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立川の酒と愚痴 下
しおりを挟む思いのほか、内容は長編スペクタクルなホラーで、語りきった香坂は燃えつきたとばかり、頭を垂れていたし、こちらにしろ片手で顔を覆って、歯噛みしていた。まずい男に関わったと、嘆いたのではない。
逆だ。とんだいい男、いや、いいネタを見つけたと、ガッツポーズしたいのを堪えていたのだ。我ながら下衆なものだが、そのころは、企画が流れそうな窮地に陥っていて、ふりでも同情する余裕がなかったのだと思う。
「実録!世にも恐い女の、世にも恐い物語(仮)」とのタイトルで、女性ならではの性質の悪さによって、破滅させられた男どもをVTRで紹介しつつ、それを見たスタジオのゲストたちが感想を述べたり議論するという企画の番組。企画書はすんなり通ったものを、中々条件にあうエピソードが見つけられず、制作が滞ってしまい、その腑抜けぶりをお偉いさんに見咎められ、「これ以上遅れるのなら打ちきるぞ」と脅される始末。
現場を分かっていない、頭がお固いお偉いさんとはいえ、条件に合っていなくても採用するなどの妥協をするか、いっそ創作をしてはどうかとの、周りの忠告を聞かずに、実話にこだわった自分も、まあ、分からずやだったのだろう。なんて、職人肌気取りをしたくても「打ちきるぞ」と脅されれば、お手上げだったけど。
テレビ局お抱えの放送作家なら、企画がつぶれても一か月分の給料に、さほど響くことはないが、フリーではそうはいかない。もちろん、つぶれた分の報酬は頂けないし、次の仕事につなげられるか、どうかが、かかっている。
光洋の収入だけでも、自分と二人の子供を養うのには十分といって、戦場カメラマンに、まかせっきりにできるわけがない。万が一のことがあったら、二人の子供が頼れるのは自分だけだし、自分としても、恭二郎が独り立ちするまで、人並みの生活を送らせてやりたいと、心している。
だったら、尚更、意地も糞もなく、打ちきられるのを阻止すべきところ、そうしたらしたで、また問題があるのだ。なにせ、お偉いさんに胸ぐらを掴まれ、メンチを切られたのを、スタッフに見られてしまっている。
もし、脅されたのを機に制作方針を変えたら、制作者の風上にも置けないお偉いさんのポチ野郎と、そのスタッフたちの目に写るのは必至。そもそも、誰かの顔色を窺うようにしては、良質な番組はつくれない。どちらにしろ、継続的に仕事をするのには、支障になる。
そのことを十分、分かっていたから、こだわりを捨てなかったのだが、ただ、どうしても、タイムリミットには抗えなかった。いつ、お偉いさんに死刑宣告されるともしれない時期になって、決断を迫られている矢先だった。香坂の口から、ホラー仕立てでありつつ、男の悲哀溢れる百二十点満点のエピソードを聞いたのは。
「神は我を見捨てなかったのだ!」と天を仰いで、絶叫したかったものだ。といって、悲しみに打ちひしがれる香坂の前で、まさか手を叩いて踊りだしはしなかった。
礼儀として、だけではない。交渉するには、なるべく相手の気分を害してはならないと、戦略的に考えてのことでもあった。
これくらいでいいだろうと、適当な間を空けてから「なあ、いきなりで、悪いんだけど」とおずおずといったように、切りだした。そして、顔から片手を外し、居ずまいを正して告げたことには「その話、仕事で使わせてもらっていいかな?」と。
我ながら、ストーカー被害を打ちあけたばかりの相手に「ネタにさせろ」と迫るなど、無神経が過ぎたと思う。戦略的なんて、ちゃんちゃら可笑しく、背に腹は変えられないと、ごり押ししたにすぎない。
「あんた頭おかしんじゃないか!」と痛罵されても、おかしくなかったが、香坂といえば、怒るでも傷ついたようでもなく、呆けながらも肯いてくれた。あまりのデリカシーのなさに呆れ返ったのか、あまりの突拍子なさに感情が追いつかなかったのか。
