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序章 直人「すぐ助けるから」
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──Humpty Dumpty sat on a wall,
──Humpty Dumpty had a great fall.
──All the king's horses and all the king's men
──Couldn't put Humpty together again.
──ハンプティ・ダンプティが堀に座った。
──ハンプティ・ダンプティが堀から落っこちた。
──王様の馬も家来もがんばったけれど。
──ハンプティを元には戻せなかった。
※ ※ ※
その飲み会の罰ゲームは「三十秒間、女子からくすぐられる」という馬鹿馬鹿しいものだった。
女子から、というところに一応配慮がみられる。もし負けたのが女子でも、同性同士なら笑って済むだろうというハラスメント対策だ。
一理ある。
男子が女子をくすぐったら大問題だ。社員の大人たちは、そう判断していたと思う。
可愛い女子二人が楽しそうに戯れ合う絵面を、大多数が期待していたはずだ。
けれど。
──負けたのは由宇だった。
記憶力勝負のゲームなのに意外だった。他校の関係者の前で緊張したのだろうか。
男子だから残念、という雰囲気にはならず、寧ろ逆に盛り上がった。女子のように可愛い顔──そして、大人しくて表情をあまり変えない子。
笑顔を見てみたい。
皆、そう興味を唆られたようだ。一同の好奇の視線を受けて、由宇は青くなっている。
──やばいかも。
直人は迷った。
同級生の集まりなら巫山戯るなやめろと一喝できるけれど、ここはバイト先で、直人も由宇も雇われている身だ。
ゲームのルールは守るべきだろう。負けたからやっぱり嫌だと突っぱねて良いものか。
しかも。
本人が断るならともかく、他人が横から──。
別に自分だったら女子からくすぐられるのは構わない。相手が可愛い子ならむしろ歓迎だ。
できるなら代わってあげたいくらいだが。
──どうしよう。
高尾にある保養所。
バイト先の塾が主催した夏期合宿は、つつがなく最終日を迎えた。
消灯時間も過ぎ、生徒たちはそれぞれの部屋で眠っている。
講師と手伝いのバイト学生が大広間で打ち上げをしていたが、雲行きが怪しくなった。
直人は、少しフレームの曲がった眼鏡をずり落ちないよう何度も指先で押さえながら、由宇をじっと見つめて様子を窺う。
由宇は男女合わせて十三人の衆人環視の中、下を向いてじっとしている。
視線が合わない。
目で訴えてくれるのなら今すぐ止めるのに。
場の空気は悪くなるだろうが由宇は大切な──だ。
周囲が囃し立て、社員の一人が由宇を羽交締めにした。
大熊という名前の通り、大柄で毛深いが、面倒見が良く人気のある先生だ。
そこに塾内で一番可愛いと評判の女子が、照れながら近づいていく。
「──ッ」
由宇のくちびるが動く。
けれど冷やかす騒音にかき消されて、その声は聞こえない。
直人は堪らず腰を浮かせた。
脇腹に女子が触れた途端、きゃぁ──と由宇が甲高い悲鳴をあげ、場が凍りついた。
直人が女子との間に割って入るのと、由宇が大熊から逃れようと暴れたのが同時だった。
視界が揺れた瞬間。
眼鏡が由宇の手に当たって吹っ飛んだ。
かしゃん。
至近距離にある由宇の大きな瞳には、涙が溜まっていた。
「ごめん──」
か細い声。
由宇は、そのまま踵を返してこの場から逃げ出した。
慌てて後を追いかける。
荷物は部屋に置いてきてしまったけれど、ポケットの携帯さえあれば、目黒の自宅まで由宇を連れ帰れるはずだ。
そうすれば替えの眼鏡もある。
直人は、脳内ではどんな知識も即座に引き出せるのに、現実の物の整理となるとまるで駄目だった。
