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鉄筋青春トライアングル
⑯
しおりを挟む「一体、なにをやっているんだ!」との一喝が、耳を劈いた。
明らかに声援とは趣が違う、怒りに満ち満ちた響きに、リングを囲う人たちは一旦、声を飲んでから、ざわめいて声がしたほうに顔を向ける。
一喝で憑き物が落ちたように、放心しながら、やおら拳を下ろして僕もジムの出入り口を見やった。
ジムの出入り口に立っていたのは、顔を赤くして肩を怒らせる父親だった。
声で察しがついていたので、さほど驚きはしなかったものを、僕の父親だと知る由もなく、また市政に疎いらしいジムの人たちは「誰だ」「誰だ」と顔を見合わせ、しきりに首を傾げている。
周りが気づいていないうちに、できれば、父親を外に連れだしたかったとはいえ、僕がリングを降りるのを悠長に待ってくれないで「こんな野蛮なことをして、恥ずかしいと思わないのか!」と尚も手加減なしに怒声をぶつけてくる。
「不良とつるんでいると知ったときは、反抗期だからと、目を瞑ってやったというのに!
少し目を放したら、こうだ!
お前はもともと根性が悪いから、やくざな連中と気が合うと思っているんだろうがな!
こいつらは、お前を馬鹿にして、利用しているだけだ!
そんなことも分からず、おだてられてて野蛮な行為に走るとは!
どれだけ、馬鹿なんだお前は!」
多くの人の前で、目も当てられないほど罵倒されたものだけど、怒り悲しむより、呆気に取られてしまう。
なにか誤解しているにしろ、妄言にもほどがあるし、市長という立場で、人目がある中、それこそ、その取り乱しようは目も当てられない。
理由は知れないものの、理性を失っているようなので、とにかく宥めなければと、口を開こうとしたら「あんた親なのに、子供にそこまで言うか!?」と先に小尾に口火を切られた。
またもや思ってもみない事態が目の前で起こって、出鼻をくじかれたからに、声を失ってしまう。
「お前の親の顔こそ見てみたいところだ!」と高校生相手に、むきになって噛みついた父親にも呆れはしたけど。
「大体、野蛮行為を動画で配信している奴に言われたくない!
なんで、お前らはそう、なんでも動画を撮りたがるんだ!
人が迷惑するのもかまわないで、注目されて喜ぶとはめでたいものだな!」
リングを囲う何人かがスマホを引っこめたのを見るに、どうやら父親が言うように、試合を撮られていたらしい。
おそらく生配信されていたから、気づいた父親が慌てて、お供も連れずにジムに乗りこんできたのだろう。
それにしても、市長として外面の良さを鉄壁にしている父親らしくない。
言うところの、やくざな連中も、また市民だというのに。
そもそも、市長の息子がボクシングの試合をしていたと周知されても、犯罪を犯したのでもあるまいし、「躾がなってない」と市民からお叱りを受けるような惨事にはならないはずだ。
我を忘れさせるほどの怒りに駆り立てられるものが、他にあるというのか。
もしかして、試合をするにしろ、幼馴染のオーナーの営むジムだから、いけないのか。
そう考えこんでいる間、「野蛮な行為って決めつけるなよ」「男には引けないときがあるんだ」とジムの人たちは父親の暴言にぼちぼち反論をしていた。
誰かが声をあげるたび、そちらを睨みつけていた父親は、「親だろうと、この試合はあんたに関係ない」と言われたのに、にわかに逆上して「こんな、いかがわしいジム、ぶっつぶしてやる!」と市長としてあるまじき問題発言をかました。
「市長である権限を使えば、ジムをつぶすのは簡単なんだからな!
お前らのような奴らが、不当だと訴えたところで無駄だ!
暴力を生みだす危険な施設をつぶすのに、市民は反対をしない!
ジムをつぶしたら、お前も処分してやる!
金森家の名に泥を塗るような真似をして、ただで済むと思うなよ!
お前なんか遠い親戚の養子にして、二度と金森の苗字を名乗らせてやらないからな!」
ジムをぶっつぶす宣言はもとより、親が子を叱るには、洒落にならず度が過ぎる物言いに、周りは絶句したようだった。
僕にしろ呆れ果てつつ、さすがに「養子」の一言には心臓を貫かれたものだけど、思いのほか胸を痛めなかった。
「駄目息子」「恥知らず」「出来損ない」とこれまで、惜しみなく劣等感や罪悪感を僕に植えつけてきた父親。
「お前のために言っているんだ」との名目を盾にし、悪びれもしていなかったとはいえ、今の発言からして、結局のところ、僕が目障りなだけなのだろう。
だったら、恩着せがましく父親面なんかしないでほしい。
いっそ「養子にするぞ!」と恫喝してくるほうが痛快に思えるというもので、鼻で笑ってしまった。
「はじめから、そう言えばよかったのに」と。
僕は父親に一度も、楯突くどころか、まともに言い返したこともない。
痛罵や叱責をされて、いつも黙りこんでいた僕が、嫌味っぽく笑ったとなれば、そりゃあ、父親は目を疑ったようだ。
が、ショックを受けて我に返るなんてことはなく、さらに顔を赤くして、血走った目をひん剥き、遠目にも分かるほど体をがたがたと震わせながら、勢いよく口を開いた。
絶叫をしかけた、そのとき、急に後ろに体を振り向け、ぱん、と乾いた音が鳴った間もなく、床に尻もちをついた。
女座りする父親が見上げる先には、オーナーが左掌を掲げたままでいて「あ、ごめん、つい」と悪びれもなく謝った。
ジムに戻ってきたところで、父親の荒れ狂いぶりを目の当たりにして、つい平手打ちをかましたのだろう。
誰も手がつけられないような状況だったから、処置としては正しく、オーナーにしろ、あっけらかんとして、私憤に駆られているようではない。
のに、父親は「あ、あ、あ」と呻いて、迷える子羊のように怯えている。
手の平を返すどころではない、父親の病的といっていい豹変ぶりに、困った顔をしたオーナーは、それでも手を差し伸べようとした。
「ひ」と肩を跳ねて上体を反らしたのに、諦めたように手を引っこめつつも「え、嘘でしょ」と前屈みのまま、目を丸くする。
オーナーが見下ろしている部分に、リングからでは遠いながら、目を凝らしたところ、父親のズボンの股間の辺りが変色しているのを見とめた。
オーナのように「え、嘘でしょ」と思っているうちに、床に水溜りまでできる始末。
先まで「ジムをぶっつぶす!」「養子にしてやる!」と人でなしな罵倒をして憚らなかったのが嘘のように、公衆の面前で憚らずお漏らしをする父親が、そこにはいた。
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