本音は分からないとはいえ、その後、月日が経っても、あらためてクレームをしてくることなく、ただ、「夕方から夜にかけて一人で家にいるのが恐い」と相談をしてきた。だから、どうこうして欲しいと、訴えてはこなかったが、要求と捉えたこちとら「よかったら、この家にいるか?」と誘ってみた。目を丸くした香坂には、やはり、おねだりしたつもりは、なかったようだ。
以来、香坂はほぼ毎日、仕事帰りに家にきて、朝方まで留まるようになった。夕食を共にして、風呂に入ることもあり、客間の布団で仮眠をしていく。誘ったときは「ええ!いいの!」と目を白黒させていたくせに、初日から部屋着などのお泊りセットを持ってくるなど、明らかに浮かれていたもので、他人の、しかも訳ありな家庭に混じるのに、まるで抵抗を見せなかった。
繊細なのやら図太いのやら。まあ、人の助けを必要としながらも、実家に身を寄せもしないで一人で耐え忍んでいたようだから、女性不振だけでない問題を抱えているのかもしれない。なににしろ、我が家の子供との相性が良いか悪いかが、なにより重要だったものを、その点は驚くほどに問題がなかった。
「大丈夫!?」と腕にしがみついた恭二郎は、はじめから懐いていたし、香坂が夕食を手がけるようになってからは、こちらが嫉妬するくらいに、首ったけになる始末。「つれこんだ男」呼ばわりして、そのあとも手負いの獣のように威嚇しつづけた海斗も、徐々に言葉を慎むようになり、無愛想ながら受答えをしている。そして、香坂の料理なら、口にしてくれた。
成長期の海斗の食事拒否に思い悩んでいた自分にすれば、香坂が救世主に見えたものだ。ストーカーの被害者に避難場所を提供したつもりが、逆に助けられた思いがして。なんなら今や、子供より、自分のほうが香坂を頼りにしていたかもしれない。
いや、我ながらいい身分だなと、呆れもしたのだ。人の不幸をテレビのネタにさせてもらう償いに、傷つき怯える香坂をできるだけ助けようとした。のに、こちらが助けられては、償いをできないまま、滞納しているといっていい。
もちろん、ツケが溜るばかりでは心苦しい。共に家で過ごす以外に、香坂の望みがあれば叶えてやりたいと、考えたものを、番組制作の激務にかまけているうちに日々が過ぎ、あらためて香坂と膝を突き合せることになったのは、番組が放送されて一息つけてからだった。
少ないながらにギャラを渡してから「なんでも望みは聞くから」と申しでた。
「一応、放送作家っていう立場だから。そんなにないけど、コネやパイプを使って、してあげられることはある。『芸能人に会わせてほしい』とか『スタジオに見学に行きたい』とか、できるだけ要望には応えるよ」
番組制作の助力をしてもらったのだから、その類のご褒美を提示するのは筋だろう。との考えもあり、折角、しがないフリーの放送作家が、精一杯見栄を張ったというのに、香坂の反応は鈍かった。
「家にいるか?」と誘ったときは、「いいの?いいの?」としつこく聞きつつ、涙ぐんでいたものを。目をぱちくりさせてから、香坂はやおら首を振って、思いがけないというか、今更なことを口にした。「これからも、この家にきたい」と。
べつに、番組の制作が終わったら、もう用済みとばかりに、「家にくるな」と厄介払いするつもりなんてなかった。半同棲しているような日常が、これからもつづくものと、なんら疑っていなかったほどで、相手から頼みこまれることではなく思えたが、香坂の考え方は、また違うようだった。
自分にとっては、なんでもない日常でも、香坂にすれば、藁にもすがる思いで得た、かけがえのないもので、なにがなんでも手放したくなかったのかもしれない。だとしたら、「そんなこと」「他にないの」と笑うわけにいかず「わかった」とこちらも、物々しく肯いてみせた。
※ ※ ※
頭のどこかでは、どうせ一時のことだからと、考えてもいたと思う。「女性恐怖症」といったって、男盛りの二十代前半、いつまでも、しみったれた男所帯に留まっているわけがない。
