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倒錯文学入水
四
しおりを挟むはじめから、変だとは思っていたのだ。
今回はいつもより締め切りに遅れなかったのと、作品の評判が良く雑誌の売り上げに貢献したということで、その謝意として食事に誘われた。
これまで編集長とは幾度か食事をしたことがあるから、誘われたこと自体はそう珍しくない。
打ち合わせと称して酒を飲み支払いはおおよそ折半。
そう、あくまで飲み仲間として付き合いがあったのだが、このときは高級料亭に連れていかれ、編集長が作家に接待をする体でもてなされた。
どういう風の吹き回しかと、そりゃあ訝ったし、編集長が高級料亭に気後れする様子が見て取れたからに余計に不信感は募っていった。
食事の席についても目を泳がせてばかりいて、食事や酒が喉を通らないといったような具合。
何かと引っかかることが多かっただけに、編集長が逃げるように手水に立ち、少ししてから山國屋が障子を開けて現れたときは、むしろ得心がいったものだ。
僕が驚かないのに山國屋も別段、驚くことなく、己が手水から戻ってきたかのように、さりげなく席についた。
薄笑いを浮かべているのに対し、僕はなるべく顔色を変えないように努めながらも内心は肝を冷やしていた。
この部屋は料亭と渡り廊下でつながった離れに当たる。
多少、声や物音を立てても料亭には聞こえないだろうし、聞こえたとしても無闇に駆けつけることはしないよう料亭の人間は教育をされている。
山國屋の口添えがあったなら、余計に寄りつかないだろう。
よそに聞かれたくない話をしたいというだけで、そこまで人払いさせる必要はない。
政治家や経済界の大物ならまだしも、僕はしがない艶本の作家だ。
山國屋が一策を打って、高級料亭の離れに呼びだしたのには、話をする以外の目的があると考えるのが妥当というもの。
山國屋の目的は分からない。
ただ老舗和菓子屋の育ちのいい坊ちゃんが、本来、近寄ってならないような、いかがわしい一作家にこうして執着している理由自体、いいように想像できない。
だから、これまで山國屋に外出や食事を誘われても断ってきた。
断りつづけた結果、こうなっては逃げたくもなる。
席を立ち帰ろうとすれば、おそらく山國屋も無理に止めはしないだろう。
が、板挟みになっている編集長を思うと、軽率なことをするのは憚れた。
そういった僕の心理を読んでお膳立てをしたものと考えられるが、それにしても疑問は残る。
「初めからこうすればよかったのに」
酌をしてきのに応じずそう言えば、山國屋は笑みを深めて徳利を引っこめた。
僕がおちょこを煽ったのを尻目に、おちょこを指先で撫で酒や料理に口をつけようとはしないで、口を切る。
「こう見えて、裏から手を回すなんて、つまらないことはしたくなかったんです。
ただ、気が変わりましてね。
先日の高井君と繰り広げた逃走劇を見て」
逃走劇とは大袈裟なと思いつつ、徳利から酒を注ぎながら先日のことを思い返す。
ここ半年ほど山國屋が下宿に訪れ、少し遅れて高井が顔を出すという習慣がつづいていたのが、その日、高井は山國屋と共に僕の部屋に赴いた。
締め切り日だったからだ。
もちろん原稿は半分しか仕上がってなく、それを目の当たりにした高井は「原稿ができるまで、ずっと見張ってるからな」と宣言して座りこみ、言った通りに動こうとしなかった。
殺気立ち睨みつけてくる高井の傍で、山國屋はどこ吹く風で世間話をしつづけ、高井は遮ろうとせずとも苛立ちを募らせているのは明らかだった。
前から休みなく下宿に通ってくるなど、どこか張り合っていた二人だ。
このときは前にも増して見えない火花を散らしているように思え、背後でそうやられては原稿に集中できなかった。
早々に音を上げた僕は立ち上がった。
高井も立ち上がろうとしたのを振り返って「手水だよ」と言った。
片膝で留まった高井は、信じられるかと言わんばかりに顔をしかめていた。
予想通りだったので「心配ならこの窓から見張っていればいい」と原稿の置いてある座卓の傍の窓を指差した。
「この下は玄関だからね。
たとえ玄関の扉以外から出ても、通りを見渡せるからすぐに発見できるだろうよ。
家の裏に通じる勝手口の傍には時さんがいる。
