魚、空泳ぐ町

ルルオカ

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魚、空泳ぐ町

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健二は言葉にならない声を上げながら、跳ね起きた。

ひゅうっと息を吸い、とたんに咳きこんでうな垂れる。

全身から汗が噴きだし、水を被ったように、びしょ濡れになりつつ、咳きこむたび、鼓動を早め、体の熱を上げていった。

そのうち、発熱したように、悪寒に震えるようになり、呼吸もままならずに、ひたすら咳きこみつづけた。

咳がおさまってきても、動悸と発汗はやむことなく、ひどい眩暈がしたものを、一時の猶予もなかったから、腰を屈めながらも、立ち上がった。
家具や壁に手をついて、体を支えつつ、リビングから廊下へと、でていく。

不整脈のような、動悸がやまないのは、まさに胸騒ぎがするせいのように思えた。
共に寝ていた黒田が、いなくなっているから、尚更にだ。

生々しい殺人の夢にいた直後とあって、頭を混乱させているのではない。残念ながら、小説の走り書きから、夢想したのではなかった。

読んだのは、ナギが虹色の魚にしがみついて、水の渦を上っていったところまで。その後の内容は、まだ走り書きをもらっていないので、知る由もない。

洞察力があって勘が鋭い健二だが、完成度が高い物語を、丸々、自己流で脳裏に描けるほど、想像力は豊かではない。

そもそも、走り書きの、先の展開を全く読めていなかったし、大抵、目覚めれば、すぐに夢を忘れるタイプでもある

そんな自分の頭の構造や、経験からして、たかが夢とは捨て置けなかった。

一息ついて壁に寄りかかりつつ、廊下の先を見やったところ、階段のほうに向かう後ろ足が、ほんの少し見えた。

いつも、黒田がつっかけている、サンダルではない。
泥だらけになった、スニーカーだ。

その正体に、嫌でも心当たりがあって、甦った死者を目にしたかのようにぞっとなり、吐きそうになった。

単なる夢ではないと、思っていたが、いざ実物を目の当りにさせられては、飲みこみきれない。
足元が崩れていくような錯覚がするのに耐えられず、できたら、見なかったことにしたいと、膝を屈し、目を瞑りそうになる。

いや、黒田や彼女を見殺しにするのか。

と、すかさず思い直して、膝が震えるのにかまわず、壁を這うようにしながら、進んでいった。

階段兼広間にでれば、彼はどこにも見当たらなかったが、足を休めず、階段を上って、右の廊下に踏みこむ。
乱れる呼吸を飲み、屈めていた姿勢を正して、廊下の突き当りに顔を向けた。

廊下にも、彼はいなかった。

本調子でない、健二の足の運びが、いくら遅いとはいっても、ここに至るまでの合間に、片足が不自由な彼が、突き当りの部屋に辿りつけたとは思えなかった。

こちらの世界にきて、足が治ったとか?
とくらくらする頭で考えつつ、とりあえず彼女が心配だったから、まっすぐ突き当りの部屋へと向かう。

廊下の中間くらいに、至ったときだった。

いくつ目かの扉の前を、通りかかろうとして、突然、それが開け放たれ、目の前に迫ってきた。

相手が知恵遅れだからと、侮っていたわけではないが、まさか、どこかの部屋で待ち伏せをしていたとは、思いもよらなかったことだ。

突き当りの部屋しか目がなかった健二は、なす術なく、もろに扉に顔面を打ちつけ、上体を仰け反らせた。
一瞬、意識をとばしつつ、脳みそが揺さぶられたことで、先の吐き気がぶり返し、堪らず前のめって、四つん這いになる。

口元を手で覆い、こみ上げてくるのを、どうにか留めながらも、足音、片足を引きずる、その音が聞こえたのに、顔を上げた。

見上げた先には、全身ずぶ濡れのスイがいた。

黒田の描写通りの姿形をして、眉を逆立てつつ、ひっきりなしに、充血した目から涙をこぼしている。
「う、うう」と呻いて、しきりに腕を揺らしいるのが気になり、見やれば、カンテラを持っていた。

