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第九章 アイリスとアイーダ

その1 約束はまだ、あの空でキラキラしてるよ

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 あたしの名前は、クリスタ・アンブロジオ。
 よく考えてみたら、生まれてから、あの暗い穴ぐらの中でも、誰かにそう呼ばれた記憶はない。

 あれ、とか。こいつ、とか。
 ぐずとか、のろま、とか……だった。

 あそこには……
 名前のない、こどもたちが、いっぱいいた。
 もしかしたら、
 クリスタなんて、ちょっとキラキラした感じの名前は、
 じぶんで勝手に想像してつけたのもしれない。

 親のことはわからない。
 売られたと思っていたら、そもそも本当の親ではなかった。

 買ったか攫ってきたかかした幼児を何人もかかえていて時に応じて働かせたり暴力をふるったり、いいようにこき使っていたのだと、あとで、知った。

 もともと孤児だったのかな。
 親との縁が薄い、そういう運命なのかな……。
 胸の中が、ぽっかり空いてる。
 風が、すーすーする。

 って思ったら、ほんとに穴があいてたよ。

 手を入れてみても、なんにもないの。
 穴のむこうに手が出るだけで。

 という夢を見た。
 それに続いて見たのは、また、奇妙な夢だった。

         ※

 大きなビルの谷間。

 ニューヨークのダウンタウン。
 あたしはストリートチルドレンってやつで。
 親は知らない。
 路上で寝たりしてた。
 誰かがご飯をくれることもあった。見返りは要求されたこともあるし、無償の施しだって、たまにはあった。ときどき顔見知りの誰かが凍死していたり、事件に巻き込まれて死んでたりした。だからって心は動かない、慣れっこだからね。世の中ってこんなもんだろ?

 でも、歌だけは、いつもうたっていたよ。
 いつか、大劇場でうたう歌手に、スターになるんだ。
 ばくぜんと思っていた。

 そこでも、いろいろひどい目にあってた。
 生まれが違う、金もない人にも恵まれない。
 苦労ばっかしだよ!

 まあ、悪いことばかりじゃなかった。
 教会のシスターがあたしの歌を気に入ってくれて、孤児院に入って、聖歌隊に加わったんだ。
 歌はいいね。
 いつか歌手になりたいってユメに少しだけ近づいた気がした。

 ハイスクールをなんとか卒業したら、シスターのつてでレストランの下働きの仕事について、ビルの清掃係もやって、食費をきりつめて歌のレッスンを受ける。
 悔しいのは、近所に巣くってるマフィアの手下や売人たちだ。あいつらなりにまっとうに働けばいいのに、あたしの稼ぎを取り上げる、ハイエナ!

 だけどね、友だちができたんだ。
 迷い込んできたらしい、いい身なりの、金髪のお嬢さんでね。

 出会った瞬間に、わかったよ。
 生まれも育ちも違っても、あたしは彼女の友だちで、彼女はあたしの友だち。初めての!
 彼女を守るためなら、なんだってできる。
 
 あたしの声は、武器になると、知っていたから。
 彼女のためなら、人殺しもいとわない。
 一緒に戦おう、世界の理不尽さに立ち向かおうって、誓いあった。

 約束したんだ。
 きっときっと、いつかスターになるから。
 ステージを見にきてよ!

 たったひとりの、親友。

 あの子は虹の名前だったよ。
 だけど長生きはしなかった。きっと、あまりに綺麗だったから……。

 ハイスクールを出てカレッジに入って、
 社会人になって働いて働いて、あげくに「クリスタにはうちあけるよ」って、密かに片思いしてた相手が過労死したって、泣いた。
 ようやく立ち直ったなんて、半泣きの笑顔を見せてくれたくせに。

 彼女は、ひさしぶりの休日にセントラルパークでジョギングしてて倒れて死んだ。
 そんなの、あり?