大体、香坂は料理人としては優秀そうだったし。なにせ、修行していたレストランは、流行に疎い自分でも知っている超有名店で、今や名の知れている弟子を多く輩出しているのだ。弟子入りするだけでも難関というからに、途中で辞めたとはいえ、将来を有望視さていた一人だったに違いない。
もう人生は終わったと、今は気落ちしていても、そう時間がかからず立ち直り、また忙しい身の上になる。そのとき、自分らはお役御免になるわけだ。そんな日がくるのが分かりきっているのなら、爽やかな料理上手のイケメンに、口説かれているような優越感を、味わえるときだけ味わっていたいというもの。
あ、でも、と思う。味わった分、去られたときに、寂しくなるのではないかと。盲点だったなと、後悔するついでに、海斗も恭二郎も、いつか離れていくんだよなあと、考えたなら、涙腺崩壊しそうになった。口元を手で覆いつつ、奥歯を噛みしめ堪えると、おもむろに香坂がふり向いて「なあ、立川さんは、考えたことないの?」と告げた。
「かっくんや、きょーちゃんが、もし、いなかったからって」
いきなりだったし、言葉足らずな問いかけだったが、すぐに察しがついた。今まで飽きるほど投げかけられた質問の類だ。「若いのに子供二人育てて大変ですね」とか「子供が二人もいたら、自分の時間ないでしょ」とか。
別にそうでもないと、やんわりと否定したところで、相手はむきになって、認めさせようとしたり、哀れむような目をして、飴を握らせたりしてくる。いちいち大袈裟に反応されるのが鬱陶しくて、ころのごろは「まあ、そうですねー」と受け流しているものの、香坂には苦笑いで、はぐらかしたくはなかった。といって、真っ向から語るのは、恥ずかしいようで、目を伏せて、缶の縁を撫でつつ「俺な」と切りだす。
「なんていうか、夢とか野望とか、あまり持っていないんだ。今の仕事にしたって、高校のころ、光洋さんに紹介されてはじめたバイトの延長で、不安定だけど、今更、他の仕事につくのもなって感じで、つづけてるだけだし。
そりゃあ、周りを見ていたら、テレビ業界ひっくりかえしてやるって、燃えているのや、お偉いさんとのコネを作りまくって、のし上がろうとするのがいて、比べて、俺って駄目な大人だなあって、思うよ。でも、そんな駄目な大人の俺でも、子供の面倒を見ていることで、一丁前になったように思えるわけ」
声をあげないがならに、え、というように香坂が身じろぎしたのが分かった。どんな顔をしているのか、気になりつつ、目を上げないままに「だから」とつづける。
「二人がいてくれて、よかったと思ってる。こんな俺でも一丁前の大人らしく思わせてくれるから」
そう結んでも、長いこと、向かいから声がかかってこずに、ついには痺れを切らして目を向けた。年上の自分より、大人びた色気を放つこともある香坂が、その見る影もなく、まんま吃驚した恭二郎のように、口を開けっ放しにしている。可笑しがりつつも、「あまりいい子供時代を過ごさなかったなのかな」と邪推して、口調を和らげて、また語りだした。
「子供って、大人のお荷物になるって思いがちだろ?大人も、それに子供自身も。俺はとくに、母親が忙しく世界をとびまわっていたから、悩むことが多かった。自分がいないほうが、もっと思いっきり仕事ができるんじゃないかって。
でも、あの人、言ってくれたんだ。もし俺がいなかったら、子供の代わりに、仕事に生きがいを求める可哀想な女だって、皆に馬鹿にされていただろうって。俺がいるおかげで、女手一つで子供を育てている立派な母親だと、認めてもらえているんだって」
すっかり固まっていた香坂は、微かに肩を跳ねたなら、おもむろに両手で顔を覆い、上体を倒していった。テーブルに突っ伏して、そのまま口を利かないでいるのが、やや心配になって、顔を覗きこむようにすれば「俺も、子供が欲しくなってきたー!」と叫ばれる。
