倒錯文学入水

ルルオカ

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倒錯手紙墜落・高井

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朝食前にかるく運動をと、出発してから、俺らが散策道の出発地点に戻ってきたのは昼近くだった。

たまたま、そこに居合わせた叔父に「よかった!捜索隊を要請しようかと思っていたんだよ!」と泣き腫らした目をして縋りつかれたが「彼女をお願いします」と坂田を差し向けたなら早々「帰ります」と一目散に駅へと向かった。

驚く間もなく、俺が脱兎のごとく駆けていったからだろう、叔父らは追いかけることも、呼びかけることもなかった。

坂田には叔父らと合流する前に話をつけていた。
「俺は帰るが大丈夫か」と聞いたところ「はい」と間を置かずに肯いてみせた。

俺なりに取り繕っていたつもりとはいえ、心ここにあらずなのは駄々漏れだったのだろう。

吹っ切れたような顔をしたからに、坂田のほうこそ「いい加減、態度をはっきりさせろ」と苛立ちを募らせていたのかもしれない。

旅館に戻らなければ着替えもせず、泥んこのまま切符を買い電車に乗った。

駅員は絶句をしながらも切符を切って、見送ってくれたが、周りの乗客はぶしつけに視線を寄こしつづけ、しきりに指を差し、囁き合っていた。

ただ、誰も電車の床を汚すのを注意しなければ、心配して声をかけてもこなかった。

俺が泥にまみれた顔を鬼気迫るように凄ませていたのと、電車に乗りこんでからずっと出入り口の窓を睨みつけ、そのまま二時間ずっと仁王立ちしていたせいだろう。
生きた不動明王だと、老婆に拝まれるなんてこともあったものだ。

電車に乗って一時間くらい経ったころ、窓に雨が打ちはじめた。

温泉街は薄く雲がかかりながらも晴れていたものを、電車が向かうほうの空は灰色の雲に閉ざされて、雨模様らしい。
終着駅に着いてみれば、雨脚は強くなっていて、昼下がりというのに日が落ちたように暗かった。

山で遭難しかけてから、そのまま電車に飛び乗った俺は、もちろん傘を持っていなかった。

が、全身泥まみれで今更、濡れるのを気にするのも馬鹿らしく、売店にある傘を手に取る暇も惜しくて、雨の中、周りが気狂いでも見るような目を向けてくるのにかまわず、猪が如き突進していった。

野田の下宿に辿りつき、突進してきた勢いのまま、玄関の戸を開け放った。

思ったより、けたたましい音が鳴ったのに、ふと時さんの顔が浮かんだこともあって、我に返りかけたが、くたびれた下駄の隣に磨かれた皮のブーツが並んでいるのを見たなら、俄然、土足で乗りこんだ。

時さんが台所から顔をだす前に階段を駆けあがり、二階の襖を叩きつけた。

室内は薄暗く、真ん中に敷いてある布団に野田は横たわっていた。

体調が優れないのか。
額は青く頬は薄紅で、濡れた手ぬぐいが額からずれ落ちている。

とりあえず、最悪の事態に遭遇しなかったことにほっとし、だが、顔を引き締め直して、布団の傍で正座する山國屋に睨みを利かした。

さほど驚いてもなさそうに、こちらを見上げる山國屋は意外に無駄口を叩いてこず、微笑だけして立ち上がった。

目を伏せたまま俺のほうに寄ってきたから、避けるついでに部屋に踏みいったなら、山國屋はすれ違いに廊下にでて、そのまま階段を下りていった。

釘を刺さず、牽制もしないで去っていったのが思いがけなかったが、その背中を見送りはせず、魂が彼方に飛んでいったように呆けている野田を見つめた。

乱れた息が落着いたところで「あんたの作品なんか、読むんじゃなかった」と舌打ちまじりに呟いた。

目尻を痙攣させ眼鏡をずり落としただけで、野田は呆けたまま。
早々に痺れを切らした俺は、布団ごと体に跨り前屈みになって着物の襟を引っ張り上げた。

「あんたがいなければ、俺はこんなに苦しんで生きなくてもよかった」

俺は曲がったことが大嫌いなはずだった。
はずだったのに。

山城の妻、千代に手紙を渡さず、死に際も伝えず、おまけに「自分が山城を殺したようなものだ」と嘘を吐いた。

成すべき事を成さなかった。

女々しく邪な思いに惑わされたせいだが、とても言い訳して許されることではなかった。

軍のお偉いさんに楯突くのをやめなかったほど、成すべき事を成せないなら死んだほうがいいと腹をくくって生きてきた俺だ。

死者の思いを踏みにじり、遺された人間を愚弄するような真似をして、のうのうとお天道様の下にいられるわけがなかった。

一時期は本気で死ぬ覚悟をして、身辺整理をしたこともあった。

そのときに見つけたのが、蟹崎尚の作品とされていた「恋文の行方」だった。

学校の授業で読まされた蟹崎尚の作品とは別物のようだったから、文豪の名を借りた新人の小説だろうと、すぐに察しがついた。

そう、はじめから、別人の著作と見なして読んだわけで、読了感は元々好みでない蟹崎尚より最悪だった。
なにせ、死ぬのが馬鹿らしくなったのだから。

たった一度、手紙を渡せなかったことを悔いている俺に対し、小説の主人公は何通もの手紙を懐に入れて岡崎を騙しつづけ、亡き後は女に許しを請うどころか「なんて不義理な」と責めたてた。

そして、俺は山城の手紙を捨てられないのに、奴はごみ屑のように溜まった手紙を燃やしやがった。

この男なら、女が恥じ入って自殺しても、胸を痛めないのだろうと思ったら、どうしようもなく死ぬ気が失せたのだ。

死ぬのをやめたからといって、閻魔に舌を抜かれずに済んだわけでもない。

自分に人でなしな一面があることを認めたくなくても認めざるをえないまま生きるのは、閻魔にお仕置きされるより辛いことのように思えた。
曲がったことが大嫌いなのは相変わらずだったから、余計だ。

せめて、千代に手紙を渡して詫びれば、少しは気が晴れるだろうに、十年経っても俺は歯を食いしばって手紙を握りしめつづけている。

十年前に死んでいれば、こんな目も当てられない自分の醜さを知らないで済んだものを。



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