マドノアシ

ルルオカ

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マドノアシ 2

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自分のまるきり趣味なバラエティを見ながら、夜通し近く話を咲かせたくせに、名前さえまだ聞けていなかった。段階をすっとばして打ちとけてしまうと、あらためて自己紹介しにくものなのか、その後も真夜中に逢引しつつ、互いの名前も知らないままでいる。

彼は表札を見て知っているかもしれないが、呼ぼうとはしない。そのせいもあって、誠二は名前を聞きだせなかったのだが、さほど不便とも思わずに、「マドノアシ」とあだ名をつけて、腹の中だけでそう呼んでいた。はじめて目にした、夜空に浮かぶ、窓からつきでた白い足が彼を象徴しているように思えたからだ。

バイト帰りに通りがかると、窓から足が出てきて、道路まで降りてきたところで誠二のマンションへ、というパターンは毎度同じ。誠二がシャワーを浴びた後は、マドノアシが寝ていれば背中をあわせて横たわり、テレビを見ていたらお茶のコップを二つ持って隣に座った。

ひとつの布団に入ったり、テレビに向いて肩を並べたり、至近距離で彼を見ても、いつも前髪が顔を半ば覆っているせいもあって何歳くらいなのか見当がつかない。名前をはじめとして、年齢などの素性もてんで知れないどころか、想像もつきにく相手に緊張も警戒もしないのに誠二は我ながら呆れつつも、とくに問題なくつきあえているのが現状だ。

なんなら、マドノアシと会うようになり、長く悩まされていた睡眠不足が解消するなんて、思いがけない恩恵まで受けている。ベッドに入れば、いざ夢の世界へ。テレビを見ていても必ず途中で寝てしまい、その寝起きもまた悪くない。朝にはマドノアシがベッドにいないのに、やや心もとなさを覚えつつも、清清しい日の光に目を細めて、朝だなあと、当たり前のことに感じいっている日々。

日の匂いを胸いっぱいに吸って伸びをするような、まともな目覚めを、ここしばらくしていなかった。深夜から朝までろくに眠れずに、一日がリセットされた感覚がないままベッドからゾンビのように這いでて、ふらつきながら登校をしていた。眩暈を起こしつつ何とか学校についたところで、寝るというより、意識を失うように机に突っ伏して下校するまでのほとんどの時間を過ごす。「学校はホテル代わりか?」と教師のため息を絶えさせなかったものだが、マドノアシと過ごすようになってからは起きている時間が長くなり、そうしたらしたで教師に不審そうに見られたもので。

もちろんクラスメイトからも奇異に見られ、うち一人が休み時間になって「バイトやめたんか」と聞いてきた。寝ないで過ごす休み時間を持て余し、窓の外を見やっていた誠二は顔を上げ、眉をしかめてみせた。にきびの赤い跡が痛痛しい宮田が、人懐こい犬のような垂れ目で見下ろしている。

地元の中学あがりの生徒が多い中、寝てばかりいることもあって、余計に教室で浮いている誠二を、やはり地元民の宮田は何かと声をかけ、気にかけてくれていた。もともと人懐こい上に、学校の生徒は顔見知りばかりとあって、冗談でなく友達百人でもいそうなのに、だ。一匹狼気取りの面倒な相手に、わざわざ、かまける理由は分からなかったが、無視したり避けたりするのも煩わしかったので、声をかけてくる以上、誠二はそれなりに相手をしていた。

前に「なんで、お前いつも寝てんの?」と聞かれて「夜遅くまで働いているから」と応えたことがあるので、宮田はバイトについても知っていた。未成年で夜遅くまで働くのは問題だし、バイト先が先なだけに学校に知れるのはまずい。とは、考えずに、相手の口の固さを見こんだわけでもなく誠二は打ち明けたのだが、そりゃあ宮田は開いた口が塞がらなかったようだ。

「お前、そんなこと迂闊に人に言ったらあかんやろ」と質問してきた相手に諭されるほど呑気な誠二とはいえ、親との約束の一か月分の生活費は何がなんでも稼がなければと、肝に銘じている。だからバイトを辞めるわけがないと、訴えるように宮田を見やれば、何か察したのか、それ以上追求してこず、代わりに「やったら、彼女でもできたんか?」と言われる。またもや見当違いの指摘に、でも、なぜだかテレビを見ているマドノアシの猫背が思いだされて、誠二は目を泳がせた。かかったとばかり、宮田が机に手をつき乗りだしてきたものを「宮田あ!」と響いてきたのに、すかさず廊下のほうに向いたので、その隙に机に突っ伏した。