眼鏡は度々踏んで壊すし、行方不明になることもある。
コンタクトの管理なんて一生無理だろう。
こんなとき視界がクリアなら役に立つのに。
裸眼では足元が心許なくて、直人は、少しだけ自分の管理能力を恨んだ。
──思ったより外が昏い。
由宇は大丈夫だろうか。
正面玄関を出ると、夏の匂いや暑さが一気に押し寄せ、頭上から蝉の声が響く。
じっとりした湿度。
麓とはいえ、山の中だ。都心の夜とは違う。
闇が深い。
霞んだ視界の中、目の端に由宇を見つけて、直人は安堵の息をついた。
「ごめんな。もっと早く止めたら良かった」
声を掛けながら肩を引いて振り向かせる。
由宇は案の定、真っ赤な顔を両手で覆って大粒の涙をぽろぽろ零していた。引き攣れたような異常な泣き方で過呼吸に近い。
保養所から自宅は距離があるが、この状態の由宇を電車に乗せるわけにはいかない。
急いでタクシーを呼んだ。
到着を待つ間、泣き続ける由宇の背中をあやしていると、ふと、以前にもこんなことがあったと記憶の蓋が開いた。
──あれは桜の季節。
※ ※ ※
由宇とはじめて逢ったのは中学受験が終わった春だ。親に勧められダンス教室に通うことになった。
──そこに由宇がいた。
同じ歳だったのに中々距離は縮まらなかった。由宇は人見知りで、一回りほども歳上の兄妹にべったりだったからだ。
類と唯。
スタジオの経営者である元俳優は、その兄妹の伯父にあたる。
直人がスタジオに通いはじめる少し前に、類に対するストーカー騒ぎがあったという。
その相手は、直人でも知っている有名な歌手だった。そして結局彼女はスタジオを出禁になった。
なのに由宇は、ずっとその相手を怖がっていた。
受付でスタッフに、彼女は来てないか、大丈夫かと確認している姿を何度も見た。
ストーカーされていた類本人より、よほど怖がっていたようだ。
由宇の家庭は、父親は単身赴任で、母親は不倫。周りに頼れる大人は類しかいなかった。
だから、類に何かあったらと思うと不安だったのだろう。
纏わりつく由宇を、類も唯も、よく可愛がって世話をやいていた。
洋服の御下がりをあげたり、癖毛の証明書を取るために中学校まで出向いたこともある。
直人はそんな由宇と兄妹の様子をただ眺めていただけだったが──。
──その春。
高三の受験期。
忘れもしない。
類にスタジオの隅に呼ばれた。
「由宇に勉強を教えてやってくんないかな。もちろん小遣いはやるからさ」
ちょっと面食らった。
普通、受験生がライバルの面倒をみてくれなんて言われることがあるだろうか。
けれど。
直人は、自分が期待されていると思うとうれしかった。
両親からは「皆、本気で追ってくるのだから気を引き締めなさい」と発破を掛けられたばかりだ。
対して類は「余裕あんだろ。由宇のことも頼むわ」と軽く笑う。
結局二つ返事で引き受けた。報酬も良かったし、由宇のことも気になっていたからだ。
楽しい受験になる予感がした。
その帰り道。
更衣室で由宇と合流し、二人でぽつぽつと受験の話をしながらスタジオのあるビルを出たとき。
「きゃぁッ──」
唐突に由宇が抱きついてきた。
何事か。
前方を見やると、ビル前の桜の大木の下に、見覚えのある髪の長い女が立っていた。
出禁の。
歌手の鷺沢茉理。
類のストーカーだ。
彼女は直人を見た。
そして、シンメトリーにくちびるを吊り上げて笑った。
由宇は震えて必死でしがみついてくる。その背中をあやしながら、直人は考える。
まだ類はスタジオの中にいるはずだ。早く知らせないと。この女をなるべく刺激しないように、そっと。
ゆっくり相手を窺う。
直人に向かって茉理が話しかけた。
「知ってる? 私──なのよ」
強いビル風が桜を散らす。
茉理は、どこか挑発的な笑みを浮かべた。
直人は眉を顰めた。
「知ってるよ」
「由宇は──よ」
茉理は薄く笑うと足早に去っていった。
