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プロローグ
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大きな明るい月の夜だった。
瑞々しい広葉樹の森に、ぽつんと小さな幌馬車が停まっている。
火を焚いていないので野営と言うわけではなさそうだ。
獣や野盗に出くわす危険が無いとも限らない。
二頭の馬も落ちつかない様子でしきりに蹄を鳴らしているが、彼等の主は見当たらない。
突然、ひんやりと静まり返った空気を裂いて、素っ頓狂な叫び声がこだました。
砂袋を打ったような鈍い音も、馬たちの耳には聞こえたろう。
幌の端を鬱陶しそうに持ち上げて、小柄な人影が現れた。
「くっそ油断した。乗せてもらうんじゃなかったぜ」
吐き捨てるように呟く。
転がるように降り立ったのは、十二かそこらの少年だ。
可愛らしい顔だちのせいか少女のようにも見えるが、はだけられたまっ平らな胸元が性別を明らかにしていた。ほつれた長い黒髪の間に見え隠れする細い首筋に、赤い痣が出来ていた。
大きな黒の双眼に、濃い疲労の色が浮かぶ。
幼い風貌にはそぐわない、どこか老練さの漂う表情だ。
「気のいいおっさんだと思ったのによ。ガッカリ・・・というか、おれの見る目が無いってことかねえ」
幌馬車の主は、あられもない恰好を晒して気絶していた。
「だらしねえな。こんな子供にのされやがって」
随分と言葉遣いの乱暴な少年は、はあ、とひとつ長い溜め息をついた。
ひんやりと澄んだ空気が心地いい。
ひととき、目を閉じて新鮮な草木の香気を味わう。
幌のなかは小麦やら獣臭やら渾然一体となった匂いが立ち込めていたので、五感が生き返るようだった。
乗り心地の悪い馬車に揺られ続けて、がちがちに固まった身体をほぐすように大きく伸びをする。馬車の旅の不愉快な気分が、わずかばかり癒える気がした。
それは良いのだが・・・
ほんの少しまどろんでいた隙に、馬車の主は良からぬ欲望にかられて、文字通り道を踏み外したのだった。
街からの道をはずれ人気のない場所へと。
「さてと、どっちに行くかな」
きょろきょろと見渡すが、ぐるりと緑の領域だ。
満ちた月があたりを明るく照らしてくれているのが幸いだった。
どこかで複数の獣の声がする。
少年は、そちらの方を一瞥し慌てる風でもなく言った。
「すまないけど森に住まうものたちよ」
静かだが、凛と通る声だ。
彼を取り巻く空気が一瞬にして緊張を帯びる。
少年は穏やかに言葉を続けた。
「ここはおれに免じて引いてくれ。後で必ず埋め合わせに来る」
草むらに身を潜めて威嚇の唸りを上げていた獣たちだが、ややあって立ち去る気配があった。少年の意思を汲んでか否か。
「ま、一時でも係わった人間だからな。餌になるのを見過ごせないだろ」
幌の中で気絶している男は、自分を襲おうとした不逞の輩ではある。
だが、だからといって見捨てる気にもなれない。
「だからおれはあいつにも仲間にも甘いと言われるんだよな・・・」
少年は肩をすぼめて少し嘲るように独り言ちた。
ほうと短く息を抜くと、少年は馬を一頭拝借にかかった。
夜空を見上げる。
明るい空にあって、小さな星たちはその姿を隠している。だが一等星はきらびやかに輝いて大方の位置を教えてくれた。
「よし。あっちだウェスペル」
つややかな黒馬の腹を、慣れた仕種で軽く蹴る。
おそらく思いつきで付けられた名前を、気に入ったのかどうかは分からないが
ともかくウェスペルは少年を乗せて歩きだす。
やがてその速度を上げ、緑と闇が同居する木立の間を
風のように駆け抜けて行った。
続く!
瑞々しい広葉樹の森に、ぽつんと小さな幌馬車が停まっている。
火を焚いていないので野営と言うわけではなさそうだ。
獣や野盗に出くわす危険が無いとも限らない。
二頭の馬も落ちつかない様子でしきりに蹄を鳴らしているが、彼等の主は見当たらない。
突然、ひんやりと静まり返った空気を裂いて、素っ頓狂な叫び声がこだました。
砂袋を打ったような鈍い音も、馬たちの耳には聞こえたろう。
幌の端を鬱陶しそうに持ち上げて、小柄な人影が現れた。
「くっそ油断した。乗せてもらうんじゃなかったぜ」
吐き捨てるように呟く。
転がるように降り立ったのは、十二かそこらの少年だ。
可愛らしい顔だちのせいか少女のようにも見えるが、はだけられたまっ平らな胸元が性別を明らかにしていた。ほつれた長い黒髪の間に見え隠れする細い首筋に、赤い痣が出来ていた。
大きな黒の双眼に、濃い疲労の色が浮かぶ。
幼い風貌にはそぐわない、どこか老練さの漂う表情だ。
「気のいいおっさんだと思ったのによ。ガッカリ・・・というか、おれの見る目が無いってことかねえ」
幌馬車の主は、あられもない恰好を晒して気絶していた。
「だらしねえな。こんな子供にのされやがって」
随分と言葉遣いの乱暴な少年は、はあ、とひとつ長い溜め息をついた。
ひんやりと澄んだ空気が心地いい。
ひととき、目を閉じて新鮮な草木の香気を味わう。
幌のなかは小麦やら獣臭やら渾然一体となった匂いが立ち込めていたので、五感が生き返るようだった。
乗り心地の悪い馬車に揺られ続けて、がちがちに固まった身体をほぐすように大きく伸びをする。馬車の旅の不愉快な気分が、わずかばかり癒える気がした。
それは良いのだが・・・
ほんの少しまどろんでいた隙に、馬車の主は良からぬ欲望にかられて、文字通り道を踏み外したのだった。
街からの道をはずれ人気のない場所へと。
「さてと、どっちに行くかな」
きょろきょろと見渡すが、ぐるりと緑の領域だ。
満ちた月があたりを明るく照らしてくれているのが幸いだった。
どこかで複数の獣の声がする。
少年は、そちらの方を一瞥し慌てる風でもなく言った。
「すまないけど森に住まうものたちよ」
静かだが、凛と通る声だ。
彼を取り巻く空気が一瞬にして緊張を帯びる。
少年は穏やかに言葉を続けた。
「ここはおれに免じて引いてくれ。後で必ず埋め合わせに来る」
草むらに身を潜めて威嚇の唸りを上げていた獣たちだが、ややあって立ち去る気配があった。少年の意思を汲んでか否か。
「ま、一時でも係わった人間だからな。餌になるのを見過ごせないだろ」
幌の中で気絶している男は、自分を襲おうとした不逞の輩ではある。
だが、だからといって見捨てる気にもなれない。
「だからおれはあいつにも仲間にも甘いと言われるんだよな・・・」
少年は肩をすぼめて少し嘲るように独り言ちた。
ほうと短く息を抜くと、少年は馬を一頭拝借にかかった。
夜空を見上げる。
明るい空にあって、小さな星たちはその姿を隠している。だが一等星はきらびやかに輝いて大方の位置を教えてくれた。
「よし。あっちだウェスペル」
つややかな黒馬の腹を、慣れた仕種で軽く蹴る。
おそらく思いつきで付けられた名前を、気に入ったのかどうかは分からないが
ともかくウェスペルは少年を乗せて歩きだす。
やがてその速度を上げ、緑と闇が同居する木立の間を
風のように駆け抜けて行った。
続く!
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