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倒錯文学入水
一
しおりを挟む戦後から十年経ち、細々と下宿暮らしをしていた僕の手元にその日届いた新聞。
一面に載っていたのは文豪の蟹崎尚が愛人と入水自殺をしたという記事で。
同じ物書きの、そのはしくれとして、思った以上にその記事に心動かされることはなかった。
「野田さん、朝食、召し上がりまっか?」
声もかけずに襖を開けられ、僕は広げていた浴衣の衿を合わせて「ああ」と背中越しに応じた。
着替えようとしているのは見て取れただろうに、下宿屋の女主人、時さんは謝ることなく「そうでっか」と回れ右をして食事を取りに戻ったのだろう。
ため息を吐きつつ外した帯を拾って腰に巻き、まだ結んでいないうちから慌ただしい足音と物音が聞こえてきた。
制止する前に部屋に入られてしまったからしかたなく、背を向けて帯を結んでいると「また散らかして」と時さんはぼやいて、どうやら勝手に座卓を片しているらしい。
別に見られて困るものはなかったから、させるままにして、ようやく浴衣を着付け振り返れば、ちょうど「あら、まあ」と新聞を手に取っていた。
「蟹埼尚、知ってるの」
そう聞きながら座卓に座ったところで、食事の乗った盆と急須から注がれたお茶の湯呑が手前に置かれた。
素早く配膳し終えて「本は読んだことはありませんけどね」と時さんは新聞を広げる。
「なんやら変な噂が絶えませんでしゃったろ。
泥酔して喚きながら半鐘を鳴らしてたとか。
芸妓に付きまとってお巡りさんに叱られたとか。
浮気の噂なんかしょっちゅう立って、ちょうど男と鉢合わせたんか、窓から褌姿で跳びだして走ってったのを見られたり。
私はそんな噂しか知りませんからね。
こんな人が文豪呼ばれているのが不思議ですわ」
蟹崎尚の散々な評価に、ご飯を咀嚼しつつ笑いを噛みしめる。
そんな僕の反応を気にすることなく「にしても、心中までしはるなんて」と熱心に新聞を見入っている。
「あれまあ、藁むしろ敷いてあるいうても、死体まで写ってますやないか。
いくら女での失敗が多かったからいうて、文豪をこんな見世物みたいにして」
苦言を呈しているようで新聞から目を離さないのに、やや呆れつつも「ああ、ほんと、同じ物書きとして胸が痛むよ」と嘆いてみせた。
とたんに新聞から顔を上げた時さんは「物書きねえ」と胡散臭そうに見えてくる。
「私、そんな本を読むほうではないけど、野田さんの名前、聞いたことないわ。
そりゃあ、たまに編集者名乗る人、来てるいうても・・・・結局、どんなもの書いているんで?」
「さてね」と言いつつ「艶本を」と打ち明けたらどんな顔をするだろう、とちらりと思う。
好奇心がないでもなかったけど、結構、体裁を気にする大家だから「今すぐ出ていけ」と背中を蹴られかねないと思い「まあ、いいじゃないか」と笑いかけた。
「下宿代をいつも遅れることなく払っているのだから」
戦争で夫と息子を亡くした時さんにすれば、唯一残されたこの家が頼みの綱だ。
体裁を気にできるのも食っていけてこそと、心得ている時さんはそれ以上問い詰めてこなかった。
といって、言いくるめられて悔しくないわけではないようで「食事、終わったころに盆を取りにきますさかい」としかめ面で部屋から出ていってしまった。
いつもなら、食べ終わるまで隣で話し倒しているというに。
金払いのいい下宿人相手にも媚びきらないあたりが、僕にすれば気が楽だった。
媚びるどころか、かるくあしらうような態度をとることもあり、兵役を免除された僕への当てつけかと思わないでもない。
徴兵された夫と息子を亡くしたというのなら八つ当たりしたくもなるだろうし、たとえ面と向かって責めて咎められるても僕は構いやしなかった。