高井君のことだから僕が不審な動きをしようとしたら時さんに知らせてくれるよう頼んでいるのだろうから、裏も大丈夫だろう。
じゃあ家の側面はというと隣家が迫っていて、その隙間は狭い。
窓から出れないこともないが、着物が皺くちゃの泥だらけになっては外出はできやしないよ」
勘付かれることなく脱走できる術がないことを懇々と説明してやると、高井は片膝だったのを、畳に腰を落とした。
変わらず不審そうに僕を見ていたが、部屋を出ていっても引き留めることはなかった。
それから少し経って高井が血相を変えて廊下に飛び出てきた。
そのときちょうど僕は草履を手に持ち、窓の縁を跨ごうとしていた。
すぐさま高井は突進してきたものの、すでに僕は屋根伝いに歩きだしていた。
家が密集するここ一帯には屋根伝いに地上まで下りられる道筋がある。
と、近所の子供に教えてもらった通りに僕は慎重に足を運んでいった。
その後を足を滑らせたり、転びそうになりながら、高井が瓦を五月蠅く鳴らして追いかけてきたというわけだ。
二人とも屋根から転げ落ちることなく、屋根伝いに地上に降りられたものの、道筋を知っていた分僕のほうが早く屋根から抜けだしたので、逃げおおせることができた。
が、後日、倍返しされたのだが、それはさておき。
逃走劇というより喜劇のような僕たちのやり取りを見て、心変わりしたとの山國屋の心理は相変わらず不可解だ。
「君も僕と鬼ごっこでもしたいのか」と眉をしかめて問うと「できるなら、してみたいものです」と茶化すようでもなく応える。
「ただ、高井君を見ていると思い知らされるのですよ。
心根の汚い僕にはあなたと鬼ごっこはできないだろうと」
自虐しているかに見せかけて、嫌味っぽかったり皮肉めいてたりする。
そういった質の悪い嗜虐的な癖がある山國屋だが、今日はいつもより刺々しさがなかった。
まさか本音に近いのかと、訝りつつも思う。
掴みどころのない山國屋の正体を暴ける好機かもしれないと、話に踏みこもうとしたところ「蟹崎尚の『恋文の行方』」と遮るように言われた。
「この作品、あなたから蟹崎尚への恋文なのですよね?」
「恋文の行方」の作者が僕であることを、山國屋が勘付いていることは勘付いていた。
が、作品が蟹崎尚のへの恋文と指摘をされるとは思ってもみなかった。
虚を突かれた点では驚いたとはいえ、言葉を失くしたのは「はあ?」と笑い飛ばせるほど心当たりがなくはなかったからだ。
はじめから確信を持っていただろう山國屋は、あらためて問いただすことなく「この作品は色々と考察のし甲斐がある」と話を進める。
「一つは登場人物の名前が『岡崎』しか明かされていないこと。
蟹崎尚の小説ではたいてい、人物の苗字と名前が書かれていますからね。
一方で『恋文の行方』では主人公は一人称で、岡崎の思い人は女、彼女としか書かれていない。
あまり名前を表記しないのは、あなたの作品と同じですよね。
それにしても、蟹崎尚の名で世に出すのなら、文体だけでなく人物の名前も書き足せばよかったものを。
そうできない事情でもあったのですか?」
今度は絶句するのではなく、あえて口をつぐんだ。
「そうできない事情でもあったのですか?」と聞きながら山國屋はある程度、察しているのだろう。
知った口を叩くのを癪に思いつつも、墓穴を掘りたくなく黙ってままでいると、僕から言葉を引き出すのを諦めたようでため息一つ「二つ目は」とつづけた。
「彼女の手紙についてです。
主人公の『私』は彼女から手紙を受け取り、襖越しに岡崎にその手紙を読み聞かせていた。
ですが、最後に『私』はほとんど封を開けられていない彼女の手紙を火にくべようとしている。
封が開けられているのは最初の一通だけ。
このことから予測できるに『私』は最初の一通を読んで頭にきて、その後は手紙を受け取るだけで手つかずにしていたのでしょう。
しかし、小説では読み聞かせをつづけていたようだ。
じゃあ、『私』が読んでいた手紙は何だったのか。
これについては詳しく書かれていなく、多くの読者が疑問に思い気になっている。
一読者の私も知りたいところです。
そこはどうなんですが野田先生」
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