彼女については誤解だ。かといって、誤解を解くためにマドノアシのことを話したくはなかった。なので、宮田がしつこく追及してきても狸寝入りを通そうと思ったのだが、心配せずとも「教科書貸してえ!」と張りあげられた声に、ため息をひとつ、頭上の気配は遠ざかっていった。「お前、一限のときも来たやろ」と頭が痛そうに宮田は言い「ついでに、つうか、先に一限の教科書返さんか」とまた、ため息を吐くも「宮田は今日、その授業ないんだから別にいいだろお?」とへらへらとしたように返ってくる。さらには「今日ない授業の教科書、たまたま持ってたからって偉そうに」と。

「ああ?貸してもらっておいて、お前こそよお偉そうに言えるな?そんな奴に貸す教科書はねえ。さっさと帰れ」

「やだね貸してもらうまで帰らないし。俺、今、うんこしたいし。このままだと、お前のクラスでうんこ漏らすけどいいの?先生来たら、お前のせいでうんこ漏らしたって言ってやるよ?しかも、お前も知ってのとおり、俺は万年下痢気味だらかなあ!」と自慢にならないことを、クラス中どころか廊下や隣のクラスまで響かせるように訴える始末。

小学生並、いや小学生も引くような品の欠けた物言いだったが、周りは笑いを漏らしていて迷惑がったり鬱陶しがっているようでない。宮田も別に怒っているわけでないらしく「あーもう、分かった分かった」とあっさりと引きさがり、少しして廊下のほうに足音を鳴らしていった。「あっりがとー。お礼に渾身のパラパラマンガ描いとくから!」と懲りずに茶化してくるのに「やめえ!この前うっかり見て、授業中噴きだしたんやからな!」と怒鳴りながらも打てば響くように反応しているあたり、宮田と相手は勝手知ったる仲なのだろう。

それにしたって、高校生にまでなって「うんこ」とはなと、誠二は呆れたものの、何故だか甲高い阿呆っぽい声を初めて聞いたようには思えなかった。二人のやりとりからするに、相手のほうは頻繁に宮田を訪ねてきているようなので、寝ている間にも、その声が耳に馴染んでしまったのかもしれない。ただ、顔を思い浮かべられず、声から連想もできない。気になって、すこし頭をそらし拝見しようとしたところ「万年下痢気味なのは、人に言えない理由でもあんじゃねえの!?」と別方向から声があがった。

野次のような響きに、それまで和やかだったクラスのざわめきが、頬を打たれたように静まる。にわかに場の空気が白けたことに誠二は息を飲んだものを、声の主は怯むどころか、揚々として言い放ったことには「男は中出しされると、腹下すらしいしな!」と。

「な」と誠二は顔を上げた。そして発言者ではなく、とんでもない侮辱をされた相手のほうに目を釘付けにした。教室の出入り口に立つ、前髪をちょんまげにしてブレザーの下にピンクのパーカを着こんでいる彼が「うんこ発言男」なのだろう。耳にピアスを開け犬の首につける鎖のようなネックレスをかけているなど、品のない格好といい、恥ずかしげもなく「うんこ」と連発する姦しさや幼稚さといい、物静かで理知的な雰囲気のある彼とは似ても似つかない。はず、なのに。

「うんこ発言男」を見つめたまま、すっかり呆けていた誠二は「おいおい」と声がしたのに我に返った。見やれば宮田が顔をしかめて問題発言をした相手に、犬をしっしっと払うように手を振っている。

「朝っぱらからホモネタは勘弁せえや。ただでさえ、こいつの下ネタで腹いっぱいなんやから」

気色ばんだ相手が身を乗りだすのより先に「腹いっぱい!?」と廊下のほうから黄色い声があがる。「お前、下ネタとホモネタで腹満たされんの!」とよくもまあ、「うんこ」と口にして憚らなかった人間が、頬を両手で包みこんで恥らってみせている。庇ってやった仕打ちがそれでは、さすがに宮田も我慢ならなかったらしく「うっさいな!」と廊下に振りむくと「さっさとうんこしてこいや!この下痢糞野郎!」と思いっきり罵声を響かせた。