直人は、落ちた花びらの上に立ち尽くした。由宇は、もう泣きじゃくって二人の会話は聞こえてないようだった。
──聞かなくて良い。
受験に必要のない情報だ。
直人も受付スタッフに注意喚起だけして、今のことは脳の隅に追いやった。
翌日、類は二人のために快適な自習室を手配してくれた。
さっそく由宇を試すと、驚くほど記憶力が良い。
さらに、海外経験があるらしく、英語に関してはかなりのアドバンテージを持っていた。
少し教えただけで、ぐんぐんと伸びていく。意外にも負けず嫌いで根気もある。
「これ、俺と同じランク狙えるかもしれないですよ」
類に経過を報告すると「結構、気ぃ強いだろ」と笑っていた。受験なんて競争なのだから気が強いに越したことはない。
──毎日一緒にいると性格もみえてくる。
人見知りというより内弁慶なのだ。仲良くなると急に躰をくっつけながら甘えてくるようになった。
それは海外生活の影響か。それとも孤独だった家庭環境の反動なのか。
ちょうど由宇が直人に懐きだしたころ──受験期の五月だったろうか。
再度、類に呼ばれた。
「悪いけど、頼める?」
唯の精神疾患が悪化し、かなり痩せてしまった。未遂で済んだが大量に薬を飲んだ。
受験を控えている由宇を動揺させたくない。
そこで、転職したばかりで中々時間がとれず会えないと、そう口裏を合わせることにした。
「由宇に病気のことは言わないどいて」
──言わないどいて。
言ってしまったら戻らない。
知らなかった頃には戻れない。
類と同じくらい唯にもべったりだったのだから黙っておきたい気持ちはよく解る。
──はじめて褒めてくれた人だから。
由宇に「唯さんをお気に入りだね」と話を振ったら真顔でそう応えた。
放置子同然で育った由宇にとって、ようやく自分を認めてくれる人に出逢えた。それは簡単に手放せるものではないだろう。
由宇が類の顔を見れば、絶対に唯に会わせろとせがむに決まっている。
そうなると類も距離を取らざるを得ない。
報酬を倍にしてもらったこともあり、直人は、さらに由宇を甘やかす役目も引き受けた。
──受験が終わるまでのはずだったのに。
結局、この夏まで事実は隠されたままだ。
そろそろ安定した支えを失っているままの由宇が、限界かもしれない。
※ ※ ※
タクシーの中で、由宇は暫くしゃくりあげて泣いていたが疲れたのだろう。今は眠っている。
直人の右手を離さずに。
そして。
直人は迷っていた。
類に先ほどのことを報告しようかどうか。
バイト先の塾も、スタジオ同様、兄妹の伯父が経営者だ。
だから直人も由宇も時給を優遇してもらっている。
直人のほうは、今回のことで気まずくなってやめたとしても困らない。
普通に暮らすには仕送りで充分足りている。ちょっと良い服がほしいからバイトしている程度だ。
けれど、由宇は違う。
自分で学費を賄わなくてはならない。
あんな泣いて帰るようなことがあって明日バイトに行くのはつらいだろう。
けれど、もうやめてしまえとは言ってあげられない。そうしたら由宇の学費を誰が払うのか。
そんな──やめるほどの苛めではないようにも思う。そもそも苛めかどうかも怪しい。
もし、負けたのが別の子だったなら笑って済んだだろうに。
経営者の親族に告げ口して良いものか。
たぶん由宇は何かが怖くて、あんな絹を裂くような悲鳴をあげた。
──怖かったのは何だろう。
「眼鏡、ごめん──」
いつの間にか起きていた由宇が俯いたまま言った。
繋いでる手が少し震えている。
「全然良いよ。元々踏んじゃってフレーム曲がってたし。俺のほうこそ、もっと早く止めれば良かったのに──ごめん」
タクシーの窓からの景色は横長で高い建物がない。
目黒の自宅まではまだかかりそうだ。
「寝てて大丈夫だよ」
震える手が離れていって、代わりに腰のあたりに抱きつかれた。上半身だけが横に引っ張られてよじれる。
別に直人に対しては普段から距離が近い。男同士としては過剰なくらいだ。
