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第九章 アイリスとアイーダ

その34 誘惑の多い学院です 

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       34

 わたし、アイリス・リデル・ティス・ラゼルは、マクシミリアンくんとカルナックお師匠さまに、精霊の白き森に連れていかれた。
 わたしたちは意識……『魂』の状態で白き森に入り込み、過去……幼い子どもの頃のお師匠さまと、現在よりも少しお若いコマラパ老師さまの出会いに、期せずして立ち会ったのだった。
 当初はよくわからなかったけれど、確信に変わったのは、そこで《世界の大いなる意思》セレナンの女神さまに遭遇したことだった。
 セレナンの女神さまは『まだ早い』とおっしゃられて、精霊の森を離れるよう促されたのだ。
 そう、具体的には『その少年には、これから先の場面は見せないほうが良いだろう』と。そのお言葉が、少し気に掛かったけれど……

 それから、わたし、どうしたのだったろう。

 ひとりで、どこか遠くに行っていたような気がするけれど、よく思い出せない。
 『もういいかな。また失ってしまうなら、いまここでリセットしても』って、『あたし』は、諦めかけて……

 そのとき響いてきたのは、鈴の音。
 カルナックお師匠さまの、魔除けの鈴がたてる澄んだ音。
 
 そしてわたしは引き戻された。 

 目を開けたときには、カルナックさまの膝に抱かれていた。

 カルナックさまは満面の笑顔で、
「ようこそ、私のオランジュリーへ。ここは私が学院で所有している自室の一つだよ」

「えっ? もしかしてここ、学院なんですか?」

「そうだよ。私の家はここ、シ・イル・リリヤのエルレーン公国公立学院だからね!」

「学院に住み込み!? お師匠さま学院長なんですよね? ご自宅は? プライバシーとか無くないです?」

「別にどうでもいいんだ。それにコマラパも住み込みだよ。そうしたら緊急時の対応もすぐできるしね。温室の世話とか魔法の研究くらいしか、特にやりたいこともないし」

「ブラックだ……限りなくブラック企業!」

 軽く、目眩がした。
 その瞬間、意識がふっと遠のいて……

『オランジュリーにしては柑橘類がほぼ見当たらないようですが』

 するっと口をついて出た、冷静かつ感情をうかがわせない言葉に、誰より驚いたのは、それを発した当の本人である、わたし、アイリス自身だった。
 口が、身体が思うようにならない。
 しゃべっているのは、わたしじゃない。

「おや、しばらくぶりだね、システム・イリス」
 カルナックは薄い唇を持ち上げて、微かに笑う。

「温室を作ったのは二百年くらい前だな。南方の国から取り寄せたシトロンやナランハの苗を育てていた。現在ではエルレーン国内でも広く栽培されている。当時はレギオン王国の辺境の要だった自治領エル・スール・アステルシアで、いい成果が得られてね、こっそり苗木を育成してもらったりしてたな。あそことは昔から良好な関係を構築できていたのでね」

『南方……サウダーヂ共和国ですね。かつて旧き園にあった数々の遺産を散逸させずに保っているとか』

「当時の共和国元首とは親交があったんだ。……ミヤ・アマサワとはね」
 最後の名前は、口の中にとどめるように呟いて。
 カルナックは腕の中の幼女に、にやりと笑いかける。

「申し訳ないがシステム・イリス、君にはいましばらく意識の深層にいてもらいたい。本体であるアイリスの心が、まだ育っていないのだ。これではたやすく『魂』が抜けてしまいかねない。それと、虫の良いお願いだが、アイリスに生命の危機が迫ったときには、イリス・マクギリス共々、よろしく頼む」

『……了解。拝命いたします』

「また、いずれ。システム・イリス」

 アイリスの瞼が閉じ、身体から、力が抜けた。確かにカルナックが抱きかかえて支えていなければ床にくずおれていたことだろう。

「すまないな、マクシミリアン。数々の疑念はあるだろうが、あとで説明する。アイリスを起こそう。君も名前を呼びかけてくれないか」
 傍らに控えている少年をねぎらうことを忘れない。
 マクシミリアンは、途中で口を挟むことは慎んでいたのである。

 二人で呼びかけを続け、しばらくするとアイリスは目を開いた。
「だいじょうぶです、お師匠さま、マクシミリアンくん。わたしもう起きられます」

「アイリス。今世の君には、将来を約束した人がいる。君と友だちになりたい『竜』もいる。その絆が、この世につなぎ止めているのを、忘れないで」

「つなぎとめる?」

「左の薬指をごらん。そして右の手首を、意識しなさい」

 薬指を意識する。
 エステリオ・アウル叔父さまが造ってくれた『婚約指輪』をはめている。
 精霊さまにいただいた精霊白銀に一粒のエメラルドをはめ込んであるリング。
 流れてくる、温かいものが、指先から腕へと、冷え切っていた身体を流れていく、それは血液のような。力に満ちた熱が、身体をめぐり、右手首と共鳴する。
 右手首には同じく精霊白銀から造られたブレスレットがある。
 グラウケーさまから贈られた精霊石が嵌まっている。その輝きは目立ちすぎるので人目に触れないよう覆っている黒い蓋は、わたしの『お友だち』黒竜アーテルくんにもらった一枚のウロコを加工したものなのだ。

「……わたし、守られているんですね。とっても」

「やりすぎなくらいに。君は、愛されているんだ。婚約者のみならず……彼も、相当に重いけど。あとは精霊たちに黒竜、《世界》さえ君に執着している。そうそう死ぬなんてできないんだ。覚悟しておきなさい」

「愛ですか!?」

「そう、愛だよ」
 
 ぜんぜんピンときてない、わたし。
 自覚が足りないとカルナックさまに言われてしまった。

「ゆっくりしていきなさい。いずれ九歳になればここに入学するんだから、様子を見ておくといい。エステリオ・アウルが在籍しているコマラパの講座もある、いつぞや『代父母の儀』の後に宴会をした食堂だって、寄宿舎も、大きな図書室もあるよ」
 
「アイリスさん、一緒に見て回りましょう」

 お師匠さまとマクシミリアンが、にこにこ満面の笑みを浮かべてる。

 誘惑が多すぎるわ!

 不安なことと言えば、たった一つ。

「ところでお師匠さま! あの天井、ガラスですか? あんなに空が丸見えで、いいんですか?」

「覚えてた? セラニス・アレム・ダルが放っている『魔眼の瞳』のこと」

「忘れませんよ! いろんなことがあって混乱はしてますけども!」
 魔眼の瞳とは、監視衛星のことだ。
 高空を周回しているのだって、前に教わった。

「対策しているから安心しなさい。精霊の森と同じだよ。上空からは、白い屋根としか感知できないから」

 それを聞いて、胸をなでおろした、わたし。

「安心しました。でも、わたし、お家が大好きですから。早く帰りたいです~っっ!」
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