 また、心に穴が空いた。

 ひとりぼっちになったあたし。
 やけになった。もうどうだっていいの。
 だから、
 昔からのファンだって言ってきてくれた、適当に善良そうな男と結婚した。

 子どもをつくって大勢の孫に囲まれて、結局ダンナはいいひとで、なかよく長生きした。
 そのうちに老衰で、あっさり死んだ。

 満足していいはずなのに、あたしは、心の穴を埋められないまま、どこへもいけないみたい。
 ああ、人生って何だったんだろう……

 でもね、約束はまだ、闇の中でキラキラ光ってるんだよ。
 空には虹が。

 ねえ、イリス・マクギリス……?
 あたしたち、いつかまた、会えるよね?

 この世でも天国でも地獄でもどこでも、構わない。

 ……これは夢だ。
 朝には消えて忘れてしまってる、ただの、夢だよ。

         ※

 白い壁に囲まれた部屋で、目をさました。
 窓のない、小さな部屋。
 ベッドに寝かされていた。
 清潔そうなシーツ、柔らかな毛布。もうしばらく堪能していたい。

「気がついたの?」
 若い女性の声が聞こえてきた。低く穏やかなアルト。
 
「もっと休ませてあげたいんだけどさ。ちょっと話を聞かせてくれないかい」
 続けてこう言ったのは、張りのある、少女の声。

 あたしのベッドを挟んで両側に、腰まである長い黒髪のきれいな若い女性……二十歳くらいかな……と、プラチナブロンドを背中の半分までのばした、十代くらいの少女がいた。
 黒髪の女性が言う。
「こんにちは、お嬢さん。わたしはサファイア。こちらの口の悪いのはルビー。魔法使いよ。ここは、魔道士協会。エルレーン公国首都シ・イル・リリヤの中心部にあるわ。あなたたちは救出された。もう安心よ。あなたを傷つける者はいない」
 こう、サファイアさんは切り出した。
「あなたには犯罪組織を告発するための証人になってもらいます。重要人物よ。そのかわりに、ちゃんとしたお宅で家族の一員として保護してもらうことにいなっているわ」

「ほ、ご?」

 ぼんやりと問い返したら、ルビーさんは明るい声で答えた。
「そうそう! あんたを最初に助けた青年、エルナトっていうヤツでね、医者なんだよ。ちょっぴり研究バカだけど、おひとよしだよ。あんたを妹にしたい、ひきとりたいってさ! まともな家だから、安心しなよ」

 それからいくつかの質問。
 
「大勢の子どもたちが虐待され、殺されていたのよ。絶対に許さない。地の果てまでも追い詰めて検挙して息の根をとめてやるわ!」
 息巻くサファイアさん。見た目はクールそうだったけれど熱い人なんだなと、あたしは遠いところのできごとのように感じていた。
 まったく実感がなかった。
 乖離(かいり)状態だったんだろう……後で思えば。

「尋ねたい事ってのは……子供たちが殺されたときの詳しい状況だ。思い出すのはつらいだろうが」
 ルビーさんは、すまなそうに言った。

「だ、いじょうぶ。なんでも、きいて……あいつらを、罰することができるなら」

 サファイアさんとルビーさんの質問に答え、証人になると誓った。

 そのおかげで、あたしは新しい家族を得た。

 それはエルレーン公国大公の傍系にあたる大貴族のおうち。いざというときは大公をつぐ可能性も、義務もあるという、アンティグア家だった。

 最後に、サファイアさんは、言った。
「あなたの髪と目、肌の色は、わたしと似ているわね。わたしはサウダージ共和国出身なの。もしかしたら、あなたの家族の手がかりもつかめるかも。調べておくわね」

「ありがとうございます。でもいいんです。もう知りたくない」
 失礼にならないように言葉をえらぶ。ご厚意で言ってくれてるんだもの。

「家族のことはどうでもいいです。でも、おなじ黒髪と黒い目のひとがいて、うれしかった。サファイアさん」

 あそこで、黒髪黒目だからと余計に蔑まれ虐待も激しくなっていたとは、言わないことにした。

 かみさま。
 どこかにいるかいないかわからない、おかた。

 どうか、あいつらを捕まえて罰して。
 二度と悪いことが出来ませんように。


 このとき、あたしの人生は大きく変わった。


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