──女子だったから。
──あまり知らない子だったから。
──触られた箇所が嫌だから。
どれだろう。
「何が怖かった?」
腰は抱かれているまま、顔を見合わせて訊いた。
「わから、ない。動けなくされた、から、かも」
なるほど。
由宇の腕ごと、躰をぎゅうと抱きしめて動けなくしてみた。
「今、怖い?」
由宇が直人から逃げるように二三度躰をひねる。
「──ううん。大丈夫」
「ちょっとだけ、同じところ触ってみても良い? 嫌だったらすぐ離すから」
「うん」
抱きしめていた腕を解いて、指先を脇腹に近づける。
そのとき直人の腰に回っている由宇の手に力が入るのが解った。
これだ。
怯えさせないよう、優しく指をおいた。
「──んっ、ゃ」
「ごめん。もう離すからね」
触れたときと同じようにそっと離した。何でもない振りをしたけれど内心ではかなり吃驚した。
一瞬だったが甘ったるくて女子の喘ぎ声かと思った。
あの場で、悲鳴で済んだのは幸いだ。
こんなの聞かれたら揶われるに決まっている。もしくは変な空気になりそうだ。
無意識的にはそれを解っていたから怖かったのだろう。
由宇も自分の反応に驚いたようで下を向いて真っ赤になって固まっている。
もう一度背中に腕を回して抱きしめた。
「過剰に反応しそうで嫌だったんだね──人前で怖い思いさせて、ごめん。今度から何かあればすぐ助けるから大丈夫だよ」
思い出させてしまったのか、みるみる瞳に涙が溜まってくる。ぽろっと一粒が車の灯に反射しながらシートに落ちた。
──もし、またこの子が怯えるようなことがあれば必ず助けよう。
腕の中で泣きじゃくる由宇の髪に頬を寄せて、直人はそう誓った。
由宇はひとしきり泣いたあと「類に会いたい」と、ぽつりと言った。
「ずっと避けられてる気がする。俺、類に何かしたのかな」
由宇に、何にも悪くないよ、と言ってあげたい。
けれど本当の理由は隠さなくてはならないので難しい。
──言わないどいて。
倍の報酬は、口止め料であり世話料だ。
先月、少し体調が良かったのか、一度だけ唯を見かけた。
カーディガンとロングスカートで隠していたが、手首も足首も思わず二度見するくらい細かった。
由宇には見せられない──と思う。多分、類も同じことを考えている。
直人が黙ってしまったので由宇はまた言う。
「俺、類に嫌われたのかな。唯は転職して忙しいみたいだけれど。類も何かあったのかな」
もう今回は自分一人でフォローは無理だ。
類とだけでも会えないだろうか。
罰ゲームの件は、本人が恥ずかしくて知られたくないかもしれないし──直接会って、言いたかったら言えば良い。
直人はポケットから携帯を取りだし類に連絡を入れた。
※ ※ ※
タクシーが吉祥寺にあるスタジオのビル前に止まる。
桜の大木は、今は葉ばかりが繁っている。それを背にして類が既に待っていた。
由宇は一目散に走っていって飛びつく。
直人は邪魔をしないように手だけを振って二人と別れた。
視線が合ったのは類とだけで、由宇は類が目に入ってから、もう周りなんて見えていないようだった。
「目黒の駒場方面にお願いします」
直人の声に、運転手がタクシーを出発させた。
ダンス教室はこのビルから来月移転するという。
このビルのシンボルともいえる大きな桜の木を、最後だと思って眺めた。
その太い幹の陰に、髪の長い女性が一瞬見えた気がしたが眼鏡がないのだから見間違いかもしれない。
すぐに窓の景色と共に後方に流れ去った。
駅前には、移転先の新しく大きな商業ビルが聳り立っている。
結局、秋には、この商業ビルで、由宇と唯がばったり再会してしまう。
──言わないどいて。
言ってしまったら戻らない。
そこでやっと直人は板挟みから解放されることになる。
了
※ ※ ※
引用元
曲名:Humpty Dumpty
作詞:不明
出版:1797年
──Humpty Dumpty had a great fall.
