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第九章 アイリスとアイーダ

その29 お師匠さまと三人で

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       29

「今から二人を連れて、跳ぶ」
 その後、感覚共有するからとか、目を開けないでって言われて。
 そのとおりに、わたしたちは目をつぶっていた。

 わたしはお師匠さまの右手を、マクシミリアンくんは左手を、しっかりと握っていた。
 そしてわたしとマクシミリアンくんも、手を繋いだ。
 三人で輪を作ったので、これで安心。
 ……じゃなくて。
 そもそも、感覚共有って、跳ぶって、なんのこと!?

 不安でいっぱいになっていた時、マクシミリアンくんは小声で言った。
「アイリスさんといっしょに学べるの嬉しいです。おれ、カルナックさまを守れるようになりたいんだ」
「わたしもよ。わたしエステリオ・アウルを守りたいの。だけど、お師匠さまのことも、心配でしかたないの。ものすごい大魔法使いだってわかってるのに、どこか危ない気がして放っておけないわ」

 気が合うねって、目を閉じたまま、わたしたちはくすっと笑った。
 カルナックお師匠さまからしてみたら、二人とも、一番新しい、幼い弟子なんだろうけど。
 がんばる! わたしたち!

        ※

 気がついたら、森の中にいた。

 背の高い木々と灌木、草むら、全てが純白で、森の奥のほうには霧がかかっている。
 素足で踏みしめているのは柔らかな白い草むら。
 頭上高く、梢の間に見えるのは淡い青の空だ。半透明な銀色の蓋をすかして空を見上げているようだった。

 もやに包まれたみたいに、何もわからない。
 
 わたし、だれ?
 感覚も鈍い。記憶も、あいまい。

 両手をかざしてみる。
 小さな手のひら、細い指、肉付きの薄い腕。
 子どもの手のようだ。
 十歳にもならないくらいかな。
 手首まである長袖の、すとんとしたワンピースのようなものを身につけていた。
 さらりと肌触りのいいその長い裾を持ち上げてみた。
 それは闇のように真っ黒で。

 ……漆黒?

 ぞわり。
 胸をざわつかせるのは違和感、既視感、その、どっちだろうか。

「……、……!」
 誰かが名前を呼んでいるのに気づいて、そちらに顔を向ける。

 さわさわと揺れる純白の藪をかきわけて、姿をあらわしたのは。
 美しい、若い女性だ。つややかな灰色の髪にふちどられた彫りの深い整った面差しをしている。
 優しそうな微笑みに、同時に、微かな不安を滲ませていた。

「おかあさん」
 喉から出たのは、明らかな幼子の声だ。
「ヒトが森に入ってきたが、入り口で足止めされているよ。こんなことは初めてだ。どう『もてなす』か、精霊様が協議をしておいでだよ。何しろ生身の人間が、精霊様がたのお許しもなく、この聖なる精霊の森に入ってくるなんてあり得ないことだもの」
「……へえ。招かれざる客ってわけ? じゃあ、精霊たちのお話し合いのあいだ、先に、おれが『おもてなし』していいよね」
 くっくっ、と笑った。
 立ち上がり、歩き出しながら、黒い服を脱ぎ捨てる。それは足もとの白い草むらに落ちたかと思うとみるみる形を失って沈みこみ、ほのかに黒いしみを作り、やがては白くさらされていった。
 あとには何も残らない。

「おまえ、また服を脱いで捨ててしまったの。せっかくお姉さまたちが用意してくれたのに、捨てては森に還ってしまうじゃないか」
「だって、おかあさん」
 歩みを止めずに何にも引っかからずにさらりと答える。
「これも白い衣だったんだよ。おれが着ると、なんでも黒くなっちゃうんだ」
 自嘲のように、笑った。
 持ち上げた腕に、見下ろした、なめらかな肌に、裸足に視線を落とす。
 全身に、白い小さな半月が散っている。

 はっと気づいた。
 日光を浴びたこともなさそうな繊細な肌に、一面に浮き上がる、これは傷跡だ。
 古い傷のあと。
 それを覆い隠すのは、長いまっすぐな黒い髪だ。華奢な身体を腰のあたりまで包み込んでいる。

 今、はっとしたのは、この身体の主ではない。

 わたし、アイリスだった。

(なにこれ!? ここはどこ、わたし、だれ!?)
(どうなってるんだ!?)
 心の声は、二人分。
 つまり、わたし、アイリス・リデル・ティス・ラゼルと。
 マクシミリアンくん……!!

『あ、やっと気づいた? 知覚しないと意識が分離できなかったから、ともあれ、よかった。訓練を始めようか』
 笑っている、お師匠さまの声がした。
 どこにいらっしゃるのか、まったくわかりませんけれど。

(お師匠さま~! なにやらかして下さったんですか!?)
(こんな森を、はじめて見ます。驚きました! でも、いいのでしょうか。おれみたいな、普通の人間が精霊の森だなんて、それこそ精霊さまのお怒りをうけるのでは)
『それは問題ない。私が許可しているから』

 許可って?
 疑問が浮かぶけれど、黙っていた。口にすることばには充分に気をつけないといけない。ことに、人間の領域ではないところでは。

『本来なら、私の感情に同化してもらうのが最短なんだけど。うっかりしてたよ、今の私は、あまり何にも心を動かされないからね』

 お師匠さまは、嘘をついた。
 動かされないなんて。

 マクシミリアンくんが殺されそうになったとき。
 それを巻き戻して、なかったことにしてあげようかと《世界の大いなる意思》に誘われたとき。
 あなたは、誘惑をはねのけた。
 感情を凍り付かせたようだった。

 でも、ほんとうは、激しい憤りにまかせて、あやうく、エルレーン公国ごと、滅ぼしてしまいそうだった。
 ……でしょう?
 マクシミリアンくんが、また生まれてくるのを待つなんて、おっしゃったのは。

 悲しすぎる、諦めだった。

 それが、わたしは嫌だったの。

『困ったひとだ。君は、やっぱりサファイアに似ている』
 お師匠さまの意識は、どこにおいでなのか。

『さあ、注意して。この子の向かう先にいる人物は、誰だと思う?』
 たのしげに笑った。

(え、あてるの?)
(待って、感覚が追いつかないです!)

 わたしたちは、今、この男の子の小さな身体に寄り添って、森の中を移動しているのだ。

『ふふふ。きみたちのよく知っている人物だよ』
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