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第九章 アイリスとアイーダ
その9 エルナトと三角フラスコ
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9
エルレーン公国首都シ・イル・リリヤ、貴族街。
大公の公邸はそれ自体が一つの街ほどの大きさの敷地にある。
この中に、公邸、私邸、そして……魔法使いたちの街がある。
地上部分は中庭のある広大な学舎。
もともとは郊外にあった大公の別邸を、大がかりな公共事業として移設し改築した建物である。
中庭の地下には、ガラス張りの巨大な温室がある。
地下だというのに、昼夜を問わず、ふんだんに陽光が差し込む構造は、余人には知るべくもない謎である。
温室には、ありとあらゆる植物が集められている。
この世界に存在するもの、かつて存在していたが失われたもの。
また、『古き園』……遙かなる人類の故郷……に存在していたがセレナンには持ち込まれたものの移植されなかった動物や植物、その全ての種や組織標本が。
地下の秘密の温室……ここまで入ってこれるのはカルナックとコマラパ、そして特別に許可された数人の学院関係者だけだ。
エルナト・アル・フィリクス・アンティグアの実験室は、その温室を通って、更に奥に隠されている。
実験室。
試験管やビーカー、フラスコ。様々の実験器具が並び、硬質な機械の動作音が絶え間なく響いている。
清潔で無菌な静謐の空間。
おびただしく並ぶガラスの培養器。
それらは全て、生と死の狭間。
※
静かな室内に動きがあった。
「進み具合はどうかな? エル」
カルナックが入ってきて、作業に余念の無いエルナトに声を掛けたのだ。
「少し休息をとるといい。茶でも淹れよう……ポットと茶葉はどこだ」
カルナックがそこらの棚をあさり始めたのでエルナトは慌てて立ち上がった。
「お待ちください! お師匠様にそんなことをさせたとサファイア先輩が知ったらわたしが殺されますからやめてください。飲み物なら確保していますよ。ほら、トーマスとニコラとグレアムの『魔法家電工房』の新作、魔導保温機。カップ一杯くらいしか保温できない代わりにコストが安いのがいいところです」
「ああ、凸凹トリオは面白いことを考えるよね。きみたち貴族なら、もっと高級感のあるものにするだろう。彼らは一般家庭向けの物が作りたいそうだ」
「面白いですね。広く庶民に恩恵が行き渡れば、さらにシ・イル・リリヤが、ひいてはエルレーン公国全体の繁栄につながります」
エルナトは保温機に入っているハーブティーをひとくち飲む。
師匠にはあえて勧めない。カルナック、そしてコマラパがどんな場合でも飲食をしないのは広く知られていることだ。必要がないことだという。
「ところで、実験の進捗具合はどうかな」
「順調です、お師匠様。今は、わたしの細胞を培養しているところです」
「私の細胞を使えばいいのに」
「さらっとおっしゃいますが、お師匠様は規格外すぎてサンプルになりません」
「なるほど。それに私は人間じゃないからな」
納得したように頷くカルナック。
エルナトは困惑の表情で額を抑えた。
「お師匠様。その口癖は、やめてください。火事で瀕死だった、いえ、本来なら死んでいたわたしと妹を助けてくれたのは、あなたですよ。孤児や、誰からも見捨てられていた者たちを救っているのも、あなたではないですか。どうか、そのことをお忘れにならないように」
愛弟子であるエルナトからの苦言を受け、けれどカルナックは答えない。
その美貌は神々に等しいと評判の面差しに、皮肉げな笑みを浮かべるだけだ。
「それで組織の調査のほうはいかがです」