──All the king's horses and all the king's men
──Couldn't put Humpty together again.
──ハンプティ・ダンプティが堀に座った。
──ハンプティ・ダンプティが堀から落っこちた。
──王様の馬も家来もがんばったけれど。
──ハンプティを元には戻せなかった。
※ ※ ※
その飲み会の罰ゲームは「三十秒間、女子からくすぐられる」という馬鹿馬鹿しいものだった。
女子から、というところに一応配慮がみられる。もし負けたのが女子でも、同性同士なら笑って済むだろうというハラスメント対策だ。
一理ある。
男子が女子をくすぐったら大問題だ。社員の大人たちは、そう判断していたと思う。
可愛い女子二人が楽しそうに戯れ合う絵面を、大多数が期待していたはずだ。
けれど。
──負けたのは由宇だった。
記憶力勝負のゲームなのに意外だった。他校の関係者の前で緊張したのだろうか。
男子だから残念、という雰囲気にはならず、寧ろ逆に盛り上がった。女子のように可愛い顔──そして、大人しくて表情をあまり変えない子。
笑顔を見てみたい。
皆、そう興味を唆られたようだ。一同の好奇の視線を受けて、由宇は青くなっている。
──やばいかも。
直人は迷った。
同級生の集まりなら巫山戯るなやめろと一喝できるけれど、ここはバイト先で、直人も由宇も雇われている身だ。
ゲームのルールは守るべきだろう。負けたからやっぱり嫌だと突っぱねて良いものか。
しかも。
本人が断るならともかく、他人が横から──。
別に自分だったら女子からくすぐられるのは構わない。相手が可愛い子ならむしろ歓迎だ。
できるなら代わってあげたいくらいだが。
──どうしよう。
高尾にある保養所。
バイト先の塾が主催した夏期合宿は、つつがなく最終日を迎えた。
消灯時間も過ぎ、生徒たちはそれぞれの部屋で眠っている。
講師と手伝いのバイト学生が大広間で打ち上げをしていたが、雲行きが怪しくなった。
直人は、少しフレームの曲がった眼鏡をずり落ちないよう何度も指先で押さえながら、由宇をじっと見つめて様子を窺う。
由宇は男女合わせて十三人の衆人環視の中、下を向いてじっとしている。
視線が合わない。
目で訴えてくれるのなら今すぐ止めるのに。
場の空気は悪くなるだろうが由宇は大切な──だ。
周囲が囃し立て、社員の一人が由宇を羽交締めにした。
大熊という名前の通り、大柄で毛深いが、面倒見が良く人気のある先生だ。
そこに塾内で一番可愛いと評判の女子が、照れながら近づいていく。
「──ッ」
由宇のくちびるが動く。
けれど冷やかす騒音にかき消されて、その声は聞こえない。
直人は堪らず腰を浮かせた。
脇腹に女子が触れた途端、きゃぁ──と由宇が甲高い悲鳴をあげ、場が凍りついた。
直人が女子との間に割って入るのと、由宇が大熊から逃れようと暴れたのが同時だった。
視界が揺れた瞬間。
眼鏡が由宇の手に当たって吹っ飛んだ。
かしゃん。
至近距離にある由宇の大きな瞳には、涙が溜まっていた。
「ごめん──」
か細い声。
由宇は、そのまま踵を返してこの場から逃げ出した。
慌てて後を追いかける。
荷物は部屋に置いてきてしまったけれど、ポケットの携帯さえあれば、目黒の自宅まで由宇を連れ帰れるはずだ。
そうすれば替えの眼鏡もある。
直人は、脳内ではどんな知識も即座に引き出せるのに、現実の物の整理となるとまるで駄目だった。
眼鏡は度々踏んで壊すし、行方不明になることもある。
コンタクトの管理なんて一生無理だろう。
こんなとき視界がクリアなら役に立つのに。
裸眼では足元が心許なくて、直人は、少しだけ自分の管理能力を恨んだ。
──思ったより外が昏い。
由宇は大丈夫だろうか。
