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第1章
その31 聖夜の出会い(ブラッドの思い出)
しおりを挟む31
ノーチェ・ブエナ。聖なる夜。
イル・リリヤと名も無き息子の、聖母子を讃えるための祝祭。
エルレーン公国首都シ・イル・リリヤの中央部、豪奢な邸宅が建ち並ぶ、いわゆる高級住宅街。
とある邸宅の玄関前。
一人の少年が、外庭に設えられた、獅子の石像の前で、うずくまっていた。
吐く息が、白い。
暗い空から舞い降りてくる雪片が、少年の金髪に乗って、積もっていく。
少年は、十歳くらい。着ているものは絹の室内着だけで、雪の降る外の寒さに耐えられるようなものではなかった。
「ねえ君、どうしたの」
突然、かけられた声に、金髪の少年は、ゆっくりと顔を上げた。
そのときに。
それまで苦悩に満ちていた少年の顔は、驚きに塗り替えられていった。
少年の目の前に佇んでいるのは、見たこともないほど美しい少女だったのだ。
年頃は十四、五歳だろうか。
うなじで一つに束ね、きっちりと三つ編みにした、長い黒髪と、濡れたような艶やかな黒い瞳が、少年をとらえた。
何よりも、まるで人間とは思えないほどに、ものすごく綺麗な少女だった。
純白のローブ、純白の上着をまとい、足首まで覆う白い長衣は、光沢のある絹のようだ。頭には毛糸の帽子と、柔らかな毛織りの肩掛けを羽織っていた。
白い毛皮が足首のまわりについている、スエードのショートブーツが、よく似合っている。
「こんなに寒いのに」
少女はにこっと笑って、細い手をのばし、少年の金髪に降り積もった雪をはらった。
しなやかな冷たい指が頬に触れる。
ぞくぞくして、少年は、かすかに頬を赤らめる。
赤くなっているのが自分でもわかって、少年はうつむいた。
すると、意外なことが起こった。
黒髪の少女は、くすっと笑って、少年の横に座ったのだ。
ほわりと温かい毛皮の感触にふれて、少年は驚く。
その正体はじきにわかった。
少女の肩に、全身真っ白なウサギが乗っていたのだ。
「きみが……飼ってるの」
「うん。山ウサギだよ。名前は、ユキっていうの」
「ユキ?」
「かわいいでしょ」
少年は、おそるおそる、真っ白な、柔らかな毛皮に手をのばした。
「キュキュ」
「うわぁ! 鳴いたっ!」
「あはははは!」
黒髪の少女は手放しで笑う。
まるで光が差すような、その笑顔を見ていると……
金髪の少年は、心臓のあたりが温かくなり、それまで苦しめられていた胸のつかえがとれたように感じた。
「ユキはね。やさしいんだよ。ずっと、そばにいてくれるの」
柔らかなウサギを少女が抱きしめる。ウサギはよほど懐いているのか、おとなしく腕に抱かれている。
「はい。抱っこして。温かくなるよ」
抱っこ!?
