換日記でもしてんのか」
「違うよ! それはクラスの企画で、十年後の自分を想像する、宿題で……」
「あ? わけわかんねー嘘ついてんじゃねーよ!」

 どん、と肩を押されて、肘に鈍い痛みが走った。たくちゃんは来いよ、とあたしを後部座席に連れ込もうとする。

「やだっ、怖いよたくちゃん」
「おめーがわりぃんだろ! コソコソ男と連絡取りやがって!」
「やだぁ、痛いのは嫌だよ!」
「っせーな、騒ぐな! 周りに聞こえんだろ!」

 頬を叩かれた。いやだ、といくら言っても聞いてくれない。
 どうして力で敵わないんだろう。どうしてたくちゃんには口で勝てないんだろう。どうしてたくちゃんはあたしの話を聞いてくれないんだろう。泣いているのに、たくちゃんはあたしを見てくれない。あいつみたいに、涙を拭いてくれない。
 必死に抵抗したけど、もう無理だと思って喚くのをやめた。たくちゃんはあたしを後部座席に引きずり込むと、壁に押し付ける。後頭部と肩にゴツン、と鈍い衝撃が走って顔を歪めた。たくちゃんはそれでも止めてくれない。

 コンコン、と窓をノックする音がした。運転席の窓には中年の男性が立っていて、「何事ですか」とくぐもった声が聞こえた。たくちゃんはなんでもないですよ、痴話喧嘩です、とよそ行きの笑みを浮かべる。男性はあたしをちらりと見て去って行った。
 男性がスマホで電話し始めたのを見て、たくちゃんはチッ、と大きな舌打ちをする。

「くっそ、めんどくせーな!」

 たくちゃんは車を急発進させた。あたしはぐずぐずと泣きながら、けれど冷静に、震える体を動かしてシートに転がっているスマホを手に取る。

「帰んぞ。母親は?」
「や、夜勤……」

 見つかったら殺されるかもしれないという恐怖と闘いながら、トークアプリを開く。なんとか一通のメッセージを送信した。
 マンションの前に着いたのは二十三時ちょうど。たくちゃんは無言でタバコを吸っている。もう一方の手で、ハンドルをトントントン、と叩く音が響く。
 あたしは車を降りると、痛む肩を抑えながら言った。

「たくちゃん、別れよう」

 あ? と返されるまでの間の長さで、たくちゃんの苛立ちの度合いがわかった。
 けれどここで引いたら一生後悔すると思った。このままだといい加減、あたしがかわいそうだと思った。

「あたしは、ガキだから。たくちゃんに釣り合う女にはなれないみたい」

 たくちゃんはエンジンを切って車から降りてきた。おい、ふざけんなよ。たくちゃんは肩をどつく。あたしは自分の体を抱き締めて、震える唇を噛んで、耐える。その姿は、たくちゃんを更に苛立たせるとわかっていた。

「あたしは、あたしを、殺したくないの」

 わけわかんねーこと言ってんじゃねーよ。ひときわ強くどつかれて、ついに尻もちをついてしまった、そのとき。

「千波!」

 お母さんがマンションの入り口から飛び出してきた。真っ青な顔であたしの顔を覗き込むお母さんに、ナイスタイミング、と笑いかける。お母さんはたくちゃんの前に立った。

「恥を知りなさい」

 お母さんは車の運転席に乗り込むと、キーと、たくちゃんのスマホを取り上げる。

「大事な娘の一大事に、仕事なんか行ってられるもんですか」

 お母さん、それは社会人としてどうなの。けれどもしかしたら、私がほうほうの体で送った【お願い家にいて】のメッセージを見て、すぐに職場に連絡をしてくれていたのかもしれない。
 お母さんはたくちゃんに家に入るように言う。大丈夫、駐禁切られたら私が払ってあげるわよ。堂々たるその姿に、あたしの友達は本当にかっこいいなぁとまた笑った。

 蓋を開けてみたら、あたしはなんでこんな人のために頑張っていたのだろうとバカバカしくなった。たくちゃんは浮気をしていた。それもあたしと付き合い始めたころからずーっと。
 お母さんが、私たちの目の前でスマホのトークを開きなさい、って言ったときの、たくちゃんの消え入りそうな「はい」は傑作だった。それだけで、今日の痛みは全部チャラになった。
 お母さんにこってり絞られたたくちゃんは、もう二度とあたしに近づかない約束をして、運良く駐禁を切られなかった車に乗って帰って行った。お母さんは治療費もぶん取ってやればよかったわ、と言いながら、青くなったあたしの肩を冷やしてくれる。

「男が女を束縛するのは、往々に自分にやましいことがあるからなのよ。自分がするから相手もするだろうっていう不安の現れなのよ。勝手よね、男って」

 その夜、あたしは中辻トーマにメッセージを送った。別れた、そのひと言だけ。
 朝になったら、中辻トーマはこれを見てどんな反応をするのだろう。驚いてベッドから転げ落ちたりして。それか、大丈夫だった? とか心配してきたりして。
 あたしは明日の中辻トーマを思い浮かべながら、身を挺して守った日記を更新した。


◆九月十九日『毎日のこと』

 子供と一緒に、三人で公園に行って、砂場と滑り台で遊ぶ。
 家に帰って、一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、川の字で寝る。
 喧嘩をしたら、ごめんと謝って、優しくしてもらったら、ありがとうと言う。
 あなたとだから、こんな毎日が過ごせるんだね。
 私を日陰から救ってくれて、ありがとう。

◆ハンドルネーム/ルイ

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