冗談でなく怒っているようだったが、なんだかんだ「うんこ」と口走ってしまったし、相手が逃げながらも「うんこって言った!」「うんこ言った!」と廊下に高らかに笑い声を響かせていったこともあり、やれやれといったように周りは苦笑をする。

クラスのほとんどが、大事にならずに済んだことに胸を撫で下ろしたようで、一方で問題発言した相手は聞こえよがしに舌打ちをして、もう少しで休み時間が終わるにも関わらず教室を出ていってしまった。取り巻きらしい二人が、その後を追っていったとはいえ、他の生徒は何事もなかったように話したり笑ったりして、宮田もつい先に激昂したはずが、気の抜けた顔をして頭をかきながら誠二のほうに振りむいた。

のも、つかの間、頭をかく手をとめて、不審そうに見てきた。誠二がもう誰もいない廊下に向いたまま、いまだ放心していたからだろう。「あいつ」と呟きかけたものを、寄ってくる宮田に気づいて口をつぐむ。聞こえたはずの宮田は、でも問いつめることなく「ほんとお前、学校では熟睡してるんやな」と変に感心するように言った。

「でも、別に学校のことに興味なかったわけやないんや。やったら、教えたろうか」

「美希んこと」と言われて、誠二は伏せていた目を見開き、宮田を見やった。「美希」と聞いて一瞬女か、と思ったのもあるし「教えたろうか」の言いようが、やや耳障りだったせいもある。そんなに彼を見過ぎていただろうかと、口元を手で覆い、視線をそらした誠二にかまわず「今日、放課後、なんか予定は」と宮田はそっけなく聞いてくる。首を横に振れば「じゃ、放課後、屋上で」と誠二の机を横ぎりながら言い、自身の机の元にいってしまった。

宮田が机についたところでチャイムが鳴り、周りも着席していって、椅子の鳴る音が騒がしい。そのざわめきを遠くにいるように聞きながら、誠二はしばし、まとまらない思考を持て余していたものを、頭を勢いよく振って教室の出入り口のほうを見やった。

鬱陶しいほどに存在感があったからに、その残像が今も見えるようで眉をしかめつつ、つい目を凝らしてしまう。見間違いだったのだと、自分をなんとか納得させようとしたが、思いだすにつれ、確信は深まっていくから訳が悪い。そもそも、きちんと顔を見たこともないし、声音や立ち居ふるまいにしたって、まるで重なるところがないのに。

残念ながら、「うんこ」と嬉々として連呼していた彼は、マドノアシに違いがなかった。


※  ※  ※


宮田と、マドノアシこと美希と、教室でホモネタを披露していた悟は、ここらでは知らぬもののいない名士の鷹屋家の血縁だという。鷹屋家は明治からつづく貿易商の老舗で、今は美希の父親が四代目になっている。悟は、四代目の弟の息子、宮田は末の妹の息子で、いとこ同士なのだそうだ。

「俺の苗字が違うんは、そ、こってこての関西弁からしてご察しの通り、訳ありやねん。おかんは名士の家のお嬢さんなんて、呼ばれるんのを嫌がる面倒な人でな。やから、大学進学きっかけに家を離れて、就職も結婚も出産も本家に知らせんで、こっそりやった。

でも、俺が中学にあがるころ、親父に浮気されて家を飛びだした。しかも、会社の金、横領してたんがばれて首になるは、その金を浮気の女にほとんど貢ぎこんでしもうたわで、親父は一文なし。慰謝料や教育費は望めんし、そもそも離婚もしてない。金の援助は求めんから、代わりに苗字だけ残させて欲しいっておかんが言っいよってん。俺を抱えてちゃあ、本家を頼るしかなかったけど、よほど元の苗字にもどりたくなかったんやな。

今も本家には住んでないし。まあ、不動産もやっている本家様様のおかげで安くマンション借りさせてもろとるけど。つっても、世話になっている以上は年に数回は本家に顔を出さなきゃいかんわけ」