「ああ、そっちのほうは順調。ヴィーも頑張ってくれてる。うちには優秀な弟子たちがそろってるからね、楽勝さ。……ただ、組織の摘発も重要な案件だが、この実験が成功することが肝要だ。この二つは組になっている。最終目的は被害に遭った子供たち自身の細胞を培養することだ」
「お任せ下さい、お師匠様。遠くないうちに完成させてみせます」
「期待している」
『頼もしいことね、エルナト』
実験室の奥で、ガラスの実験用具を興味深そうに眺めているのは、銀髪の、精霊。
カルナックを育てた精霊、ラト・ナ・ルアだ。
ちなみに、アイリスがグラウケーから貰った『精霊石』に宿る魂ラト・ナ・ルアとは、『別の可能性』にある次元から引っ張ってきたもので同一存在だが意識は共有していない。
『うっふふふふ。あの小さかったエルがねぇ……』
感慨深そうに、ラト・ナ・ルアは笑う。優しく、穏やかに。
『あたしたちがしばらく人間界に来ていなかった間に、こんなに大きく育って』
半月前、アイリス六歳のお披露目会で事件が起こった。
その時、危機に陥ったカルナックを助けるためにラト・ナ・ルアとレフィス・トール、精霊族の兄妹は、数年ぶりにシ・イル・リリヤに出現したのだ。
「からかわないでください、お師匠様の姉様。人間は数年でもそれなりに成長するのです。私だって、もう子供ではありません。精霊の方々にとっては、時間など、あってなきが如きでしょうが」
金髪の青年の、その深い緑の瞳に籠もった熱を、永遠に少女のままである精霊、ラト・ナ・ルアは気づかない。
または、ずっと気づかないふりをし続ける。
『あら、からかってなんかいないわよ。あたしたちは期待しているの。カルナックとエル、ヴィー、サファイアにルビー。愛する弟子たち。あなたたちは面白いわ。それに、小さな虹の娘、イリス……そろそろアイリスと溶け合っているのかしら。それともまだ、アイリスの意識の底で眠っているのかしら?』
歌うようにラト・ナ・ルアは、つぶやく。
『今度こそ彼女を救い出して。カルナック。泥海の底に沈んでしまわないように。アイリスと並び立つにふさわしい輝ける魂を』
エルレーン公国首都シ・イル・リリヤ、貴族街。
大公の公邸はそれ自体が一つの街ほどの大きさの敷地にある。
この中に、公邸、私邸、そして……魔法使いたちの街がある。
地上部分は中庭のある広大な学舎。
もともとは郊外にあった大公の別邸を、大がかりな公共事業として移設し改築した建物である。
中庭の地下には、ガラス張りの巨大な温室がある。
地下だというのに、昼夜を問わず、ふんだんに陽光が差し込む構造は、余人には知るべくもない謎である。
温室には、ありとあらゆる植物が集められている。
この世界に存在するもの、かつて存在していたが失われたもの。
また、『古き園』……遙かなる人類の故郷……に存在していたがセレナンには持ち込まれたものの移植されなかった動物や植物、その全ての種や組織標本が。
地下の秘密の温室……ここまで入ってこれるのはカルナックとコマラパ、そして特別に許可された数人の学院関係者だけだ。
エルナト・アル・フィリクス・アンティグアの実験室は、その温室を通って、更に奥に隠されている。
実験室。
試験管やビーカー、フラスコ。様々の実験器具が並び、硬質な機械の動作音が絶え間なく響いている。
清潔で無菌な静謐の空間。
おびただしく並ぶガラスの培養器。
それらは全て、生と死の狭間。
※
静かな室内に動きがあった。
「進み具合はどうかな? エル」
カルナックが入ってきて、作業に余念の無いエルナトに声を掛けたのだ。
「少し休息をとるといい。茶でも淹れよう……ポットと茶葉はどこだ」
カルナックがそこらの棚をあさり始めたのでエルナトは慌てて立ち上がった。
「お待ちください! お師匠様にそんなことをさせたとサファイア先輩が知ったらわたしが殺されますからやめてください。飲み物なら確保していますよ。ほら、トーマスとニコラとグレアムの『魔法家電工房』の新作、魔導保温機。カップ一杯くらいしか保温できない代わりにコストが安いのがいいところです」
