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鉄筋青春トライアングル
⑬
しおりを挟む試合中盤になってオーナーは据わった目になり、ステップを踏む足を鈍らせ、口角もガードの腕も下げていった。
解説者が言った通り、疲れて隙を見せだしたのだろう。
相手のガードの固さに焦れてもいるようで、腕が阻んでいるのに、アッパーを無駄打ちしている。
ガードがびくともしないとなると、ついに痺れを切らし、薄笑いを引っこめて一歩退き、右拳を振りかぶった。
素人目にも分かるほど、放たれたパンチは投げやりで力任せだった。
プロともなれば見切るのは朝飯前で、易々とかわした相手は好機と見たらしく、オーナーが体勢を直す前に、ガードしていた腕を突きだし、その拳で頬を打ちつけようとした。
が、グローブの先が頬に触れたか触れないかのところで、急激に頭をのけ反らせて、そのまま後方に倒れていった。
リングに背中が打ちつけられる音がしたなら、会場の騒音はかき消され、耳が遠くなるような静寂に包まれた。
倒れた相手にしばし固定されていたカメラが、オーナーのほうに向けられると、リングの真ん中で右拳を突きだしながら、その腕の外側に左腕をクロスさせていた。
すこしもモーションを見せなかったものの、一発目が避けられた直後、相手がガードを外したところで、空ぶった右拳をそのままに、左拳のアッパーをかましたらしい。
倒れて身動きしない相手に、ふ、と鼻で笑い、腕を下ろしたら、とたんにカメラのレンズにひびが入らんばかりの観客の激高する声が湧きおこった。
声援を受けて、勝ち誇るようにというより、嘲るように片方だけの口角を上げてみせ、両拳を突き上げるオーナー。
傍では相手陣営のトレーナーたちが青ざめた顔をして選手を介抱をしているというのに、心配がって覗きこむどころか、一瞥もくれず、さらには後ろ足で砂をかけるように、リングを跳ね回って、観客を煽っていた。
味方陣営が止めようとするのも聞かずに、舌を垂らして笑っているのに、ゲストのタレントが「相手選手は、大丈夫なんですか」と声を震わせた。
「大丈夫でしょう」と解説者が即答するも、「でも、殺人アッパーと言われているんでしょ」とそりゃあ、安心できないようで、でも「ああ、それね」と一笑に付された。
「そう言われていますけど、人を殺したことが、あるわけではないんですよ。
それどころか、怪我を負わせたこともないし、損傷や後遺症を与えたこともないんです。
何より、殺人アッパーを受けた選手は口を揃えて言う。
痛みがなければ、脳が揺さぶられる衝撃や気持ち悪さも感じないで、ふっと意識が途絶えるんだとね。
天に召されるようだとも言われることから、『殺人アッパー』なわけです。
それにですね、病院に運ばれた選手は、アッパーを受けたときになりやすい、脳震盪や急性硬膜下出血などの診断を受けない。
検査したところで、脳に損傷は見られなく、顎の骨も折れていないし、何なら、顔も腫れないなんて、言われていますね。
医師に言わせれば、ありえないことだそうです。
気絶させることだけを目的に、確実かつピンポイントに脳に刺激を与えようとするなんて。
奇跡のようなことで、格闘技の技として身につけられるものではない、と」
昔の映像を見て、オーナーははじめから、オーナーではなかったことが、改めて分かった。
といって、別人のように変わったわけでもなく思えた。
どこかボクサーとしてのあり方や歩みが、ちぐはぐだからだ。
嬉々として人を痛めつけているようで、結果的には人を傷つけることがない。
殺人アッパーという神技を持ち、連戦連勝を重ね、世界チャンピオンも夢でないともてやはされていたはずが、たった二年で引退。
しかも、相手の脳には損傷を与えなかったのに、自分はばっちり、脳をやられてしまって。
「人を殴ると自分も痛いものだ」と言いつつ、自分は笑って人を殴りつけ酔いしれていたと正直に明かしたオーナーだけど、やはり、心の奥底では痛みを覚えていたのだろう。
だから、全体的にパンチの威力を下げ、得意のアッパーだけを、人を気絶させることに特化させたわけで、殺人アッパーだ、次期世界チャンピオンだと、おだてられるまま木に登る豚に成り下がらず、早く引退する方向に舵を切ったのかもしれない。
自分の性に合わないことをすると、無意識ながら、そうして踏み留まろうとするものなのか。
それでも周りに後押しされたり状況に流されるのに抗えず、また「逃げるな」「変わるんだ」と中二病的な強迫観念にとらわれてしまい、取り返しがつかなくなることは多いと思う。
僕がそうだったように。
と、思えば、オーナーがとんとん拍子に世界チャンピオンにならなかったのは、むしろ、良かったといえた。
「世界チャンピオンにならないのが、むしろ良かった?」と反芻して呟き、つい笑ってしまう。
オーナの過去を知れば、好意が揺らぐかと思っていたけど、こうして社会の常識を覆すような発想をさせてくれるのだから、オーナーは底知れない。
工事現場の屋上で玉砕したことも、いつかは「むしろ良かった」と笑えるのだろうか。
今でも思い起こすと死にたくなるほどに、まだまだ恥じらいを捨てられない自分には、無理そうだ。
と、首を振って苦笑し、スマホから顔を上げた。
目の前のカーテンの隙間からは薄明かりが差していて、結局、一睡もできずに試合の朝を迎えることになった。
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