深呼吸をしながら、伸びをしたくなるような陽気さにそぐわず、屋上の柵に寄りかかる宮田の表情には、らしくなく陰りがある。実家を疎んじる母親の影響もあるのだろうし、普段の言動からして庶民的に見える宮田には、本家とか名士とか堅苦しい肩書きは肌に合わないのだろう。

頭の隅でそんなことを考えつつも、誠二もまた内心、穏やかではなかった。早々、双子説が消えてしまい、頭の整理がつかないまま「うんこ」と叫びつづけていた男が、名家の主人の息子、しかも次期跡取かもしれないことを知らされれば、頭の混乱が極まるというもの。何も言えないでいる誠二に気づき、苦笑した宮田は「あいつも、俺に劣らんで、ややこしい生い立ちしとるから」とグランドのほうに向いて遠い目をした。

「美希は、養子や。でもって、もともとは本家の家政婦やった、希代子さんの私生児やねんて」

夜に接する彼を思い出すに、多少の事情を抱えているだろうことは察しられた。ので、養子のことについては、誠二は動揺するどころか、腑に落ちたほどだった。普通なら驚くところなので、誠二のその反応は不審がられそうなものだが、気づいていないのか、関心がないらしい宮田は、見向きもしないで話しつづける。

「俺も、ここに引っ越してきてから人づてに聞いたから、そこらの奴らが知ってるレベルと大差ないけどな。希代子さんは、前の三代目、俺のジーサンのお気に入りやったらしい。あまり愛想がなくて、口数が少ないのがかえって良かったとかなんとか。

やから、身籠って家政婦を辞めようとしたとき、ジーサンが引き留めて、生まれてきた子供の面倒まで見たて。というのは、表向きの話で、すんごいキレーな人やったんやと希代子さん。まあ、口を閉じて、しおらしくしてる美希を想像したら、そりゃそうやろうなとは思うけどな。そんな美人親子を当主がやけに目をかけてたともなったら、それは、ほら、陰では美希がじーさんの子なんやないかって言われるわけや」

頬を歪めたら、宮田が横目に見てきて微かに笑った。誠二が不快そうな顔をするのを、面白ろがっているようで「それどころか」と目を細める。

「俺の叔父さんに当たる今の四代目と、その弟も怪しいって話や。父親と息子二人の三つ巴なんて、ゴシップ好きには堪らんネタやけどな。ここらの人間は、ここらの地域におる限りは滅多なことを口にせえへん。なんたって、ジーサンの奥さん、バーサンが鬼のように恐いからな。

それでも、ジーサンの目が黒いうちは美希に手出さんかったんやけど、ジーサン死んだとたんにバーサンの奴、遠い親戚にやろうとした。それに待ったをかけたんが、四代目のオジサンや。ちょうど、自分には息子がいないからて」

一旦、息をついたところで、気がつけば誠二は「いい迷惑だな」と言っていた。宮田は目を見開き、仏頂面の誠二をしばし見ていたが「いや、もっと、ややこしいんやこれが」と肩をすくめてみせる。

「でも、跡をつがせるつもりはない。弟の息子、悟につがせるって、約束しおってん。なんなら書面に残してでもええから、引きとりたいとまで言いだしたんや。理由としては、希代子さんに自分は世話んなったから、その恩返しをしたいて。いいこと言うてるようで、もともと変な噂があるから意味深やろ?跡継ぎにしたいって思惑があるほうが、分かりやすくて、いいってわけ」

マドノアシと「うんこ発言男」が同一人物なことを、いまだに疑っている上に、昼ドラじみたお家事情など聞かされても、親身に耳を傾けられない。ただ一点だけ、気になることがあって「その家政婦の希代子さんは?」と聞けば「ああ、死んだて。美希を生んですぐに」と身内のはずの宮田も、他人事のような口ぶりで言う。

「そうそう、そこがさらに話をこじらさせてんねん。希代子さんの気い、引こうとして、美希の面倒を見るいうんなら、まあ、これも分かりやすいあたりは、まだええやろ?でも、希代子さんはもうおらんし、美希は希代子さんそっくりの顔をしとるときてる。そのあたり、邪推する奴なんかは、四代目は美希を希代子さんの代わりにしようとしているんやないかって、言ったりな」