黒田が愛用しているカンテラで、健二も持ったことがあるが、鉄製の頑丈なものだ。

重量感のあるカンテラを、頭の傍で振られては、落ちつかなかったとはいえ、泣きじゃくるスイを見ていたら、逃げようとも、歯向かおうとも思えなくなった。

訴えたい思いは、胸に痛いほど分かったから。

そうだよなあ、と。
同じ屋根の下で、好きな人が喘がされたら、たまったものではないよなあ、と。

なんて、うんうんと肯いて、宥めている暇はなかった。

「うー!」と目を瞑って、頭を振ったスイは、涙を散らしきったなら、もう泣くことなく、俄然、健二を睨みつけて、カンテラを振りかぶった。

まだ目が回ってるし、吐き目を堪えるのに精一杯では、どうすることもできず、スイへの同情もあってだろう。
身じろぎもしないで、悠長にも、掲げられたカンテラを見上げたら、目を見張ったスイが、肩を強張らせたようだった。

躊躇いを覚えたにしろ、時すでに遅し。
振り下ろされたカンテラは、剛速球のように迫って、勢いそのままに、脳天に至りそうになった。

そのとき。

荒々しい足音が耳につき、はっとしたように、スイがカンテラから手を放すと、ほぼ同時に、その体が吹っとんだ。

額すれすれに、カンテラが滑空した間もなく、スイが頭上を跳び越えて、健二の足元に落下をした。

床に突っ伏して倒れたのを見やってから、前に向き直れば、壁に手をついて屈みこみ、息を切らす黒田がいた。

それまで、彼女と共にいたのだろう。
健二が扉にぶち当たった音を聞きつけ、突き当りの扉から顔を覗かせたなら、一瞬のうちに状況を飲みこみ、駆けつけてくれたらしい。

運動不足だからから、よほど焦ったからか、発作を起こしたように、息も絶え絶えに、ぐったりとしている。

助けてもらった身ながら、むしろ、その体調を案じて、「く」と呼びかけようとしたが、顔を上げた黒田は唇を噛んで、健二の体を跨いだ。
再度、襲いかかってくるのを、防ごうと、スイに向かい、立ちふさがるつもりのようだ。

華奢な猫背では、頼りがいがなく見えたとはいえ、振り返ったスイは「ひ」と、小さい悲鳴を上げた。

黒田は口を利かず、佇んだまま、近寄ろうともしないものを、「あ、ああ・・・」と逃げるように這いずりだす。
そのうち、壁にしがみついて立ち上がり、片足を引きずって「あ、あ、ああ」と呻きながら、歩いていった。

廊下の出入り口を曲がって、背中が見えなくなり、少しも経たず、けたたましい物音が聞こえた。

音の正体に、すぐに察しがついて、起き上がろうとした健二に、黒田が目配せをしてから、階段のほうへと向かう。

一人で行かせるのは、心配だったものを、眩暈も胸のむかつきも、まだ収まっていないとなれば、見送るしかなかった。
立ち上がれたとしても、まともに歩けないどころか、最悪、歴史的建造物を吐瀉物で汚しかねない。

せめて、やおら上体を起こし、床に座りこんで、深呼吸する。
先の物音が気になるとはいえ、扉を叩きつけられるは、カンテラで殴打されかけられるはと、目まぐるしく危険な目に合っていたのが、一段落つけたとなれば、がっくりと肩を落とすというもの。

安堵もしてだろう。
吐き気が失せていき、視界の揺れもなくなって、みるみる復調をしていった。

そうして体の調子を取り戻しながらも、打ちひしがれたまま、頭を垂れていたら、足音が寄ってきた。

引きずった足音でないからに、黒田が戻ってきたものと、分かったが、顔を上げるのが億劫なような、向き合うのが怖いようなで、身動きしなかった。

近くで足音がやみ、そのまま動向がないのに、しかたなく、背後を見やれば、黒田が無表情で佇んでいた。

読めない表情ながら、察するに余りあるものがあり、思わず声をかけようとしたものの、その前に、力なく首が振られた。
そして、告げられた。

「水たまりしか、なかったよ」




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