22 / 39
魚、空泳ぐ町
㉓
しおりを挟む健二は言葉にならない声を上げながら、跳ね起きた。
ひゅうっと息を吸い、とたんに咳きこんでうな垂れる。
全身から汗が噴きだし、水を被ったように、びしょ濡れになりつつ、咳きこむたび、鼓動を早め、体の熱を上げていった。
そのうち、発熱したように、悪寒に震えるようになり、呼吸もままならずに、ひたすら咳きこみつづけた。
咳がおさまってきても、動悸と発汗はやむことなく、ひどい眩暈がしたものを、一時の猶予もなかったから、腰を屈めながらも、立ち上がった。
家具や壁に手をついて、体を支えつつ、リビングから廊下へと、でていく。
不整脈のような、動悸がやまないのは、まさに胸騒ぎがするせいのように思えた。
共に寝ていた黒田が、いなくなっているから、尚更にだ。
生々しい殺人の夢にいた直後とあって、頭を混乱させているのではない。残念ながら、小説の走り書きから、夢想したのではなかった。
読んだのは、ナギが虹色の魚にしがみついて、水の渦を上っていったところまで。その後の内容は、まだ走り書きをもらっていないので、知る由もない。
洞察力があって勘が鋭い健二だが、完成度が高い物語を、丸々、自己流で脳裏に描けるほど、想像力は豊かではない。
そもそも、走り書きの、先の展開を全く読めていなかったし、大抵、目覚めれば、すぐに夢を忘れるタイプでもある
。
そんな自分の頭の構造や、経験からして、たかが夢とは捨て置けなかった。
一息ついて壁に寄りかかりつつ、廊下の先を見やったところ、階段のほうに向かう後ろ足が、ほんの少し見えた。
いつも、黒田がつっかけている、サンダルではない。
泥だらけになった、スニーカーだ。
その正体に、嫌でも心当たりがあって、甦った死者を目にしたかのようにぞっとなり、吐きそうになった。
単なる夢ではないと、思っていたが、いざ実物を目の当りにさせられては、飲みこみきれない。
足元が崩れていくような錯覚がするのに耐えられず、できたら、見なかったことにしたいと、膝を屈し、目を瞑りそうになる。
いや、黒田や彼女を見殺しにするのか。
と、すかさず思い直して、膝が震えるのにかまわず、壁を這うようにしながら、進んでいった。
階段兼広間にでれば、彼はどこにも見当たらなかったが、足を休めず、階段を上って、右の廊下に踏みこむ。
乱れる呼吸を飲み、屈めていた姿勢を正して、廊下の突き当りに顔を向けた。
廊下にも、彼はいなかった。
本調子でない、健二の足の運びが、いくら遅いとはいっても、ここに至るまでの合間に、片足が不自由な彼が、突き当りの部屋に辿りつけたとは思えなかった。
こちらの世界にきて、足が治ったとか?
とくらくらする頭で考えつつ、とりあえず彼女が心配だったから、まっすぐ突き当りの部屋へと向かう。
廊下の中間くらいに、至ったときだった。
いくつ目かの扉の前を、通りかかろうとして、突然、それが開け放たれ、目の前に迫ってきた。
相手が知恵遅れだからと、侮っていたわけではないが、まさか、どこかの部屋で待ち伏せをしていたとは、思いもよらなかったことだ。
突き当りの部屋しか目がなかった健二は、なす術なく、もろに扉に顔面を打ちつけ、上体を仰け反らせた。
一瞬、意識をとばしつつ、脳みそが揺さぶられたことで、先の吐き気がぶり返し、堪らず前のめって、四つん這いになる。
口元を手で覆い、こみ上げてくるのを、どうにか留めながらも、足音、片足を引きずる、その音が聞こえたのに、顔を上げた。
見上げた先には、全身ずぶ濡れのスイがいた。
黒田の描写通りの姿形をして、眉を逆立てつつ、ひっきりなしに、充血した目から涙をこぼしている。
「う、うう」と呻いて、しきりに腕を揺らしいるのが気になり、見やれば、カンテラを持っていた。
黒田が愛用しているカンテラで、健二も持ったことがあるが、鉄製の頑丈なものだ。
重量感のあるカンテラを、頭の傍で振られては、落ちつかなかったとはいえ、泣きじゃくるスイを見ていたら、逃げようとも、歯向かおうとも思えなくなった。
訴えたい思いは、胸に痛いほど分かったから。
そうだよなあ、と。
同じ屋根の下で、好きな人が喘がされたら、たまったものではないよなあ、と。
なんて、うんうんと肯いて、宥めている暇はなかった。
「うー!」と目を瞑って、頭を振ったスイは、涙を散らしきったなら、もう泣くことなく、俄然、健二を睨みつけて、カンテラを振りかぶった。
まだ目が回ってるし、吐き目を堪えるのに精一杯では、どうすることもできず、スイへの同情もあってだろう。
身じろぎもしないで、悠長にも、掲げられたカンテラを見上げたら、目を見張ったスイが、肩を強張らせたようだった。
躊躇いを覚えたにしろ、時すでに遅し。
振り下ろされたカンテラは、剛速球のように迫って、勢いそのままに、脳天に至りそうになった。
そのとき。
荒々しい足音が耳につき、はっとしたように、スイがカンテラから手を放すと、ほぼ同時に、その体が吹っとんだ。