肩を揺らして宮田が笑うのは、噂を立てる相手を馬鹿にしてのことだろう。そうと分かっていても、眉をしかめずにはいられずに「あいつは、その、美希というのは平気なのか」とぎこちなく言えば、笑いとばすように「いやいや、今朝のあいつ見たやろ?」と。

「いくら顔良おても、あんな残念な性格しとるから。口きかんときゃ、まだ品よく見えるんに一秒でも黙っとられん奴やし。言うこともやることも、チャラくてかるくヤンキー入っているときたもんで、実際のあいつを見たらそんな噂、アホらしって皆、思うわ」

確かに夜はともかく、日中の彼が名家の男どもを狂わせた魔性の女の血をひいているようには、とても見えない。いや、だったらと、はたと気づいた誠二は「そんな、阿呆らしい噂なら」とやや俯けていた顔をあげた。

「なんで俺に話したんだ」

箸にも棒にもかからない噂なら、他愛ない話の流れで聞かせるなら分かるにしろ、もったいぶって屋上に呼びだしてまで知らせなくていいだろう。知らないでいたかったと思うこともあって、余計なお世話をする意図を訝ったのだが「やっぱり、お前、学校のこともそうやけど、ここらの地域のこと、なんも分かっていないんやな」とあらためて宮田には、呆れたような顔をされた。

「お前が想像できんくらい、ここらはなんでも鷲屋家が関わっているんや。この学校にしても、血縁が多いし、だけやなくて親が働いてるとか取引先のとかで、つながりのある奴ばっかで、おまけに学校の創設者は鷲屋家初代の友達ときたもんや。今も鷲屋家が支援や寄付をしとるから、学校側はとくに、鷲屋家の血筋の子供んことを特別扱いしとる。

ほら、さっき、悟がふてくされて教室出てったやろ?でも先生は、なんも言わんかった。先生がそうやって、鷲屋家の子供の顔色を窺って、あからさまに贔屓にしとるってわけ」

そう言われてもぴんとこないあたり、高校入学して半年近く日中は寝てばかりいたせいもあるが、周りのことに徹底して関心がなかったらしい。我ながら、その無関心ぶりに呆れたものを「周りは見てて気分のいいもんやないやろ?」と宮田が柵を軋ませたのに、意識を引きもどされる。

「贔屓されてない連中にすれば、胸糞悪いやろうし不満やろうし。でも、鷲屋家に対して自分の家のほうが立場、弱いから、面と向かって怒ったり殴ったりはできん。で、鬱憤が溜まるわけやけど、その吐け口に美希はなりかねんのや。

美希の立場は微妙なわけ。現当主、四代目の養子つっても、裏ボスといっていいバーサンに嫌われとるから、先生なんかはバーサンの機嫌を損ねんために、他の鷲屋家の子供相手みたいにゴマすりをせえへん。四代目の顔があるから、意地悪するまではせんけど、まあ素っ気なくして、大方、無視をしとる。

ということは美希が騒ぎや問題を起こしたりしたときだけやない、美希の身に何か起っても、関わらんようにするってことや。たとえば美希がイジメられても、たぶん、先生は見て見んふりをする」

「そ」んな、と言おうとしたが、声に詰まってしまった。言葉を失う誠二を見て「大人って汚ないやろ?」と宮田は顎をしゃくった。

「汚いのは子供も同じやけどな。先生が見て見んふりするのが分かってれば、遠慮なくイジメにかかる。つっても、美希はいかにもいイジメられそうなひ弱で根暗なタイプやないし、もちろん『親父に言いつけたる!』なんて金切り声あげる馬鹿でもないし、馬鹿は馬鹿でもイジメる気が失せるような馬鹿っぷりやから、今んとこは大丈夫やけどな。ただ、ちょっとしたことで、どう転ぶか分からんような、あいつは綱渡りしとる状況におるわけ」

「ほんと、ああ見えても、な」と念を押されたが、夜中に裸足で散歩をする美希のほうをよく知る誠二にすれば、意外ではなかった。つい「知ってる」と言いそうになったが「今時そんなって、思うやろうけど」と間をおかずに話は進められる。

「ここは、恐いくらい閉じた世界なんや。お前が知ってる普通の世界なら美希が変わった生い立ちをしとったって、よほど自分から言いふらさなきゃクラスか、せいぜい学年に噂が広まるくらいやけど、ここでは大袈裟やなくて、学校中、地域中の人間が美希のことを洗いざらい知ってるし、尾ひれをつけてしゃべり倒しにかかりよる。

