倒錯文学入水

ルルオカ

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倒錯文学入水

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このまま蛙のように一飲みにされるかと思ったけど「野田さん、またお客さんですよー」と階下から声が響き、その直後に荒々しい足音が迫ってきて、美丈夫を黙らせてくれた。

古い家の階段を踏み抜かんばかりの足音を立てて、開いた襖の向こうに姿を現したのは仏頂面の若い男だった。
ハンチングを被りYシャツにベストを着て、くたびれた革の鞄を脇に抱えている。

見るからに編集者といった風情だけど、厳めしい顔で仁王立ちをするさまは鬼気迫るものがあって「や」のつく人のように見えなくもない。

正直、彼の登場で一息つけたとはいえ、かん、と煙管の灰を火鉢に落とし「高井君か」とため息をついてみせた。

「ほんと、時さんには困ったものだね」

間髪入れずに「はあ?」と不満げな声を上げた高井は仁王立ちのまま「なんで時さんのせいなんスか」と諫めるように言ってくる。

「時さんにすれば、あんたがごろごろしているのを知っていて、来訪客に『今は忙しいので』なんて嘘なんか吐きたくないでしょうが。

あんたが玄関先まで出てきて、直接、追い返せばいいだけの話で、人に嫌なことをさせておいて、よくも、ケチをつけられたもんスね」

突きつけられた意見のまっとうさに、苦笑するしかなかった。

山國屋にも似たことを言ったのに対し、反応が対照的だなと思って目をやれば、その視線に気づいて高井も山國屋を見やった。

一目瞭然に良家の人間と分かりそうなものを、高井は固い表情を崩すことなく、何なら眉間の皺を深める。

期待通りの反応が痛快だったものを、笑うのを堪えて「ああ、こちら、老舗の和菓子屋、山國屋の五代目」としれっと紹介をし、山國屋が丁寧にお辞儀してから「で、あれが今の僕の担当、高井君」と煙管の先を向けた。

高井が勤めている出版社が山國屋の世話になっているとなれば、さすがにその名を聞いて顔色を変えるかと思ったけど、こめかみをひきつらせただけだ。
お辞儀もおざなりなもので、それで用は済んだとばかりに「先生、原稿」と僕に標的を戻す。

「原稿ってね。
まだ締め切りまで日にちがあったと思うのだけど」

「いつも締め切りに間に合わないのに、よくそんな偉そうな口を利けるっスね。
先生が締め切りに間に合わないと、俺が困るし周りに迷惑がかかる。

あんたは、周りがどうなろうが気にしちゃあないのだろう。
ただ、あいにく俺には人並みに良心と責任感がある。

俺にできるのは、あんたの尻を叩くことくらいだけど、皆のためになら、いくらでも尻を叩いてやるよ」

「十も上の男の尻を、勇んで叩きたがるなんざ、君もいい趣味をしている」

「いい趣味で結構だ。
原稿が締め切りまで間に合ってくれるんならな」

平然と作家を「あんた」呼ばわりする高井の物言いに驚いてだろう。
山國屋はしばし高井を見上げたまま身動きしなかった。

が、置いてけぼりを食った状況に甘んじることなく、僕と高井のやりとりの合間に「ああ、高井君と言ったかな」と割りこんでくる。

まだいたのかと言うように白々しい表情を向けた高井に「仕事熱心なところ、申し訳ないのだけどね」と表面上は丁寧に語りかける。

「私に彼との時間を譲ってくれないかな?
一刻ほどでいいから」

「は?駄目に決まってる。

締め切りまで、まだあるといっても、どうせ駄々をこねて書くのを渋るうちに時間はなくなる。
一刻も無駄にはできない」

「まあ、そう言わず。
編集長である君の叔父とは僕は懇意なんだ。だから・・・」

「なんで叔父とあんたが親しいからって、俺が仕事を放棄しなきゃならない?
馬鹿も休み休み言え」

高井の歯に衣着せぬ物言いは痛快なのを越して、肝が冷えるほどのものだった。

さすがの山國屋も我慢を切らすかと思ったものの「すまない。私が悪かった」と意外にも、その口からしおらしい言葉が出てきた。

「私の言ったことは、仕事に真面目に取り組もうとする君に泥をかけるようなものだったね。
だから、改めて願いを請おう。

私は明日からしばらく、家を離れる。
その前に野田先生と話しておきたいことがあるんだ。

半刻でもいいから、野田先生と話をさせてくれないだろうか」

体の向きを変えて居住まいを正した山國屋に対して、高井は得意げな顔をするでなく、逆に怯みもしなかった。
聞こえよがしにため息をついてハンチング越しに頭をかき「半刻後、またくる」と開けた襖から姿を消した。

きたとき同様、いやそれ以上に階段の板を強く軋ませているのは苛立っているからだろうか。

自らの非を認め誠意を示した相手に対し失礼千万な態度だけど、勘が鋭いというか、本能が強そうな高井なので、山國屋を警戒すべき相手と見なしたのかもしれない。
その判断は間違ってはいない。

証拠に、先までしおらしくしていた山國屋は僕のほうに向きなおり、悪びれもなさそうに微笑している。
明日から家を離れるなんて嘘を吐いたくせに。

「新しい編集者さんは面白いですね」

それに肯くことなく、無言で机に向き直った。
ただ、また蟹崎尚の話題に戻っても困ると思い「ああ、面白いよ」と応じる。

「本当は文学方面の仕事をしたかったらしい。
けど、このご時世だし、規制の対象になっている出版業界に人を雇い入れる余裕なんかない。

まあ、普通に就労するのも難しいというので、編集長の叔父に頼ってこの仕事に就いたらしい」

蟹崎尚から意識を逸らさせるため、言葉を切らさず話したかったものを、ふ、とつい思い出し笑いをしてしまう。
仕切り直しに咳ばらいをしてから「コネだろうと、今の時代、職にありつけるのは幸運なのにな」とつづける。