一瞬、すごく驚いたけれど、ウサギを抱けということかと気づいた。せっかくの申し出だ。ありがたく受けて、ユキという名のウサギを胸に抱き取った。
「ああ、ほんとうだね。すごく温かい」
「うふふふ」
おだやかな微笑み。胸をくすぐる、銀の鈴を振るような、笑い声。
このとき金髪の少年は、すでに彼女に心を奪われていた。
「あの。このへんに、よく、来るの……ですか」
自分より、いくつかは年上であるに違いない黒髪の美少女に、話しかけるだけでも勇気がいった。
「うん。おさんぽ、だいすきだから」
だいすきだから。
おさんぽが、ということだと、わかるのだけど。
それでも、ドキドキするのは止まらない。
石像の前で、少女と身体を寄せ合って。
しだいに、身体があたたまり、うっとりしてきた。
「そうなんだ。聖夜は苦手? おれもだよ」
あれ? いつの間に、自分は何か告白したのだろうか。
少女の美貌にそぐわない『おれ』という呼称も、似合うのだから良しと、少年はひとりごちる。
「でも、ずっとこんなところにいたら冷え切ってしまうよ。そうだ、これ……あげる」
黒髪の少女は、ふと、何か集中しているように、目を閉じて。
手のひらを上に向けている。
まわりじゅうから、光が集まってきたのを、少年は、見た。
少女の手の上に、銀色の盆が現れた。
もちろん空ではない。温かい湯気の立つマグカップと、皿に載った、粉砂糖を振り掛けた、黒っぽいフルーツケーキ。
「え!? えええええ!? なんで、これが!」
驚く少年に、黒髪の少女は、満面の笑顔で、言った。
「食べてみて」
迷ったのは、ほんの一瞬だけ。少年はまず、黒いケーキにかじりつき、マグカップの中身を飲む。
「……うわあ」
少年は、涙をこぼした。泣きながら、食べた。
「こんなの。こんなのって。おかしいよ……母上さまの味だ。ずっと前に食べたきりの」
ぶつぶつつぶやきながら、しかし食べる手は止まらない。
「どうして……?」
途中で、ふと我に返った少年は、手を止め。
自分をじっと見つめている少女を、何度も目を瞬かせて、問いかける。
「なぜ、きみは、この食べ物を……」
「それはね」
少女の目が、淡い、青い光に染まっていく。
魔法の光だ。
この世界の誰でもが持っているわけではない、ほんものの、魔法だ。
「きみの心の中にあるものだよ。世界に満ちているエネルギーを、ほんの少し使って、創り出したの。……おいしい?」
「ありがとう」少年は、涙をぬぐって、応えた。
「本当に、ありがとう。とても美味しい。もう二度と食べられないと思っていた、ぼくが小さい頃に亡くなった母が、つくってくれた、聖母子の夜のためのお菓子です」
そして思う。
母の故郷の味だから。なおさら、この都で食べられるはずは、ないのに。
「おいしかったのなら、よかった」
少女は優しく笑う。
「心よりお礼を申し上げたい。ぼくは、ブラッドリー・アル・エルレーン・オステル。オステルは母方の領地の名前です。エルレーン公の甥にあたります」
こう名乗っても、少女は、きっと。
他の人間のようにかしこまったりはしないだろうと、ブラッドリーは確信していた。
「ふぅん? そうなの。じゃあ、おれも名乗るね。おれの名前はね……」
無邪気に笑って、少女が名前を言おうとしたときだ。
「ムーンチャイルド! もう時間も遅い。帰らなければいけないよ」
そう、声をかけた者が、いた。
降りしきる雪の間に、白い顎髭と、ごま塩の髪を短く刈った、褐色の肌をした壮年の男性が姿を現した。
「ぱぱ!」
嬉しそうに言って。少女は立ち上がり、男性の方へ駆け寄っていく。
「娘が、お世話になりましたようですが」
愛想の無い、五十がらみの無骨な男が、少女を軽々と抱き上げる。
「いえ。お世話になったのは、ぼくのほうです」
ブラッドリーは、目をそらさずに、彼を見た。
その背後に、長い銀髪と淡い青の目をした、美しい少女と、青年が佇んでいるのが、見て取れた。
そのことで、ブラッドリーは、思い至る。
夕餉の関で大人達が話題にしていた、精霊の森からやってきた客人。
この、エルレーン公国首都シ・イル・リリヤでは、異邦人である、彼らのことを。
出会いのときのことを、ブラッドリーは、かたときも忘れたことはない。
今はもういない懐かしい人の、手料理の味を。
ムーンチャイルドは、彼に与えてくれたのだった。
「待っていてください、ムーンチャイルド。ぼくは必ず、あなたにふさわしい大人になって、あなたと……ともに、生きていきたい」
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