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鉄筋青春ラビリンス
⑥
しおりを挟むジムに通いはじめてニ週間が経ったときのこと。
「金森君、この後予定ないなら、ご飯食べていかないか?」とオーナーに誘われた。
家に断りの電話を入れる煩わしさもふっ飛んで「お邪魔します!」と即答をしたものを、食卓に義巳の姿はなかった。
落胆したところで「義巳は友達のところに行ってね」とオーナーが教えてくれたのに、さらに気が滅入る始末。
きっと行き先は工事現場の大男の元だ。
「友達の家には、今日、両親がいないらしくてね。
一人でご飯食べるの寂しいだろうって、ご飯作って持っていったよ」
ご飯はこれくらい?と聞くように、ご飯茶碗を見せてきたので肯く。
そのご飯茶碗を受けとり食卓に置くうちにも「それにしても、嬉しそうだったなあ。よっほど仲がいい友達なんだね」と悪気なく話しつづけるオーナー。
どうも大男の存在をまだ、知らされていないらしい。
僕は大男のことをトラウマになるほど知っていたから、なんとなく気まずく、その上、義巳の胸の弾ませぶりを聞かされては耳が痛かった。
とはいっても、相手は何かと世話になっているオーナーだ。
失礼な態度を取ってはならないと、食卓を埋め尽くす山盛りの皿に内心、怯みながら、なるべく顔を引きつらせないようにした。
が、心配せずともオーナーは「実は、はじめてなんだよ」と鼻歌でも歌いそうに浮き浮きとしている。
「義巳が夕食の席につかないのは。
高校生にもなったら、友達とのつきあいなんかもあって、夕食いらないって言ってもよさそうなのに」
本当は寂しいのではないか。
食べられそうにない量の料理を見るに、はしゃいでいるふりをして寂しさを紛らわしているように思えた。
僕を招待したのも、だからなのかもしれない。
と、思ったところで、返す言葉が浮かばずに目を泳がせていると、ご飯茶碗を置いて向かいに座ったオーナーがふっと目を細めた。
多分、僕が何かしら察したのに気づきつつ、あえて話をつづける。
「なんだかんだ、義巳は俺に義理を立ててるようなところがあるんだろうな。
俺は実の子供のように思っているけど、義巳のほうは遠慮したり気を使ったり、恩を返さないとって他人行儀に考えているのかも」
「寂しいなあー」と嘆くように天上を仰いだ。
すぐに前に向き直って、驚いている僕に笑いかける。
「あの子の気持ちは分からないでもないけど、遠慮されるとなんか、傷つくよね」
正直、オーナーの寂しい、傷つくという思いを分かってあげられなかった。
実感したことがないというのもあるし、誰かにそう思われた経験もない。
ので、つい率直に疑問を口にしてしまった。
「遠慮しないで怒らない親なんかいるんですか」
我が家では「少しは遠慮をしたらどうなんだ」「これくらい気を使えないでどうする」という父親の小言が絶えなかった。
子供は全身全霊で親の顔色を窺わなければならないもの。
幾度となく父親に苦言されて、そう思いこんでいただけに、これまでも、オーナーの義巳への接し方を見て不思議に思うことがあった。
オーナーは逆になるべく、義巳に顔色を窺わさせないようにしていたから。
そして今「連慮されると傷つく」とも言っている。
僕にすれば、世界観がひっくり返るような言葉だ。
にわかに鵜呑みにできなくて、叔父だから、親とはまた感覚が違うのだろうかと考える。
その心を読んだかのように「僕は親ではないから、そんな親がいるとは言いきれないけど」とオーナーは前置きして言った。
「親に限らず、遠慮しないでも受け止めてくれる人はいるし、迷惑をかけても放っておけないっていう人がいるよ。
少なくとも俺が出会ってきた人の中にはいたから」
「大丈夫」と言われて、はっと胸を突かれる思いがした。
分かった気がしたのだ。
どうして、義巳を好きになったのか。
僕は誰といても、自分が馬鹿にされる側になることを恐れ、馬鹿にされる隙を与えてなるものかと、必要以上に気を張っていた。
が、義巳とは、これまでになく気負わずに接しられた。
僕が絶対的な主導権を握って、義巳は逆らえない立場にあったから。
という、だけではない。
馬鹿にする側と馬鹿にされる側。
人間はそのどちらかに必ず二分されるものと疑わない僕の世界観と違って、人間は二分されるとは限らないと考える世界観を義巳が持っていたからだと思う。
といって、義巳がこれまで生きてきた中で、馬鹿にされなかったことはないはずだ。
父親の話では、義巳の母親は新興宗教にのめりこんで養育を放棄したという。
そこまで詳しい事情を知らなくても、母親が生きているのに叔父に育ててもらっているという状況を、周りは良く見ようとしないだろう。
時に見下され笑いものにされることがあったと思うけど、おそらく義巳は僕のように考えはしなかった。
馬鹿にされる側になったら人生は終わりだと。
実際に哀れな生い立ちをしながらも、義巳の人生は終わっていなかったし、何なら僕より充実した日々を送っているかもしれない。
そして、馬鹿にする人間もいれば、オーナーのような人間もいると義巳は知っている。
僕は知らなかった。
あのときまでは。
義巳と初めて出会ったとき。ビルの五階の窓から、義巳と対峙する連中らを見下ろしていて、ふと思い浮かんだ光景があった。
がり勉ホビットと義巳が向かい合って立っているというもの。
殴られ、ずたぼろになったがり勉ホビットが両手で顔を覆い泣いているのに、義巳は少し背を屈め手を差しのべる。
肩を跳ねつつ、顔を上げたなら、それはがり勉ホビットではなく幼いころの僕だ。
そう、一瞬、がり勉ホビットが、家族や親戚の誰にも庇ってもらえなかった幼い自分と重なって見えた。
そのときは、それの意味することが分からなかったものの、今、思い返せば錯覚をしたものと考えられる。
義巳が身を呈してがり勉ホビットを助けようとしたのを、まるで僕に手を差しのべてくれているかのように。
イジめている相手に自分を重ねて見て、救われた心地になるなんていい気なものだけど、あのときの「僕は感動したよ」の言葉に嘘はなかったのかもしれない。
義巳のような人間がいると知れたことで、多分、僕は救われた。
なのに、僕はなんてひどいことを。
今更、気づいても遅すぎるとはいえ、何も知らずに笑っているオーナーを前にしては、居ても立ってもいられなくなった。
「僕・・・!」と思わず何もかも打ち明けそうになったものを、言葉に詰まって、声の代わりに涙がこぼれる。
慌てて目元に手をやり「すみません」と顔を伏せれば、意外にオーナーは騒ぎ立てることなく「いいんだよ」と言った。
柔らかい声音に胸が揺さぶられて、情けなくも何も話せないまま、ひたすら涙を頬に滴らせることしかできなかった。
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