俺かて鷲屋家のデモドリ娘の関西弁マルダシ息子て、どっか腹の中で笑われているようなとこあんねん。俺や美希には息苦しい場所や。でも、生活を本家に頼っとる状態で、勢いで家を跳びだすわけにもいかん。なるべく長く援助してもろて、自立までこぎつけたいしな。

そんな下心があるから、なんとか卒業まで乗りきろうとは思うねんけど、正直きつい。もう俺のことはほっとけ!って叫びだしたいときがあるわけ。で、そんなときは、お前と話すとほっとする。お前は完全なよそもんやから。向けてくる目も態度も言葉も他の奴と全然ちゃう。別にお前は、なんも意識していないやろうけど」

なぜ聞いてもないのに、美希のことを教えたがるのか。その理由をはっきりと口にしたわけではないが、話の流れから察せられて、誠二はいよいよ、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。宮田が把握していない、マドノアシとのつきあいがあるから余計だ。それでも、あまり動揺を顔には出さないようにしたはずが、誠二が何か勘づいたのを、これまた勘づいたらしい宮田は「悪い悪い」と苦笑しながら、煙を払うように手を振ってみせた。

「やからって、美希と仲良くしてほしいってわけやないねん。ただ、お前が普通にふるまっとるつもりでも、ここではかなり変に見られるってことを知っておいて欲しかったんや。

さっきのことにしたって、たいていの奴は、悟にも美希にも肩入れすることなかったやろ?口出しせんのはもちろん、見事にスルーしとった。そん中でお前、あんな目して美希見てたら、皆から嫌がられるって。皆にしたら一番嫌なんは誰かが美希を庇うことなわけ。

そりゃあ、皆、悟の嫌味な言葉や態度にはうんざりしとる。ただ、それ以上に美希の噂について生々しい想像したないんや。皮肉なもんで、そんな根も葉もない噂!って騒ぎたてるほどマジかもって人は思いやすいやろ?美希は潔白なんに、誰も庇ってくれないなんて理不尽に思えるかもしれんけど、ここが鎖国しとるみたいな地域や学校で、美希や悟がややこしい立場なこと知ったら、すこしは皆の気持ちを分かってくるかなて。やから話したわけ」

言い分は分かったとはいえ、あいにく、宮田が懸念するほど、先の教室の状況が理不尽なものとは誠二は思っていなかった。悟の暴言に煽られるまま、皆して美希を吊るし上げなかっただけ、ましとさえ思えた。おそらく美希も事を大きくされるほうが困るのだろうし、あのときの宮田のように笑いを誘いつつ有耶無耶にするのが、対処法としては正解なのだろう。

「あんな目で見るな」という忠告ももっともだ。でも、それでも、そう忠告されたからといって、他の生徒にしろ、自分らが不快な思いをしたくないがために傍観を決めこむのは、いくら美希が気にしていないようでも、いかがなものかと思う。何より宮田のどこか得意そうな顔が癇に障った。美希の真の理解者は、自分だけだと言わんばかりの。

「お前は、優しいんだな」

思いがけなかったのだろう、宮田は勢いよく振りむいたものを、皮肉っぽい響きに気づいたようで「別に優しないわ」と苦笑しつつ、誠二の肩を軽く叩いた。

「気に入ってる奴に優しくしたい思うのは普通のことやろ?美希には仲間意識もあるし、お節介を焼きたくなるのかもしんけど。でも、まあ、単純に」

そこで言葉を切って、誠二の目の奥を覗きこむように見てきた。見透かそうとするような視線に誠二は少し怯んだものを、目を逸らせば負けのようで、むきになって見返す。そのうち、目の奥に何か読み取ったのか、満足そうに笑って宮田は言った。

「俺、美希、好きやし」

いとこで同じ高校に通う同級生相手なら、その好意は親愛によるものだろう。とは、思えなかった。

「なんてな」とはにかむのを待ってみたが、宮田は清々しい笑みを浮かべたまま、いつまで経っても茶化して誤魔化したり、呆けている誠二をからかってはこなかった。結局、言いっぱなしで「ほなな」と帰ってしまわれて、屋上に一人取り残された誠二は、螺子の切れたおもちゃのように、長いこと動けないでいた。