虚弱で兵役を免れたことを僕自身、恥に思っているし、生き残ったことへの罪悪感を抱いている。
空襲に合うなどの戦争の煽りを受けていなければ、さほど生活苦を強いられているでもないから余計だ。
それでいて、自分で自分を戒めるように、奉仕活動にいそしむとか出家をしようともしない。
しなければ罪悪感が減りはせずに辛いけど、他人の戒めによって、少しは気を紛らわすことができる。
自分は悪い人間だと、死んでも認めたくない人がいる一方で、日々そう思い知らされることで正気を保つ人間もいる。
我ながら難儀なものだと思いつつ、蟹埼尚の記事を一瞥して、湯呑を煽った。
※ ※ ※
万年筆の先を原稿用紙に乗せようとしては退いてを繰り返し、結局、机に置いて煙管を手に取った。
煙管を一吹かしして窓から望める景色を見るともなく見ていたら「野田さん、お客さんですよ」と開け放たれた襖の向こうから聞こえてきた。
ふっと煙を吐き切って廊下に顔を向けようとしたところで「あらあ、すんませんねえ、いつも」と時さんのはしゃぐ声が耳を打ち、ため息をついて机に向き直る。
少しして、階段の板を踏む足音が近づいてきて「どうも、野田先生」と背後から言われた。
返事をせず振り返りもしなかったものを、畳を軋ませる音がしたからに座卓の傍に座ったのだろう。
挨拶以上の声をかけてこないで、座ったまま、おそらく薄ら笑いを受かべて寄こしてくる視線が鬱陶しくて「時さんには困ったものだ」と舌打ち交じりにこぼした。
「執筆の邪魔になるから君が来ても、取り次がないよう言ってあるのに」
あからさまに邪険にしたつもりが「執筆は私が邪魔しなくても」と一笑に付される。
「それに、時さんが悪いんじゃありませんよ。
いつもお土産を持ってくる私が、余計なことをするもので」
僕とは違って刺々しさも、皮肉っぽさもない朗らかな口調だ。
が、僕がこれまで口酸っぱく「先生と呼ばないでくれ」と言ったにも関わらず、初手の挨拶から「野田先生」と言ったあたり、底意地が悪い。
時さんのことにしろ「物につられているだけ」と言っているようなものだ。
相手が訪れたことだけで気詰まりだったのが、口を利いてさらに苛立ちが募った。
気に食わないのが、そうやって僕が神経を逆撫でるのを、相手が喜んでいるだろうことだ。
しがない艶本の作家の気を引いて何が楽しいのか。
よりによって相手が山國屋とあっては趣味が悪いとしか思えなかった。
山國屋は江戸時代からつづく老舗の和菓子屋で、徳川家に茶菓子を献上していた名家でもある。
江戸の後期になると尊王攘夷の流れになる前に徳川家から身を引き、倒幕してからは華族向けに商売をしだし、後に天皇に献上をすることにも。
ただ、戦争が激しくなってきたなら物資不足という名目で商売を中断し、軍に徴集されないよう財産を隠して息を潜め、やり過ごしたとの噂だ。
戦火を免れ迎えた戦後には、駐留する米兵相手に商売をし、評判がいいとあって何かと米国に優遇されている。
老舗でありながら時代の流れを読み、抜け目ない商売をしているのが山國屋だ。
五代目のこいつ、山國廉慈も先代に習って、鬼畜米にすっかり手のひら返ししてみせた。
その手腕は歴代の山國屋の中でも一等優れていて、言い換えれば、一番面の皮が厚いのかもしれない。
マッカーサーを多くの人々が歓待したことを思えば、手のひら返しは山國屋の専売ではないかもしれないけど、もちろん、そのやり方を快く思わない人間もいる。
とはいえ、そこは時さんと同じだ。
山國屋が米国に優遇されている恩恵は、この町にも、もたらされている。
