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倒錯手紙墜落・山國屋
一
しおりを挟む雨戸を開けると、水気を含んだ風が吹きつけた。
庭は霧がかって、伸ばした手をくすぐるように水滴が弾けるからに、霧雨が降っているのだろう。
微細な雨で湿る庭は、草木の香りが陽炎のように立ちこめている。
とくに鼻腔をくすぐるのは金木犀だ。
湿り気を帯びた金木犀の香りは、美酒のように甘やかで嗅いでいると酔いそうになる。
かるい眩暈を覚えて、柱に手をついた。
金木犀の甘たるい香りは、私にはいささか毒だ。
悪い酒に当てられたように、普段は鳴りを潜めている凶暴性を目覚めさせてしまいそうだった。
柱に爪を立てて、胸のくすぶりを宥めるように息を吐いてから振り返る。
開けられた襖の向こうには眠る妻がいる。
こちらに背を向け、規則正しく肩を浮き沈みしているのを見て、その背中を蹴りつけたい衝動に駆られる。
だが、一瞬間のことだ。
一時の気の迷いを起こした場合の代償が大きすぎては、すぐに頭も冷えるというもの。
そうかといって、金木犀の香りにざわついた胸の奥底の疼きはそのままで、やりきれないのに変わりはない。
私は何も捨てるつもりはなかった。
捨てられないのが、意気地のないことだとも思わない。
ただ、捨てられないことで損をしてると思うことはある。
そう意識するようになったのは野田先生の隠れた著作「恋文の行方」を読んでからだ。
だったら野田先生に責任を取ってもらおう。
寝ている妻の背中から目を逸らして、音を立てないように雨戸を閉めた。
それから開けた襖のほうには戻らずに、薄暗い廊下を歩いていった。
庭側の雨戸は閉めきられているはずが、体に纏わりつくように金木犀が香ってやまなかった。
※ ※ ※
時さんには今、巷で評判の演劇の券を渡し、出払ってもらった。
高井君は出版社の慰安旅行で後、二日は戻ってこないという。
そして、野田先生といえば、相変わらず僕の訪問に苦い顔をしながらも、原稿を書くのに座卓に向かい、背中を見せて憚らない。
野田先生の目の前の開け放たれた窓からは、ひそやかな雨音と金木犀の香りがする。
時折、吹かれる煙管の煙たさが混じって、妙な気分を掻き立てるような匂いが鼻を掠める。
小説の一場面のように、お膳立てされた状況とあっては、餌のお預けを食らう犬畜生のような心境にもなる。
とはいえ、料亭で手篭めにしようとしたときから、さほど経っていないとなれば、不様に未遂に終わったことを思えば尚、手がだしにくい。
一応、持参したそれを得意にお披露目する気にはなれない。
そう思っていたのが、振り返った野田先生が眼鏡をかけているのがいけなかった。
電灯の点いていない室内は、小雨が降りつづける外より薄暗かった。
窓を背にした野田先生は逆光になって影がかって、ただ、眼鏡だけが艶めくように光っていた。
「眼鏡」と呟くと「ああ」とやや俯いて眼鏡を指で触れた。顔を傾けたせいか、表情に影が差したように見える。
「なに、戦後間もなく広島に行って、それ以来、年々、悪くなっているようでね」
「広島」と聞いて胸騒ぎがしつつも「そのまま失明してしまうかもしれないですね」と返した。
微笑を浮かべたまま、悪気がなさそうに不謹慎な言葉を口にしたのに、野田先生は怒ることなく、暗い表情で笑ってみせた。
「そうなったら、君に囲ってもらおうか」
いつにない虚無的な表情。
光の差さない瞳。
眼鏡の硝子の艶めき。
影がかった白い肌。
絶え間ない小雨の音。
煙る煙管と濡れた金木犀の香り。
目に入るもの耳に入るもの鼻に入るもの、すべてが惑わしてくるようで、壮絶な色香に屈しないではいられなかった。
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