※  ※  ※


どの面下げてマドノアシこと、美希に会えばいいのか分からなかった。果たして美希は、あのとき教室にいた自分に気づいたのか、気づいていなかったとして、こちらが知った以上は打ち明けるべきか、打ち明けないほうがいいのか、そもそも自分は打ち明けたいのか、と悩みに悩んでいるうちに時間は過ぎて、気がつけば、バイト終わりの帰路についていた。

自分の決断力のなさに嫌気がさしつつも、腹をくくっていつもの窓の下へと赴いた。美希の屋根から降りてくる動きには変わりがなかった。道に立って、こちらを一瞥した表情や、後ろをついてくる足の運びにも、ぎこちなさはなかった。はずだ。

一方で誠二のほうは、否応にも体が力んでしまい、やけに背筋じを伸ばしながらぎくしゃくと歩いていた。これでは異変に気づかれるのも時間の問題だと思ったものを、案の定、歩きだして、そう経たずに「そういえば」と言われた。

瞬間、心臓が止まりそうになった。思えば、マンションまでの道のりで、声をかけられたのは初めてだ。教室で遭遇した日によりによってと思いつつ、生唾を飲みこみ振り返ったところで「いつも、こんな時間までなにしてるの」と美希は首を傾げてみせた。幾分、拍子抜けして「バ、バイト。ホストクラブで」と応えたら、前髪と眼鏡を揺らして大きな黒目が見開かれた。驚かれたのが意外だったものの、すぐにはっとして「ち、ちがうちがう!」と顔の前で手を振った。

「ホストやってるわけじゃなくて、雑用!全然裏方だから!」

「ああ」というように肯いてくれたとはいえ、熱くなった頬を見られたくなくて前に向き直る。これ以上恥をかきかくはなかったが、誤解されてもまずいと思い「開店前の準備とか掃除とか、軽食作ったり皿洗いしたり、ホストのパシリもするし。トイレ掃除なんか、しょっちゅうしないといけないから、結構忙しい」と一応、説明をする。折角ホストの店で働いているのに盛り下がるような話だと我ながら思うも、これまた意外なことに「そうそう、トイレ」と美希は忌々しそうに言って、話に乗ってきた。

「ほんとトイレって、すぐ汚れるし、使う人は容赦ないというか。俺なんか、パチンコ屋のトイレだから、それこそ三十分に一回洗っても間に合わないくらいだし、中で煙草も吸う人もいるから、さっいあく」

「パチンコ屋?」とつい聞けば、「そ」と何気ないように応えられる。

「ほら、すこし遠くに総合アミューズメント施設があるでしょ。そこで俺、夕方から夜にかけて清掃の仕事してる。本当は映画館のほうの掃除して、そしたらタダで作品を観られるかなあって思ったんだけど、担当になったのはパチンコ屋。うるさいし、汚いし、臭いっていうんで、誰もやりたがらなくて、一番年下の俺に押しつけてきたんだ。まあ、その分、時給は学生用に安くされなくて、済んでるんだけど」

「学生」と聞いて誠二は息を飲んだものの、気づいていないらしく「それに」といつもの寡黙ぶりが嘘のように、美希の口は止まらない。

「こういう仕事って、結構大事なんだなあって分かったというか。一日掃除しなかっただけで、たとえ客の出入りが少なくても、十分に汚くなるから。一度、そういうことあったんだよ。マネージャーが間違えてシフト組んで、その日はどうしても人員が確保できなくて、パチンコ屋のほうがあんまり掃除できなかった。で、次の日、俺が掃除しにいったら、すっごい汚れてて、いつもはとれる汚れも、こびりついてシミになってしまってて。客からもクレームがひどかったらしい」

人目を引く端正な顔をして、養子とはいえお坊ちゃまで、育ちもよさそうな美希が、地味な汚れ仕事をしているのが、そぐわないようで、話しぶりには実感がこもっていた。似たような仕事をしていることもあって、「それ、分かるかも」とつられて誠二も話したくなる。