「ああ、凸凹トリオは面白いことを考えるよね。きみたち貴族なら、もっと高級感のあるものにするだろう。彼らは一般家庭向けの物が作りたいそうだ」
「面白いですね。広く庶民に恩恵が行き渡れば、さらにシ・イル・リリヤが、ひいてはエルレーン公国全体の繁栄につながります」
エルナトは保温機に入っているハーブティーをひとくち飲む。
師匠にはあえて勧めない。カルナック、そしてコマラパがどんな場合でも飲食をしないのは広く知られていることだ。必要がないことだという。
「ところで、実験の進捗具合はどうかな」
「順調です、お師匠様。今は、わたしの細胞を培養しているところです」
「私の細胞を使えばいいのに」
「さらっとおっしゃいますが、お師匠様は規格外すぎてサンプルになりません」
「なるほど。それに私は人間じゃないからな」
納得したように頷くカルナック。
エルナトは困惑の表情で額を抑えた。
「お師匠様。その口癖は、やめてください。火事で瀕死だった、いえ、本来なら死んでいたわたしと妹を助けてくれたのは、あなたですよ。孤児や、誰からも見捨てられていた者たちを救っているのも、あなたではないですか。どうか、そのことをお忘れにならないように」
愛弟子であるエルナトからの苦言を受け、けれどカルナックは答えない。
その美貌は神々に等しいと評判の面差しに、皮肉げな笑みを浮かべるだけだ。
「それで組織の調査のほうはいかがです」
「ああ、そっちのほうは順調。ヴィーも頑張ってくれてる。うちには優秀な弟子たちがそろってるからね、楽勝さ。……ただ、組織の摘発も重要な案件だが、この実験が成功することが肝要だ。この二つは組になっている。最終目的は被害に遭った子供たち自身の細胞を培養することだ」
「お任せ下さい、お師匠様。遠くないうちに完成させてみせます」
「期待している」
『頼もしいことね、エルナト』
実験室の奥で、ガラスの実験用具を興味深そうに眺めているのは、銀髪の、精霊。
カルナックを育てた精霊、ラト・ナ・ルアだ。
ちなみに、アイリスがグラウケーから貰った『精霊石』に宿る魂ラト・ナ・ルアとは、『別の可能性』にある次元から引っ張ってきたもので同一存在だが意識は共有していない。
『うっふふふふ。あの小さかったエルがねぇ……』
感慨深そうに、ラト・ナ・ルアは笑う。優しく、穏やかに。
『あたしたちがしばらく人間界に来ていなかった間に、こんなに大きく育って』
半月前、アイリス六歳のお披露目会で事件が起こった。
その時、危機に陥ったカルナックを助けるためにラト・ナ・ルアとレフィス・トール、精霊族の兄妹は、数年ぶりにシ・イル・リリヤに出現したのだ。
「からかわないでください、お師匠様の姉様。人間は数年でもそれなりに成長するのです。私だって、もう子供ではありません。精霊の方々にとっては、時間など、あってなきが如きでしょうが」
金髪の青年の、その深い緑の瞳に籠もった熱を、永遠に少女のままである精霊、ラト・ナ・ルアは気づかない。
または、ずっと気づかないふりをし続ける。
『あら、からかってなんかいないわよ。あたしたちは期待しているの。カルナックとエル、ヴィー、サファイアにルビー。愛する弟子たち。あなたたちは面白いわ。それに、小さな虹の娘、イリス……そろそろアイリスと溶け合っているのかしら。それともまだ、アイリスの意識の底で眠っているのかしら?』
歌うようにラト・ナ・ルアは、つぶやく。
『今度こそ彼女を救い出して。カルナック。泥海の底に沈んでしまわないように。アイリスと並び立つにふさわしい輝ける魂を』
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