正面玄関を出ると、夏の匂いや暑さが一気に押し寄せ、頭上から蝉の声が響く。
じっとりした湿度。
麓とはいえ、山の中だ。都心の夜とは違う。
闇が深い。
霞んだ視界の中、目の端に由宇を見つけて、直人は安堵の息をついた。
「ごめんな。もっと早く止めたら良かった」
声を掛けながら肩を引いて振り向かせる。
由宇は案の定、真っ赤な顔を両手で覆って大粒の涙をぽろぽろ零していた。引き攣れたような異常な泣き方で過呼吸に近い。
保養所から自宅は距離があるが、この状態の由宇を電車に乗せるわけにはいかない。
急いでタクシーを呼んだ。
到着を待つ間、泣き続ける由宇の背中をあやしていると、ふと、以前にもこんなことがあったと記憶の蓋が開いた。
──あれは桜の季節。
※ ※ ※
由宇とはじめて逢ったのは中学受験が終わった春だ。親に勧められダンス教室に通うことになった。
──そこに由宇がいた。
同じ歳だったのに中々距離は縮まらなかった。由宇は人見知りで、一回りほども歳上の兄妹にべったりだったからだ。
類と唯。
スタジオの経営者である元俳優は、その兄妹の伯父にあたる。
直人がスタジオに通いはじめる少し前に、類に対するストーカー騒ぎがあったという。
その相手は、直人でも知っている有名な歌手だった。そして結局彼女はスタジオを出禁になった。
なのに由宇は、ずっとその相手を怖がっていた。
受付でスタッフに、彼女は来てないか、大丈夫かと確認している姿を何度も見た。
ストーカーされていた類本人より、よほど怖がっていたようだ。
由宇の家庭は、父親は単身赴任で、母親は不倫。周りに頼れる大人は類しかいなかった。
だから、類に何かあったらと思うと不安だったのだろう。
纏わりつく由宇を、類も唯も、よく可愛がって世話をやいていた。
洋服の御下がりをあげたり、癖毛の証明書を取るために中学校まで出向いたこともある。
直人はそんな由宇と兄妹の様子をただ眺めていただけだったが──。
──その春。
高三の受験期。
忘れもしない。
類にスタジオの隅に呼ばれた。
「由宇に勉強を教えてやってくんないかな。もちろん小遣いはやるからさ」
ちょっと面食らった。
普通、受験生がライバルの面倒をみてくれなんて言われることがあるだろうか。
けれど。
直人は、自分が期待されていると思うとうれしかった。
両親からは「皆、本気で追ってくるのだから気を引き締めなさい」と発破を掛けられたばかりだ。
対して類は「余裕あんだろ。由宇のことも頼むわ」と軽く笑う。
結局二つ返事で引き受けた。報酬も良かったし、由宇のことも気になっていたからだ。
楽しい受験になる予感がした。
その帰り道。
更衣室で由宇と合流し、二人でぽつぽつと受験の話をしながらスタジオのあるビルを出たとき。
「きゃぁッ──」
唐突に由宇が抱きついてきた。
何事か。
前方を見やると、ビル前の桜の大木の下に、見覚えのある髪の長い女が立っていた。
出禁の。
歌手の鷺沢茉理。
類のストーカーだ。
彼女は直人を見た。
そして、シンメトリーにくちびるを吊り上げて笑った。
由宇は震えて必死でしがみついてくる。その背中をあやしながら、直人は考える。
まだ類はスタジオの中にいるはずだ。早く知らせないと。この女をなるべく刺激しないように、そっと。
ゆっくり相手を窺う。
直人に向かって茉理が話しかけた。
「知ってる? 私──なのよ」
強いビル風が桜を散らす。
茉理は、どこか挑発的な笑みを浮かべた。
直人は眉を顰めた。
「知ってるよ」
「由宇は──よ」
茉理は薄く笑うと足早に去っていった。
直人は、落ちた花びらの上に立ち尽くした。由宇は、もう泣きじゃくって二人の会話は聞こえてないようだった。
──聞かなくて良い。
受験に必要のない情報だ。
直人も受付スタッフに注意喚起だけして、今のことは脳の隅に追いやった。