二階の床を揺らしそうな声量に、慌てたものを「って、思うのはゲンキン?」とぼそりと付け加えられたのに、伸ばしかけた手をとめて笑う。「でも、俺、子供生めないし」と冗談なのか本気なのか、呟きつづけるのを、「病んでいるなあ」とビールをちびちびやりながら見守っていたが、「そうだ!」と急に起き上がって、さらなる絶叫をされてしまい。
「立川さんと結婚すればいいんだ!」
ナイスアイディアとばかりの言いようとはいえ、冗談にしろ脈略がなくて笑えず、開けっ放しの口からビールを垂らしたままにする。とはいえ、案外、驚いてはいなく、ほぼ毎日、家に通って、子守や家事を担っている香坂は、すでに伴侶のようなものではないかと、考えたりもした。
「もう結婚しているようなものでしょ」と応じてもよかったものを、照れくさくいのと、面白半分で「えーだめだよ。俺、光洋さんさん、裏切られない」とおちゃらけてしまう。まあ、にやつくのを隠しはしなかったのだが、香坂の据わった目には、洒落が通じなかったようで、「あんな男!」と拳でテーブルを叩きつけ、身を乗りだしてきた。
「一年の半分も家にいないし、帰ってきたら帰ってきたで、どこで生ませたか分からない子供連れてきて、しかも立川さんに預けっぱなしで、子供がいるのに、いつ死んでもおかしくない戦場に突っ込むのやめやしなくて、そんな無責任で自分勝手で、家族を心配ばっかさせるなんて、駄目亭主でしょ!
俺なら、できる限り子供を安心させるし、とくに夜なんかずっと傍にいてやるし、なにかあったら仕事を休んだっていいいし、休日は合わせるし、いっぱい遊んだり勉強を見たり、いろんなところ連れていってあげたいし」
「なにより女を家に連れこむことは、絶対にしない!」との力説ぶりに、少々哀れみを覚えつつも「でも、ちょっと悪そうで、野性みのある男の人ってかっこよくない?」と返せば、自身に欠けている長所が、あげられたからだろう。言葉をつまらせ、悔しそうに唇を噛む。
笑いだしたいのを堪えて「いざってときに、頼りになりそうだし」と追い討ちをかけると「そりゃ、俺は頼りにならないように、見えるかもしれないけど!」と思いがけず、潔く開き直ってみせ、こちらの手を両手で握りこんだ。
「それでも、折角、大きな体で生まれてきたんだから、三人を包みこんで、いくらでも盾になるよ!それだけの覚悟はある!だから、結婚してください!」
椅子を倒す勢いで立ちあがったのに驚く間もなく、頭突きしんばかりに、顔を寄せられた。目が眩みそうな、包みこむ手の熱さ。加えて、揺るぎのない眼差し、上気した頬、額に噴いた汗を至近距離で見せつけられては、厄介だった。相手がイケメンとなれば、二割増しに、心臓に負担がかかる。
「そういう言葉は、本番のときにとっておけ」と大人な対応をすべきところ「いや、でも、ほら、光洋さん、裏切られないし・・・」とどうしても歯切れが悪くなる。このままでは、冗談で済まされず、押しきられそうだったが、そのとき、泳ぎっぱなしの目の端になにかが見えた。
次の瞬間、はっとして、台所の開きっぱなしのドアのほうに振りむいた。壁から覗く、小さな足の指先。目にしたとたん、香坂の手を振りはらって立ちあがり、と同時に、駆けだす足音がしたものだから、すかさず廊下に跳びだした。
「か、かっくん、いや、その、これは!」と追いすがるのが、我ながら浮気現場を目撃された旦那のように、みっともなかったが、海斗も海斗で、階段の途中で振りかえったなら、まさに浮気現場にうっかり遭遇して、怒っているような傷ついているような、感情を持て余した顔をして、目に涙を浮かべていた。そして、とどめの一言を吠えたてた。
「立川のバイタ!」
まったく本当、どこでそんな、古めかしく、はしたない言葉を覚えてくるのやら。
血のつながりも戸籍上のつながりもないから、背を向けられたら、それきり縁が絶たれるのではないかと。なんて、不安がるのが馬鹿らしいほど、まだまだ海斗も恭二郎も、自分の頭を痛くさせてくれそうだった。
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