「初めて会ったときは、えらい不機嫌な顔をしていた。
こんなところで仕事をするのは不本意だと言わんばかりにね。

まあ、仕事の付き合い上、見て見ぬふりをして、にこやかに挨拶をしようとしたのだけど『俺はこんないかがわしい仕事をするために今まで生きてきたんじゃない!』と怒鳴りつけてきた。

『男の汚い欲望を満たすために筆を執るあんたを軽蔑する!』とまで言われたよ」

「そんな彼が僕の担当になるなんて」と当時の高井の剣幕や罵倒を思い出しながらも、嫌な気分にはならなかった。

そのときから高井の居丈高な態度は変わっていない。
徹底して首尾一貫しているのには感心することがあり、愉快に思うこともある。

年下に舐められて愉快がる心理なんて、育ちのいい山國屋には理解できないだろうと思ったけど「妬けますね」と呟いたのが聞こえた。

耳を疑って振りむこうとしたのを、寸でで堪える。

それを笑うように微かに息を漏らし「彼の気持ちは少し分かるように思います」とまたもや意外なことを言いだした。

「本当の野田先生を知っているから歯痒いのですよ」



※  ※  ※



高井は言った通り、ほぼ半刻後に再訪をした。

山國屋が半刻より少し早めに帰っていったのは、それを見越してのことだったのだろう。

半刻前に訪れたときのように廊下に仁王立ちの姿を見せた高井は、右手に紐でくくった紙箱を提げていた。
紙袋の絵柄と香ばしい匂いからして、僕が好物な焼き鳥だ。

喜ぶより、どういう風の吹き回しかと訝ったものだけど、敷居を跨いで入ってきて、ちらりと原稿のほうを見やったなら、差しだしかけていた紙箱を引っこめてしまった。

残念。
原稿が真っ白なことでお預けを食らったようだ。

期待はしてなかったものを、夕食前に好物の香ばしい匂いをかがせるだけでお預けを食らわせるとは、中々無体なことをする。

といって、匂いに急かされて万年筆を走らせるのも癪だったから、何とも思っていないように煙管を吹かせる。
高井は「そ」と言いかけて、何故か一旦飲みこんで「蟹崎尚」と口にした。

「女と入水したんですか・・・」

新聞に目が留まったようで、声の響きからして驚いているらしい。

初手から「軽蔑する」と言って憚らないかった高井があざとく、とぼけるなんて小賢しいことをするとは思えなかったので「知らなかったの?」と振り返って問いかける。

返事はなかったものを、新聞に手を置き、記事に目を走らせている表情は寝耳に水といった感じだ。

中々、新聞から顔を上げないのに「蟹崎尚の愛読者だった?」と質問を重ねれば、首を振られる。
その割に、いつになく動揺を隠せないでいるのを不思議に思っていたら「蟹崎尚の作品は、あまり好きじゃない」とあくまで愛読者ではないと強調するように言ってきた。

「蟹崎尚が描く女は、男が喜ぶような女だ。
俺も男だが自分に都合のいい女なんか、つまらないと思う。

自分に都合がよくなくても、それが女の魅力かもしれなからな」

言っている内容は山國屋と似たようなことでも、高井には他意がなさそうだ。

実直な感想だからこそ蟹崎尚にすれば形無しで、故人とあっては少々憐れになり「世の男は、君ほど百戦錬磨ではないのだよ」と言えば「俺、童貞ですけど」の一言で黙らされた。

そこまで打ち明けなくてもと呆れているうちに「そういえば」と新聞に向かい、うな垂れたまま、言葉を繋ぐ。

「一つだけ、男が幻滅するような女が登場する小説があったスね。
『恋文の行方』」

表情を変えないようにしながらも、内心はひやりとする。

「山國屋といい、どうして」と思いつつ注視すれば、高井は心ここにあらずといったように「あの作品は色々と考えさせられる」と呟いた。

「心変わりする現実的な女。
その女に厳しい目を向けつづけた男。

男は女を試していたようで、本当は・・・」

僕が生唾を飲んだ、その音にはっとしたように言葉が切られた。
その後、悔いるように目を瞑ってみせ「すんません」と瞼を上げたときには、いつものふてぶてしい仏頂面に戻っていた。

「明日、出直してくる」

僕に何も言わせないように、すぐに立って背を向けた高井だけど「明日まで原稿進めろよ」と忠言するのを忘れなかった。
もちろん、焼き鳥も忘れずに。

焼き鳥の未練がありつつ、半端に話を切り上げられたことでのもどかしさもあった。

「本当の野田先生を知っているから歯痒いのですよ」との山國屋の言葉を鵜呑みにすれば、二人とも何かと承知をしているのかもしれない。

いや、でも、艶本に関わる仕事がいかがわしいと豪語していた高井が、承知しながら僕の担当をできるとは思えない。
担当をするくらいなら自決すると言いかねない。

僕のほうこそ死にたいよ。

山國屋と高井に惑わされ頭をかき回され、すっかり疲れ切った僕は原稿の上に顔を横たえて、しばらく動けなかった。

「野田さん、お夕食にします?」と言われても返事ができず、ただ慣れている時さんは「はいはい」と言って夕餉を運んできてくれた。

香ばしい匂いが漂ってきたのに、振り返れば焼き鳥が皿に乗っていた。
僕の視線に気づいた時さんが「高井さんが夕食に是非って。ちゃんとお礼言い張りましたか?」と言った。

やはり僕は返事をしないで、ため息を吐きながら原稿用紙の上で頭を抱えたのだった。




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