翌日、類は二人のために快適な自習室を手配してくれた。
さっそく由宇を試すと、驚くほど記憶力が良い。
さらに、海外経験があるらしく、英語に関してはかなりのアドバンテージを持っていた。
少し教えただけで、ぐんぐんと伸びていく。意外にも負けず嫌いで根気もある。
「これ、俺と同じランク狙えるかもしれないですよ」
類に経過を報告すると「結構、気ぃ強いだろ」と笑っていた。受験なんて競争なのだから気が強いに越したことはない。
──毎日一緒にいると性格もみえてくる。
人見知りというより内弁慶なのだ。仲良くなると急に躰をくっつけながら甘えてくるようになった。
それは海外生活の影響か。それとも孤独だった家庭環境の反動なのか。
ちょうど由宇が直人に懐きだしたころ──受験期の五月だったろうか。
再度、類に呼ばれた。
「悪いけど、頼める?」
唯の精神疾患が悪化し、かなり痩せてしまった。未遂で済んだが大量に薬を飲んだ。
受験を控えている由宇を動揺させたくない。
そこで、転職したばかりで中々時間がとれず会えないと、そう口裏を合わせることにした。
「由宇に病気のことは言わないどいて」
──言わないどいて。
言ってしまったら戻らない。
知らなかった頃には戻れない。
類と同じくらい唯にもべったりだったのだから黙っておきたい気持ちはよく解る。
──はじめて褒めてくれた人だから。
由宇に「唯さんをお気に入りだね」と話を振ったら真顔でそう応えた。
放置子同然で育った由宇にとって、ようやく自分を認めてくれる人に出逢えた。それは簡単に手放せるものではないだろう。
由宇が類の顔を見れば、絶対に唯に会わせろとせがむに決まっている。
そうなると類も距離を取らざるを得ない。
報酬を倍にしてもらったこともあり、直人は、さらに由宇を甘やかす役目も引き受けた。
──受験が終わるまでのはずだったのに。
結局、この夏まで事実は隠されたままだ。
そろそろ安定した支えを失っているままの由宇が、限界かもしれない。
※ ※ ※
タクシーの中で、由宇は暫くしゃくりあげて泣いていたが疲れたのだろう。今は眠っている。
直人の右手を離さずに。
そして。
直人は迷っていた。
類に先ほどのことを報告しようかどうか。
バイト先の塾も、スタジオ同様、兄妹の伯父が経営者だ。
だから直人も由宇も時給を優遇してもらっている。
直人のほうは、今回のことで気まずくなってやめたとしても困らない。
普通に暮らすには仕送りで充分足りている。ちょっと良い服がほしいからバイトしている程度だ。
けれど、由宇は違う。
自分で学費を賄わなくてはならない。
あんな泣いて帰るようなことがあって明日バイトに行くのはつらいだろう。
けれど、もうやめてしまえとは言ってあげられない。そうしたら由宇の学費を誰が払うのか。
そんな──やめるほどの苛めではないようにも思う。そもそも苛めかどうかも怪しい。
もし、負けたのが別の子だったなら笑って済んだだろうに。
経営者の親族に告げ口して良いものか。
たぶん由宇は何かが怖くて、あんな絹を裂くような悲鳴をあげた。
──怖かったのは何だろう。
「眼鏡、ごめん──」
いつの間にか起きていた由宇が俯いたまま言った。
繋いでる手が少し震えている。
「全然良いよ。元々踏んじゃってフレーム曲がってたし。俺のほうこそ、もっと早く止めれば良かったのに──ごめん」
タクシーの窓からの景色は横長で高い建物がない。
目黒の自宅まではまだかかりそうだ。
「寝てて大丈夫だよ」
震える手が離れていって、代わりに腰のあたりに抱きつかれた。上半身だけが横に引っ張られてよじれる。
別に直人に対しては普段から距離が近い。男同士としては過剰なくらいだ。
──女子だったから。
──あまり知らない子だったから。
──触られた箇所が嫌だから。
どれだろう。
「何が怖かった?」