額すれすれに、カンテラが滑空した間もなく、スイが頭上を跳び越えて、健二の足元に落下をした。
床に突っ伏して倒れたのを見やってから、前に向き直れば、壁に手をついて屈みこみ、息を切らす黒田がいた。
それまで、彼女と共にいたのだろう。
健二が扉にぶち当たった音を聞きつけ、突き当りの扉から顔を覗かせたなら、一瞬のうちに状況を飲みこみ、駆けつけてくれたらしい。
運動不足だからから、よほど焦ったからか、発作を起こしたように、息も絶え絶えに、ぐったりとしている。
助けてもらった身ながら、むしろ、その体調を案じて、「く」と呼びかけようとしたが、顔を上げた黒田は唇を噛んで、健二の体を跨いだ。
再度、襲いかかってくるのを、防ごうと、スイに向かい、立ちふさがるつもりのようだ。
華奢な猫背では、頼りがいがなく見えたとはいえ、振り返ったスイは「ひ」と、小さい悲鳴を上げた。
黒田は口を利かず、佇んだまま、近寄ろうともしないものを、「あ、ああ・・・」と逃げるように這いずりだす。
そのうち、壁にしがみついて立ち上がり、片足を引きずって「あ、あ、ああ」と呻きながら、歩いていった。
廊下の出入り口を曲がって、背中が見えなくなり、少しも経たず、けたたましい物音が聞こえた。
音の正体に、すぐに察しがついて、起き上がろうとした健二に、黒田が目配せをしてから、階段のほうへと向かう。
一人で行かせるのは、心配だったものを、眩暈も胸のむかつきも、まだ収まっていないとなれば、見送るしかなかった。
立ち上がれたとしても、まともに歩けないどころか、最悪、歴史的建造物を吐瀉物で汚しかねない。
せめて、やおら上体を起こし、床に座りこんで、深呼吸する。
先の物音が気になるとはいえ、扉を叩きつけられるは、カンテラで殴打されかけられるはと、目まぐるしく危険な目に合っていたのが、一段落つけたとなれば、がっくりと肩を落とすというもの。
安堵もしてだろう。
吐き気が失せていき、視界の揺れもなくなって、みるみる復調をしていった。
そうして体の調子を取り戻しながらも、打ちひしがれたまま、頭を垂れていたら、足音が寄ってきた。
引きずった足音でないからに、黒田が戻ってきたものと、分かったが、顔を上げるのが億劫なような、向き合うのが怖いようなで、身動きしなかった。
近くで足音がやみ、そのまま動向がないのに、しかたなく、背後を見やれば、黒田が無表情で佇んでいた。
読めない表情ながら、察するに余りあるものがあり、思わず声をかけようとしたものの、その前に、力なく首が振られた。
そして、告げられた。
「水たまりしか、なかったよ」
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
山本さんのお兄さん〜同級生女子の兄にレ×プされ気に入られてしまうDCの話〜
ルシーアンナ
BL
同級生女子の兄にレイプされ、気に入られてしまう男子中学生の話。
高校生×中学生。
1年ほど前に別名義で書いたのを手直ししたものです。
食事届いたけど配達員のほうを食べました
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか?
そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。
肌が白くて女の子みたいに綺麗な先輩。本当におしっこするのか気になり過ぎて…?
こじらせた処女
BL
槍本シュン(やりもとしゅん)の所属している部活、機器操作部は2つ上の先輩、白井瑞稀(しらいみずき)しか居ない。
自分より身長の高い大男のはずなのに、足の先まで綺麗な先輩。彼が近くに来ると、何故か落ち着かない槍本は、これが何なのか分からないでいた。
ある日の冬、大雪で帰れなくなった槍本は、一人暮らしをしている白井の家に泊まることになる。帰り道、おしっこしたいと呟く白井に、本当にトイレするのかと何故か疑問に思ってしまい…?
浮気性のクズ【完結】
REN
BL
クズで浮気性(本人は浮気と思ってない)の暁斗にブチ切れた律樹が浮気宣言するおはなしです。
暁斗(アキト/攻め)
大学2年
御曹司、子供の頃からワガママし放題のため倫理観とかそういうの全部母のお腹に置いてきた、女とSEXするのはただの性処理で愛してるのはリツキだけだから浮気と思ってないバカ。
律樹(リツキ/受け)
大学1年
一般人、暁斗に惚れて自分から告白して付き合いはじめたものの浮気性のクズだった、何度言ってもやめない彼についにブチ切れた。
綾斗(アヤト)
大学2年
暁斗の親友、一般人、律樹の浮気相手のフリをする、温厚で紳士。
3人は高校の時からの先輩後輩の間柄です。
綾斗と暁斗は幼なじみ、暁斗は無自覚ながらも本当は律樹のことが大好きという前提があります。
執筆済み、全7話、予約投稿済み
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる