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倒錯文学入水
五
しおりを挟む「野田先生」と言われたのに頬を引くつかせつつ「そんなの分かりきっている」と胸の内で呟いた。
彼女の手紙の代わりに、岡崎に読み聞かせていたのは「私」が書いた手紙だ。
彼女の手紙を装って「私」は岡崎に自分の思いを吐露していた。
そう、かつての僕のように。
時さんが言っていたように、蟹崎尚の女癖はひどかった。
気性の激しい奥方に浮気が発覚するたびに力尽きるまでまな板で叩かれても、改めようとしなかった。
奥方を恐れながらも何とか目を盗んで浮気をしようとして、その手伝いを書生だった僕はさせられたことがある。
手伝いの一つに蟹崎尚と愛人の手紙の仲介があった。
旅館の女中から手紙を受け取り蟹崎尚に読み聞かせ、返事を旅館へ届けに行くという繰り返し。
女中からの手紙を渡すのではなく読み聞かせていたのは、蟹崎尚が仕事以外で文字を見るのが嫌だと言ったからだった。
そんなものかと思って、はじめは普通に読み聞かせていたものの、ある日ふと悪戯心が湧いて、手紙に書いていないことを口にしたら蟹崎尚は気が付かなかった。
なんなら、いつも退屈そうな顔にすこし喜色が見られたほどだった。
それを機に僕はだんだんと手紙に書いていないことを言うようになって、しばらくもすれば女中の手紙ではなく、僕が書いた手紙を読み聞かせる、なんてことまでしだした。
あくまで女中の手紙を読み、その中身を踏まえ、文体も似せてだ。
ただ、そのうち女中の手紙を読むのも煩わしくなって、一から僕が原案の手紙を書くようになった。
蟹崎尚は気が付かないどころか、僕が書いた手紙の一言一言に頬を染めたり鼻の下を伸ばしたり悶えたり、打てば響くような反応をしてみせた。
前に読み聞かせていた女中の手紙が、あまりに拙かったせいもあるのだろうけど、蟹崎尚が熱心に聞いているさまを見ると、女中より僕のほうに気があるのではと錯覚しそうになったもので。
蟹崎尚の女癖のひどさを間近で見てきた身としては、時代も時代だったので思いを打ち明けるつもりはなく、女中の手紙を装って思いを伝えることで気が済んでいた。
とはいえ、誤算が一つあった。
僕が女中の手紙を読まなくなったせいで蟹崎尚と女中のやり取りに齟齬が出てきたのだ。
たとえば女中が「どうしたらいいか」と手紙で書いても、内容を知らない蟹崎尚はその返事を書かない。
そうすると女中は無視された、ないがしろにされたと怒るといった具合になる。
「この頃、訳が分からないことで怒られるのだ」と蟹崎尚が愚痴をこぼしたことで、事態を把握した僕は軌道修正をしようとしたものの、その前に蟹崎尚は頬に赤い手形を付けて帰ってきて「ふられた」とうな垂れてしまった。
取り返しがつかないことになったと、慌てふためいた僕が怒られることを承知で、すべてを打ち明けようとしたところで、すがりついてきた蟹崎尚に押し倒された。
傷心の割に鼻息が荒いことを疑問に思う間もなく、接吻をされ膨らんだ股間を押し付けられ、そのままなし崩しに体を重ねることになった。
事後に蟹崎尚は「手紙がお前が書いたものだと気づいていた」と言った。
いつからなのか、何がきっかけだったのか細かいことは教えてくれなかったものを、僕は思いが通じた、それだけで十分に舞い上がって気にしなかった。
今となっては蟹崎尚がどこまで本気だったのかは分からない。
少なくとも愛人として都合がいいと思っていたのは確かだろう。
なにせ、それまで散々、蟹崎尚の浮気に手を貸してきた僕だ。
来客の予定や奥方の一日の動向など隅々まで把握し、逢引するのに適した時間帯を割り出すのは、お手の物だったし、多少、調整することもできた。
大体、奥方は男を警戒していなかった。
寄りつく女には厳しい目を向ける奥方だが、僕のことは眼中にないようだった。
奥方に全く疑われることなく、その上で慎重に逢引をしていたから、中々、僕と蟹崎尚の関係が暴かれることはなかった。
蟹崎尚が愛想を尽かさなければ、僕が変な欲を出さなければ、生涯の愛人になることも夢ではないのではないかと一時期、思ったこともある。
とはいえ、いくら秘めた恋に徹して日陰の存在に甘んじようとしたところで、どこかで綻びが出てくるものだ。
蟹崎尚の書生ながら、僕は文学や書物に興味がなかった。
正直に言えば、蟹崎尚の作品にもこれといって思入れはなく、ただ、そうやって僕が一文豪として憧れたり敬ったりしないのを蟹崎尚は気に入ったらしい。
といって書生は書生なので、立場的に何か書かないことには格好がつかないと、一つ二つでもいいから作品を手がけることを勧められていた。
蟹崎尚の勧めでも気が乗らなかった僕は、だったらと、経験を元にして文章を綴った。
それが「恋文の行方」だった。
仕上がった原稿を蟹崎尚の部屋に置いておいたところ、編集者の目に留まり「面白いので雑誌に載せてみないか」と言われたのだという。
その編集者には幾度か締め切りを伸ばしてもらって申し訳なく思っていたこともあり、僕の了承を得ることなく蟹崎尚は話を通してしまった。
無名の新人では編集長の了解を得られないだろうとのことで、手直しをして蟹崎尚の名義で掲載する運びとなった。
元より、文学に興味がなく作家になりたいとの意欲もなかった僕だから、掲載について事後報告されても、とくに不満も文句はなかった。
「あなたのお役に立てるならそれで」と我ながら殊勝なことを言い、胸を打たれたらしい蟹崎尚に抱かれて丸く収まった。
というわけにはいかなかった。
雑誌に掲載された「恋文の行方」を読んで、僕と蟹崎尚の関係に勘付いた人間がいた。
蟹崎尚の元愛人、旅館の女中だ。
作品を読んだ女中は、自分も同じ仕打ちをされたと思ったのだろう。
当時、僕に騙されていたということに気づいたわけだ。
どうして僕が愛人の手紙を、蟹崎尚に渡さないでいたのか。
その理由にもすぐに察しがついたのか、そして、未だ僕が書生として蟹崎尚の傍に居ることが何を意味するのかまで、思い至ったものと思われる。
女中は蟹崎尚に脅迫文を送ってきた。
書生との関係を奥方に知られなくなかったら、別れろとのことだった。
僕との関係が知れては、奥方はまな板でなく包丁を振りかざしかねない。
そう考えて冗談ではなく命の危機を覚えているようだった蟹崎尚は、愛人としても書生としても僕を切り捨てた。
別れた後も月々に仕送りをしてくれ、艶本の作家に推してくれるなどの面倒を見てくれたのは、思いやりだったのか、口止めのためだったのか。
蟹崎尚が亡くなった今ではもう知る由もない。
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