腰は抱かれているまま、顔を見合わせて訊いた。
「わから、ない。動けなくされた、から、かも」
なるほど。
由宇の腕ごと、躰をぎゅうと抱きしめて動けなくしてみた。
「今、怖い?」
由宇が直人から逃げるように二三度躰をひねる。
「──ううん。大丈夫」
「ちょっとだけ、同じところ触ってみても良い? 嫌だったらすぐ離すから」
「うん」
抱きしめていた腕を解いて、指先を脇腹に近づける。
そのとき直人の腰に回っている由宇の手に力が入るのが解った。
これだ。
怯えさせないよう、優しく指をおいた。
「──んっ、ゃ」
「ごめん。もう離すからね」
触れたときと同じようにそっと離した。何でもない振りをしたけれど内心ではかなり吃驚した。
一瞬だったが甘ったるくて女子の喘ぎ声かと思った。
あの場で、悲鳴で済んだのは幸いだ。
こんなの聞かれたら揶われるに決まっている。もしくは変な空気になりそうだ。
無意識的にはそれを解っていたから怖かったのだろう。
由宇も自分の反応に驚いたようで下を向いて真っ赤になって固まっている。
もう一度背中に腕を回して抱きしめた。
「過剰に反応しそうで嫌だったんだね──人前で怖い思いさせて、ごめん。今度から何かあればすぐ助けるから大丈夫だよ」
思い出させてしまったのか、みるみる瞳に涙が溜まってくる。ぽろっと一粒が車の灯に反射しながらシートに落ちた。
──もし、またこの子が怯えるようなことがあれば必ず助けよう。
腕の中で泣きじゃくる由宇の髪に頬を寄せて、直人はそう誓った。
由宇はひとしきり泣いたあと「類に会いたい」と、ぽつりと言った。
「ずっと避けられてる気がする。俺、類に何かしたのかな」
由宇に、何にも悪くないよ、と言ってあげたい。
けれど本当の理由は隠さなくてはならないので難しい。
──言わないどいて。
倍の報酬は、口止め料であり世話料だ。
先月、少し体調が良かったのか、一度だけ唯を見かけた。
カーディガンとロングスカートで隠していたが、手首も足首も思わず二度見するくらい細かった。
由宇には見せられない──と思う。多分、類も同じことを考えている。
直人が黙ってしまったので由宇はまた言う。
「俺、類に嫌われたのかな。唯は転職して忙しいみたいだけれど。類も何かあったのかな」
もう今回は自分一人でフォローは無理だ。
類とだけでも会えないだろうか。
罰ゲームの件は、本人が恥ずかしくて知られたくないかもしれないし──直接会って、言いたかったら言えば良い。
直人はポケットから携帯を取りだし類に連絡を入れた。
※ ※ ※
タクシーが吉祥寺にあるスタジオのビル前に止まる。
桜の大木は、今は葉ばかりが繁っている。それを背にして類が既に待っていた。
由宇は一目散に走っていって飛びつく。
直人は邪魔をしないように手だけを振って二人と別れた。
視線が合ったのは類とだけで、由宇は類が目に入ってから、もう周りなんて見えていないようだった。
「目黒の駒場方面にお願いします」
直人の声に、運転手がタクシーを出発させた。
ダンス教室はこのビルから来月移転するという。
このビルのシンボルともいえる大きな桜の木を、最後だと思って眺めた。
その太い幹の陰に、髪の長い女性が一瞬見えた気がしたが眼鏡がないのだから見間違いかもしれない。
すぐに窓の景色と共に後方に流れ去った。
駅前には、移転先の新しく大きな商業ビルが聳り立っている。
結局、秋には、この商業ビルで、由宇と唯がばったり再会してしまう。
──言わないどいて。
言ってしまったら戻らない。
そこでやっと直人は板挟みから解放されることになる。
了
※ ※ ※
引用元
曲名:Humpty Dumpty
作詞:不明
出版:1797年
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