「俺も、おじ・・・、店のオーナーに言われたことがある。お前がくる日とこない日とでは、店のきれいさが全然ちがうって。つっても、別に俺の掃除がとくにて丁寧で、うまいってわけじゃない。俺が行かない日はホストが掃除するけど、あの人らにしたら客の相手をしながらだから、その分、専念できないだろ。そう思うと、裏方は裏方の仕事で専門でする人が必要なのかなって。もちろん給料はホストより安いけど、パシリみたな俺でも役に立ててるなって思える」

前方を向いたままなので、美希の表情は分からないが、気だるげながら、その足取りがいつもより軽いように思う。少し間を置いて「そのオーナーいい人だな」と言われた。

「俺なんか、そんなこと言われたことない」

ふふ、と笑いが漏れたのを聞いて、誠二も口元を緩めた。本当は、他にいくらでも聞きたいことがあった。誠二が同じ学校の、同学年の生徒と知っているのか、気にならないわけがない。それに知っているなら、これから学校で顔を合わせた場合、知らぬふりを通すのか、夜の逢引と変わらないように接するのか、どうするのか、きちんと話し合っておいたほうがいいだろう。

他にもプライベートで突っ込んで聞いてみたいことはある。母親の希代子は三代目、四代目とその弟と愛人関係だったのか。美希の父親はそのうちの誰かなのか。美希は母親の希代子の代わりに寵愛をされているのか。そうだとして、バイトをする必要なんてないのではないか。しかも夜中に外を徘徊するなんて家にいたくない理由があるのか。

好奇心交じりの疑念が次々と湧いてくるのを払い落すように、誠二は目を瞑って頭を振った。しばし目を閉じたままでいて、やおら瞼を上げたなら、街灯の届かない道の先の暗がりを見るともなく見つめて、何にしろ、と思う。

宮田曰く、鷲谷家が幅をきかせるこの地域で、その苗字を持つ人間がパチンコ屋、しかも清掃の仕事をしているとなれば、本家にいい顔はされない。という以前に、仕事をさせてももらえないだろうから、おそらく美希は周りにバイトのことを秘密にして、勤め先にも素性を偽っているのだろう。勤め先の隣町までは名が知れ渡っていないのか、それにしたって、容姿からして人目をひいてやまないのに、誰にもばれずにいられるとは思えない。が、日中と深夜の美希の豹変ぶりからして、バイト先でもまた違う別人のように振るまい、周りを化かしているのかもしれない。

どれが美希の本性だとか、仮面を被っているとか、野暮なことを言うつもりはない。ただ、日中はハイテンションモンスターな美希が、深夜には口を重くし物憂そうにするのは、スタミナ切れしてのことのように見えるし、事情を知れば、そうなるのも仕方なく思える。

日中、気を張った分、深夜に町を徘徊したくなるのだとして、決してその姿を学校や地域の人間には見られたくないはずだ。宮田が言うように「ちょっとしたことで、どう転ぶか分からんような、あいつは綱渡りしとる状況にいるわけ」だというなら、見られたら最後、綱渡りの綱から真っ逆さまに落ちてしまうのかもしれない。

誠二のことは、よそ者であって事情にも疎いことから、綱渡りの綱を揺らす存在ではないと見なして、だからスタミナ切れになった姿を見せてくれている、と考えられる。でも、同じ学校に通う同級生と知ったなら、もう二度と窓から降りてこなくなる可能性がある。

だったらと、誠二は口を強く結んだ。鷲屋家や学校のことは、このまま知らないふりをしていたほうがいい。美希のために、ではない。美希が誠二のよそ者感を気に入っているのなら、気に入ったままでいてもらいたいと思うからだ。たとえ、知らないふりをすることが、美希のためにならないとしても。

気がついたら追い越していた美希が、肩越しに片目を覗かせたのにはっとした。物思いふけってしまい、足の運びがおざなりになっていたようで、開いた距離を早足でつめる。

目を細めて前に向きなおった美希の背中が、月の逆光になって、暗がりに輪郭がうすぼんやりと白く浮かびあがっているような、それを見ていると、どうしようなく胸が疼き、ひそかに誠二は熱く息を切らした。これが、と心臓をかくように胸元のシャツを握る。これが、純粋に慕う思いからきているのかは分からなかった。それでも、信じたかった。

もしかしたら、自分は自分で思うような人間ではないかもしれないと。




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