山國屋の顔に免じてと本来、お咎めを受けるようなことでも、米兵は見逃すか、見て見ぬふりをしてくれ、理不尽な要求や締め上げをしてこないで、全体的に統制を緩くしていた。
その恩恵に預かっている身ともなれば、時さんだけでなく、体裁を気にできるのも食っていけてこそと、山國屋への非難を飲む人間は少なくないというわけだ。
文学などの書物が規制対象になっている中で、僕が艶本を呑気に書いていられるのも山國屋のおかげといっていい。
大体、兵役を負わなかった僕が山國屋のことをどうこう言えやしない。
山國屋もまた、兵役を免れたのだとしても、だ。
ただ、関わる必要がないのなら関わらないで欲しいのだけど。
煙管を吸いこんで、ため息交じりに煙を吐く。
山國屋の興味が失せるように、何を言われても無視しようと毎度思うのだけど、僕が短気だからか、山國屋が煽るのが上手いからか、上手くいった試しがない。
他に興ざめさせるような妙案がないものかと考えていたら「蟹埼尚」と言われて、不覚にも肩を跳ねてしまった。
「愛人と、とうとう入水して心中したんですね」
「とうとう」とは引っかかる言い方だ。
蟹崎尚を皮肉ってか、僕が反応したのに気を良くしたのか、ふっと笑い声を漏らしたのもいただけない。
肩を跳ねたことを悔いつつも、いっそ山國屋に探りをいれるいい機会かもと考える。
山國屋がどうして僕なんかに執着するのか理由が分かれば、多少、気が休まるだろうと。
「蟹埼尚の本、読んだことあるの」
「全部ではないですけど、代表的なのはいくつか。
商売人の嗜みみたいなもので、熱心な読者だったわけではありませんよ」
「その言い方じゃあ、蟹埼尚の作品はお好みではなかったのかな」
「好みをどうこう言えるほど私には教養がないですから。
ただ、女性の描写には感心しました。
小説に出てくるのは、男の理想をそのまま形にした夢のような女性。
そりゃあ男は熱心に読んでしまいますよ。
現実逃避にはもってこいというもので」
最後のほうが露骨に皮肉げだったから、おや?と思った。
妻帯者のはずが女性不信なのか?と。
山國屋の尻尾を掴んだ思いがしたのもつかの間「ああ、でも」とにこやかに山國屋はつづける。
「一作品だけ、男には好ましくない女性が登場するものがありましたね。
確か『恋文の行方』」
不覚にも煙管を落としてしまい、原稿用紙に散った灰をすぐに払うことができなかった。
どうせ原稿用紙は真っ白だから構わず、問題は山國屋に動揺を悟られたことだろう。
ほくそ笑まれていると思うと癪だったけど、いっそ、その顔を拝んでやって心中を図ってやろうと、やおら振り返った。
思った通り山國屋は背筋を伸ばし正座をしながら、微笑をしていた。
上等な着物を品よく着こなし、これまた着物に映える均整の取れた顔立ちと体つきをした美丈夫。
小首を傾げ笑いかけるだけで女も男も虜にしてしまいそうな美丈夫が、こんな、いかがわしい艶本の作家に執心するのが、やはり解せない。
解せないといえばもう一つ。
虚弱な僕と違って、頑健そうで逞しい山國屋が兵役から外された理由。
戦争前は華族と関係が深かったから、その縁故でもって軍に口を利いてもらったのかもしれない。
そのことを、ずるいとは思わない。
僕が同じ立場だったら、今以上に居たたまれなくてしかたないだろうからだ。
でも、この男は。
「『恋文の行方』は蟹崎尚の作品の中で異色と言われているそうで。
文体は同じですが、根本的な何かが違うような・・・」
微笑を絶やさず、山國屋はじわじわと追いつめるように語りかけてくる。
遮りたかったものを、山國屋に見つめられ蛇に睨まれた蛙よろしく身動きができなかった。
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